Gefuehl + Haerte

Last-modified: 2008-03-24 (月) 00:11:47

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Gefühl plus Härte

  • 「感情」 + 「無情」
  • team Oka のシンボルで、「アート+社会学」 の意もあり

《パンク実存主義》

1970年9月18日、フランクフルト・ヴェストエント地区、今では高層ビルに囲まれた閑静な住宅街の趣さえ漂わせるこの地区で、最初の住宅占拠がホームレスや住宅難の問題に取り組む一群の学生によって実行された。この地区の再開発計画とあいまって、その後の数年に同地区の12軒の家屋が占拠される。この流れはミュンヒェン、ハンブルクなどの都市へ波及していったが、いまだその時点では、シンボリックな意味を闘争として担っているだけであった。このハウスベゼッツァー(住宅占拠者)運動は、空き家となっている住居(賃貸するには法的に住宅設備の改修が義務づけられ、大家はむしろ再開発を見込んでそのまま放置していた)に住みつくという、いたって単純な不法行為だが、70年代以降のドイツでの新しい社会運動、とくに80年代のアルタナティーフな文化・社会運動にとって、環境・反核・平和・女性・障害者・同性愛・外国人などの問題とともにそ
の一翼を担った運動である。

80年代になってこの運動は「爆発的状況」を迎え、その中心地は西ベルリンとなる。1979年にクロイツベルク地区で最初の占拠が実行されてから、短期間でこの動きは膨張(1981年4月までに160の家屋が占拠され、西ドイツの74の都市で、その総数は370件にのぼる)、1980年3月には「占拠者委員会」が設立され、政治的な組織化が試みられる。だが同年5月には、西ベルリン市当局は警察権力による強制排除を命令し、いきおい事態は政治闘争化した。西ベルリン市内では占拠者のみならず、多様なセクト、たとえば「アウトノーメン」や「パンク」をも加えて、街路戦が頻発する。

デモ参加者に死者がでる。西ドイツ内部での連動した抗議運動でも、たとえば1981年3月、バイエルン州のニュールンベルクではなんと141名の少年少女を含む若者が検挙される。「自由国家」ならず「警察国家バイエルン」は他の州政府からさえ批判されつつも、あくまで「法と秩序」を主張する。

そんな時代精神のなかに僕もいたのだが、せいぜいプラカートに漢字で「平和」と書き込むのを手伝ったくらいだと記憶している。さて、住宅占拠という「社会実験」の方は、三年後には当局との交渉で45の家屋占拠が「合法化」されることで収束してくのだが、ここで問題にしたいのは、純粋に政治的な、というより文化的・社会生活的な「実験」という試みである。たとえば、ハウスベゼッツァーの一部からはヴォーン・ゲマインシャフト(WG)という共同生活の形態が育まれた。

現在では、とくに学生どうしであれば、とりたてて友人ではなくても、経済的(家賃が安上がり)・物理的(手頃な物件がない)な理由から一軒の家を共同で借りて、いわば自主運営の「学生寮」とするのは、むしろ普通のことである。居住者はつぎつぎ入れ替わり、全員が生業をもつというのもよくあることだ。その場合、個室という私的生活空間と共有部分の空間はなにかしらの規則によって明確に分けられている。これに対して、非合法な占拠から(まあ、それだけとは限らないが)生まれた初期の生活共同態はよりコミューンに近く、生活の全般において共同性と協働が主張された。対人関係のあり方、社会関係の様式の改変がめざされ、競争社会や私有形態がもたらす孤立や疎外を排除しようとした。

そのような理想にむけて、たとえばインテリアも物理的に改築される。窓にはカーテン、ブラインドの類はつけない、「僕たちに隠すものはない」からだ。室内のドアもすべて
取りはずし、誰もが躊躇なく行き来できるようにする。それは同時に、人にかかわる規範や価値の実験的な改変でもあった。

「性別役割分業の廃棄。触れあいを恐れず、競争に支配されることのない、リラックスした性的関係の展開。みずからの衛生観念や、みずからの困惑や羞恥の閾値を問い直すこと。抑圧なき育児。集合的な所有と利用の仕方の検討」 などなど。

