07年3月

Last-modified: 2007-04-18 (水) 03:55:06
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月31日

 

<イントキシケイト2006.11>
 
■二つの支持体が。
 
 二十一世紀初頭の十年も後半に入って、今年も前世紀を支えた芸術家の多くが世を去った。ジョルジュ・リゲティは六月に死んだ。この現代音楽界きってのインディヴィジュアリストは、青年期にナチズムによるホロコーストに巻き込まれ(彼の父と兄弟はユダヤ民族殲滅政策によって殺害された)、終戦によってその悪夢から逃れたと思ったら、今度はスターリニズムによる統制と抑圧が待っていた、という、実に特殊で激烈な、しかしまさしく二〇世紀的としか言いようのない状況を、その身一つで生き延びてきた。
 転機となったウィーンへの亡命もやはり政治絡みで、1956年のハンガリー革命が鎮圧された後の反動的粛清を避けることが第一の目的であっただろう。彼はこの革命を支持していた。鉄のカーテンを乗り越え、欧州の音楽的首都に現れたこの時、彼はすでに三十三歳だった。1956年といえば、欧州の前衛音楽家たちが最大の盛り上がりを見せていた時期であり、50年代初頭から試みられてきたあらたな技術と技法による実験が、さまざまな音楽会で続々と結果を出し始めていた時期であったが、リゲティはもっとも遅れてそこに入り込んだ者の特権として、その遅れを距離に変え、当時のクラシック音楽のメインストリーム―――「形式の確立とその発展」に重きを置くシステマティックな思考法―――に囚われることなく、実に個性的で、しかし、一本の線の上には並べることの出来ない作品をコツコツと作り続けたのだった。
 いま僕の手元にあるのは、『CLEAR OR CLOUDY』と題された4CDのBOXセットで、おそらく追悼盤として編まれたものだろう。『Complete Recordings On Deutsche Grammophon』ということで、ドイツ・グラモフォンに録音された(その多くは80年代から90年代にかけての録音だ)彼の作品が、ほぼ作曲年代順に収録されている。「晴れても、曇っても」……「僕は自分の作品を作り続ける」と言うことだろうか、通して聴くと改めて、リゲティの作風の幅広さとそのクオリティの高さに舌を巻かせられる。もちろん、たった四枚のCDで彼の仕事のすべてをカヴァーすることは不可能であり、初期の電子音楽も、自動演奏機械による作品も、もちろんオペラ『ル・グラン・マカブル』もここにはない。そうそう、『ハンガリアン・ロック』も入ってないし、あと、ドビュッシーのそれ以降もっともポピュラーな現代ピアノ曲集であろう『ピアノ練習曲集』からも二曲しか収録されていない(コンプリート?)。まあ、そもそもリゲティの業績全体を一つのBOXだけで見渡すことなんて無理な相談だろうから、これは仕方のないことだと思う。かなり淡白な印象ではあるけれど、普通に演奏会のレパートリーに加えられそうな作品におけるリゲティの上手さを聴きなおすには十分な内容であるだろう。八〇-九〇年代の代表的な作品である二つのコンチェルトにはやっぱり興奮するし、オルガンのためのハード・コアな(B-BOYだと「超ハーコー」)『ヴォルミナ』をはじめて聴けたのもよかった。
 リゲティはモダン・クラシックの作曲家の中でも特に、伝統的な対位法を駆使することに衒いのない作曲家であった。実際、彼の最も有名な作品である『アトモスフェール』のマイクロ・ポリフォニーは膨大かつ超精密な音群によって出来ているが、その一つ一つの音は殆ど古典的とも言える作曲技法に基づいて書かれてあるので、演奏家にとっては出音に納得出来る(演奏自体は勿論容易なことではないが)、非常に見栄えの良いものになっていると言う。ということは、考えてみると当然なことではあるが、リゲティは演奏される前からこの作品のサウンドを頭の中ではっきりと鳴らすことが出来ていた、ということであって、オルガンの機能を使い倒した『ヴォルミナ』にも同じことを感じるのだけど、こういった複雑な音群を、実際の響きを抜きにして創造し、紙に書き、展開し、他人に伝達して演奏させることが出来ている世界というのは、ものすごい変わった伝統の下に育まれた極めて特殊なものであるなあ、と思う。
 音をその演奏から一旦切り離し、記号化し、紙に書いて視覚化して把握する、というやり方。つまり、音楽的イメージの支持体として紙とエクリチュールを選択し、作者と紙とステージとの間の「距離」の中で想像力を作り出し、作品を生み出してゆくこと。スコア自体から音は聴こえない―――この欠落が特殊な想像力=創造力をもたらし、僕たちは作品が出来た後にきっと鳴らされるだろう「音」を想像しながら音楽を「書く」ことで、個人的なモチーフを十分に展開するために必要となる、遅延された時間を手に入れる。こういった引き延ばされた時間を音楽制作の前提にし、その遅れを中心にして音楽を取り巻く状況を整備することで、ヨーロッパの音楽は独特の発展を遂げてきた。
 リゲティの作品はこうした十九世紀的なヨーロッパの伝統にがっちりと則ったものであり、彼のフルクサス的なパートはそれを逆手にとって楽しんだものであると思うが、これからの世界で、こういったシステムによる音楽を本当に心の底から自分のものと考え、これこそが自分の芸術だとして全面的に受け入れることが出来る人間が、どれだけ活躍することが出来るのだろうか。音楽の支持体として、「紙」という媒介物を本気で選択すること。そして、書くこととそれが鳴らされることとのあいだにある時間的距離の中から、自分だけの創造力を立ち上げることが出来るようになること。録音の向こう側から響いてくるリゲティの作品に僕は、こういったシステムが十分に機能していた最後の時代の音を聴き取っているように思う。
 「紙切れに一つの音符を書いている時、人はまったく現実のことを考えていません。そしてまた、書いている時と聴かれる時との間のかくも長い距離があります……一年とかもっとながいこともある……。現実性の感覚を失ってしまうのです。ミュージック・コンクレートで素晴らしいのは、音を置いたまさにその時に、それがスピーカーから出てくるのが聞こえることです。音楽創作の歴史の中で、私たち以前にこのようなことは決してありませんでした。写真の発明よりもすごいことです。なぜなら、写真ではカメラのボタンを押す時と現像された結果を見る時との間に、まだ少しの時間があるからです。」
 こう語っているのはリュック・フェラーリである。リゲティと同じように、一貫して現代音楽のアウトサイダーであり続けたフェラーリは、「録音」というメディアを音楽の支持体として選び、そこに開ける可能性を「紙」による作品との可能性とのあいだに宙吊りにし続けた、二〇世紀はじめてのクラシック・コンポーザーであった。彼はマイクによって音を集め、それを録音メディアの上に配置し、それを聴きながら作品を構成してゆく。つまり、現在多くのポピュラー・ミュージシャンが行っている素材の録音→編集という作業のあり方をいち早く身に着けた非常にめずらしい「作曲家」な訳であるが、自分が使う音が「いまここ」にある、という発見は、イデアとその再表象とのあいだに永遠の差異がある(そして、その差異こそが創造の源泉である)クラシック音楽にとっては、なかなか認めがたいものであったのではないかと思う。
 ぼくたちは現在、録音メディアの上に音を呼び集め、そこから好きな音を手にとって選ぶような形で、音楽を制作することが出来るようになっている。紙という支持体の上では厳しく制限されなければならなかった音の素材も拡張の一途を辿り、もう殆どどんなものでも、まるで手に触れたものをそのまま全部取食べることが出来る、すべてがチョコやクッキーで出来ているお菓子の国に住んでいるみたいなものだが、そういったある種の地獄の中で作られたものとして、カヒミ・カリィの新作『NUNKI』は鈍い輝きを放っている。
 どんなものでも音楽として使え、また、「いまここ」がそのまま音楽が立ち上がる神聖な場所になるとするならば、ぼくたちはもう何も選ぶこともできないし、選ぶ必要もない。だがこれは嘘である。これは紙を支持体とした音楽環境が前提としている理念の単なるネガであって、録音メディアに寄せ集められた音からはじめる僕たちは、ここにも確かな倫理と構造があることを知っている。
 『NUNKI』で慎ましく、しかし、圧倒的な存在感でもって鳴らされているひとつひとつのサウンドの強さは、おそらく、紙を支持体とした音楽では決して響くことの出来ない性質のものである。このアルバムに現れるギターや笙、石や水やエレクトロニクスのアンサンブルは、録音メディアという音楽の支持体がはじめて発見し、自分の名の下でもって世界に提出する、あらたな世界観のあらわれだ。カヒミ・カリィはその歌声によって、水音とギターが重なり合うこの場所をはっきりと指し示し、プロデューサーたちは見事な腕前でその導きに応えている。カヒミ・カリィの声の繊細さと確さは、何よりも自分が自分として世界の中でアンサンブルするために、こういった響きの場所をずっと求めていたのだろうと思う。カヒミ・カリィは一アーティストとして、自分の個性をまったく独特の形で構造化することに成功したということで、このアルバムの成果をはっきりと誇りにしてもいいと思う。
 ジョルジュ・リゲティの『ロンターノ』とカヒミ・カリィの『呼続』。来歴が異なり、伸びてゆく方向が異なり、その響きのあり方もまったく異なってる音たちが、スピーカーの上ではみな、ほんのすこしだけ似た表情を見せて交じり合う。死者の平等にも似たその場所で、これからも僕は音楽を聴き、作ってゆくつもりだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月30日

 

<サイゾー、2006年6月>
 
東京サーチ&デストロイ (第2回)
 
 今年のはじめに恵比寿みるくで知り合った吉田大輔君から、『仲間と自主レーベル立ちあげたっス。記念のパーティをやるので良かったら是非。』というメッセージと共に、気合の入った変形フライヤーとステッカーが郵送されてきた。薄手の半透明塩ビで作られた、インフォメーションが印刷されている腕の部分を開いていくと太陽のような形になるそのフライヤーはちょっとした物で、制作費も結構掛かってるだろう、こういった趣向は嬉しいやね。ということで、CORNERDISC立ち上げパーティー『緑青』を覗きに吉祥寺のWarpまで行ってみた。
 24:00のオープンから若干遅れて入場すると、Warpの中はもう既にB-BOY君たちで一杯で、B2Fのライブ・スペースでは『KOCHITOLA HAGURETIC EMCEES』というグループが奔放なステージで場を盛り上げている。如何にも地元の悪ガキですといった風情の彼らは、なるほど『緑青』を「ROKU?BURU」=「ろくでなしブルース」と読ませるってのはこういう事か、とこちらを納得させる雰囲気を持っていた。吉祥寺という街は23区が終って「郊外」が始まるその接点上にあり、東京における豊かなローカリティの西の代表とも言える場所だと思う。HIPHOPはこういった「街」の息吹を十分に受け止めることの出来るフォームであり、吉祥寺を遊び場にして育った不良たちの「音楽」が、このパーティには溢れていた。おそらく現在、HIPHOPとして括られているカルチャーの裾野は、一九五〇年代のモダン・ジャズのそれと同じくらいに広いだろう。その時代の気配をダイレクトに移し込んだポップ・アイコンであると同時に、シリアスな音楽的実験所でもあるHIPHOPに対するイメージは、人によって物凄い触れ幅があるのではないかと思う。それこそ隆盛期の特徴ではあるが、しかし、HIPHOPもそのコアは、まさにモダン・ジャズと同じようにひとつひとつの現場にこそ存在する。TVなどのマス・メディアはむしろここでは「周縁」なのだ。
 ステージには、ジェイアイエヌ(tt,mic),クモユキ(fedarboard,mic),研吾(MPC),UMU(PC,drummacine,etc)による「十三画」が登場し、長机上に整然と並べられた機材を自在に操りながら、全員が一丸となってビートをクリエイトしてゆく。四人が互いの音を聴き合い、まるでフットサルの試合の様にそのフォーメーションを刻々と変化させながら、サンプルとプログラムとスクラッチをレイヤーして、音のフィールドを切り開いてゆく。その演奏は強力にアブストラクトかつスポーティな素晴らしいものだった。しかもグッド・ルッキングでRAPもこなせる。彼らはまだ世間的には無名だろうが、これから必ず話題になってくるはずだ。「十三画」。僕の中では今年のブライテスト・ホープだ。
 午前3時を回ってもまったく熱量が下がらず、むしろあたらしいお客でさらに混雑してきたフロアで、DJ KLOCKによるビート・ジャグリングの名人芸をしばらく見てから、僕はWarpを後にした。もう始発が動きはじめている。駅の周りの小さな繁華街にはまだぽつぽつとキャバクラの客引き陣が立っており、どの店の人も何故かみなスレていないというか、武蔵野のイイ兄ちゃん風なのが妙に可笑しかった。吉祥寺サーチ&デストロイ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月29日

 

<サイゾー2006、7月>
 
東京サーチ&デストロイ (第3回)
 
1995年から2005年にかけての十年間を振り返ってみると、僕がうろうろしていたような音楽のシーンでも色々な変化があった訳だが、なかでも興味深かったのは、「音」という「音楽」の素材自体を問いなおす試みが演奏の現場から自然発生的に生まれ、尚かつリスナーのあいだにもそういった実験を受け入れる姿勢が定着してきたことだろうと思う。サイン波、超高周波、超低周波、ミキサーのフィードバック音、レコードの針音、管楽器に息だけを吹き込む音などなど……音量的にも音域的にもギリギリ耳に聴こえるかどうかのラインにある音を「沈黙」とクロスさせることで新たな音楽構造を見出そうとするその試みは非常にスリリングであり(僕がこの連載の第一回目で取り上げたイベントで行なった『ポータブル・オーケストラ』もそのひとつだ)、こうした動きは「音響=ONKYO」という括り込みによって、ここ数年は海外からも大きな注目を集めている。今年開かれたパリでのショウ・ケースは大盛況だったそうだ。
 昨年、こうした動きを支えてきたギャラリーの一つである代々木offsiteが賃貸契約の関係でクローズした。広告屋ともメジャーなレコード会社とも関係のないこういった小空間を維持してゆくことは、東京においては特に困難であり、五年間に渡って積極的に「場」を提供してくれたoffsiteの消滅はまったく残念なことだった。が、しかしどっこい、カネにならないことをやり続けることに関しては、我々はなかなかシブトイのである。今度はミュージシャンの大友良英が、吉祥寺で『GRID605』という入場者30名限定のインディペンデント・スペースを運営し始めた。
 大友良英の名前はサイゾーの読者層には、えーと、『Blue』(安藤尋監督)や『カナリア』(塩田明彦監督)、それに『風花』など相米慎二の諸作品で映画音楽を担当し、カヒミ・カリィをメンバーに迎えてジャズ・オーケストラ作品を作り、英国『Wire』誌では毎年一回は特集が組まれるほど海外で人気が高いギタリスト/ターンテーブリスト、といった辺りがアンテナに引っかかるところだろうか。吉祥寺駅至近の雑居ビルの一室に開かれた『GRID605』は防音の関係もあり、弱音系の演奏しかすることが出来ないが(ちなみに「弱音」は「よわね」じゃなくて「じゃくおん」ね)5日間に渡って開催されるオープニング・イベントは、ネット告知オンリーなのにほぼ一瞬で全日ソールド・アウト。大友良英及びこういった「限定された空間」での音楽への注目度が高まっていることに驚かされた。
 僕は28日のステージにsimの一員として出演したのだが、GRID605は「吉祥寺駅の周辺にある」という事以外は場所の情報を公開しておらず、話によるとお客は駅前に集合後アイマスクとヘッドフォンを装着した状態で手を引かれてビルの一室に連れて来られる。ということだったのだが、実際は勿論そんなことはなく、スタッフとして運営に関わっている映像作家の岩井主税が駅前からお客さんを誘導してくる。この日の出演は、ギターを使った極微音フィードバック演奏のユタカワサキ、オシレーター二発で部屋をビリビリいわせた大友良英、小空間での鳴りは特別に気持ちのいいアルト・サックス・ソロの大蔵雅彦、そして我々simで、思っていたよりも充分に音圧が稼げたこともあり満足のゆく演奏だった。演奏中足を動かすと最前列のお客さんを蹴っ飛ばしてしまいそうなほど近い距離での音のやり取りは、やはり格別な緊張感がある。GRID605での演奏は全て岩井君によって映像が押さえているので、遠からずネット上でこの日の僕たちの演奏も見ることが出来るようになるだろう。あらたなスペースの誕生を祝福したい。サーチ&デストロイ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月28日

 

<このマンガがすごい!2006年オトコ版>
 
 
闇金ウシジマくん 真鍋昌平
 
 
 連載スタート当初は「闇金業者の手口とそれにハマる人間」を実録風に描くという作品だったのだが、巻を追うごとにウシジマ社長とその業務は徐々に後景に下がっていって、代わりに、都内でごにょごにょと、金策に翻弄されながら生きずらそうに生きている、エピソードごとに色々と登場するどーにもしようのない若者たちの描写の比重がどんどん大きくなっており、その筆の冴えはヤンキーとファンシーが点滅しながら同居する彼らの雰囲気を実にリアルに感じさせてくれる。そういえば、タイトル・ロゴの「ウシジマくん」の「ジ」の点点がハートマークだったりして、最初から何か『ナニワ金誘道』や『ミナミの帝王』とは違った気配を持ったマンガだったけれど、「カネの倫理」的な話よりも、「どうしようもなく借金をしてしまう都会人」の在り方にここまではっきり焦点を合わせてくるとは思わなかったので、そして、そういった人を描くために毎回体当たりで努力している感がはっきりと伝わってくるので、特に2巻から5巻目まではスリリングだ。デッサンや構図の不安定感、また、マンガ表現のシステムに慣れた人にとっては稚拙に見えるかもしれない手描き感あふれる記号処理も、ここでは彼らの混乱したエモーションを掬い上げる有効な技術となっている。「ゲイくん」シリーズの繊細さ、また、「ギャル汚くん」シリーズで堂々主役を張った、イベントサークル代表・22歳フリーター・東京都23区外出身・他のメンバー(高校生のボンボンなど全員年下)から与えられているあだ名は「お父さん」。というジュン君のキャラは傑作である。スピリッツで連載継続中。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月27日

 

<「間章クロニクル」 ディスク・レヴュー(抜粋)>
 
・マイク・オールドフィールド『チューブラー・ベルズ』
 
『ここで言えることは音をオブジェとして、しかもおもちゃのように自由自在にのびのびと使い、いじり、動かし、重ねるという感覚こそがこの『チューブラー・ベルズ』の実は本当のすごさと新しさなのではないだろうか。』(「一つの始まりと創造の円環について」)
 
