#3 Demons Out -鬼は外-
いつも指名で依頼を発注してくれる、とあるお金持ちの老人からの、ナベリウスでしか取れない稀少なキノコの納品依頼を終えた明日香は暇を持て余した。この日は特にやることもなく、次の依頼も入っていない。一週間ぶりに市街地に出て必要な物を買いそろえようと市街地へ足を運んだ。
階層都市行きのポータル前で偶然にも同じチームに所属する女性に遭遇した。チームメンバーの彼女も買い物のために市街地へ向かっていた。そのまま話が弾み、二人はお気に入りのカフェで優雅なひと時を過ごすことにし、デパートでの買い物はそのあとにすることにした。
おしゃれな貴婦人のお茶会が開かれている横でマドレーヌと紅茶を楽しむ。
貴婦人と明日香たちの前を走り抜ける小さな影。白いワンピースを着た少女が走り、何かに追われているように頻りに後ろを確認している。余所見をしてしまったがために少女は躓き、足を擦りむいた。
「うっ……」
擦り剥いた膝の痛みをなんとか和らげようとしながらも、頻りに後ろを確認している様子に明日香はなんとなく嫌な予感がした。
この少女は本当に誰かに追われているのではないか。よく見ればワンピースはボロボロに破れかかっており、靴も履いていない。手足には何かで縛られたような痣や傷が見える。どう見たって普通ではない状況に少女が置かれていたのは明白だった。
少女のそのみすぼらしい格好に隣で茶会を開く貴婦人は、汚いわねぇと鼻を摘み冷たいを目を向ける。年端も行かない少女がこんな状況に置かれているのに、なぜこの大人たちは救いの手を差し伸べず蔑ろにするのかと、明日香はそんな貴婦人たちを睨み、少女の元へ駆け寄った。
「大丈夫?」
すぐにチームメンバーの女性も駆け寄って転んだ少女を抱き起こしてあげた。
「怪我、見せて。絆創膏貼ってあげる」
嫌がる少女の足に優しく触れ、絆創膏を貼る。
少女は痛いのを我慢するように食いしばり立ち上がろうとする。
「急いでたみたいだけど、靴はどうしたの?」
少女は首を横に振る。何を質問しても首を横に振る少女に困り果てていた時、彼女が来た道から足音が聞こえてくる。五人以上の大人が駆けている疎らな足音が聞こえ、少女は身体を震わせ、明日香の服の裾を掴んだ。
――助けて。
口を動かすも少女の口から発された音はラジオに混ざったノイズのような雑音。およそヒトが発する音ではなかった。チームメンバーはその声に驚き、一瞬身を引く。しかし明日香は彼女の怯えた表情や、口の動き方などから彼女が伝えたいであろう想いを受け止め、うん、と大きく頷いた。
「ごめん、私。……この子のママを探して来ます」
「言いたくないけど、やめた方がいいよ。絶対また厄介事に巻き込まれるわ……」
「じゃあこんな幼気な子を見捨てて優雅にお茶会を続けろって言うんですか?」
少女を抱きかかえ、自身のマフラーで少女の顔を隠すように巻く。
「私は行きます。厄介事なんて上等ですよ」
「え、あ……うん。……じゃあまた今度、気を付けてね」
きっとチームメンバーの彼女にも悪気があったわけではない。
カフェの代金を彼女に渡し、人通りの多い道に飛び出した。一人取り残されたチームメンバーの女性の前を黒服の男たちが消えた少女を追うように、明日香たちと同じ方面に走っていった。
クリスマスシーズンもあってか街はカップル客で賑わう第1階層には緑と赤と白のクリスマス装飾が施されとても華やかに街を彩っていた。人混みを掻き分けながら、背後に異様な雰囲気の男たちの気配を感じながら、少女を男たちから遠ざけるようにある場所に向かう。
もう一度落ち着ける場所で、少女から事情を聞くためにも信頼のおける人物のいる階層を訪れた。
第6階層の一角、色鮮やかなメインストリートと対照的に灰色と鉄錆色の薄寂れたジャンクパーツショップの真横。薄暗い階段を登った先にある小さなオフィス。階段の上に備え付けられたジャンクパーツショップのネオンサインの端に小さく目印を立てた『便利屋NICO』の看板。