だから住居内での分業だって、まずは参加者が自分たちの経験を表に出して、公に話し合うことから始まる。結果、外部の人間から見ると「不合理」に思えるような「合理的な配分」が決定されることもある。そもそもアルタナティーフな試みは部外者にはそう簡単には理解されるものではなかった。なにしろ、生きることそのもの、あるいは言葉をかえれば、現実構成のための解釈枠組そのものを、改変し再編することを目標にしていたのだから、まずは理解不能として「まともな目」には映ったことだろう。

たしかにこういった試みが全般的に成功したとは言いがたい。だが忘れてはならないのは、WGにおいて共同であることが表現していたのは、アルタナティーフな生きかたを実践しているということであり、支配的でヘゲモニーをもつ秩序やモラルへの異議申し立てだったということだ。消費社会に染めぬかれたプチブル文化あるいはプチブル的個人が標的だったと言えばいいのか、だから、たとえば、その性規範が問題化され、ポリガミーが試されたりもした。それは市民的な公私の区別を撤廃し、むしろ「市民的な」自己決定や自己責任への志向性を、親密な感情世界を「反市民的に」開放することにまで拡張したものである 。

あるいは疎外された生産労働の克服をめざして、素材選びから、何から何まで、みんなで加わり手作業で作り上げるという生産共同体が結成される。こうして、いわば生活実践、ライフスタイル全体が改変の意識的反省的なまなざしにさらされたのである。

当然、プチブル的ライフスタイルとの「文化的階級闘争」も実践された。クロイツベルク、オラーニエン・シュトラーセ(現在では、旧東のミッテ、オラーニエンブルクの方に文化的アヴァンギャルドは移ったが、10年前まではここが中心地だった)に面したシックなクラブにマスクをした闖入者が投げこんだ、糞のかたまりはその代表的なものだ。彼らの要求は「SO36から出てけ!(クロイツベルク地区の行政区分、同名のパンク・クラブもそこにある)」という地政学的かつまったくもって直接的な表現だった。

このような、闘争をも辞さない、新しい文化を作り出そうとする躍動は、たとえば、当時のベルリンのアート・シーンやミュージック・シーンにも顕著に現れていた。新表現主義とも言われたザロメ、J・イムメンドルフ、A・R・ペンク、R・フェッティンクなどの美術、ハンザプラスト、トクソプラズマ、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンなどの音楽、それらに触れれば、いまでもその雰囲気が伝わるだろう。

さて、アルタナティーフな文化やライフスタイルには、もちろんわれわれの感情生活も含まれる。「主観性の産出」を主題にしたアルタナティーフ運動で、感情が忘れ去られるはずはない。当時、占拠された家屋などの壁に頻繁にスプレーされた落書きは「ゲフュール&ヘルテ Gefühl + Härte 」つまり「感情と無情」だった。

元は、あるバンドのアルバムタイトルだったらしいが、それだけでは、あの広がりを理解できない。あの時代を共有した多くの人たち、とくに若者にアピールしたこの文句は、彼らがみずからの生をどのように理解して、どのようにしようとしていたのか、その、ある意味で曖昧ながらも、おぼろげな姿をとりつつあった時代の雰囲気に、その「感情風土」に、ひとつの表現を与えることになったのである。

それなら、なぜ、感情なのか。なぜ、無情なのか。

〈感情〉 -その叫びは、感情に権利を認めてやれ、というものだ。感情をないがしろにした生活など生きるに値しない。

〈無情〉 -ベルリン的な感受性としての冷淡さ(ベルリナーのそれは巷では常識となっている)が引用されたわけではなく、賢さや意志の強さが意味されていた。軟弱ではなく、何かを貫こうとする抵抗力。

〈と〉 -この接続詞が、そしてポイントとなる。感情と無情が、常識的に対立させられるようなことは、ここではない。「と」は「プラス」なのだ。

感情は感情としてあれば、もちろんそれも大事なのだが、それだけで足りるわけではない。60年代の文化的な「感情革命」でも、感情はその復権を謳歌されたが、とかく近代的二元論の内にあって、その「ナマであること」ばかりが強調された。80年代は違う。感情は、賢さと強靭な意志にによって補完され、強められる必要があるのだ。感情を自分にとどめるには、世界や世間に対して無情であることがどうしても必要なのだ。感情を蹴
散らすことをなんとも思わない社会にあっては、なおさらそうだ。