 若干20歳のマイク・オールドフィールドを抜擢し、彼にスタジオを自由に使わせて、「28種類の楽器を自らプレイ、約2300回のダビングを重ね」させ、「レコーディングは約9ヶ月間にも及び、最終的なマスタリング、カッティングも4回やり直して」(ライナーより抜粋)アルバムを完成させたヴァージン・レコード社長、リチャード・ブランソンの慧眼には恐れ入る。ヴァージン・レコード第一回発売作品の目玉であった『チューブラー・ベルズ』は、リチャード社長の狙い通り全世界で大ヒットを記録、映画「エクソシスト」のテーマとしても使用され、マイク・オールドフィールドは一躍音楽業界の寵児となった。ミニマル・ミュージックを援用した15拍子のテーマはいま聴いてもエモーショナルだが、この作品がこれほど受け入れられた原因は、間も指摘しているように、音をスタジオの中で自由に重ねてゆく作業の可能性を実にポップに、軽やかに見せてくれたことによるだろう。ダビング作業のクオリティ・アップによって、バンドで人前に立たなくても、そして譜面に書いて人を指揮しなくても、試験管の中で薬液を混ぜるようにして音楽を作ることが出来る---ベッドルーム・テクノまでつながるこの感覚に対して、間章はその可能性を認めながらも、それを全面肯定することに対しては微妙な逡巡を見せているように思う。「録音」と「即興」が持つフィールドの違いに対する微妙だが確かな反応が、『チューブラー・ベルズ』を巡る間の言説には感じられる。
 
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・エリック・ドルフィ『カンヴァセイションズ』
 
『ドルフィが関わろうとした<未だないジャズの在り方>(原文強調点)、それはジャズをとらえて来たジャズの固定性、形式、すなわちコード、規則的リズム、パターン等々といったものから離れて何ら拘束のない自由へ関わるといったものではなかった。ドルフィは明らかに自らをしばり、いましめ、規制し続けた。その意味では彼はフリー・ジャズの季節から切れているし、前衛主義者では決してなかった。或いは、ドルフィは自由というまたはフリー・ジャズというものが、まさにフリーという形式であり、また途方もない安易さも危険と困難に同時に裏打ちされるものでしかなく、フリー・ジャズによっては自由はそして解放は得られるはずもないと考えていたのかもしれない。』(「エリック・ドルフィと『カンヴァセイションズ』をめぐる10の断章」)
 
 エリック・ドルフィは、自身に先行するアーティストの中でも間が特別に重要視していた存在だった。いわゆる「ジャズ」の文脈で彼が特権視し、その音楽に関してテマティックに取り組もうとしていたミュージシャンを最少数で挙げるならば、ドルフィ、アイラー、シカゴ前衛派となるだろうが、この三組の中で前二者は、レイシー/グレイヴス/ベイリーという「ポスト・フリー」・ミュージシャンを彼が実体験した後も、何度も翻ってその可能性を確認しようと試みたしミュージシャンであった。『カンヴァセイションズ』は、リーダー・アルバムとしてはわずか4枚しか残されていないドルフィのスタジオ録音作品の中でも、『FarCry』と『Out to Lunch!』をつなぐ時期のミッシング・ピースを集めたもの。未だに全体像が把握されていないドルフィの音楽であるが、特にリチャード・デイヴィスとのデュオにおける彼のバスクラの謎には、まだ全く分析の手が入っていない。
 
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・ファウスト 『Ⅳ 廃墟と青空』
 
『確かに「ファウスト」は数多くのロック・グループのなかでももっとも異例の部屋を持っている。そして彼等について語る時もっとも重要な事は彼等の音楽が、歌や曲の表現といったものとは違う所で形成されているということなのだ。彼等は音によって演奏によって、音に違う夢を見させ、違う光景を与えようとしている。「ファウスト」という言葉が選ばれたのも魔術師・錬金術師として実在したファウストにあやかって彼等が音の錬金術師たろうとしていることをうかがわせる。』(「ファウストの悪夢と反世界」)
 
 初端の「Krautrock」という曲名がジャーマン・プログレの代名詞に使われるほど強烈な世界を構築することに成功したファウストの4stアルバム。ヴァージンからのリリース。リズム隊がきちんとビートをキープしている曲が多く、ファウストのパブリック・イメージであるエレクトロニクス/コラージュの使用による混沌感は薄いが、時折現れる編集による時間の歪みやLRを思いっきり広く使った音像はヘッドフォンで聴くとかなりインパクトがある。間章は既存のフォームから離れた/離れようとする音楽を聴き取る繊細な耳を持っており、鬼才ぞろいの70年代ドイツ・ロック勢のイントロデューサーとして非常に優れた役割を果たした。ほとんど国内情報が出回っていない時代に、初期アモン・デュール、カン、ファウスト(間は中でも「ファウスト・テープス」を高く評価している)などが後世へと与える影響力を正しく認識し、予言していることに驚かされる。
 
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・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』
 
『ヴェルヴェットのすべてのレコードのなかで僕はこの「Sister Ray」を収めた『White Light / White Heat』がベストのアルバムだと思う。ヘロインのなかに沈みながらこの「Sister Ray」を聴いたとき、そこに僕は限りなくやさしい亡びと限りなく開かれた地獄を見たのだった。それにこの「Sister Ray」ほどに創造というものの輝きに満ち、あらゆる可能性に満ちた天国と地獄が共存する音楽空間を僕は知らない。それは何よりも僕の言うアナーキーに満ちていた。』(「アナーキズム遊星軍、ルー・リードのアナーキー」)
 
 アンディ・ウォーホールから離れ、全編をメンバー四人で制作した68年のセカンド・アルバム。冒頭の『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』など、A面に当たる楽曲にはまだ曲想、コーラスなどにR&Bの影が残っているが、B面に入ると完全にそれまでのポピュラー世界のアレンジを振り切り、特にラフなワン・コード、ワン・ビートの連打で17分半を押し通す「Sister Ray」では、ブルース/ファンクの豊穣とは全く正反対の、細く、硬く、貧しく、しかし、黒人音楽の屑としての「ロック」としてはこれほど見事なものはない世界を作り出している。ルー・リードのヴォーカルも素晴らしい。増幅・歪曲・延長によるサイケデリアをどのように認識=価値判断するのか、ということにおいては、間の感覚は(その表現はともかく)かなり鋭く、また正確であったように思われる。
 
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・阿部薫『なしくずしの死』
 
『二十歳の阿部薫が我々の前に現れた時、彼の破壊的なアルト・サックスのプレイをおおっていたものこそがこのニヒリスムの深い影だったと私は言うことが出来る。二十歳の阿部はまるでランボーが「光輝く忍耐で正装して街へ出てゆくのだ」というがごとくに狂暴な愛とパッションと、観念とそして破壊的なスピードとテクニックで正装するようにして登場した。一九六九年というまさになしくずしへ向かってゆくような状況の中で、彼はコルトレーンやアーチー・シェップを殺すようにしてまさに凶々しい、アナーキストとして登場したのだった。』(<なしくずしの死>への覚書と断片」)
 
 自分と対等に切り結べるはじめての同時代人であり、誰よりも近しい資質を感じていただろう阿部薫について書く間の文章は、彼の残した仕事の中でももっともイメージ生産力の強いものである。ここに書かれている事柄のどこまでが、実際の阿部の演奏から導き出されたものであるかを読者に考えさせないほど、間章は阿部薫のイメージを文章によって緻密に構築することに成功している。いま久しぶりに『なしくずしの死』を聴きなおしてみたところだが、ここでの阿部の演奏の質の高さは、テクニック的にも(出したい音を一発で切り出すコントロールの精密さ)、曲想のオリジナリティ(サックスにおけるプリペアドされたトーンについての感覚を展開するやりかた)においても、そしてもちろんその音色の素晴らしさにおいても、驚異的なものだ。僕はいま、このサウンドを間=阿部的な言説の磁場からなんとか解放する(というのが大げさならば、ちょっとしたズレのある場所へと導いてゆく)必要を強く感じる。それほど素晴らしい演奏であり、あらためてこの音楽を自分たちのものにしたいと僕は熱望するのだが、その作業はまだおそらく非常に困難であるだろう。
 
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●3月26日

 

<イントキシケイト2005?>
 
「VOGUE AFRICA NAKED」
 
 
 2003年に発売された東京ザヴィヌルバッハのセカンド・アルバム「VOGUE AFRICA」は、坪口昌恭、菊地成孔、オラシオ・エル・ネグロ・エルナンデスによるスタジオ・セッションを、坪口が編集・加工することによって作られたものだった。機械音と生のドラム・サウンドが絶妙にブレンドされたこのアルバムのグルーヴは実にフレッシュであり、まだフォロワーがいないほど独特なものであると思うが、この冬、オラシオの監修の元、このセッションの様子をノー・エディットで収録したアルバムが発売されることになった。タイトルはずばり、「VOGUE AFRICA NAKED」。まったくの完全即興であったというこのセッションの完成度の高さについて、また、現在最高のドラマーの一人であるオラシオがこのセッションでのプレイを自ら絶賛している、というような話は、「VOGUE AFRICA」発売当初から話には聴いていたが、その噂をこんなに早く確認することが出来るとは思わなかった。
 ブレイク一回だけ(二曲という区切りで収録)、40分弱をほぼ一気に聴かせるこのドキュメントは、「VOGUE AFRICA」のトラックで使われていないサウンドも沢山含まれており、二枚のアルバムを聴き比べることで、坪口昌恭がどういった時間感覚と色彩感覚でもって「VOGUE AFRICA」を構成していったのかを推測、分析することも出来るだろう。だが、それはともかくとして、「あのセッションは最高だった!(だから編集ナシでも十分イケてるだろう? ほら! どうよ、この俺のドラミング!)」という、オラシオ・エル・ネグロ・エルナンデスの自負はホントに正しいと思う。ここでの彼のドラム・プレイは聴き所多数、アイディアの宝庫であり、一瞬たりとも緩みというものがない。比較的BPMをつかまえ易いシーケンスが使われているとはいえ、その反応の速さと正確さ、そして流れに乗った後の爆発力まさに驚異的だ。なんとなく雰囲気であわせてゆくのではなく、マシン類の(実際には鳴っていない)基礎クリックを完全に把握して繰り出される多彩なフレーズは、もう随分昔からこういう音楽があったのではないかと思ってしまうほどサイボーグなアンサンブルの中に溶け込んでいる。特に二曲目の冒頭、一瞬のブレイク後、シーケンスが切り替わって如何にもマシン・サウンドなハンド・クラップとベース音が鳴り始め、坪口がヴォコーダーでソロを取り始めた瞬間に繰り出されるオラシオのシンバル・ワークの美しさよ! 
 坪口・菊地体制になってからはまだライブ・アルバムを発表していない東京ザヴィヌルバッハだが、これはスタジオ・ライブ盤として、各プレイヤーの個人技を心行くまで部屋でリプレイすることの出来る、ファンにとっては嬉しいボーナスとなるだろう。「コンプリート・イン・ア・サイレント・ウェイ・セッションズ」も、「レット・イット・ビー・ネイキッド」も、オリジナルが出てから三〇年ほど経ってようやっと日の目を見たのだった。時代は着実に変わってきているな。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月25日

 

<学研200CD「ロックとフォークのない二〇世紀、ジャズ・ディスク・レヴュー(抜粋)>
 
・Charles Mingus チャールス・ミンガス / 『mingus at monterey 』 (ヴィクター 1964)
 
body(350):デューク・エリントン直系のコンポーザー/オーケストレーターであったミンガスは、モダンの時代にあっても根本的にはプレ・モダニズムな姿勢でもって自身の音楽を遂行しようとし続けたミュージシャンであった。バンドのミュージシャンに対して、彼らの演奏能力を最大限に揮うように求めるのはリーダーとしては当然のことだろうが、例えば『Pithecanthropus Erectus』などのスタジオ作品における、自分のイメージを何とかしてグループで表現しようとメンバーをコントロールしてゆくその拘束感は、殆どクラシックのアーティストに近い感触がある。ここで取り上げるモントリオールでの12人編成ライブは、彼が率いたグループの中でもアンサンブル的にはベストの出来映えだ。ベースソロによる『I'got it Bad』は必聴。
 
―――
・Duke Elilington デューク・エリントン / 『The Best Of Early Ellington』 (Decca 1996)
 
body(350):1926年から1931年の間に吹き込まれたデューク・エリントン・オーケストラの作品から、代表的な20曲を年代順にまとめたベスト盤。キャリアのスタートとなったケンタッキー・クラブ時代の『East St.Louis Toodle-O』からもう既に、後に炸裂するファンタジックな異国趣味が横溢しており(エリントンはワシントンD.C.育ちのボンボンで、彼にとってセントルイス=アメリカ南部ははっきりとエキゾチズムの対象であった筈だ)、この時代に「アメリカ人」は「アメリカ」をどのようにイメージしていたのか、また、それは三〇年代以降(デュークらが提供したポップスによって?)どのように再編成されていったのか、ということについて、古典を鵜呑みにするのではなく聴き取っていきたい。
 
―――
・Max Roach マックス・ローチ / 『Percussion Bitter Sweet』 パーカッション・ビター・スウィーツ (Impulese! 1961)
 
prof(150)::1924年生。NYシティ育ち。二〇代でチャーリー・パーカー・グループに参加し、ジャズ・ドラミングの改革に大きな役割を果たす。オリジナル・ビバップ・ドラマーの一人。
 
body(570):ビバップ・オリジネイターのラスト・マン、マックス・ローチ。きりっとした楷書を思わせる、一字一句をゆるがせにしない彼のドラミングは、五〇年代モダン・ジャズの基礎脈動の一つだ。ロリンズ『サクソフォン・コロッサス』における多種多様なビートの叩き分けはおそらくこの時代彼にしか出来なかった作業であり、殆ど神話的とさえ言える輝きを残しているクリフォード・ブラウンとの双頭コンボ作品とともにオススメの第一に挙げたいところだが、ここではもしかすると今ではあまり聴かれることの無くなったかもしれない、一九六〇年代前半のリーダー・アルバムを取り上げたい。ローチはフリー・ジャズ・ムーヴメントに先駆けて、どのジャズ・ミュージシャンよりも早く、積極的に、アメリカにおける黒人問題について直接アピールする音楽を製作していった。『Percussion Bitter Sweet』は、『We Insist!』(60)や『It`s Time』(62)とともに、中南米やアフリカといった有色人種の音楽へのラインをきっかりと示したアルバムであり、ローチはこれらの作品を作っていた時期、カーネギー・ホールでコンサートをしていたマイルスの舞台に、「フリーダム・ナウ!」というプラカードを持って座り込むという事件も起こしている。一曲目の『Garvey's Ghost』に溢れるポリリズムは、「モダン」を通過した黒人たちによるアーバンなバーバリズムが体現されており、六〇年代の前半にはこのサウンド自体に政治的な主張が含まれていたのだった。
 
sub(100): Max Roach / 『We Insist!』(candid 1960)
 
おそらく「座り込み」運動を描いたジャケ――ドライブ・インの白人専用のカウンターに座り込んだ黒人たちが、ドアから入って来た客(白人)の方を振り返っている図――も鮮やかなキャンディド作品。アビー・リンカーン全面参加。
 
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・George Russell ジョージ・ラッセル / 『Jazz in the Space Age』 宇宙時代のジャズ (DECCA 1960)
 
body(350):一曲目のタイトルが『クロマティック・ユニバース-パート1』であり、イントロに流れるスネアを使って発しているらしい電子音を模したSE(ラッセル自身が演奏)からして、もう既にアカデミズムな香り&ミスティフィカシオン性たっぷりの『宇宙時代のジャズ』。ところがこれ、アーニー・ロイヤルやミルト・ヒントン、バリー・ガルブレイスといった名手に恵まれ、かなり骨太なアルバムに仕上がっています。ビル・エヴァンスとポール・ブレイという、この時期キレキレのピアニストをLRにソリストで迎える、というアレンジも実に格好いい。ホーンの抜き差しも凝っていて、五〇年代科学主義の最後を引き受けた音楽として、未だ色々な側面から(ジャズの文脈外でも)聴く事の出来る貴重なアルバムだ。
 
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・Miles Davis マイルス・デイヴィス / 『Miles Davis&The Modern Jazz Giants』 (prestige 1956)
 
body(350):マイルスとセロニアス・モンクの共演が聴けるアルバム(『Bag's Groove』の一曲はこのセッションからのトレード)として有名な一枚。モンク以外のリズム隊はMJQのメンバーなんだけど、これはプレステッジのボブ・ワインストックがジョン・ルイスを毛嫌いしてたから、と言われている。ありそうな話だが、ミルト・ジャクソンとモンク、それにマイルスの組み合わせは音色的にも最高。ドラッグによる長い不調期を脱したマイルスが、自身の音楽創造に向けてセッション全体をコントロールしはじめた時期のアルバムで、「54年クリスマスのケンカ・セッション」というレッテルは目を引くけれど(詳細については他の本を当ってください)、この見事な演奏を出来映えを聴いてそんな発想をする人間の感性は疑った方がいい。実に瑞々しいサウンドだ。
 
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・Lee Konitz リー・コニッツ / 『Subconscious-Lee』 サブコンシャス・リー (prestige 1950)
 
prof(150)::1927年シカゴ生まれ。スウィング・ジャズ期から現在まで、独特の音色とフレージングで唯一無二の個性を誇る白人サックス・プレイヤーの代表的ミュージシャン。ビッグ・バンドから無伴奏ソロまで、さまざまなフォームで作品を残している。
 
body(570):1949年から50年春に掛けて吹き込まれた、リー・コニッツを中心にしたセッションを一枚にまとめたアルバム。実質上レニー・トリスターノのリーダー・セッションである1~5曲目は、プレステッジ・レーベルの船出となる記念すべき初録音。この時期、バップがようやっとメジャーなものになって来ていたとはいえ、世はまだスウィング・ミュージックの大全盛時代であり、そんな中でこれほどアブストラクトな、混じりけのない硬質な輝きを見せるソロが並んでいる吹込みが生まれたのはある種奇跡に近い。以後、一貫して「モダン・ジャズ」をリリースし続けるプレスティッジの誕生を祝福する魔法がここにはかかっているのだと思う。リー・コニッツはこの時期、トリスターノの門下生として彼の音楽を忠実にサックスでリアライズする作業に務めていたが、ギターのビリー・バウアー、テナー・サックスのウォーレン・マーシュ以下、このアルバムに参加したミュージシャンはみなトリスターノが参加していないセッションにおいても彼の支配下にあり(油井正一先生は「トリスターノが催眠術を掛けていたのだ」とおっしゃっていたが)、それぞれが異なった楽器で一糸乱れず同じイディオムのソロを繰り広げてゆく。一般的には「クール・ジャズ」の代表にも挙げられるアルバムだが、この緊張感には何か異常なものがあり、特にビリー・バウアーとコニッツのデュオ『REBECCA』は、どうしてこんな音楽が生まれたのか、相当に謎は深い。
 
sub(100):Lee Konitz & The Gerry Mulligan Quartet
 
53年、西海岸に移動してマリガン率いるピアノレス・クインテット(TPはチェット・ベイカー)と共演した録音。コニッツの、殆ど神がかり的に凝縮されたソロは何度聴いても背筋が寒くなる。これより先にも後にもない、歴史に屹立する『LoverMan』の美しさ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月24日