バタンと音を立て勢いよくドアを開けると、突然のことに中にいた便利屋がビクっと肩を揺らし驚いた。
「おいおい、随分と急な登場だな、来るならアポ取ってくんねぇと」
明日香はオフィスに入ると負ぶっていた少女を降ろし、
「ここなら安全なはず、ごめんねちょっと汚い所だけど我慢してくれる?」
と少女の頭を撫でた。
「汚いとは心外だな。……まさかアンタが子持ちだったとはな。……ちょっと狙ってたんだけどなぁ」
「何馬鹿なこと言ってるんですか、お客様が来たんですからお茶くらい出してください」
「まったく随分と図々しい客がいたもんだ」
便利屋はキッチンに向かい湯を沸かす。明日香は少女をソファに座らせる。
「あー! もう少し綺麗に片付けておいてください! 救急箱は何処にあるんですか!」
「ほれ、そこのファイルの下にあるだろ」
便利屋が指差した先には天井まで山積みにされたファイルの塔。その下に埋もれる救急箱。ずっと使った気配がなく埃を被ったそれを引き抜こうとすると、書類の山がぐらぐらと揺れる。部屋はまた片付ければいい、勢いよく救急箱を引き抜くと書類の山が崩れ落ち、明日香を巻き込みファイルが床に散乱する。
「おいおい、大事な仕事のファイルを、あーあー」
「大事ならもっと整頓しておいてください」
一先ず応急処置的に付けていた絆創膏を剥がし、膝の擦り剥き傷に適切な処置を施していく。
やかんがピーピーと鳴き声を上げ、湯が沸くとキッチンからコーヒーのいい香りが少女の鼻を擽る。
机の上に三人分のマグカップが置かれる。少女の前にはピンク色のマグカップが置かれるが、少女は手を付けようとしない。横でコーヒーに口を付ける便利屋の顔を下から窺う様に見ていると、便利屋と目が合う。
「どうした、コーヒーは嫌いか?」
少女は首を傾げる。
「こんな小さな子にブラックを飲ませるんですか? せめてお砂糖くらいは用意してあげましょうよ!」
「そんなものはない」
目の前に置かれた茶色い水を覗き込み不思議そうに眺める。
「……飲んでいいのよ?」
明日香の言葉を聞いて少女はようやくマグカップに手を添える。
まるで熱さを感じていないかのように飲み込むが、すぐに舌を火傷したのか、マグカップを置き丁寧にふーふーと息を吹きかけ冷まし始めた。
「……そろそろ説明してくれねえか。……この嬢ちゃんはなんだ?」
「それは、私も今から聞くところです」
明日香はココアを冷ます少女の顔を覗き込み、
「ごめんね、急にこんなところに連れてきて。私は明日香、貴方は?」
少女は首を横に振る。
「うーん、貴方はどうして追われていたの?」
またしても首を横に振る。
「話せない事情でもあるのかこの子は」
便利屋は明日香に聞くが明日香も分からないと首を振る。すると少女が口を開けた。
――私は呪われてるの。
少女が口を開くと発せられる音はやはりノイズのような音。今回は口の動きでは何を言っているかを読み取れなかった。便利屋は少女の声に驚き、対面のソファに腰を落とした。
「こいつは驚いた。歳の割に随分とセクシーなハスキーボイスだな」
言いたいことが伝わらないもどかしさでぷーと頬を膨らませる。あたりを見渡し床に転がるペンと書類の裏紙を拾い上げるとガリガリと文字を書く。拙い言葉で自分が置かれている状況を書いていく。しかしその文字はまもとに教育を受けてないことを感じさせる。字の書き順もバラバラだが、それ以前に描きなれていないのは明白でミミズのような線に震えた文字で書かれた言葉足らずの文には、『わたしのこえはのろわれてる。わたしのこえ、みんなのこころ、すきにできるちから、おいかけてくるひと、かーすど』と書かれていた。
「カースド」
「ははーん、カースドねぇ、おい聞いたか大熊猫」
便利屋は明日香にでもなく、少女でもなく、まるでそこにもう一人誰かがいるかのように誰かに話し掛ける。