重要なのは「感情プラス無情」だった。

アルタナティーフ文化は、少し話がずれるが、それまでの文化が対立させていたことどうしを結びつけることで、新しいものを創りだすという志向をもつ。近代的な二元論に囚われることも少ない。旧来の解釈枠組を改変するのだから、それまでは、いたずらに対立させられ、反目し合っていたとしても、その二つを組み合わせ、そこから何かを生み出せるというわけだ。たとえば、「抵抗の中から利潤を」が標語となって、アルタナティーフ
企業は、現在でも、エコロジー関連のみならず、あらゆる業種にわたって健在であり、また創造的である。

それらのアルタナティーフ・プロジェクトでは「即物的指向」と「関係指向」がともに要請されていた。前者では経済的安定や有効な協働・意思決定形態、優良な生産物などが求められ、後者では承認や連帯や信頼や共感への欲求が土台となっていた。そしてそれは、社会的な落後者の受け皿でもあり、積極的なドロップアウトのための実験室でもあった 。

感情と無情のかかわりについても、基本的には、このアルタナティーフ運動の精神が反映されていると言えるかもしれない。ただ、初期には、この「感情と無情」を担ったのは、なにも資本主義システムを道具にして、理念の実現をはかろうとするような族だったわけではない。アルタナティーフ運動が二極化しても、あえて下層にとどまる、パンクこそがその精神を体現していた。昨今のテクノ・パンクがみせる妙な「クール」とは違って、荒々しい感情表現が、クールさの狭間にあって、脈打っていた。粗野で力強い感情として、喜びも悲しみも怒りも憎しみも、すべてが表に出された。誤解されないように、注意しておくが、彼らはそのような感情文化を創りだしたのである。それは自己実現であり、その表現であった、と同時に、それを可能にするような集合的なアイデンティティと物的基盤、つまり共通の「ライフスタイル」を生み出したのである。

パンクが元から自然のままで「粗野」なわけではない。みずからの「感情」に「強さ」を注入していったのだ。彼らはみずからの感情のそれまでのあり方から出で立ち、それを違う方向へ、もうひとつ別のあり方へと、押し進めることができると信じ、そして、そのように試していったのである。その姿は「実存主義者」と呼ぶにふさわしいのではないか。

パンクそのものについてではないが、ノンセクトの非教条主義的な左翼グループ「自発派」(「想像力と直接的欲求の派閥」といわれ、パンクの前身ともいえる)について、アルタナティーフ運動を倫理学的に捉え返した、A・バルッツィは、「この運動は、自律性としての近代的な自由の運動の進行に属している。自発行動派の思想によって思い起こすのは、……実存主義である」と述べている。

感情管理化社会のなかで、感情管理をシステムから取り戻そうとし、感情管理の主権を自分の手にしっかりとどめようとしたのだ。パンクの生きかたをこのように描くことができるだろう。「パンクはメッセージをもたない。生活態度と生きられたスタイルとしてのパンクそのものこそがメッセージなのである」[Soeffner 1986:336] 。

とりあえず結果はここでは問わない、ただ、その意志が表明され、行動となり、生活として実践されていったこと、それに注目することが先決である。だから、彼ら、パンク実存主義者にとって、「レガール、イレガール、シャイセガール (Legal,Illegal,Scheissegal) 」(合法だろうが、非合法だろうが、ざけんなよ、そんなこと関係ねえんだよ)が、そのまま、感情管理化社会からの離脱を表現するのだということ、まずはそれを僕は確認したいのだ。

生きたものとしての社会を感じることができない社会学者は、その点、つぎの詩にうたわれるとおりだ。

 「分配闘争は駐車場でもやられてるのに、社会学者どもはオカルト仲間になって、どっ
 かに消えうせちまう。」
                                           デットレフ・マイヤー[Detlev Meyer]
                                                       『ベルリン/1981』

岡原正幸『ホモ・アフェクトス』(世界思想社 1998)ヨリ、WEB改造版