 

<2004年? シカゴ・アンダーグラウンド・トリオ 『スロン』 ライナーノーツ(4000w)>
 
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 トランペット(またはコルネット、またはフリューゲル・ホルン)奏者のなかには時々、自分の演奏するべき音楽のフォルムに対して、驚くほど豊かに想像力を働かせることが出来る人がいて、モダン・ジャズ50年の歴史だけに限ってみても、米国都市音楽からラテン・アメリカへとつながるラインを太く太く引いたディジー・ガレスピー、ナップサックひとつで世界のどの場所にも現れるドン・チェリー、巨大な祝祭空間を演出し続けたレスター・ボウイ、そして、『マイルス(ひとりが)何マイルも先を』マイルス・デイヴィス……と、こうやって直ぐに何人かのミュージシャンの名前を挙げることが出来る。それにしても、これはほんとに、なんとも独特なアンサンブルを作り挙げた人たちばかりが並んだなあ。音楽的にはばらんばらんな彼らに、もし共通する点があるとするならば、それは、楽器を操る確かな腕前を持ちながら、それに囚われ過ぎることなく(楽器奏者のなかには、残念なことに現在でもしばしば、楽器を演奏する為に必要な技術的側面からしか物事を判断することが出来ない人たちがいるのだ)、非常に柔軟な耳でもってかなり高い視点からミュージックを見る/聴くことが出来ていたところだろう。自分の作った音から一旦離れ、バンドのなかで、聴衆のなかで、さらに言えば世界のなかで、それが如何に響いているか? それを如何に響かせればいいのか? こうしたことを考えながら演奏を続けてきた彼らは、その長いキャリアのなかで、ジャズ・ミュージックにさまざまな複線を付け加え、いまでもそこからたくさんの可能性を引き出すことの出来る豊穣な土地をぼくたちにひらいておいてくれたと思う。
 そういった開拓者の系譜に連なるミュージシャンとして、ロブ・マズレクの名前を挙げるのは、けっして大げさなことではないだろう。マズレクを中心として、デュオ、トリオ、カルテット、オーケストラ、と編成を変えながら続けられてきた「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトは、作曲、編曲、演奏、録音、編集、という、現在音楽を制作するために踏まれるプロセスのひとつひとつに繊細な注意を払うことで、インストゥルメンタル・ミュージックのあらたなモデルを提示することに成功している。プレイヤーの演奏能力を音楽の基盤に置いている点では、ロブたちのプロジェクトは確かにジャズの伝統を受け継いではじめられたものだ。が、しかし、彼らは、ステージ上だけで音楽が完結すると考えがちなジャズ・ミュージシャンたちとは異なり、録音や編集といった、いわゆるポスト・プロダクションまでを含めた音楽の創造に対して、かなり早い時期から敏感に反応することが出来ていたように思われる。これは勿論、ジム・オルークやジョン・マッケンタイア、それに本作でもレコーディングとミックスを担当しているバンディ・K・ブラウンら、彼らを取り巻くきわめて今日的な、非常に優れたミュージシャン/エンジニアたちの影響が大きいだろう。「シカゴ・アンダーグラウンド」プロジェクトの特徴は、そのようにして身に付けたノン・リニアなサウンド編集の技術を、また改めてデュオやトリオ、カルテットという極めて具体的な「演奏」のフォーマットに、また、そのための「作曲」のノウハウに、反映させ続けている点にあると思う。結成からこれまでに発表されたアルバムは、この『SLON』を含めて計8枚。アルバムやフォーマットごとにその音の傾向は丁寧にデザインされ、一作毎に発展、というよりはエレガントに拡散し続けてきたC.U.の実験は、ラップトップ・コンピューターによって音を処理するシステムが演奏の現場でも一般的に受け入れられはじめている現在、ますます本領を発揮してゆくに違いない。
 という訳で、シカゴ・アンダーグラウンド・トリオ(以下C.U.T)の新作が届いたよ、という知らせを受けてぼくは、ロブさんたちはいま絶好調なんだろうな、と勝手に思って喜んでいたのだけれど、そのあと、「今回の作品は『イラク戦争への彼らの思いが反映されたアンチ・ウォー・アルバム』なんだって」、と聞いて、正直言って鼻白んだ。このアルバムは、『アメリカ帝国主義の包囲網によって自身の生活を奪われた総ての人々』に捧げられている。C.U.Tの3人は、広い範囲にわたるヨーロッパ・ツアーに出発した2日後、アメリカがイラク侵略を開始したことを知り、そのツアー後、アメリカ軍がイラクに駐留し続けている最中に、このアルバムを制作した。『その戦争はグループや彼等の音楽に深く影響を与えた』と、プレス・キットには書いてある。
 ぼくはここで、戦争と音楽との関係を改めて云々するつもりはない。これまでも音楽でもって戦争に対峙しようとした人たちは沢山いたし、戦争との緊張関係から想像力を汲み出してきた音楽家もいれば、逆に視野狭窄に陥ってしまった音楽家もいる。言葉でもって音楽になんらかの政治的意図を与えようとすることは難しくないが、その有効性はしばしば、その音楽の構造とは無関係に推移して行く。また、ある音楽にぼくたちの暮らしている政治的状況のモデルが真に含まれているならば、作者が何も言わなくともおそらく、人はそこに生きるために必要な倫理を聴き取ることだろう。とにかく、まずは、デジタル・オーディオとしてパッケージングされ、ぼくたちの元に届けられているこの作品に注意深く耳を傾けてみよう。
 トラック1。冒頭、ロブ・マズレクのコルネットが旋回させる小さなメロディーに導かれ、チャド・テイラーの手数の多いドラムスがスタート。直ぐにノエル・クッパースミスのベースがFペンタトニックのヴァンプで曲の基盤を支え、シンプルなテーマをゆがめるようにしてロブが急速超のソロを取る。アコースティック・ジャズの王道のようなサウンドだが、1:30秒を過ぎたところで多重録音されたアルコ・ベースが、殆ど電子音響的な陰影を伴ってトリオのサウンドに介入しはじめる。ドラムスがBPMをキープしたままなのでしばらく気が付かないが、いつのまにか8/8で演奏されていたトリオの演奏に、6/8のベースとコルネットのリフがスーパー・インポーズされており、さらにその音に3連譜で刻まれる弓弾きのベースが重ねられ、シンプルだが深みのあるポリリズムが形作られる。ロブのコルネットが再び熱を帯び、8/6拍子の前景化をはっきりさせるようにドラムスはフェイド・アウト。ベースとコルネットのリフレイン、それに弓弾きのコードの上でコルネットのソロが続き、6:30でこの曲は実に自然にエンディングを迎える。2度、3度と聴きなおして感心しているのだが、即興演奏でしか生まれ得ない熱気と、緊密な構成、そしてそれをスムースに接続させるトリートメントの巧みさは、C.U.Tがこれまでに行ってきた実験の最良の結実ではないかと思う。
 2曲目の『スロン』は一転して、クッパースミスが制作したというリズミックかつフリーキーな電子音ではじまる。コンピューターのプラグイン・ソフトで加工されたパーカッションの音のようにも聴こえるこのサウンドのリズム・パターンが安定したところで、ミュートされたコルネットとアルコ・ベースによるテーマが、指弾きのベース・パターンと交互に奏される。これは完全に作曲された作品だろう。電子音、ミュート・コルネット+アルコ・ベース、指弾きのベース、という4つの異なったサウンドが時間と空間のなかに上手く配置されていることがわかる。3曲目も完全にコンポーズされた曲で、『スロン』とはまた異なった電子音、細かく重ねられたデジタルの霧の噴射によって雰囲気が作られ、そこに落ち着いたテンポで3人の演奏が重ねられてゆく。4曲目は新伝承派の曲と演奏、といってもおかしくない完全アコースティックのバビッシュなトラック。5曲目はドラムスがメイン。バス・ドラムで基本拍を提示しながら、チャド・テイラーはその上に自由に複数のリズムをレイヤーしてゆく。エルヴィン・ジョーンズがジョン・コルトレーンとのカルテットで探求した手法だが、チャドはこうしたリズムの折り重ねを、ソリストのアイディアを直接的にプッシュするためではなく、例えばマルチ・トラック上に並べたパーツをONOFFすることで意外なリズム空間が発見されことにも似た、複数の演奏スペースの同時的な提示を目的として行っているように思われる。トラック6はコンピューター・トラック+3人のノー・グルーヴ完全即興。トラック7はフィールド・レコーディング+リズム・ボックス的ビート+逆回転風のシンセ・サウンド、という完全なベッドルーム・テクノ・ミュージック……。
 このアルバムは、データによると、『一日で音楽を録音し、一日でミックスし、一日でテープをカット』して作られたものだという。つまり3日間でここに響いているサウンドの総てが出来上がったという訳だが、これが本当だとするならば、これらの楽曲のヴァリエーションと完成度は尋常ではない。こうした集中力の在り方は、ツアーのなかで(毎晩のステージの上で)曲と演奏とのあいだに張り巡らされた複雑な緊張関係を磨き上げていく、ジャズ・ミュージシャンに固有のものなのではないかとぼくは思う。トリオと名乗りながらも、実質的にはギターのジェフ・パーカーを加えたカルテットでのアンサンブル探求であったC.U.Tの前作『フレイムスロワー』と異なり、『スロン』はきわめてストレートな「トリオ」で作りあげられたサウンドで充たされている。また、これまでC.U.TおよびC.U.Dで多様されてきたチャドのヴィブラフォンも、今回はまったく登場することがない。このアルバムからは、これまで「シカゴ・アンダーグラウンド」として彼らが広く行ってきた実験の成果を、彼ら自身が、自分たちの為に切実に必要とし、そしてそれを最大限に利用することで作りあげたサウンドが聴こえてくる。ある種の止むに止まれぬ怒り、恐怖、悲しみの表明としてこのアルバムが作られているとするならば、そうしたものを作るにあたって彼らが選んだプロセスが、拡大よりも縮小を志向し、自分がしっかりハンドル出来るもの、十分に習熟しているもの、ちいさく、すばやく、確実に出来るもので仕上げられているのは興味深いことだ。作曲と即興。アコースティック楽器とエレクトロニクス。フィールド・レコーディングと平均律。リアルタイム・デジタル・プロセッシング。ポリリズム。エモーションとイマジネーションの他に、彼等の手の中にはこうしたものがあった。自分の手元を見直したとき、ぼくたちは一体何を使って、どんなことが出来るだろうか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月23日

 

<サイゾー2006年8月>
 
東京サーチ&デストロイ (第4回)
 
 東急東横線が「高島町」と「桜木町」という二つの駅を盲腸みたいに切り捨て、「みなとみらい線」という新しい地下鉄につながって「元町・中華街」を終点とするようになってからもう二年半が経つ。この連載は「東京サーチ&デストロイ」と名乗っているけれど、実は僕は普段は横浜で生活している人間であり、何かイベントや仕事がある度に都内へ出て行くことにしているのだが、ぼーっとしている間にいきなり最寄り駅である東急桜木町駅が消滅していたのには衝撃を受けた。MM(みなとみらい)地区とか言って20年近く港湾周辺の整備をしているのは勿論判っていたけれど、まさか本当に東京への導線自体を変えてしまうとは…。まあ、変わってしまったものはしょうがない、あまり阿呆なスクラップ&ビルドが始まらないように(森ビルが再開発にガッチリ絡んでるって話だし)祈るばかりである。実際、関内馬車道周辺で進められている「BANKART」や「北仲BRICK」などのプロジェクトでは、制作場所を求めるアーティストや学生に空いた建築物をリストアして提供するって作業も始めているようで、横浜のアート/演劇/ダンス・シーンの活性化にこれから一役かってくれそうではある。
 今回はそんな何かと騒がしい我が地元横浜でおこなわれた二つの公演を取り上げたい。ダンスを中心においたパフォーマンス・カンパニー<ニブロール>の振付家である矢内原美邦によるソロ・プロジェクト第二弾『青ノ鳥』と、中野成樹(POOL-5)+フランケンズ 、劇団山縣家 、劇団820製作所、ユルガリ、という若手四団体が参加した「Summerholic 06 -恐怖劇場- 」である。場所はどちらも横浜西口のSTスポットだ。
 STスポットは87年オープンということだからもう老舗ですね。さまざまな試みに理解がある貴重なスペースで、以前から提携や支援という形で若手アーティストの育成に務めてきた。そういえば、僕は九〇年代の半ば頃に(いま調べてみたら96年でした)なんとリー・コニッツのソロをこのキャパ50人ほどの場所で見たことがある。今回のこの二公演はたまたま7月1日と7月8日という近い日程で上演されたものに僕が行って来たというだけであって、直接的なつながりはないのだけれど、どの作品も確かに「演劇」であると同時に、なにかそういったものをどうしようもなくハミ出した過剰さが感じられ…その過剰さは、例えば「激しい」とか「厳しい」とかいった形容で表されるような「強さ」を感じさせるものだけではなく、だらしなく崩れているとか、上手くまとまっていない、とか、話が良く判らないとかいった、何が無駄で何が無駄じゃないのか簡単に整理が出来ないような、そんな弱い?過剰さがそれぞれの作品に組み込まれていて、そこがまず僕には非常に<しっくりときた>。ステージ上で出来ることっていうのは、本当に本当にたくさんあるんだな、というのが二公演を見ての素直な感想です。
 九〇年代の後半から00年くらいにかけて旗揚げした演劇やダンスの団体が、ステージ・プロパーの枠を超えて、僕みたいな音楽をやっている人間にも凄くアピールする作品を発表し始めているよ、といったことを教えてくれた友人がいて、それで僕も最近いろいろと勧められたステージを見に行くようになったのだけれど、観劇の素人ながら感じるのは、舞台というものを成り立たせている装置に対して彼らがはっきりと、でも自覚的というよりもほとんど生活者としての基本的な所から「んー?」と思っているということであり、まず自分たちの身の丈にあった範囲でそういった基本の感覚を舞台に載せてゆき、そうやっているうちにその結果がまっすぐ自分とそのジャンルの歴史になっていくような、なんというか、殆ど世界創造時のようなデタラメな軽さと明るさが彼ら彼女らのステージには充ちているように僕は思って、こっちも元気になってくる。久しぶりの感覚で、そういえば音楽の分野ではしばらくこうした雰囲気を味わっていなかったような気がする。話がつい抽象的になっちゃったけど、今度機会を作ってもうちょっと具体的に書くようにします。とにかく、演劇はすごく面白い。横浜サーチ&デストロイ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月22日

 

<美術手帳2003年?>
 
Dill 『wyhiwyg』インタビュー
 
パソコンに取り込んで適当な処理をおこなえば、身のまわりで鳴っているどんな音からも音楽を作り出せるようになった現在、ぼくたちは殆どお菓子の家に住んでいるみたいなものだけれど、ミュージシャンはやっぱり、そんな中からまだ誰も食べたことのない響きを探し出して、これとしか言いようがない一品に仕上げる腕前を持っている。先日FlyrecからリリースされたDillの『wyhiwyg』(読みは「ウィヒウィグ」ね)は、フレーズに付けられた影と滲みの階調が実に魅力的な、彼のファースト・アルバムである。「アルバムを出して、えーと、昨日までは大阪で『発条ト』っていうダンス・カンパニーの音楽をやっていました。90時間くらいかけたワークショップ作品の公演だったんですけど、各ダンサーがヴィデオで録ってきた音を編集したり、練習の前にワークショップ生がいたずらで弾いてたピアノの音があったんで、それを取り込んで使ったりしました。」普段使っている機材は「普通のMacとCuBASE」というDill.。今回のアルバムではメモリーが足りなくて大変だったそうだ。「でも、例えばMaxみたいなソフトは一切使っていないので、ほんとただ単に容量が足りなくて手間だったってことですね。パソコンの処理能力ってかなり上がってますから、サウンド・ファイルをプロセスするだけっていうやり方でも結構面白かったりもするんだけど、やっぱそんな簡単な方法だと自分の作りたい音って録れないんで。ライブでも単にパソコン上の音を流すんじゃなくて、チェロやコントラバスを入れたり、あとロックバンド的な編成でやったりとか、まあ色々やってみているんで、アルバムを気に入ってくれた人は是非ライブにも足を運んでみてください。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月21日

 