「丁度ボクたちも調べてたんだ、その『カースド』ってやつを」
部屋の隅にある書類の山の中に埋もれる宅配ドローンが喋り出す。
ドローンから発せられる声は少年の声だった。
「上層階のネットワークじゃ該当する項目は見つからなかったけど、第壱拾階層以下のもっと深い所に潜ったら、いくつか情報がサルベージできたよ。どの情報にも共通して虚空機関の名が引っ掛かるからそこから関連付けて調べてたら、二年前の組織の崩壊後、公安に逮捕されなかった構成員が中心となって作り上げた第二の虚空機関って感じらしい」
「虚空機関……」
「この子の声だけどよ、俺はどうも引っかかるんだが、この違和感、大熊猫なら分かるよな」
「言いたい事は分かるよ」
「何の話ですか?」
「二月程前、アルバス製薬っていう製薬会社が新しいナノマシンを発表したんだ。基本的にはアークス向けに今後採用されていく予定の、画期的なもので体内のダーカー因子を捕食する対抗ワクチンを投与されたナノマシンなんだ」
「すごいですね、それがあれば簡易浄化の必要性も低くなりそうですね」
「そうだね。付け加えると、このナノマシンは外部から簡単に組織情報を書き換えることが出来るんだ。ナノマシンの情報を書き換えて、対抗ワクチンじゃなく新たな神経細部として投与することも出来る。これだけなら便利なナノマシンだけど、ボクらの言う違和感っていうのはコレにあるんだ」
「違和感?」
「あぁ、今度は一週間前、ローゼンフロウって軍事企業が特定の細胞を遠隔操作することが出来るデバイスを開発しているという情報が入ってな」
「知らない組織の名前が続々ですね」
「知らなくても無理はねえ、普通のアークスにとっちゃ無縁の都市内の事情だから」
「ボクたちは、知り合いに頼まれてそのデバイスついて調べてたんだ。それは音によって遠隔操作を可能とするらしいんだが、その音がどうやら普通の人にはただのノイズにしか聞こえないらしいんだけど、人工細胞を持った人間には綺麗な唄のように聞こえるらしい」
「人工細胞って」
「人為的に作られた細胞だよ。アルバスのナノマシンだけに留まらず、ナノマシン自体は様々な目的用途で作られてるから別段珍しいものでもないんだけど……」
「タイミングがタイミングだからな、今回はそのアルバスの新作ナノマシンを対象としているんだろうってな」
「じゃあこの子の言う、皆の心を好きにできるっていうのは……」
「恐らく、ローゼンフロウの『唄』そのものだろうね」
少女は大人たちの小難しい話を理解できず首を傾げている。
「カースドが今のいままでどうやって[[rb:巨大政府 > アークス]]から身を潜めて活動していたかもこれで明白になったな」
「カースドの背後にはローゼンフロウがいる、ということですか」
「そうだと思うよ、だとしたらかなり厄介な面倒事に首を突っ込んだかもしれないねコレは」
四人の中に緊張が走る。
「そしたら、私がアークスに保護を求めるのは」
「ダメだ。アークスは最終手段として取っておく」
便利屋は明日香の声を遮って声を張り上げた。
「な、何故ですか?この場合アークスがこの子を保護するのに適任だと思いますが」
「アークスはこれまで虚空機関に武器やその他装備品の開発を一任していたが組織が崩壊した。そして総司令の変更等の体制変化と共にアークスが組織のサポートのために迎え入れた民間企業の一つでもあるんだ」
「じゃあ……」
「アークス内部でローゼンフロウに通じてる奴が何処にいるか分からねぇ。分からねぇ以上、無闇に彼女をあそこに放り込むのは敵の懐に入り込むのとそう大差ないと思うんだ」
「俺は、特殊な病気や事情があって普通の病院に入れないような患者を受け入れてる医者に心当たりがある、その院長に手配してみようと思う。ただ時間は掛かると思うけどな」
「手配するまでの間どうするのさ」
「……大熊猫」
少しの間を空けて便利屋が名を呼んだ意味を理解した穴熊は慌てふためきスピーカー越しに叫んだ。