<2004年、EWEカタログ>
 
●EWEの新潮流について
 
大谷能生
 
 
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 今年の六月、イースト・ワークス・エンタテインメントは、ミュージシャン・芳垣安洋がプロデュースする『GLAMOROUS Records』を新たに立ち上げた。このレーベルは、これまで本当にさまざまなバンドやセッションでドラムを叩き続けて来た芳垣安洋が、『「リズム」「サウンド」「スタイル」そして「国境」をも越えて音楽家達が集う』場所を切り開き、そこから『カテゴライズしきれない色彩豊かな』音楽を発信してゆくことを目的としてはじめられたものだ。二〇〇四年九月現在、すでに青木タイセイ/『Primero』、Warehouse/『Patrol girl』、ヴィンセント・アトミクス/『ヴィンセント II』という三枚のアルバムがリリースされており、十月にはアルゼンチンのフェルナンド・カブサッキ(g、electoronics)を中心としたセッション・アルバムが仕上がってくる。ということで、かなり好調な滑り出しだが、「リズム」、「サウンド」、「スタイル」、そして「国境」……こうした枠組みを予め与えられたものとは考えず、音楽家どうしが演奏の現場で毎回、互いに持っている物を分け合う作業から音楽を立ち上げていこうとするためには、各々のミュージシャンがまず自身の音楽をはっきりとハンドルしていること、そして同時に、そのように作り上げた自分のフィールドから何時でも遠く離れることが出来るだけの勇気を持っていることが必要となってくる。これは実際、相当に難しいことだ。
 だが思えば、世界各地のリズムと楽器を一曲の中に溶け込ませながら、一聴してそれとはっきり分かる個性的なアンサンブルを持つことが出来ている芳垣率いるヴィンセント・アトミクスは、世界が自由にクロスするそういった場所を幻想的に体現している、そのようなバンドであった。マルチ・インストゥルメンタリストとしての才能を充分に発揮させた青木タイセイの『Primero』。ふと手に触れたものを軽快にパッチワークしてゆくWarehouse……。グラマラス・レコードからリリースされているアルバムには、音を自分の手の中で捏ね、足で踏んづけながら作りあげてゆく過程の楽しさが共通している。イースト・ワークスは、ミュージシャン自身にレーベルをプロデュース/オーガナイズさせることによって、ミュージシャンの個性をその音楽的なフォームの上にまで反映させた、このようにボーダレスかつ深くパーソナルな音楽を作ることに成功している。
 実際、イースト・ワークスは、その当初からGrandiscやBAJといったミュージシャン主導のサブ・レーベルを持ち、これまでに多くの、ある意味強力に偏ったアイテムをリリースすることで、シーンに一石を投じ続けてきた。キップ・ハンラハンというニューヨークの鬼才と提携し、彼のプロデュースする「アメリカン・クラヴェ」の諸作を日本に紹介するという作業も、ミュージシャンどうしの創造的な結びつきから素晴らしいレコードを作り出すキップの手腕を出来る限り近い場所に曳き付けたい、という意志から来たものではないかとぼくは思う。そして確かに、キップ・ハンラハンを介して日本へと紹介されたミュージシャンたち――特に、ロビー・アミーン、オラシオ・「エルネグロ」・フェルナンデス、ペドロ・マルティネスなどの「ディープ・ルンバ」チーム――の影響力は、若い世代のミュージシャンを中心に極めて大きく、これから先彼らと日本人ミュージシャンとあいだに更なるコラボレーションが行われていくのは間違いないことだろう。また、「アメリカン・クラヴェ」からやってきたミュージシャンたちは、演奏現場のレヴェルだけではなく、その意識の状態――ニューヨーク、東京、そして南米との距離の中から、自身の演奏の想像力を引き出すというエトランゼ的合力のあり方――において、既にコンボピアノの『AGATHA』などに大きなインスパイアを与えているように思う。
 キップ・ハンラハン自身もミュージシャンであるが、二〇〇〇年期に入り、コンボピアノがオーガナイズするSycamore(二〇〇一年)、また東京ザヴィヌルバッハを擁する『テクノ、ハウス以降の影響下において発生するジャズを紹介する』BodyElectoricレコード(二〇〇二年)が相次いで始動、そして冒頭に挙げた芳垣プロデュースのGLAMOROUSレコード(二〇〇四年)の発足と、ミュージシャン主導によってレコードを作るイースト・ワークス独特の姿勢はさらに加速されてきていると見ていいだろう。こうしたサブ・レーベルの存在は、そのレーベルをオーガナイズするミュージシャンの個性をトータルに発揮することの出来る可能性だけでなく、「他のミュージシャンをプロデュースする」という、多くのミュージシャンにとってはそれまで殆ど経験したことのないだろう作業に触れる事で、また新たな角度から音楽を見る視点を得ることになるという利点を持っている。
 演奏者、音楽創造者、モノを実際に造る人間の立場から一旦離れて、相手の想像力を想像する立場に立つこと。「プロデュース」とは
語源を尋ねると、もともとは演劇における「演出者」という意味らしいが、相手の行いたいこと、そして自分が思っている事を充分に擦り合せながら、ある音楽を「演出」してゆくこと。レーベルをオーガナイズするということは、自身が「演出」したいミュージシャンを見つけ、彼と一緒に作品を作り、そうやって得た音楽をまたさらに次の作品、次のミュージシャン、次のコンセプトに結びつけてゆくことで、何重にも折重なった総合的な世界を作り出してゆくことの他ならない。イースト・ワークス内のサブ・レーベルは、現在の所まだそうした世界を得るまでには至っていないが、藤原大輔の『ジャジック・アノマリー』や東京ザヴィヌルバッハの『a8v』というエレクトロニック・ジャズ/フュージョンと、GOTH-TRADのヘヴィー・インダストリアル世界、および津上研太らのアコースティックな世界を結ぶラインを引くことが出来るならば、BodyElectoricは「アメリカン・クラヴェ」の重層性に匹敵する現代的な思想を提示することが出来るはずだ。ここにはまだ幾つかの作品が欠けている。この隙間はこれから必ず埋められてゆくだろう。
 プロデューサーが「演出を行う者」だとするならば、ピアニスト・南博に対するプロデューサー・菊地成孔の振る舞いは、まさしくその言葉のイデアを完全に充たしたものであり、時に緩慢に、時に急速に進んで行く彼ら二人の共同作業は、「ジャズ」という、二〇世紀の全ての美と悲しみを溶かし込んだ音楽への愛を支えに、この三年間静かに続けられてきたのだった。『こうして秋に着想され、三年目の秋を迎える10月10日にこのアルバムはドロップする。僕はすっかり座り慣れたプロデューサーズ・チェアに再び座り直し、このアルバムの最大の目的である、ひとつは何故1950年代のアメリカを精神的な風景に持ったこの音楽が生まれたのか?ということ、そして、南博を知る総ての、南博を知らぬ総ての人々に、彼の苦渋と葛藤と官能に満ちた、ヴェルヴェットの様に滑らかな精神性の一端に、出来れば愛撫の手つきに似た繊細さでそっと触れて欲しいと心から願い、アルバム・タイトルはこうして、繊細な物に対して指先でそっと触れる、ということ。そうした行為を巡るあらゆるヴァリエーションを含意している。』(菊地成孔のアルバム・プロダクション・ノートより)
 菊地成孔と南博はコンセプト・ビルディング、具体的な選曲、アレンジ、演奏、録音、ストリングス・セクションのダビングとポスト・プロダクションなどなど、音楽を得るために必要な具体的な作業を全て共にし、この幸福な関係から三〇分という小さな、(この大きさは「10インチLP」という、初期ブルーノートの諸作が選んでいたサイズを思い起こさせる。まさしく50年代だ)しかし、圧倒的に美しい『TOUCHES & VELVETS』というアルバムが生まれた。
 『デギュスタシオン・ジャズ』でも充分に発揮されている菊地成孔のプロデューサー的資質は、まず相手の一番はっきりとした、一番良質のヴォイスを聴き取るところから発揮される。これはDCPRGのメンバーのサウンドの対称性(芳垣安洋と藤井信雄のドラムの鳴り方の素晴らしい対比)にも現われているところだが、菊地は相手の言いたい事、その言い方に耳を澄まし、その後、その中からそれまで彼が(彼女が)思っていなかったような響きを取り出してくる。こうした繊細な作業を、膨大なミュージシャンを相手に全面展開させて作りあげた作品こそ、全四十一トラックの『デギュスタシオン』であり、一人のミュージシャンだけに集中させて作りあげたのが全五曲の『TOUCHES & VELVETS』である。
 彼の作品にリスナーは、一緒に音楽を作る為の、誰かと一緒に作業を行う為の、さまざまな可能性の束を見る。相手を受け入れ、こちらも条件を出し、強要され、譲歩し、考え直し、裏をかく。こういった、人間どうしが深く関わる現場で起きるさまざまな事象を、そのまま音楽に出来ることこそ「ジャズ」というジャンルの持つ醍醐味であり、こうした関係性の豊かなヴァリエーションこそ、現在のリスナーが音楽から聴き取るべきものであるようにぼくには思われる。各人ごとにあらためて行われるその果てしない関係構築の作業のなかで、ようやっと譲ったり譲らなかったり出来るようなものではそもそもない、自分ではどうにもしようが無いものが剥き出しになり、そうしたものを互いに認め合うところからミュージシャンは協力をはじめ、作品が生み出される。ボーダレスかつ個人的な作品とは、そのような場所から出来上がってくるものなのだ。
 ミュージシャンとしての立場、プロデューサーとしての立場、レーベル・オーガナイザーとしての立場。イースト・ワークスに所属しているアーティストたちは、このような複数の立場を往復することによって、音楽を重層的に制作する可能性を持っている。ここにある可能性は無尽蔵であり、まだまだ全く発揮されてはいない、とも言えるだろう。
 さて、ぼくは、現在ここで聴くことが出来る作品のあいだに、さらに複数のラインを引くために、この冬一枚のコンピレーション・アルバムをプロデュースすることになっている。そのアルバムに収録されるアーティストの音楽を、殆どの人はまだ一度も耳にしたことがないだろう。未だライブハウスの暗闇の中に留まっている彼らの音楽を、アルバムという形に載せて複線化すること。彼らのトラックと、今まで出ているアルバムとのあいだに言語による批評で配線を行い、そこでバチっと火花を飛ばさせること。プロデューサー/批評家としてのぼくの役割はそうしたものだ。現在、各グループは録音に入っている。全八グループ収録予定のそのコンピレーション・アルバムに期待していて欲しい。
 
 
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●3月20日

 

<イントキシケイト2004?>
 
Gnu   明確な意志に支えられた、異形のグルーヴ・ミュージック
 
 
 日本人のリズム咀嚼力は、ダンス・ミュージックのデジタル化が完璧にまで進んだ90年代を通過して、どのくらいアップしたのか? ということについては、夏まゆみ先生による新しいラジオ体操の振り付けを国民全員で踊ってみなければ判断出来ない問題だが、現在の耳でもって、例えば過去に「フリージャズ」と呼ばれてきたような音楽を聴きなおしてみると、一定のリズム・パターンを刻まないドラミング、という括りでこれまで一緒くたに考えていたものが、そのアプローチの異なりによって大きく二つに分かれて聴こえることに気が付く。一方は、最近ではティム・バーンズやスティーヴン・フリンらに代表される、フレーズ毎に基本拍をリセットし、サウンドの屈曲率を点滅的に変化させることでリズム・フィールドを拡散させてゆくスタイル。もう一方は、曲中ずっと基礎となる拍をキープしながら、それを自由に分割・レイヤーすることによって複雑なリズム空間を作り出す、ラシッド・アリからチャド・テイラーまでつながる演奏スタイルだ。この二つの奏法が寄って立つ世界観をそれぞれ敷衍していくと、片方は、演奏される音と音との間からビートを剥ぎ取り、如何にして各音をそれぞれ自律した響きとして聴かせるか? と云った現在即興演奏の最前衛において探求されている問題につながり、片方は、世界の中からどのようにビートを切り出し、あらたなグルーヴを作り出すか? と云うブレイクビーツの実践にまで結びついてゆく。ヨーロッパとアフリカが混交して生まれた20世紀のアメリカ音楽からは、こうした両極端とも云える音楽の可能性を同時に引き出してくることが出来る訳だけれども、ひとつの音楽の中に混在しているこのような質の異なりを切り分け、それぞれを遥か遠くまで推し進めて、適切なフォームをそこにあらたに発見することは、やはり容易ではないことだ。
 大蔵雅彦は、現在最も厳密、複雑かつユーモラスなかたちで、音楽にあらたな曲がり角を曲がらせ続けているミュージシャンである。90年代を通して、大蔵は自身が行うことの出来る作業と、20世紀音楽の中から聴き取った本質との関係を徐々に磨き続け、ここ数年、アルト・サキソフォン/バス・クラリネット/ベース・チューブといった管楽器を使った即興演奏と、シーケンサーによって隅々まで完全に作曲されたバンド・アンサンブル作品と云う、対照的な二つのフォームで際立った成果を挙げることに成功している。大蔵のリーダー・バンドGnuの新作、『Suro』は、前述の分類で云うならば後者、きわめてアフリカ的なリズム・フィーリングの中で、ツイン・ドラムスのアクセントをずらし、サックスとキーボードに対位法を演奏させ、ベースの反復ポイントを変え、ブレイクを織り込み、グルーヴ・ミュージックの世界を自覚的に拡大しようと試みた傑作である。骨折しかねないほど沢山の仕掛けに充たされた大蔵の作曲は、P-FUNKのようにプログレッシヴで、伊福部昭のようにスケールが大きく、ムーンドッグのようにリリカルだ。そうした楽曲群をキャプテン・ビーフハートと彼のマジック・バンド並に鉄壁なアンサンブルで聴かせるのだからGnuのライブは堪らないが、幾ら曲が複雑になっても開放的に踊ることが出来るのは、『ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ』というポイントを大蔵が決して外しはしないからだろう。一点を揺るぎなく押さえ、そこから複雑な構造を再展開してゆく。こうした大蔵のダイナミズムを是非ともアルバムとライブで経験してみて欲しいと思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月19日

 

<Improvised Music From Japan2005>
 
★『futatsu』(w500)
 
 
 このアルバムの成り立ちについては本誌掲載のインタビューを参照してもらうこととして、早速杉本とラドゥがここで試みていることの分析に入りたい。
 ぼくたちは日常、時間を循環するものとして認識している。60分で1時間、24時間で1日、約30日で1カ月、と、さまざまなループによってぼくたちは予め時間を分節しておき、その中に自分の行為や認識を位置付けてゆく。音楽を聴取する際、ぼくたちは一旦こうした生活の基礎となるリズムからは離れるが、その代わりとなる循環の単位をいま聴こえているものの中にすかさず探し出そうとする。杉本とラドゥは、このアルバムにおいて、循環を見つけることで時間=音楽を安全に処理しようとするぼくたちの振る舞いを決定的に拒もうとしている。デジタルに作られた完璧な静寂の中に、杉本とラドゥは「いまここで弾く」、という意志がはっきりと伝わる明確なトーンで音を配置してゆく。ぼくたちはその音を辿りながら、その前後にある沈黙とともに、何とか曲を構造化するための繰り返しの単位を見つけようとするが、それはCD一枚の再生が終わるまであらわれることがない。つまり、ぼくたちは70分強の時間を、循環を拒む「いまここ」にしかない時間の流れとして経験することになる。この経験から得ることの出来る衝撃はおそろしく大きい。完全即興による一回性の音楽とこれはどのように異なるのか、また、微細な反復によって時間をサスペンドするミニマリストたちとどこまで異なっているのか、などさまざまな考えがここから浮かんでくるが、まずはここまで。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月18日

 

<掲載誌不明。イントキシケイト?>
 
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就寝のちいさな儀式
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長くにわたって、私は、はやくから床に就いたものだった……。巴里のある娼婦は、このような書き出しからはじまる小説を抱えて、1ヶ月間、高級ホテルのスウィート・ルームに泊り込み、うとうととベッドの上でそれを読みふける楽しみのために、残りの一年商売に精を出している、という。この話の真偽はわからないが、これはコルク張りの部屋の中で、強度の喘息に悩みながらその大長編小説を執筆し続けた作者に相応しいエピソードであることは確かだろう。こうした儀式性とは、ぼくは普段は相当に縁遠い人間であるのだが、ピアニスト・南博の新作『Touches&Velvets (Quiet Dream)』は、深夜ベッドに入り、ようやっとぎりぎり眠ることが出来そうになった瞬間、最後に耳に触れさせておく音楽として、ここ数日間ぼくの寝室に常備されている。このアルバムを製作したプロデューサー・菊地成孔は常々、「自分の作る作品の機能性に関しては自信がある」と述べており、ぼくは彼とは主に著述仕事で共同戦線を張っているので、身内褒めみたいになって少し遠慮したいんだが、これは本当に覿面だ。一杯のアンティカ・フォーミュラ、または、極上の生チョコの一欠片を口にした時に匹敵するような快楽が、部屋の照明を落して、ベッドに横になったまま、一曲目の『B Minor Waltz』(B.Evansの隠れた名曲だ)が再生される度に蘇り、南博のピアノと中島信行のアレンジによるストリングの絡み具合に陶然としているうちに、やがて眠りがやってくる。毎晩繰り返される僅か三〇分の入眠のための儀式は、はじめて2週間ほど経つが、いまのところまだその効果を失っていない。
 ジャズという音楽の中には公爵がいて、伯爵がいて、王がいる。これはアメリカが建国当時から王と貴族を持たない初めての国家であったことと裏表の関係にあるのだが、貴族や王族といった階級の特徴は、天皇一家を見ていれば分かると思うが、その極端な儀式性・形式性にある。儀式とは平らに拡がってゆく時間と空間を分節して、そこに意味を与えてゆく行為であり、生まれること、死ぬこと、食べること、眠ること、こうしたぼくたちの行為のひとつひとつは、それに付帯させる儀式によって人間的な意味の中に回収されてゆく。特権階級の存在はそうした「意味」を支えるためにあった訳だが、現代に暮らしている人間は、さまざまな事情により、こうした領域に接触する回路をなかなか開くことが出来ないことが多いようだ。二〇世紀のアメリカに「デューク」や「カウント」があらわれ、それがみな黒人でジャズ・ミュージシャンであった、という事実は、ぼくたちに、音楽と儀式と社会的階級に関するさまざまな知識を与えてくれる。彼らが活躍したニュー・ヨークという街は、セントラル・パークで国のために象徴が生活させられている現在のトーキョーよりも、まず間違いなく自分自身で自分の生活を儀式化・形式化していかなくてはならない場所であっただろう。そうした場所で必要とされる音楽こそがジャズという名前を持った訳だが、菊地成孔と南博が全面的に手を組んだこの作品、『Touches&Velvets (Quiet Dream)』が、就寝という儀式の重要性を高める為に作られているのは、彼らがこの都市での生活に何が足りないのかを切なくなる程の深さで理解しているからに他ならないだろう。是非とも、僅か五曲、三〇分余り(これは1950年代前半、多くのレコード会社が選択した33・3回転/10インチというメディアのプレイ・タイムだ)の時間の中に織り込まれた、二〇世紀の一〇〇年間が産んだ最高の知恵と技術に耳を傾け、それを所有できる悦びに浸って欲しいと思う。菊地による膨大なプロダクション・ノートも必読。
 菊地成孔率いるデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの新作『Stayin' Alive / FAME / Pan American Beef Stake Art Federation 2』は、DCPRGの新しい目玉である絶妙に不響和なホーン・アレンジによって、ラヴとセックスの為のダンス・クラシックス(『Stayin' Alive』 )と、ギラギラ光るニュー・ウェーヴ・ディスコ(『FAME』)を苦く取り込んだ、バンドの実力を示す一枚。『PABSAF2』(と略すよ)は、静かで幸福な夢を見るためには、黒いユーモアに充たされたこの悪夢のような日常を乗り越えなくちゃね、とでもいうかのような、不条理感覚溢れたコラージュ作品である。ぼくはまだ聴いていないのだけれど、『デギュスタシオン・ア・ジャズ』のコースを変更し、お値段も少しだけ割安にして、曲間をもうすこしゆったりとって食事とワインを楽しめるようにした『デギュスタシオン・ア・ジャズ・オタンティーク/ブリュ』も、こうしたぼくたちの日常に対して、実に象徴的かつ機能的に働きかけるサウンドになっているのは間違いないだろう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月17日

 

<学研200CDジャズ入門>
 
●歴史コラム
 
<バンド・スタイルの変遷から見るジャズ史>
 
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1.ニューオリンズから各地へ 
 
 現在「ジャズ」と呼ばれている音楽は、十九世紀の終わりから二〇世紀初頭にかけてのアメリカ・ニューオリンズのストリートで演奏されていたバンドのサウンドにその起源が求められる。と、ジャズの歴史について語っているさまざまな本に当たると、大体はそのように書かれてある。スペイン、フランス、イギリスと統治者が代わった後にアメリカ合衆国の領土となったニューオリンズは、アメリカ南部とカリブ海世界の接点として、また、世界中から物資が集められる国際的な貿易港として、この時期、殆ど「世界の縮図」を思わせる様な混血的な文化を育んでいた。ヨーロッパ各国からの移民、奴隷として連れて来られた黒人、そしてその混血であり、二〇世紀直前まで白人種と同等の権利が認められていたクリオールらが入り混じって、ニューオリンズのストリートでは相当にさまざまな音楽が奏でられていたようだ。そうした街頭の音楽の中でも独特だったのは、何本かの管楽器で即興的にアンサンブルしながら練り歩く黒人のブラス・バンドで、十九世紀のダンス・ミュージックとして一般的だったワルツやマズルカ、ポルカのリズム、その頃流行しはじめていたラグタイムのビート感、南米のカリプソ、世界各国の民謡などが彼らの音楽の中には溶け込んでおり、こうした港町独特の国際性が以後複雑な発展を遂げる「ジャズ」という音楽の心棒となったのは間違いないことだろう。残念な事に、この時代はまだ録音・再生技術が充分に発展していなかったので、ニューオリンズのストリートに響いていたインターナショナルな演奏の記録そのものは残されていない。ミュージシャン同士の自発的・即興的なやりとりを中心においたニューオリンズ・スタイル(というよりも、モダン・ジャズにつながる全てのジャズ・ミュージック)は譜面に書き記すことが不可能であったため、それがどのようなものであったのかを探るには録音に頼る他ない。だが、このあたりが多少複雑な所なのだが、現在ぼくたちが聴くことの出来る最古の「ジャズ」の録音は、ニューオリンズのストリート・ミュージックが衰退を始めた後、第一次大戦への参戦決定でニューオリンズの公娼街が閉鎖され(余談になるが、アメリカの歴史の中で公娼が認められていた街はこの時期のニューオリンズが唯一、最初で最後である)、シカゴなどに巡業に出るしか無くなったミュージシャンたちによって、アメリカ北部の工業都市へとその音楽が運ばれた後に吹き込まれたものである、ということだ。シカゴなどの大都市では、ニューオリンズから来たミュージシャンの音楽スタイルは熱狂的な地元の白人たちの手によってあっという間にコピーされ、禁酒法時代(一九二〇~一九三三)には既にバンド編成も様式化されて、現在「ディキシー」と呼ばれている音楽のモデルは、この時代に定着したスピーク・イージー用の小規模なダンス・ミュージック・バンド――フロントにクラリネット、コルネット、トロンボーン各一本づつ、リズム・セクションとしてピアノ、バンジョー(またはギター)、ベース、ドラムス――に拠っている。このサウンドがニューオリンズの街頭で響いていたものと、例えば『ベスト・オブ・ディキシーランド』(ルイ・アームストロング verveUCCV-4015)での演奏はすでにどの程度ショーアップされたものなのか、ということについては推測するしかないのだが、いずれにしろ、ジェリー・ロール・モートン、キング・オリヴァー、フレディ・ケパード、ジョニー・ドッズ、ルイ・アームストロングなど、ニューオリンズから出てさまざまな都市で巡業を続けたミュージシャンたちは、小規模編成によるそのホットな即興性でアメリカ各地に大影響を与え――例えばニューヨークでは、その頃大流行していたストライド・ピアノ奏法と結びついて高度に編曲されたジャズ・オーケストラを生み出し、カンサスではブルーズの伝統を強く注入され、リフレインを中心としたハードなダンス・ミュージックに発展する、といった具合に――アメリカのポピュラー音楽を、もはや後戻り不可能なほどはっきりと変えてしまったのだった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月16日

 

<FADER2004?>
 
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BOOKコラム 大谷能生
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"文房具を買いに" 片岡義男 (東京書籍)
 
 
 片岡義男という作家について、ぼくは1998年に出版された『音楽を聴く』(東京書籍)という本を読むまで、何も知らなかったと言っていい。いや、もちろんその名前は、80年代の前半に突然(と当時は感じた)書店の棚にずらっと並びはじめた角川文庫の赤い背表紙とともに記憶していたし、『メイン・テーマ』や『ボビーに首ったけ』といった映画の原作、ということで、家においてあった短編集を何冊かは読んでいるはずだ。バイクやサーフィンをモチーフにした、センテンスの短い会話が多用される恋愛小説、という感想をその時ぼくは持ったはずで、つまり、インドア志向の中学生だった当事の自分とは関係ない世界を描く作家、ってことで、その後彼の本を手に取る事はなくなった。そして、それから20年近くたち、仕事の関係で偶々読むことになった『音楽を聴く』の面白さに、ああこの人はこういう作家だったのだな、と蒙を啓かれた訳なのだった。『音楽を聴く』、その続編の『音楽を聴く2』、また、ヴィデオを見てひたすらその画面の推移を描写してゆく『映画を書く』(文藝春秋)など、90年代後半に片岡義男がまとめた幾つかのエッセイ集の特徴は、いま手元にあって見えているもの、聴こえているものを、出来るだけ正確に語ってゆこうとする、その律儀なまでの描写のスタイルにある。例えば彼はグレン・ミラーの作った音楽について、『グレン・ミラー ア・メモリアル』というCDを手がかりにしながら、そのCDはどのようにまとめられたのか、グレン・ミラーが活躍した時代はいつか、そしてそれはどういった時代だったのか、戦後自分が『グレン・ミラー物語』という映画を見たときどうだったのか、といったように、それを成り立たせている物事の全領域にむかって漸次的に筆を進めていく。カヴァーする領域が大きければそれだけ積み重ねられる文章は多くなり、音楽を聴いている現在から近過去、遠過去と時間を何度も往復しながら、データと分析が記されてゆく。当然、簡単な結論など出やしないが、こうした書き方は、現在の時間に過去が重ねられてゆく「音楽」の体験を描写するのに相応しいものだと思う。
 去年の夏に出た『文房具を買いに』は、彼が普段使っている文房具を自分で写真に撮り、その文房具がどういうものであるのか、写真はどのように撮ったのか、について書いた本である。他愛もない、それだけに美しい本で、モールスキンの手帳、ステイプラー、封筒、押しピンなどさまざまな文房具が、それをどのように見つけて、いまどのように使っており、レンズや陽射しの角度などどういった条件のもとで写真に収めたのか、という文章とともに、見事なカラー写真に写し取られている。ここでの彼の描写は、書くことに関わる小さなアイテムに徹底して向けられており、掌の中にある自分のお気に入りの物体を定着させる楽しさに彼が熱中している様子が文体そのものから感じられ、微笑ましい。こうした文章が恋愛という物語にどのようなかたちを与えているのか、これからぼくはあらためて彼の小説を読んでみるつもりだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月15日

 

<ライナーノーツ、2003?>
 
 
Denman Maroney / Hans Tammen 『Billabong』
 
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 自分が出したい音を楽器から引き出せるようになるためには、もちろんそれ相当の修練と集中力が必要な訳だけれど、これから生まれる音楽のデティールが予め描かれてはいない即興演奏の演奏現場においては、それプラス、その場で起きている現象をなるべく多くの方向へと開いてゆくような、まだ溝付けの済んでいない、十分にゆるめられた耳と思考の働きも必要となってくる。集中と拡散、緊張と弛緩、認識することと意識から取り溢したままでいること……こういった正反対な作業を同時におこなってゆかなくてはならないのだから、実際これは非常に難しいことで、即興演奏を聴くこと、試みることの魅力のひとつは、このような両義的な状態を持続させるなかで、音や行為の意味がかたちを変えていくことにあるように思う。
 指先を緊張させながら、鼓膜は脱力させておくこと。こうした作業のための具体的なメソッドは、各ミュージシャンがそれぞれ自分にあったやりかたで作り上げていることだろう。そのなかでも、非常に有効かつ即効性がある方法のひとつとして、行為と発音とのあいだになんらかの回路を挟みこむ事によって、そこに時間的/空間的距離を導き入れるというやりかたがある。手の動きによって作られた音が耳にたどり着くまでの距離を引き伸ばす事によって、そのあいだに一旦リラクゼーションの姿勢を用意することが出来るという訳だけれど、音が辿る回路のありようによっては、そこには演奏者が予想もしていなかったようなサウンドが介入してくる可能性も存在している。そもそも、レコード盤の上に音を刻み込み、それを再生して聴くという音楽の立ち上げシステム自体が、音と距離を取るためのひとつの方法であって、ぼくたちは二十世紀の百年間、そうした回路によって何重にも引き伸ばされた音楽のなかで生活してきたともいえるだろう。
 このアルバムには、さまざまな回路や道具を介在させることで、現在ひろく流通しているやり方とはすこし異なった形に拡張(あるいは、限定)された楽器を使ったデュオ演奏が収められている。Denman Maroney が弾くのは「hyperpiano」で、Hans Tammen は「endangered guitar」を演奏する。超ピアノと危機に瀕したギターによるデュオという訳で、この名前付けが極めてシリアスな意図をもっておこなわれているのか、それとも単なる思い付きなのかは判断出来かねるが、hyperpianoという字面はキュートだし、endangered という言葉からはPARLAMENTの「BOP GUN(ENDANGERED SPECIES)」を思わず連想してしまい、実際、決してラウダーにならない、乾いたギターから感じる痙攣気味の瀕死感は、ローレンス・マザケイン・コナーズにも一脈通じるユーモラスな「弱さ」があるように思う。2~8チャンネルの独立したデバイスにギターの音を通す事でサウンドを作っているらしいのだが、ディレイなどでフレーズを重ねて空間を埋めたり、エフェクターでトーンの色彩感を変化させたりといったはっきりとわかる効果は殆どおこなわず、拡張よりもむしろ縮小、削除、衰弱、消尽といった方向から、演奏へむかう想像力を得ているような緊縛感がここにはある。一方、Maroney は、金属棒やアルミ製のサラダボウル、ゴム製のブロックやカセットテープ・ケースなどを使って弦をプリペアドし、時には弓を使用した内部奏法も使って、ピアノから多彩な音を引き出している。鍵盤を弾きながらピンポン玉や発泡スチロール片をピアノの中に投げ入れ、ハンマーが弦を打つたびにそれらが跳ね上がって時にはピアノの外に飛び出す、という見た目にも相当面白い演奏を寶示戸亮二氏がやっているのを見た事があるのだけれど、ピアノという大きな楽器は部分部分によって響きの形が随分違うだろうから、Maroney の演奏も是非とも目の前でその鳴りを体験してみたいところだ。ピアノのプリペアド&内部奏法はもっとポピュラーになってもいいと思うが、いまいち見る機会が少ないのはおそらく、演奏で使われるピアノは殆どレンタルの、みんなで使う共有物だから、他人のてまえ思わず遠慮してしまう、という単純なことなのだろう。ピアニストはもっと勇気を出して、自身の衝動の赴くままに積極的にピアノの中に手を突っ込んで欲しいと思う。
 電気的なプロセスとアコースティックなプロセスとの違いはあれ、大胆に変形を加えられた弦楽器=弦打楽器の音色は、このアルバムでは時にはどれがどちらの音か判断がつかないほど複雑に溶け合い(特に、伝統的なサウンドから力を借りながら、最後には調性音楽から随分遠く離れたところまで進んでゆく8曲目は聴き応えたっぷりだ)、スピーカーの向こう側に広がっている空間に対するこちらのイマジネーションに揺さぶりをかけてくれる。そして、おそらくこれは、演奏後にこの録音をプレイバックして、「なんだこりゃ、これはどっちの音なんだ」と思って苦笑いをしたであろう、演奏者ふたりの経験と、それほど遠くないところにあるものだ。
 ぼくたちは即興演奏の録音を聴く時、レコードという窓をとおしてあちらに広がっている空間を想像力で補い、そこにいま自分のなかを流れているようなリニアな時間を想定して彼らの行為を聴き取っていくが、このアルバムで聴く事が出来るような演奏は、音とその発生源をヴィジュアル的に結びつけて想像することが極めて難しい。こうした即興演奏は、ぼくたちが録音物を聴くときにおこなっているだろうさまざまな補完のシステムに、ぼくたちの意識を改めて向かわせてくれるだろう。音と音楽、演奏と非演奏を区別する事がむつかしいこうした録音物を聴き、拡張された素材を使った即興演奏のアンサンブルを分析しながら、同時に、それがこうして自分の部屋に届けられ、まがりなにりも聴かれてしまうという事態が持っている可能性について、集中と脱力とのあいだを反復しながら、ぼくはしばらく考えることが出来た。いいアルバムだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月14日

 

<イントキシケイト、2004?>
 
 
藤原大輔 「Jazzic Anomaly」インタビュー
 
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初リーダー・アルバム「白と黒にある4つの色」をリリースした後、アンダーグラウンド・レジスタンス陣との競演や、濱村昌子(pf)、井野信義(bass)、つの犬(ds)という強力なメンバーを率いたアコースティック・セッション・シリーズなど、快調に活動を続けてきた藤原大輔が、7月10日に二枚目のリーダー・アルバムを発表する。前作同様、ボストン時代からの盟友であるミヤモト・タカナ(piano,keys)とトリヤマ・タケアキ(drums,per)を迎えて作られたそのアルバム――「Jazzic Anomaly」の中には、これまで彼が自分の音楽に取り込んできたさまざまな要素――リズム・マシーンによる打ち込みのバック・トラック、モーダルな和声の感覚、そして勿論、個性的なサクソフォン・サウンドと即興演奏――が、きわめて有機的な形で含まれている。
「今回のアルバムは、ボストン時代にミヤモトとトリヤマとでやっていたことと、それ以後、例えばAupeってユニットで昨年から試みているリズムとグルーヴの実験や、エレクトロニクスでやってきたことなんかを全部ミックスさせて、いま藤原大輔がやっている音楽の集大成的なものが作りたい、と。そういう意図でスタートしました。あと、去年アルバムを作った後このメンバーでツアーをして、その時にもっと色々なイメージというか、彼らをこういった舞台の上に乗せたら凄く似合うだろう、とか、また逆に、僕が用意したシチュエーションでは彼らに思ったようにプレイしてもらえなかったりとか、そういったアイディアとか反省点を元にして作っていますね。」なるほど、今回のキーワードは「映画的なアルバム」ということだが、藤原がレコーディングの際に用意した各曲のバック・トラックは、その中で共演者が自由に振舞い、即興的にセリフをやりとり出来るような舞台装置の役割を担っているのだ。出演者が一番映えるようなロケーションをハンティングし、カメラのアングルを決め、脚本を仕上げる……。「そういう文脈で言うならば、今回のアルバムあまりセリフの指定とか演技の指導とかがない、長回しのカメラの前で各人自然に振舞ってもらう、みたいな感じで、プレイヤーが自分でイメージを膨らませてストーリーを作ってゆくようなやりかたで録音しました。彼等のイマジネーションを出来るだけ邪魔しないように心がけて、例えば、いまのシーンは自分が思ってたイメージとは随分違うことになってるなあ、と思っても、演奏を止めて説明する、みたいなことはやらないで、その場で起きている事を優先させる。そういう時の方がむしろフレッシュなサウンドになって、特にアルバム中のrippleって曲はそういったハプニングが上手く作用していると思います。現場で起きていることを最大限に取り込んでいくってやりかたで、かなりジャズ的な方向だと思うんですが、きちんと演出して、がっちりとしたセリフと舞台を用意して、それを演技してもらう。そうした表現でもミヤモトとトリヤマは素晴らしいんで、そういったものにもチャレンジしてみたいですね。コッポラだって『地獄の黙示録』だけじゃなくて色々な映画を撮っている訳ですし。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月13日

 

<サイトBK1 2001年?>
 
 
●bk1 『日本フリージャズ史』 副島輝人インタビュー
 
 
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 現在から遡ること40年ほどの昔、世界各地で高まっていた政治的運動の波を受けて、日本においてもさまざまな分野で変革を求める動きが激しく燃え上がっていた時代があった。寺山修司による『天井桟敷』、唐十郎による『状況劇場』、赤瀬川原平らによるハプニングス、土方巽によるまったくあたらしい舞踏の創出……。既存の価値観にとらわれない表現が噴出した一九六〇年代、アメリカン・カルチャーの影響をもっとも強く受けながら成立していた「ジャズ」というジャンルの中からも、自分達の真のオリジナリティを求めて、未知の領域へと果敢に踏み出してゆくミュージシャンたちが現われ始めた。日本におけるフリージャズとは、そのような真に個人的な(そしてそれは結局、戦後の日本文化を真に引き受けたものであるはずなのだが)サウンドを探求してきたミュージシャンたちによって作られてきた、ということが、副島輝人氏の『日本フリージャズ史』にははっきりと記されてある。フリージャズ黎明期からつねに演奏の現場に立ってシーンを育ててきた氏の筆によって活写されているジャズメンたちの活動とその不敵な面魂は、その場に立ち会うことが叶わなかった人間にとっても本当に魅力的なものだ。現在でも世界中を飛び回りながらジャズの現場で活躍を続けている副島氏に、この本をまとめるまでのお話などをお伺いした。
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……副島先生は1931年のお生まれということですが、フリージャズに傾倒するまでの音楽遍歴を多少お伺いしたく存じます。まずはじめは、いわゆるモダン・ジャズをお聴きになっていらっしゃったんでしょうか。
 