「嫌だよ!ボクのラボは迷子センターじゃない!」
「なら、俺が留守の間だけで構わん、どうせドローン越しに見てるだけなんだからいいだろ」
「えっと、どういう事ですか話が見えないんですけど?」
「このちょび髭が少しの間、この娘の面倒を見るってよ」
「……えっと、どういう事ですか話が見えないんですけど?」
「同じ事を言わせるな。この子の保護シェルターを手配するまでの間だけだ」
「私にも何か出来ないでしょうか?」
「……なら、この子母親代わりになってやれ」
「私が……母親」
腕の時計型端末に通知が入り、明日香にはチームから招集が掛かり、臨戦区域への帰還が命じられた。名残惜しそうに少女の手を離して、便利屋のオフィスから出ていく明日香を少女は窓から見送っていく。少し離れて振り返って窓を見ると、少女はまだ明日香の背中に手を振っていた。その無邪気な少女の顔に愛おしさを感じた。
明日香の背中を見つめ不安そうにする少女の小さな背中を見て便利屋は少女を安心させるために、頭をそっと撫でた。
「そういえば、明日香。この間の女の子どうなったの?」
少女を便利屋のもとに預けたあの日から一週間、長期滞在の遠征任務でウォパルに訪れていた明日香。
虚空機関がウォパルに残したという研究所に調査隊を派遣したい軍務局だったが、突然の組織崩壊でウォパルでの生物実験は強制終了。暴走した実験生物が施設に巣食っているという情報から複数のチームに依頼が発注されていた。
そのうちの一つのチームとして明日香のチームも参加していた。実験生物の多くはウォパルの海上に見られる原生生物を基にしており、それら生物の基礎データから簡単に対処することが出来ていた。あらかた実験生物を殲滅した後、任務の本題である重要機密の破棄作業で遭遇したレオマドゥラードとネプト・キャサドーラを屠るのにかなりの人と時間を浪費していた。
多くの怪我人を出しながらも任務は完遂が報告され、チームは作戦本部に帰還用のキャンプシップを要請し待機していた。
戦いの疲れを癒すべく穏やかな海を眺め、束の間の休息をしている時、チームメンバーから先日の少女の話について問われた。
「エマのことですか?」
「へぇ、エマちゃんっていうの、あの子」
「……自分の名前を覚えていないようだったので、ひとまずそのように呼んでいます」
明日香は携帯端末の待ち受けに保存したエマの写真をチームメンバーに見せる。そこにはカメラに向かって全力のピースをする件の少女エマとカメラに微笑む明日香のツーショットが映し出されている。
「ふふ、元気そうね。なんかこうやってみると、母と娘みたいね。じゃあシップに帰ったら一番に遭いに行きたいんじゃない?」
「そうですね、早く会いたいです」
帰還用キャンプシップの到着が近付いているとチームリーダーから声が掛かり、荷支度を始めるチーム一行。ウォパルの海岸で拾った貝殻や綺麗な鉱石をエマへのお土産として瓶に詰め、喜ぶエマの顔を想像する。エマの顔を思い浮かべると自然と零れる笑み、たった一週間の間でも明日香とエマの間には家族のような絆が生まれていた。
第一階層に比べると華やかさには欠けるが、露店で賑わい活気に溢れる裏通りの一角、近隣の建物と見比べてもあからさまに古く黒ずみが見られる三階建ての雑居ビルの二階に足を運ぶ。『便利屋-NICO-』と看板の掲げられたその場所はもはや第二の自宅と言っても過言ではない程頻繁に出入りするになった場所。遠慮することなくチャイムも鳴らさず、ドアを開けると少女が飛び出した。
「おかえり!」
「あら、よく私が帰ってくるってわかったね」
「ママのあしおとがしたの!」
少女の首にはチョーカーのような物が巻かれており、ノイズに聞こえていた声ははっきりとした少女の声で彼女の意思を発信していた。