副島:「終戦の時に14歳だから、僕は戦中派、というか敗戦焼跡派ですね(笑)。戦後すぐはね、ご存知でしょうけれども、アメリカから来る音楽はだいたいみんなジャズって名前で呼ばれてたんですね。実際はジャズ・ソング、甘味の強いジャズ風の小唄が多くて、また一方ではカウント・ベイシーやエリントンもあったから、いま思うとそういうものを全部ひっくるめてジャズって呼んでいたわけです。僕もラジオから流れてくるそういった音楽をよく聴いていました。で、ところがね、一九五〇年代にはコーヒー文化、喫茶店文化というものがありまして、銀座を中心にして有名な喫茶店が何軒かあって、そこに文人論客たちが集まって、ある人は新聞を読んでる、ある人は原稿を書いている、ある人は議論を交わしている、そういった状況があった訳ですね。僕もその頃は映画の批評をやろうと思っていたから、映画会社でプログラム・パンフレットを作って映画館に配る仕事をする傍らそういった喫茶店に出入りしていたんですよ。そういった喫茶店の中に、ジャズのLPを専門にかけるいわゆるジャズ喫茶もありまして、そうしてある時、有楽町の駅前に出来たあたらしい小さなジャズ喫茶店に入りましたら、異様な音楽が耳にガーンと入ってきた。これはなんだ? って。とにかく、ラジオでいままで聴いていたような音楽とは全然違うんです。それがモダン・ジャズとの出会いでした。なにがその時かかっていたのかは今でも覚えていまして、ジェリー・マリガンとチェット・ベイカーのカルテットなんです(笑)。それを聴いて、その次にバド・パウエルがかかって、その次がホレス・シルバーだったんですが、その時はもう何がなんだか分からないくらい興奮して、混乱してしまったんですが、分からないなりにこの名前は覚えておかなくちゃって必死に覚えたんでしょうね。これはただ事ではないって、そのあと帰って同僚なんかに、おまえ凄い音楽があるぞって吹いて、そのあとは毎日入り浸りですよ(笑)。その頃はLPは高くて、ラジオではかからないようなそういった当時の大前衛はジャズ喫茶に行かなければ聴くことが出来なかった。アメリカからの文化的窓口、蛇口の役割をジャズ喫茶が果たしていたわけです。そうした点がいまとは随分と異なっているところですが、そうやってどんどん聴いていくうちにジャズの魅力がどんどん分かってきて……そのまま自然に前衛を追いかけていって、フリージャズにのめりこんでいった、という感じですね。」
 
……なるほど。そうしてその後、60年代の後半からフリージャズの現場で批評やプロデュースなどの活躍をされる訳ですが、副島先生が関わったそうしたムーブメントをこのように本としてまとめるという企画はいつごろから出ていたのでしょうか。
 
副島:「二年くらい前からですかね。実はこの本を書く前に、他の出版社さんからの話で『日本のジャズ史』をまとめてみないかと依頼されたことがあったんです。それでその企画もすこし進めたんですけど、僕はどうしても現場派だから、やっぱり自分で見ている話を書きたいんですよ。戦後直ぐなんてもの凄い面白い話が一杯あるんですけど、自分で見ていないことはどうしても書きにくくて……。それで、その話は一端取り下げて貰ったんですが、そうしたところ、今度はフリージャズの話を書いて欲しいという依頼がありまして。まあ、結果的にフリージャズだけでもこんなヴォリュームになってしまいましたので(笑)、分けてよかったのかもしれませんね。」
 
……フリージャズという音楽に興味を持ったとしても、いままでは資料がまとめられていなかったり、音源が少なかったりと、なかなか取り掛かるきっかけが掴めなかった人が多かったのではないかと思います。このように歴史的にきちんとまとめていただいた事で、これからようやっと「日本のフリージャズ」とはなんだったのか、と皆でその特質や成果を考え始めることが出来るようになったのでは、と思います。
 
副島:「そうですね。あのー、でも、後書きでもちらっと書いたんですが、僕はいま現在起きていることに、いまでも一番関心があるんですね。昔のことよりもいま目の前で起きていることの方がよっぽど面白い。いまこういうことが起きている、だから、明日はこういうことが起こるかもしれない、そういうことに興味を持ったままずっと来ている訳で、だから最初はこんな本を書いて「フリージャズ」を歴史としてまとめてしまうことにはちょっと抵抗があったんです。ただね、最近海外でも日本のこういったシーンに興味を持って研究をはじめている人が出てきて、それはいいことだと勿論思うんだけど、日本にちらっと来て適当に何人かにインタビューして、それであっち帰って歴史的に間違った論文を書かれたらどうします? って編集者の人に言われたんですね。そりゃ困るよ、って答えたら、じゃあ副島さんがこのあたりできちんとまとめておかなくてはなりませんね、って痛いところをつかれまして(笑)。それで書くことに決めたんですが、それと、いままでに書かれてこなかった、記事として取り上げられることの比較的少なかったミュージシャンのことを出来るだけきちんと文章にして起きたかったという動機がありました。代表的な音源すら今では手に入らなかったり、そもそもレコードに収まりきらない表現を行って日本のフリー・ジャズを活発にしてきたミュージシャンたちもたくさんいる訳で、そうした人たちを過去の霧の彼方に消えさせてしまうわけにはいかないだろう、と。そういったバランス感覚のなかでこの本はまとめられていますね。」
 
……この本のなかには、戦後の日本で音楽活動を行うとはどういうことなのか、といった根源的な疑問からジャズへ取り組んだ人たちの姿がとても生き生きと描かれているように思います。また、フリージャズと一口にいっても、各ミュージシャンがやっていることは随分と異なっている訳で、このようにして歴史の中に描かれた後にようやっと各人の音楽性を考えることが出来る、そうした研究のきっかけが『日本フリージャズ史』によってようやっと用意されたのではないか、と思います。
 
副島:「じゃあ、この本を書いたかいがありましたね。現在ではジャズにおいても、個々人の表現と云うことで、演奏のなかにフリージャズ風のところがあったり、それ以前のモダンなサウンドがあったりとか、一曲のなかでもさまざまな姿を見せる演奏も多いですよね。そういう意味では昔の、きっちりセクトというか区分があったころのフリージャズというのはもう通過されてしまっていると思う。でも、そういったものがどこに出生を持つのか、ということを考えるのは、そういった表現がこれからどこへ行くのか、ということを捕える際に重要になってくることだと思います。この本は歴史の本ですけれど、いま行われている音楽に幾らかでも反響を与えることができたら素晴らしいことですね。」
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●3月12日

 

<2002年、エスプレッソ11号>
 
■「Guitarist Gathering」巻頭文
大谷能生
 
 「……サリー・アート・スクール・シーン出身の固い絆で結ばれたR&Bファンによって結成されたヤードバーズは、最も有名なイギリスのギター・ヒーローを3人輩出した。つまり、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジである。当時クラプトンは、ヤードバーズがポップへ傾いたことに不満を持ち、脱退してジョン・メイオール・アンド・ブルースブレーカーズへ移り、リード・ギタリストの役割を定義し直すことに一役買うことになる。彼はまた、当時すでに時代遅れだったギブソンのレスポール・サンバーストとマーシャルの45wの1962年モデル・コンボ・アンプとを組み合わせ、ギブソンのパワフルなハムバッキング・ピックアップを使うと、マーシャルがオーヴァードライブ状態になり、クリーミーでサステインの効いたサウンドを生み出すということを証明してみせるといった、ロック・ギターのサウンドに革命をもたらしている。……次はジミ・ヘンドリックスの番である。彼は当初アメリカ製のチトリン回路を直接用いて、ブルースの伝統を学んでいたが、その後、クラプトンによって築き上げられた、ロック・ギターにとって最も効果的で明確なヴォキャブラリーを生み出すマーシャル・サウンドを足場とした。ヘンドリックスは、実際、標準仕様のストラトキャスターの全機能をフルに活用して―――ヴィブラートをかけたり、規則正しいリズム・サウンドを得るのにピックアップのスイッチをイン・ビトウィンにセットしたり、あるいは、典型的なディストーションを得るために出力を最大限に上げたりしながら―――あの先見の明があると称されていたレオ・フェンダーですら、恐らく想像さえつかなかったサウンドを作り出したのである……。」(『ロック・マシーン・クロニクル』 シンコー・ミュージック出版 p19)
 
 
 本特集のタイトルである「Guitarist Gathering」という言葉は、2002年の1月17日、西麻布のBULETT'Sにおいて行われた本特集の先行イベント、「short.homeroom+NO BLEND /Guitarist Gathering 2002 issue」のWebフライヤーにおいても書いたとおり、1992年の冬に(旧)新宿ピットインで行われたライブのタイトルから頂いて来たものである。10年の歳月を隔てたこの二つのイベントには、ギタリストに焦点を当ててライブが組み立てられていると云った点を除けば、その規模から出演者の顔ぶれにいたるまで全く関連はなく、実際、当日BULETT'Sを訪れた20名ほどの観客のなかで昔日のことを記憶している人間は、おそらく0名であったのではないかと思う。時間の都合でフライヤー入稿に間に合わず、Web上で限定公開されただけであるそのイベントの宣言文をここに再録して、もう一度このイベント/この特集の基点を確認しておきたいと思う。
 
 「いまから10年前の1992年、移転・改装を目前に控えた(旧)新宿ピットインにおいて、『ギタリスト・ギャザリング』と題されたライブが行われたことがあった。
 ガイ・クルゼヴィッツ率いる『ポルカしかないぜ』バンドのギタリストとして来日し、滞在中日本のミュージシャンとも積極的にセッションを繰りひろげていたジョン・キングを中心として、ドラムスに佐野康夫、ベースに坂出雅海(ヒカシュー)、サックスに(急逝した篠田昌巳の代わりに)野本和浩、という面子がバッキングを勤めたそのステージには、総勢10名のギタリストが出演し、それぞれ互いのサウンドに影響を受けあいながら、同じ空間と時間の中で演奏を行った……。(ゴメン! 紙幅の都合で特集の最後のページに続きます。とりあえず、このまま特集のインタビュー記事へどうぞ!)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月11日

 

<学研200CDジャズ入門>
 
2.スウィング・ジェネレーション
 
 
 ニューオリンズからやって来たミュージシャンたちに生気を与えられたアメリカ各地のバンドマンは、肌の色を問わず、みな一斉にそのスタイルを自身の音楽性の中に取り入れようと試みはじめ、特に「ローリング・二〇'S」の好景気とハーレム・ルネッサンスに沸くニューヨークでは、星の数ほどあったモグリ酒場とホテルのボールルームを舞台に、さまざまバンドが互いに研究しあい、腕を競い合っていった。高度なクラシック教育を受け、白人ダンス教室のピアノ伴奏やレッスンを請け負っていたジェイムス・P・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミスといったストライド・ピアニストをボスとして持っていたニューヨークのミュージシャンたちは、ニューオリンズ的なホットさを保ちながらバンドに和声的繊細さを導入し、巨大なボールルームでも充分に見栄えがする大編成のバンドを組織することに取り組んだ。二〇年代を代表するバンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(彼の活動をまとめたアルバムとして『ケン・バーンズ・ジャズ~20世紀のジャズの宝物』 (SME SRCS-9650)を挙げておく)およびデューク・エリントン楽団に務めたレックス・スチュワートは、著書『ジャズ一九三〇年代』(草思社)において、当時の雰囲気を良く伝える以下ようなエピソードを語っている。『トーマス・”ファッツ”・ウォーラーは、他の第一線級ピアニストたちとはちょっと違う場所に立っていた。ピアノをひとつのオーケストラとして捉えていたのである。パーティや社交的な集まりでは、ラグやストンプやブルースを他人と変わりなく弾いたが、それは彼の一面にすぎなかった。しばしばカフェのピアノで、考えかんがえ和音をたたき、「いまのがサックス・セクション……そこへ今度はブラスが入ってくる」などと、聴き惚れている仲間たちに説明したものだった。ウォーラーはいつでも曲のなかに色彩豊かなサウンドを織り込もうと苦心していた。』彼らは三官のフロントを最大八人編成にまで拡大し(tp二本、tb二本、saxおよびcl四本など)、自由自在にソリストとバックの音色を組み合わせ、バネの効いたダンス・サウンドの中に当時流行していた全てのポピュラー音楽を溶け込ませて演奏出来るジャズ・オーケストラを作り出した。折からのラジオ・ブームも手伝って、彼らのサウンドは全国に大きな影響を与えてゆくことになる。
 が、ここで大恐慌が起こる。一九三〇年から一九三四年まで続く大不況時代、人々に好まれたのは「スウィート・スタイル」と呼ばれる甘く緩やかな白人的ポピュラー音楽であり、フレッチャー・ヘンダーソンらが工夫したアンサンブルから「ジャズ」的な要素を脱臭したような白人バンドに押されて、デューク・エリントンやルイ・アームストロングらはしばらくヨーロッパ巡業へと脱出、また多くの黒人ミュージシャンは廃業の憂き目を見ることになる。そうした国内の状況がようやっと回復しはじめた一九三五年、今度はベニー・グッドマンによってあらたに熱狂的なスウィング・ミュージック・ブームが沸き起こる。小気味良いリズム、美しいクラリネットの響き、良く整えられたアレンジ……。これまでさまざまな音楽に大影響を与えながらも、社会的にはアンダーグラウンドに留まっていた「ジャズ」ミュージックは、ここではじめてアメリカのセンター・フィールドに踊り出る。『不況を克服したアメリカ市民は二才の童子から八十才の老人までが、ベニー・グッドマンのスイング・ミュージックに狂喜乱舞したのである。「これこそアメリカの音楽だ!」と彼らは叫んだ。』(油井正一・『ジャズの歴史物語』)。グッドマンに続いてトミー・ドーシー、グレン・グレイ、アーティ・ショウ、グレン・ミラーらのバンドが続々とチャートにヒット曲を送り込むが、黒人「ジャズ」バンドはこれら白人「スウィング」バンドとは異なったものだと思われており(油井正一曰く、『大衆はスイング・ミュージックとは白人がはじめた新しいアメリカの音楽だと思いこんでいたのである。』)こうした流行とは無縁のままであった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月10日

 

<エスプレッソ11号 2002年>
 
■outdoor information 扉文
大谷能生×臼田勤哉
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大谷:こんにちは。今回の巻頭特集は「outdoor information」と云うことで、近年、都内各地に現われ始めたあたらしいかたちのライブの現場をチェックしながら、そういった場所がどのような音楽シーンを生み出しているか、或いは、そのような場所がどういった欲望から生まれているのか、と、まあ、こういったことをレポートしてみたかった訳ですが、取材に回ってから本が出るまで一年以上かかってしまって、そのあいだに「東風」なんか潰れちゃったと云う(笑)。各スペースの方々にはご迷惑&ご心配おかけしてどうもすいませんでした。
 えーと、それで、いわゆるライブ・ハウス以外で行われる音楽の現場って云うと、例えばクラブとかレイブ・パーティーだとか、ダンス方面に特化されたものがまず思い浮かぶ訳ですが、今回取り上げさせて頂いた所はそういった感じとはちょっと違う。ここに何かポイントを設けて、現在の音楽の状況の一側面を浮き彫りに出来たら、と思っていたのですが、インタビューをまとめて読んで、臼田君、まずどんな感想を持ちましたか?
 
臼田:共通しているのは、「ライブハウスでは無い」けれどもライブをやるということなんですよね。なんでそうなったのか、という点についてはそれぞれに違っている点が面白いのですが。まあ、音楽がその場所にあるものとして、そうなったと。で、ダンスミュージックを扱うスタンスも積極的ではなけれども無視するわけでもないと。
 今回、僕はコラムで野田努の「ブラック・マシーン・ミュージック」というダンスミュージックの本について書いたけれど、あれってディスコ-ヒップホップ以降のブラックミュージックの一部としてのデトロイト・テクノのタフな生い立ちを丁寧にまとめた本なんですよね。歴史化したというか。まあ、これらが90年代初頭に日本で流通する際には「未来の音楽」になっていたわけですが。で、outdoorってダンスミュージックというコミュニティミュージック的な側面は無いし、凄腕のプレーヤーがいるわけでもない。これらを纏め上げるような歴史的な流れというのを僕は今のところ想像できない。そういう意味では今のところ「未来の音楽」ですね(笑)。
 
大谷:いやいや、なにか派手な売り文句があれば意外とすぐに大きな流れになって、10年後には一冊の本が書けるくらいになったりして(笑)。そうね、「outdoor」って言葉を今回採用した意味を手短に話しておくと、これはぼくだけかもしれないんだけど、CDを買って帰って家でそれを聴く、って云うリスニングの手続きを相対化したかった訳ですね。ともかくまず外に出て、都会のフィールド・アスレチックのそこかしこで(笑)いろいろな形でリリースされている音楽の姿に触れてみよう、と。勿論、ライブ最高! CDなんてもう古い、みたいな話では全く無くて、音楽が自分の手元までやってくる回路の在り方をいろいろ探ってみる、って感じでした。そのあたりの突っ込みはちょっと足りなくて、もう少しライブ・レポートなんかも含めて丁寧に比較出来れば良かったんだけど……。
 
臼田:うーん。いまごろ思い出したけれどそんな話したかもしれませんね。うまく出ているかはよくわからないのだけれど。いずれにしろ、リスナーとプレーヤー、企画者なんかがすごく接近した位置にあるということは、この数年顕著なことだったと思うのだけれど、そうした傾向のドキュメントとしては楽しめるんじゃないかな?
 まあ、こういうのを歴史化するのは後世の人に託すとして(笑)、ここ数年の東京も相当変なことになっていますし、エスプレッソを家で読んで楽しむのもいいですが、そこかしこに出かけてって、そこで生まれつつある音楽に触れてみてください、っていうまとめでいいですか? テキトーですいませんがそれではスタート。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月9日

 

<エスプレッソ11号 2002年>
■ドキュメント「東風」 開店から閉店まで 扉文
大谷能生
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 「@月@日 吉祥寺のウチの近所になに屋だか分からない怪しい店が出来た。1年前の春だ。入口には謎のオフジェがドンとあって「東風」の文字。週末になると深夜までこうこうと明かりを灯している。出入りしているのが怪しい風体の若い連中ばかりだし、どうもライブをやってるような気配すらある。それに外に漏れ聞こえてくるのはノイズみたいな音だし・・・。で、あんまり気になるんである日看板をちゃんと見てみた、らどうもCD屋らしい。おまけに時々ライブもやっているらしく、スケジュールには敬愛する永田一直や岸野雄一師匠、湯浅学教授の名前まであるでないの。あれれ、遠慮することはねーか。入ってみると、レジにはセクシーな女性が座っていて、しかもインタネのエロサイトを見てるし、その奥ではタオルを頭に巻いたケンカの強そうなあんちゃんがソバをずるずるやってる……」(TOKYO ATOM 2001年6月号、「大友良英のJAMJAM日記」より抜粋)
 吉祥寺駅から歩いてすぐそこの場所に、セレクト・ショップ「東風」は2000年5月から2001年8月まで店を開いていた。こうやって書いてしまうと、本当に短期間しか活動していなかったんだなあー、としみじみ思ってしまうが、その期間にこの店で行われたイベントの数量と濃さはほとんど伝説的なものだ。店長、露骨KITにおこなった閉店前と閉店後のインタビューと、サイトやビラから拾った当時のイベント情報を記載して、飛び抜けて個性的だったこのミニショップがどのように始まりどのように終わったのかを記録しておきたい。みなさんもこの記事を参考にして、どんどんお店をはじめてください。
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●3月8日

 

<図書新聞 2002年?>
 
 
●「ex‐music」/佐々木敦
 
 この本に収められているのは、批評家・佐々木敦が八〇年代の終わりから二〇〇二年までの間に執筆した「音楽」を巡るテキストの数々である。本書を手に取った読者はまず、五〇〇ページを超えるこの本の厚さに、そして頁をめくる度に次々と登場してくるミュージシャンたちの膨大な数に驚かされることになるだろう。実際、佐々木氏が九〇年代におこなってきた批評・紹介・制作活動について、ぼくはある程度の知識を持っていたつもりだったけれども、これほどの数量になっていようとは、装丁担当の佐々木暁氏がディレクションしたカバー写真、『TOWER RECORDS』(というのかどうか、剥き出しのレコードを数百枚積んで円柱にしたもの。素晴らしい!)の圧倒的な迫力とともに、この本は殆ど物質としての存在感を剥き出しにしてこちらに迫ってくるように感じられる。
 ジョン・ゾーン、ハーフ・ジャパニーズ、キャロライナー、JLG、クリスチャン・マークレー、セントリドー、ベック、ジョン・フェイヒイ、ジム・オルーク、ピタ、カールステン・ニコライ、オヴァル、トータス、竹村延和……こんな羅列ではまだまだ足りない、佐々木氏がこれまでに付き合ってきた音楽家とその作品の数々、氏の批評だけが唯一アップ・トウ・デートなインフォメーションだったものも少なくないそれらのアイテムの集積に、ぼくは、その多くにリアルタイムで接してきたリスナーの一人として、一〇数年という時間の厚みを思わず追体験してしまったのだけれども、佐々木氏の批評には本来そういった追憶を喚起するような要素は殆ど(いや、まったくと言っていいほど)存在せず、また、これだけ沢山の文章が集められているにも関わらず、そこになんらかの価値体系を形成しようとする動きも見ることが出来ない。決してスタティックな状態に落ち込むことのない、針を落すたびに何度でもあたらしく立ち上がってくるような軽さ、スピード、即物性。この本の迫力は、細部まで厳密に位置づけられた体系的記述が持つ価値の遠近法の力に由来するのではなく、ひとつひとつの文章に内蔵されているアクションの異なりが、時に相反し、時に折り重なって生み出されるロールオーヴァーな震動・錯乱状態から生まれて来ているのものだと思う。
 普遍からの距離で作品のなかに映りこんでしまっている音や影像を計ることなく、そこにある可能性の異なりを出来るだけばらばらに見つけ出し、それらと個別に関係を結んでゆくこと。――ここには毎月気が遠くなるほどリリースされ続けるレコードの「量」と「速度」から眼を(そして、耳を)逸らさない人間だけが得ることの出来る倫理があり、そうした作業から導き出される確かな批評の方法がある。
 ぼくたちは現在、それが録音されたものならばすべて、楽音や雑音と言った音楽美学的な区別とは無関係に、それらを聴いて楽しもうとする姿勢を用意することが出来るようになっていると思う。ジャンルや音質、歴史的位置付け、楽曲の良さ、商品的完成度云々といったこれまでの価値基準から一旦離れ、まずはそこに映しこまれている音像とその編集に対して耳を澄まそうとすること。こうした試みはおそらく、一九九〇年代の半ばからぼくたちの周りで顕在化しはじめてきたものだ。ほんの数年前の出来事なので、その契機を正確に分析することはまだ難しいけれども、大型レコード店の売り場を――インポート、リイシュー、インディーズその他のアイテムが見渡す限り並べられている広大なビルのフロアーを彷徨ったことがある人間ならば、時折目の前の棚からぼんやりと顔を上げて、これらのレコードたちに共通してあるものは何なのか、そしてそれを同じ耳で聴くために必要な姿勢とはどういったものか、と言ったようなきわめて原理論的な疑問を思い浮かべたことが必ずあるはずだと思う。そして、こうした問いかけの中から、レコードによるリスニング・システムを成り立たせている録音・再生機器そのものの性質――例えば、自らを震わせたものを、価値判断を抜きにしてすべて平等に変換し続けるというマイクロフォンとピックアップの基本的な機能――に出来るだけ近い場所で音を聴こうとするラディカルな姿勢や、わずか数枚のディスクの為にあらたなジャンルを捏造してすぐさまそれを破棄する、というような試みも生まれてきているのだ。
 レコードで音楽を聴くという経験を、過去に行なわれた生演奏の追体験としてではなく、目の前で現在回転しているディスクと再生機器の運動にまで引き下ろしてから考えてみること。これまでその音盤を取り巻いていた言説に見直しを迫るこうした姿勢は、また一方では、好みという基準に従って自身の趣味性を圧倒的に強固なものにしてゆく刹那への動きとも切り離すことが出来ない。こうした二律背反を受け止めながら、レコードのなかに収められた一つ一つの切れ目、個人個人の欲望の発露、そしてそれを成り立たせている知覚の原理へと向けて自身のリスニングを開いてゆくこと。佐々木敦が無数のディスクと付き合いながら実践してきたのはこのような批評活動であるが、こうしたスタンスは九〇年代の後半にあらわれた一群の音楽家にも共通して認められるものであり、本書が捧げられているジム・オルークこそ、そうした場所に誰よりも早く入り込んだミュージシャンの代表に他ならない。『ex-music』の後半部分は、録音物の性質と深く切り結ぶことによってこれまでの音楽の「外」に出ざるを得なくなった、ぼくたちと同時代を生きるミュージシャンが数多く登場してくる。『「ex-music」とは、文字通りの意味で「外=音楽」であり、また「かつて音楽であったもの」ということでもある。exはexceptionalのexでもあるし、experimentalのexでもあり、あるいはextrasensoryのex、ことによるとexhaustedのexかもしれない。』(あとがきより)
 映画批評と音楽批評を同時に書き進めることで自身のキャリアをスタートさせた佐々木氏は、レンズとフィルム、マイクロフォンとレコードという、近代がぼくたちの「外」に作り出した「眼」と「耳」の働きについて常に考え続けて来た。ぼくたちの知覚と認識と記憶は、ぼくたちの「外」に生まれた「眼=映画」や「耳=音楽」との関わりの中でどのような変化を被ることになるのか。氏の関心は常にそうした所にあり、また、さらに言うならば、佐々木敦はそうした自身の外側にあるメディアのひとつとして、フィルムやレコードと同じような姿勢で「ことば」の存在を意識している、ぼくたちの世代では数少ない批評家であるように思われる。「ex=そと/ほか」や「最後から二番目」といった言葉によって常にズラされ、振動し続けるように設置された氏の思考の焦点は、これからもさまざまな現象の「危機的=批評的」ポイントに結ばれ続けてゆくに違いない。
 最後に、『ex-music』をさらに「外」へと向かって押し広げるために、この本と問題系が重なる何冊かの書物を紹介しておきたい。先日同氏が上梓した『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)では、本書における思考が原理論のレヴェルで展開されており、是非とも併読をお薦めする。フリー・ジャズからはじまり、現在の即興演奏へとつながってゆく「インプロヴィゼーション」を巡る事象は上述の二書における佐々木氏の主要な関心のひとつであるが、清水俊彦氏の『ジャズ・オルタナティヴ』(青土社)を読むことで、読者はその運動の軌跡を辿ることが出来るだろう。若尾裕氏の『奏でることの力』(春秋社)は、音と音楽との現在的な関係を巡った美しい本。きわめて実践的な示唆が多数含まれている。『ex-music』とタメるほど固有名詞が登場する『めかくしジュークボックス』(工作舎)の賑やかな頁をぱらぱらと斜め読みしながら、読書と音楽鑑賞というアクションのあいだを出来るだけ大きく往復してみて欲しいとも思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月7日

 

<2001年? >
 
innminn 原稿:
タイトル:「男と女のいる厨房」
テーマ:「お花見にもって行きたい一品」
 
★お料理:「花わさびの三杯酢」
 
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★材料
 
・花わさび(または、葉わさび)
・塩、お酒、醤油(白醤油)、米酢(お好みで砂糖)
 
★レシピ
 
・花わさびを洗ってざるにあげ、少し多めに塩を振って手で揉む。花と茎の繊維組織がちょっと潰れるくらいの強さで。
・そのまま半日ほど置く。葉わさびの場合は2時間~3時間くらいでOKかな。
・置いているあいだに三杯酢を作る。酢の物のレシピは色々あるみたいだけど、米酢とお酒とお醤油を1・5対1対0.5くらいの割合にして火に掛け、アルコールを飛ばして作ったものが一番あうのではないでしょうか。お好みで砂糖も加えてください。白醤油を使ったほうが山葵の緑が活きて綺麗ですね。
・十分に時間が経ったと判断した後、軽く水洗いしよく水気を切って冷ました三杯酢につける。
・直ぐにでも食べられますが、しばらくつけてからの方がより美味しいかと。冷蔵庫で一週間位は持ちます。
 
★コメント
 
寒も明けて、3月が近くなってくると八百屋さんの店頭に葉わさびや花わさびが並んでいることがあります。これはホントこの時期にしか食べられないものなんで、一束200~300円程度で売っているのを見つけたら是非一度ご購入をお勧めします。だいたいこうした香の強い野菜は一度湯掻くことが多い訳ですが、これは上記のように塩揉みにしてしなっとさせ、酢に漬けて食べた方が断然美味しい! です。丸本淑生先生のご本を参考にしました。
 葉わさびより花わさびの方が刺激が強いので、ちょっと長めにざるに上げてきましょう。よく酢を絞って行楽弁当の隅に入れておけば、お酒で舌が疲れた人に大変喜ばれる一品になるのでは、と思います。もちろん白いご飯にもよく合うよ!

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月6日

 

<インプロヴァイズド・ミュージック・フロム・ジャパン一号>
 
 
Ami Yoshida interview (2600ward)
 
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 横隔膜から肺、喉頭から口内、そして舌と唇……。人間がコントロール出来る部位のなかでも、もっともやわらかく繊細であるこうした「声」を巡る器官を使って、吉田アミは、ぼくたちがこれまでに聴いたことがないようなサウンドを作り出してゆく。彼女は呼気が通り抜けるすべてのパイプ・ラインに慎重に耳を傾け、息の上下に従って身体のなかから極小の軋み、歪み、擦れ、捩れの音を取り出してくる。それは言葉を発すること、自分の意思を記号化して誰かに伝えようとする身体活動とは、同じパーツを使いながらも随分と異なった作業であるといえるだろう。誰も気がつかない、自分のなかのわずかな軋みや捩れの音に耳を澄ますこと。伝達されることを前提とする言語やピッチ・システムの明晰さから離れ、そのような<slight sign(微かな印)>の側に立つことは、記号化がそのまま管理化を意味する社会において最も必要とされるアーティストの振る舞いであるだろう。この秋cosomosとastro twinという自身のメイン・ユニットで二枚のアルバムを発表し、ソロ作品の準備も進めている吉田アミに自作について語って貰った。
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―――吉田さんは今年リリース・ラッシュですが、これは昔から約束していたものが今年になってまとまってリリースされた、という感じですか?
 
●「そうですね。UMUのやつ(『. / AMI』・【UMU】)と、あと幾つかのコンピレーションは今年に入ってからの企画だったけど、cosomosとastro twinは前からアルバムを作る予定がありました。F.M.Nからのリリースも厳密に言えば今年決まったものなんですが……。」
 
―――F.M.Nのもの(『Astoro Twin+Cosmos』・【F.M.N.Sound Factory】)はイギリス・ツアー(2002年3月)時のライブを中心に作られていますが、これは初めからそういう企画だったんですか?
 
●「いや、決まっていた訳じゃないです。このツアーで録ったライブを出すって約束をしてイギリスに行ったんじゃなくて、たまたまその時の演奏がかなりいい出来だったからそれを使ったんですね。ライブが終わった後に、演奏よかったなーって思って、で、録音したものを聴いてみたら、案の定繰り返し聴くことに耐えるサウンドになってたんで、じゃこれでいいか、と四人(中村としまる、Sachiko.M、ユタカワサキ)の意見が一致しましたので。」
 
―――同時期にErstwhileからもcosmos単体での新作(『Tears』・【Erstwhile】)がリリースされていますが、F.M.Nのアルバムと何か異なっている点があるならばお話いただけますか?
 
●「異なっている点というか、どちらもライブ・テイクが元になっているんだけど、マスタリングの質がこの二つのアルバムは随分と違いますね。『Tears』はcosmosの事実上のファースト・アルバムなんで、二人がどういう音で何をやっているのかをなるべく分かりやすいようにしよう、ってことで、実際のライブの出音は、その時会場の後ろ側に座って居た人とかは聴き難いくらいの音量だったと思うんだけど、CDではくっきりはっきり、音がイタイくらいのレベルにまで立ち上げてパッケージングしています。プロデュースをしてくれたジョン・アービーの意向も反映されていて……演奏している時に、たまにサイン波と声が同調して、モワレというか、モジュレーションみたいな響きになることがあるんだけど、そういう感じがよく聴こえる音になってると思う。ライブは会場のざわつきやPA環境なんかも含めて一つの演奏だと思うので、そのときそこだけで響くサウンドってことで音が聴き難いことがあってもいいと思うんだけど、録音物はそうはいかない。リスナーの環境まで想定できないからなるべく、出来るだけ細部まではっきりと作るほうが親切だと思う。こういった作業はもちろん、みんなが気を配っているところだと思うんだけど。」
 
―――Astoro TwinとCosmosという二つのユニットについて、アミさんが考えているそれぞれの特徴があるとしたら教えてください。
 
●「どちらもデュオで、しかも演奏している人間の片方が同じ訳だから、はじめのうちはあんまり違ったことが出来なかったんだけど、最近ではどんどんこの二つのユニットの差が明確になって来て……。いまではそれぞれまったく対極のことをやっていると言ってもいいくらいだと思う。Cosmosは美しい音を集めて、出来るだけ汚い音を出さないようにして演奏するって言う意識がはっきりとあって、私のなかでは、さっちゃん(Sachiko M)との音の絡みも含めて、綺麗な「音」を出そうという目的で声を出しています。音楽的にいいものを作ろうと思っているというか。Astoro Twinはそのまったく逆で、音楽的なものを作ろうとしてやっている訳じゃない。何というか、これまでに殆ど使われてこなかったゴミみたいな音の素材をお互いにどんどん響かせてみて(声だけじゃなくて、マイクで床を擦ったりとか)、その出した音どうしも全く連続性がなくて、しかも川崎さん(ユタカワサキ)の音や行動ともこっちは完全に無関係だから、共演方法としてもまったく機能していない、ゴミみたいなアンサンブルで……、ある意味一番音楽になりにくい音、演奏方法を選んでやっているって感じです。でも、そうやって集めた音が物凄く具体的というか、瞬間的にしか存在しないんだけどすごくはっきりとしたサウンドとして聴こえる時があったりもするんですけど。あと、よく誤解されるんですが、どちらのユニットでも私の声には一切エフェクトを掛けていません。サンプラーにも取り込んでいないし、PAでいじったりもしていない。最近は手元にコンパクト・ミキサーを置いてそれで音量を調節しているけど、声と出音のあいだにあるのはそういったアンプリファイアーだけです。マイクにエフェクターをつないで音を変化させたり、空間的処理を付け加えたり、って作業をすると、出音が使うエフェクターなり、それをミックスしてくれる人の音楽性に還元されちゃう訳ですよね。エフェクターに興味がないという訳では必ずしもなくて、出音が面白ければエフェクターを使ってもいいけど、たまたま生音の方が自分の欲しい音が出るので使っていないだけですが……Cosmosのライブを見た人によくエフェクトの話とかされて、Cosmosは特に綺麗に「音楽」をやってるからそう思われるのかもしれないけど、全部自分の身体だけで出せる生の音で演奏しています。」
 
―――エフェクターは使っていないと。でも、マイクロフォンの顕微鏡効果というか、音を増幅して元の音とは異なった響きとして聴かせる能力からはいろいろな発見があったのではないでしょうか?
 