チョーカーは大熊猫の友人がエマの話を聞き、短期間作った専用デバイスで、頭に装着したデバイスと首のデバイスは繋がっており、彼女の脳波を読み取って言葉を発することを可能にした装置。この装置のおかげでエマは明日香や便利屋、大熊猫との会話が出来るようになっていた。
エマは面倒な事情を持った自分を助けてくれた明日香を母親のように慕い、ママと呼ぶようになっていた。
明日香は飛びついてくる少女を抱きしめるが、少女の服が彼女を保護した時に着ていたボロボロのワンピースのままだったことに衝撃を受け、大熊猫ドローンを激しく揺さぶりカメラの向こうの大熊猫本人に声を荒げた。
「大熊猫さん、どういうことですか! 彼がエマを預かるというから安心して預けたのになんで服があの時のままなんですか!」
「そりゃボクだってよくないって思うよ」
「この子にとってあの服はカースドでの忌々しい記憶の一端なんですからそのままにしていい訳がありません!」
大熊猫のドローンが部屋の奥のクローゼットを開けると、高く積まれた日用品の段ボールの脇に掛かる子供用衣類の数々を指差す。エマくらいの少女が好みそうな子供向け番組のキャラクターの描かれた上下セットの洋服たちのほとんどはタグがついたまま一回も着られた形跡がなく吊るされていた。
「これは?」
「あいつも色々買ってきてはいるんだけど、どれもエマの好みじゃないらしくて、洗濯してはあのワンピースに着替えちゃうんだ」
事務所のドアがガチャリと開き、両手いっぱいの買い物袋を引っ提げた便利屋が帰宅する。袋に描かれたロゴを見る限り袋は全てアパレルの紙袋だった。
「おう、明日香帰ってきてたのか」
紙袋をテーブルの上に置く。
「ほら、新しい服買ってきてやったぞ」
紙袋から出てくる衣服はクローゼットのものと、どれも代り映えしないレパートリーで、派手なカラーリングでガーリーな子供向けの洋服。これまでの失敗から何も学んでいないようで、これらを着たがらないエマの意思を無視しているのか、それとも単純に彼女の好みに気が付いていないのか、微妙にセンスの悪いゆるキャラが描かれた洋服が山積みになる。
「いや!」
ニコに見せられた洋服から目を逸らし明日香の服の裾をぎゅっと掴むエマ。
その場に似つかわしくない格好で、周りの白い目線にも耐えながら店を周った便利屋の努力も空しく、それらはエマの御眼鏡には適わなかった。
流石に疲れたのかガックリと肩を落としソファにうつ伏せで寝転がる便利屋。大熊猫のドローンだけが彼の努力を認め優しく慰めるように頭を撫でる。
明日香はエマの肩を優しく掴んだ。
「エマ。確かにセンスの悪い服を着るのは嫌かもしれないけど、オジサンが折角買って来てくれてるんだから、あんまりワガママ言っちゃダメよ?」
「……うん」
ママに優しく諭されたエマは大熊猫の真似をして便利屋の頭を撫でる。
「ごめんね」
「いいさ。……今までワガママ言えない環境で育ってきたんだ。このくらいのワガママは聞いてやりてぇだろ」
うつ伏せのまま籠った声で便利屋が言う。まさかそんな優しい言葉が彼の口から出てくるなんて思いもよらなかったと明日香は驚きを隠せなかった。
「じゃあさ、二人で買い物に行ってきなよ」
大熊猫が提案する。
「エマだってここ一週間ずっと家に籠りっきりで詰まんないだろうし、明日香が帰ってんだったらエマも一緒に連れて行ってこの子の好みを聞きながら帰るでしょ?」
「おかいもの!」
大熊猫の提案にエマは反応し満面の笑みを明日香に向けた。
大熊猫のドローンが本体のいる一階のジャンクパーツショップへ行き、彼の白いパーカーを持ってくる。ドローンが器用にエマの着替えを行い、パーカーを彼女に着せる。エマの身長と服のサイズ的に一件ワンピースのように出来なくもないそれに更に黒いキャップを被せた。
「やっぱりある程度顔が隠れるものがないとね」
「いってらっしゃ~い」
ソファにうつ伏せのままエマに手を振る。
「ほら、早く準備しなよ」
ドローンが便利屋の服を引っ張る。
「え? 俺も行くのか?」