●「演奏しはじめた一番初めは本当に、喉とか口内とかの音を耳で聞いてそれで演奏していた訳だけど、マイクやミキサーを自分のものとして使い始めてしばらくすると、マイクで拾えるいままで聴こえなかった音とか、音の細かい表情や特質みたいなものがまた改めて意識できるようになって……、技というか、素材のバリエーションが増えたと思う。こんど作るソロアルバムは、そういった、いま自分が出せる音を素材別に整理した図鑑のようなものになると思います。」
 
―――ありがとうございました。楽しみにしています。■

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月5日

 

<STUDIO VOICE 2006?>
 
 
<Studio Voice> DISKガイド10枚
 
大谷能生
 
 
「まだまだ音楽を作るために参考になる10枚~20枚」という感じで選んでみました。もう10年来聴いているものも、つい最近出会ったものも区別なしに入っていますが、こうやって選んでみると最近の自分の関心が何処に向いているのかが正直にあらわれていて、めずらしく? 個人的なファンタジーに基いたリストになっています。リズムと音色の配分から偽史を導く作業に向けて。
 
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●「Place Vendome」/MJQ with The Swingle Singers
 
 ビートルズのアップル・レーベルからもアルバムを出しているMJQ=モダン・ジャズ・カルテットは見た目はクールだけど、多分ジャズ史上一番気が狂っているグループなんじゃないかと思う。ジョン・ルイスの妄想力は時空を超える。このアルバムはパリでフランス人を中心にした八人組の混成コーラス・グループと共演したもので、なんというか、いまこんな音楽を演奏してるグループがあったら絶対見に行く。
 
●「Nouvelle Vague 」/OST
 
 仏つながり。ゴダールの映画「ヌーヴェル・ヴァーグ」から、会話や物音も含めてサウンドの全てをCD二枚にパッケージングしたもの。劇中で使われている音楽の殆どがECMの音源だから出来たことだろうけど、ミュジーク・コンクレートってどうしてフランス人と相性がいいんでしょうか。食べ物? リュック・フェラーリの全集とか出ないかな。
 
●「Step Across The Border」/Fred Frith
 
 サントラと言えばこれは大変良く聴きました。自分史的には九〇年代を代表する一枚。でも収められている演奏自体は七〇~八〇年マナーで、実はこの辺りのポスト・フリー・インプロヴィゼーション・ミュージックって今まったくアクセス出来なくなっているんじゃないだろうか。欧州の広さと、そこから米国までの距離がそれぞれどれくらいあんのかってことを改めて思わせるフィールド・ワーク。
 
●「original music for PINERO」/Kip Hanrahan
 
 このあいだ渋谷の飲んべえ横町でキップ・ハンラハンとおでん食べて焼酎を飲みました。その時クラーヴェの話になって、「日本のクラーヴェはスタジアムに行けば判る。勿論ベースボールのスタジアムだ。あの応援のリズムこそがジャパニーズ・クラーヴェだ」みたいな話をしました。あとヘンリー・ミラーの「黒い春」にサインして貰った。「あなたの音楽を聴くと、ブルックリンを描写したこのミラーの自伝的小説を何時も思い出します」。
 
●「The Thelonious Monk Trio」/Thelonious Monk
 
 変なシンコペーションの付いているモンクの曲/フレージングにアート・ブレイキーのポリリズム・ドラミングが絡んで、もの凄い抽象度が高いのに曲自体は手のひらサイズっていう、不思議なスケール感の曲が詰まったアルバム。やってる事とか曲の構造とかは細部まではっきりと見えるんだけど、何度聴いてもそれがどういう仕掛けになってるのか納得出来ない。こういった芸術がもっと欲しいな。
 
●「Love Cry」/Albert Ayler
 
 アルバート・アイラーのアルバムではこれが一番好きで、それはアイラーのアルトの音色が好きなのと、ミルフォード・グレイヴスのドラミングが素晴らしいから。このアルバムも凝縮された曲が並んでいて、極彩色の軍楽隊+ラテン+ゴスペル+コズミック・ソウルが沸騰している。アイラーのヴォーカルも最高。
 
●「The Best of Jelly Roll Morton: 1926-1939」/Jelly Roll Morton
 
 ニューオリンズからやってきた巨匠の中でも最もラテン・フレイヴァーに溢れていて、なおかつヨーロッパ・クラシック音楽の教養が感じられるモートン。彼の曲も複雑ですねー。カリブ海の首都としてのニュー・オルレアン。非常に映像喚起力があるサウンドで、フレッチャー・ヘンダーソン楽団とデューク・エリントン楽団と聴き比べると色々と考えるところがあります。
 
●「カメラ=万年筆」/MoonRiders
 
 複雑で凝縮されていて、で、映像喚起力を持っている三分間ポップスということで思い出したのがこのアルバム。何時でも聴けると思って人にあげちゃったからいま家にないんだけど、凄く聴きたくなってきた。テープであったかな? スピード感があって、パーツに分解出来て、なおかつポップっていうバンドは、いまの日本だったら誰になるんでしょうか? 
 
●「SIiverization2」/V.A.
 
 あるいは、360°の「サーキット・ブラジレイロ」。テクノ、ヒップホップ、ジャズを独自の回路で結んだ、九〇年代後半の日本における最重要盤。ビート・ミュージックにおける音像のケース・スタディ。夜の気配が濃厚で、雨が近づいてくる匂いもワンルーム・マンションの窓越しに感じられる。SOUPディスクはまだまだ健在で実に頼もしい。
 
●「Quartet for the end of time」/Olivier Messian
 
 音色、旋律、その絡み方など、こういった現代曲のサウンドをモダン・ジャズ的な即興に取り入れる方法ってのはまだまだ探究出来ると思う。ロン・カーターがチェロを弾いてるエリック・ドルフィーの「Out There!」と、メシアンやバルトークを結ぶライン。メシアンのこの曲は、三〇〇年くらい後(または前)に、南米の地方都市にあるカトリック教会で礼拝用にずっと演奏されているもの、と思うと俄然面白く聴こえてくる。ように思う。
 
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●3月4日

 

<2001年 サイトBK1>
 
 
音の鳴る場所で 〔9〕: 2001.03.21 at新宿シアター・プー
 
 平成になってから活発になった新宿駅南口近辺の再開発は、このあたりの風景を昭和時代の街並みとはまったく異なったものにしてしまった、と云うようなことを、東京育ちの知人から聞かされることがある。僕は昭和の新宿がどんな街だったかについて実際に記憶していることはなにもないけれど、ライブを見終わった後なんかに行きつけの安居酒屋で一杯ひっかけていると、どうしてもそういった懐かしい話がしたくなるという気持ちはよくわかるように思う。植草甚一さんに「僕はもう昔の東京を思い出すことはやめる」というタイトルの、胸を締め付けられるような小さなエッセイがあって、そのどうにもならない諦め具合が最近ますます読み返すたびにぐっと来るようになってきている。同じ都市に住み着いてもう十年、僕もそろそろ昔のことを思い出したり出さなかったりする年齢になってきているみたいだ。先月、新宿のちいさなライブもできるバー「シアター・プー」で、懐かしく思い出すことが出来るはずもない「騒乱時代の新宿」を、しかし、殆ど肌で感じさせてくれるような、ぞくぞくとした時間を過したので、そのことについて書いてみようと思います。
 「ホース」という超個性的なバンドのリーダーであり、ギター・インプロヴァイザーとしても内橋和久や植村昌弘といった巧者との共演を重ねている若手要注目No.1のギタリスト宇波拓氏から、「Bunさんというギタリストを関西から呼ぶので見に来ませんか」というお誘いのメールを貰ったことがそもそものきっかけでした。「昨年のFBIではじめてBunさんを見て、そのあまりにも真摯な演奏にしばし呆然としました。音数も少なく派手な要素こそありませんが、一音一音を全身全霊を込めてものすごい集中力で弾くBunさんは本当に孤高の音楽家であるとしか言いようがありません。巨匠です。こうして東京でBunさんをご紹介できることを大変嬉しく、いや、誇らしく思います。」という宇波さんのメールにひかれ、また、当人から「最近僕が企画するライブって全然客が入らなくて」っていう話も聞いていたので、色々な意味で楽しみに見に行ったのですが、宇波さんの予言どおり、開演になってもライブを目当てにきたと思われるお客さんはだいたい5,6人ほど(苦笑)。いや、それだけなら良くある話でまだいいんですが、シアター・プーの常連だと思われるお客さんがまったくライブのことを知らずに、中央のテーブルで談笑しながらお酒を飲んでいたんですね。しかもそのうちの一人の女の子はもう泥酔していて(笑)、隣の男に抱きついて時々嬌声をあげています。ライブを見にきた訳ではないお客さんは、だいたいステージから一番離れたカウンターの席の方でお酒を飲むことになるんですが、なにぶん客が少ないうえ酔ってるもんだから、「なに? ライブぅ?」って感じで、Bunさんがステージに上がってギターを弾き始めようとしている時でも全然会話を止めようとしません。演奏がドラムスとか入った景気のいいものだったらまだ店の雰囲気もやわらいだのでしょうが、あいにくBunさんのライブはたどたどしいと紙一重の、無茶苦茶緊張感のあるギター・ソロで(笑)、ライブ・レコーディングの用意をしていた宇波氏が、「すいませんけれども、静かにお願いできますか」って声をかけて黙らせたそのテーブルからは、演奏が進むにつれむっつりとした不機嫌のオーラと「なんだよこの演奏」などの小声の文句の声、それに「あたしね~」とか大声で一言言ってまた黙る酔っ払いの女の子の声などが聴こえてきて、すぐ隣に座っていた僕は演奏の素晴らしいテンションと客席の異様な雰囲気に挟まれて、顔に必死の苦笑を浮かべながら、あのテーブルの連中が怒ってライブを中断させようとしたら割って入れるかなあ、などと考えていました。Bunさんのギター、セカンド・セットで共演した宇波氏と角田亜人氏の演奏はかけ値なしに素晴らしかったです。例えていえばカン・テーファンとジョン・スペンサー(ブルース・エクスプロージョン)という、まったくつながりのない二人を統合して、しかもそれがキャバレーのミラーボールの下で演奏しているかのようなBunさんの気配には本気で戦慄を覚えました。
 結局演奏行為自体を止めるような動きは起きなかったのですが、演奏中も彼ら(特に泥酔した女の子)は騒ぎ続け、終了後、ステージに近寄って「おまえの演奏はつまんねえんだよ。人に黙って聴けっていうんだったらそれなりの演奏してみろ」と捨て台詞を決めて帰って行きました。いや、いい演奏でしたよ、と僕が言うと「し、し、仕方ないよね。も、もっといい演奏しないとね」と、Bunさんはすこしどもりながら答えました。その後も細かいエピソードが色々とあるのですが、字数もオーバーしていることですし、今回はここまでで終わりにしておきます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月3日

 

<2001年、サイトBK1>
 
 
音の鳴る場所で 〔12〕: 2001.05.28 at 新宿pit inn & 表参道GALLERY360°
  
  
 5月になると僕は毎年、特に身体の具合が悪いというわけでもないのに、なんとなく仕事のまとまりが悪くなったり、ちょっとしたことで気持ちが後ろ向きになったりとか、どうにも調子が出ないまま、一日くさくさして過すことが多くなる。理由は勿論よくわからないけれども、誕生日直前のシーズンは生命力ががくんと落ちる、っていうような話を批評家・仏哲学の丹生谷貴志氏がなにかの本のあとがきに書いており、それを読んでからは星の巡りのせいだからしょうがないことだ、と考えることにした。いずれにせよ何事も捗らない一日、ひさしぶりに昼から東京に出て、学生の頃みたいに新宿ピットインの誰もいない客席に座ってぼんやりしよう、と思った。
 都営新宿線・新宿三丁目の駅についたのは2時30分。ちょうどライブ開始の時刻だけれど、どうせ定刻に始まったりはしないので、僕は余裕を持って入り口につながる階段を下りていく。同じ地下フロアにあるゲイ・クラブもこの時間ではまだ営業しておらず、おしゃれな格好であわただしく店を出入りしている彼らの素敵な姿を見ることはできない。チャージを払って店の中に入り、古い知り合いでもあるギタリストの斉藤“社長”良一に挨拶をする。お前、なんでこんなところいるんだ/忙しいなか、わざわざ見に来たんですよ/なんだ、偉そうに、と、お互い顔に微苦笑を浮かべながら久しぶりの会話を交わす。今日出演するバンドはweedbeat。SOUPDISKというレーベルから97年にアルバムを出しているので、もしかしてその名前を聞いたことがある人もいるかもしれない。リーダー、ミドリトモヒデのアルト・サックス、社長のギター、AmephoneやTUKINOWAのアルバムにも参加している塚本真一のピアノ、リズム隊は中野雅士のベース、河本隆弘のドラムス、それにこのあいだも取り上げさせていただいた角田亜人がターンテーブルで加わる、という布陣だ。以前は確か2ドラムス、2ベースという編成だったと思うのだが、ミドリ氏の話ではそれぞれ事情があって最近ドラムスとベースがひとりづつバンドから離れ、今回がこの編成になってから初めてのステージだという。
 お客は結局、2ステージを通して3人しかいなかった。いや、2人かな? 演奏は、いささかリズムにふくらみを欠くところがあったけれど、社長のギターも冴えていて、集中力が途切れることなく聴くことが出来た。それぞれ個性の異なるピアノ・ターンテーブル・ギターという3種の音色をどのように配置してゆくかが、今後のパフォーマンスの鍵になるのでは、と思った。
 店を出て地上に戻ると、もう6時近くだというのにまだまだ外は明るくて、雨の降る気配もないし、このまま歩いて表参道にあるGALLERY360°まで行こうと思う。東京の道のことは詳しくないけれども、まあ、ゆっくり歩いても40分くらいで着けるはずだ。新宿からでもはっきりと見える、代々木駅前に出来た、なんちゃってNYみたいなNTTの高いビルを目印にして、とりあえず明治通りの方向へと歩いてゆく。僕は新宿御苑を挟んでピットインの反対側に位置しているアート&ライブ・スペース、代々木OFFSITEの横を抜けて(今日は確か秋山徹次、アストロ・ツイン、といったメンバーがこれからライブを行うはずだ)、明治通りを下り、キラー通り(なんで「キラー通り」っていうんだろう?)をついでに通って、南青山に出る。下北沢なんかもそうなんだけれど、このあたりの道は横浜のそれとちがって、細い路地のぎりぎりの所まで店が建て込んでいることが多くて、ウィンドウ・ショッピングが好きな人にはいいのだろうけれど、ただ歩きながらぼんやりしたい人にはちょっと息苦しさを感じさせるような気がする。新宿から表参道まで、結局1時間近くかけて僕は歩いた。前売り番号43番の券を持って、僕はこれからGALLERY360°で小杉武久のライブ・パフォーマンスを見る。
 
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●3月2日

 

<吉村光弘 アルバム「and so on」ライナー>
 
「and so on」ライナー
 
 
 このCDに収められているのは、2005年から2006年にかけて吉村光弘が行ったライブ演奏の記録である。だが、この記録から彼の「演奏」の痕跡を聴き取ることは困難だろう。吉村はステージ上で、会場の響きをマイクで拾い、ミキサーで増幅し、手に持ったヘッドフォンから出力するという作業を行う。このサーキットに取り込まれた会場の響きはやがてポジティヴ・フィードバックを起こし、演奏会場は機材の内部で裏返しにされ、結果、いまあなたが聴いている高周波の連鎖が生まれるという訳だ。吉村がステージで行うのは、この回路のセッティングと、演奏のスタート&エンド・ポイントの決定のみである。この「演奏」の最中、基本的に彼は何も行わない。もちろん、両手に持ったヘッドフォンの位置関係が動き、それに従って高周波の音像は若干の変化を見せてゆくが、それは彼が選択して行うものではなく、審美的な判断はここからまったく抜け落ちている。実際、吉村がステージで自分の作り出している音を積極的に聴いているのかどうか、ということ自体も僕はあやしいと考えている。演奏しながら、しかし、まったく音の推移と結果には無頓着であること。こうしたある種の(矛盾とも微妙に異なった)ディスタンスネスとでも言えるようなものが、吉村の作品の特徴であると思う。
 例えば、この演奏は会場に固有の空間性、その場の音の響きの特徴に強く影響されて行われる。だが、しかし、その特殊性は機材の作り出す回路の中で強力に蒸留された結果、最終的な音響情報はどの場所でもほぼ似たようなものとなってしまう。どこでいつ演奏しても、得られる結果は結局一緒なのだ。だが、しかし、それはやはり演奏されなければ聴かれることはないし、また、聴衆は実際にそれを吉村の演奏として聴く。ある場所、ある時間の中でしか生まれ得なかった、しかし、どこでも在り得ただろうサウンド……そしてこのアルバムは、そんな吉村の演奏からそのサウンド部分だけを複製し、どんな場所、どんな時間においても再びそれを経験出来るようにしたものであるのだ。
 いつ何処で鳴ってもいい、しかし、その場でしか鳴らされることの無かった音を、いつ何処でも好きな場所で聴くことが出来るものにもう一度導くということ。ヘッドフォンで鳴らされた音を、ヘッドフォンで聴くこと。
 こうした幾層もの概念の反転に彼の魅力がある。演奏される音はつねに現象に、そして、それと同じだけ強く意味へと向かう。この存在の引き裂かれに触れ続けること。And so on.

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

●3月1日

 

<ユリイカ2006年?>コラム
 
今年は横浜球場でおこなわれる高校野球の試合を見に行くことが出来なくて残念だった。横スタを使うのは開幕戦と、あと準決勝以降からだけなんだけど、だだっ広い外野席でビール片手に高校生の熱闘を観戦するのは実に楽しい。家から歩いて十分の場所にスタジアムがあるのはなんて贅沢なことなんだろうと引っ越してきてからいつも思うのだが、最近は忙しくてベイスターズの応援にさえ行けないくらいだ。横スタに一番通っていたのは無論一九九八年の前後であって、しかしもう十年近くも前のことなのか……。ベイファンの作家としては保坂和志さんが有名だが、僕にも優勝当時ベイスターズについて書いた詩のようなものがあるので、ここでその一部を披露させてもらいたい。これこそ「詩と批評」!の雑誌に書かせて貰う冥利に尽きる。
 
松坂屋でビールを買って、伊勢佐木町の角を曲がり 外野席のライトが灯る前に 横浜球場へと急ごう
今年はベイスターズが優勝する年/そんな年はこの世紀には何度もない
高架の上の根岸線と併走して 波留敏夫が駆けて行くのが見える
関帝廟で神妙な顔をしているボビー・ローズ 彼の背中には天使の透かしが入っている
炎上するバスに飛び乗る駒田と川村 谷繁の投げたアイスクリームをキャッチする 群集の中で石井琢郎のユニフォームがはためいている 
高く掲げられた斎藤隆の腕から 氷川丸ビアガーデンの切符が配られる
佐々木の姿は見えない
でも、この回が終る前に球場に向かえば 関内駅で人を待っている鈴木尚に会えるだろう
今年はベイスターズが優勝する年/そんな年はこの世紀には何度もない
 
 ベイが優勝を決めた日に街頭で受け取った、養老乃滝の「飲み物オール100円」の号外チラシが僕の部屋にはまだ貼ってある。後半戦は何回くらい外野席でタネダンスを踊ることが出来るだろうか。