「彼女の状況を考えれば、腕の立つ用心棒は必要だろ?」
大熊猫のドローンの奥の本人の顔が目に浮かぶ便利屋は溜め息を吐いて渋々服を着替える。仕事用のスーツ一色から滅多に着ないカジュアルな服装に着替え、アイテムパックを整理する。最低限の装備だけを準備する。
エマにも、じゃあお出掛けの準備をしといてね、と伝えると、ウキウキで鞄にあれやこれやを詰め始めた。
昼が過ぎ、ランチタイムで露店周り離れていた人々がまた買い物に戻り始めた頃、エマを中心に左側に便利屋、右側に明日香と三人手を繋ぎ、繁華街の人混みを歩く後ろ姿はもはや家族のようにしか見えなかった。
ちょっとした買い物なら第壱階層まで上がるまでもなく、第陸階層でも事足りるのだが少し背伸びを、より良い物を買おうとするなら、やはり少し上階に上がるのが普通だ。第陸階層よりも色々なものが揃っていて尚且つ第壱階層よりも比較的安価な品揃えの店が多い第肆階層まで登り、目的の大柄商業施設に向かった。
ショッピングモールに到着し次第昼食を済ませ、数々のアパレル店を周った。便利屋の知らない女性服ブランドや、便利屋の頭では思いつかない色々なカテゴリの洋服店へ足を運び、エマが気に入った服は片っ端から買って歩いた。
流石普段からお洒落な恰好をしている明日香の選ぶ服装はどれもセンスが良く、エマの雰囲気に合わせながらも少し大人っぽく見せるような服装をチョイスし試着させる。鏡に映るカッコいい自分の姿に大はしゃぎするエマの後ろ姿を眺めていると便利屋の顔にも自然と笑みが零れた。
携帯端末に一通のメールが届く。送り主は大熊猫。
――赤鬼に見つかった。
ただその一文のみ。だがそれが意味するのは相当深刻な状況だった。
便利屋たちが第肆階層に上るより二時間前。
階層一帯が工場区画に設定されている第[[rb:壱拾肆 > 14]]階層。清潔感のある白い外壁の長方形の建物が並ぶ製薬の生産工場群の一角。テレビを付ければそのコマーシャルを見ない日はない大手製薬会社『アルバス製薬』の薬品工場裏の旧工場跡地に新設された同じく白一色の研究棟。そこは清廉潔白なアルバス製薬の皮を被った、第二の虚空機関とも言わしめる『カースド』の拠点。
黄色いコンバットジャケットを身に纏った武装した集団が施設の入り口とその周辺を厳重に警備している。ただの製薬会社であれば有り得ない異様な光景だ。
すべてが白で構築された会議室のような部屋に六人の人影が並ぶ。風景に紛れるような白一色の白衣に身を包んだ白髪の老人と、コンバットスーツの上から黄色のMA-1を着込み一本角のあるヘルムを装着したダリルは実体で、残る四名はホログラムのように映し出されている。
「先日駒が一つ潰された」
ホログラムの老人がチェスの駒を一つ握りつぶす。
「リストの新参者と『死穢』によってな……」
「ワタクシたちは貴方にこの両名の抹殺を命じます。無論彼らの危険性はワタクシたちも重々承知しています。ですので可能な限りの支援と最高峰の報酬を用意するわ」
白髪の老人は言葉を発さず、ただホログラムたちの指示に頷き首を垂れる。
ダリルも同じく白髪の老人のやや後方で続いて首を垂れる。
「おぬしにとって『死穢』はかつての仲間の仇ようだな」
「あれは忘れもしねぇ思い出だな」
「新参者も『死穢』はどちらも『DOOMS』だという情報が入っているが、やれそうかね」
「その新参者がどんな奴なのか見当もつかねぇな。ここ最近はリストの確認もしてねぇ」
ホログラムの一人が壁にリストと件の新参者の姿を映し出す。映し出されたリストのページタイトルは『[[rb:暴虐の嵐 > タイフーン]]』
黒髪で顔の左半分には特徴的なタトゥーが彫られた女性の姿。いつ撮影された写真なのか赤いドレスを着飾った姿がとても美しい。
「中々いい女だな」
「デクスターからの情報によって判明した新しいDOOMSだ。良い機会だ、可能ならば彼女の身体を調べ上げたい。もし彼女を生きて連れてくることが出来たら、その時は儂が報酬を上乗せしよう」
「尿漏れジジィの趣味に付き合うのは癪だが、金が払われるなら引き受けよう。……先に俺が楽しんじゃってもいいか?」
「あくまで我々が欲しいのは彼女の器だ」
「……では、ここで言っておきたいことがなければ、あとはホワイトに一任する。何か問題があれば、すぐに我々に報告しなさい」
「かしこまりました」
ホワイトとダリルを残し他の四人が席を立つろ、ホログラム化された姿が消え照明の一切も消灯。室内に二人だけが残される。ホワイトの車椅子をダリルが押しながら会議室を抜けると、またしても白一色の長い廊下が二人を迎えた。
長い廊下を抜けると吹き抜けの広いフロアに出る。円形状のフロアは各方面に道や階段、エスカレーターが続いており多くの人が行き交っている。白衣の研究者と思しき人物や、ダリルと同じ警備員と思われる黄色いジャケットの男たち、バーコードの記された患者服を着た幼い子供たち。その誰もがすれ違うホワイトに一礼していく。
「これまであの女はDOOMSとして名前が挙がってこなかった、力を完全に制御しているのかもしれん」
「大抵のDOOMSは命の危機に曝されれば自然とDFが表面化するが、そうじゃないとなると制御してる説が濃厚だな」
「奴の力は未知数じゃ……必要なものがあれば遠慮なく申せ、今回はローゼンフロウ協力のもとの仕事だ。いつもより贅沢が出来るぞ」
「そいつはありがたい話だ」
ホワイトを研究室まで送り届けると、そのまま研究所内でダリル及びそのグループに分け与えられたガレージに戻るとダリルと同じスタイルの格好をした角の無いヘルムの仲間たちが待機していた。任務の内容をメンバーに伝えると各々が装備品のチェックを始める。いつもの任務より厳重なチェックを行い、銃の予備弾倉や手榴弾類の小物もきっちり揃えていく。それらを全て一つの箱型の大きな鞄に収納し、トラックに積み込む。車に搭載されたマップに目的地を入力すると、トラックは全自動運転に切り替わり、目的地を目指して仲間たちに厳重に警備された搬入ゲートを抜け走り出した。
時は戻り、便利屋が第肆階層に上った頃。
下階の大熊猫のジャンクパーツショップに来客があった。その来客はジャンク品を眺める他の客とは違い、あまりにもその場に相応しくない割烹着を着、出前箱を手に店のカウンターの前に立った。
カウンター内の椅子で体育座りをしている金髪の少年が爪を噛みながら、カウンター前に立つ男を見上げる。
「どうしたの料理長、出前は頼んでないけど?」
料理長と呼ばれたその男の腰巻きにはジャンクパーツショップの斜向かいにある中華料理店のマークが描かれていた。出前箱にもそれらしい龍のイラストが書かれており、中からも中華料理らしい少し辛そうな匂いが漂っていた。
「マー坊からの少し早い節分のお誘いだ」
「節分? 早すぎじゃない? せめてクリスマスプレゼントとかにしようよ」
出前箱の中からは唐辛子や香辛料で煮詰められ真っ赤になった豆が皿いっぱいに盛られて入っていた。なにこれ、と出前箱から一応受け取ると皿の下から何十にも折り畳まれた数枚の紙が落ちる。
紙を開き、内容に目を通すと、伝言と共に何者かの詳細な情報がまとめられた資料が出てきた。
――赤鬼が来る。鬼は外、福は内。
資料にはかつて『赤鬼』の異名で知られていた稀代の傭兵ダリルの情報がまとめられていた。
――赤鬼に見つかった。
その一文を確認すると便利屋は血相を変えて店内を見渡した。ふとした間に明日香とエマを見失った。どこだ、どこだと辺りを探し回っていると、何者かに肩を叩かれた。
「よう、ルツ。元気そうだな」
聞き覚えのある声。振り返ると、鬼のような一本の角、丸く兜を被ったヒトの頭部を模したような[[rb:機械頭 > キャストヘッド]]。黒いタクティカルシャツに黄色のMA-1の男が立っていた。手には紙袋を提げ、買い物中を装っているが、はっきりと分かる。この男はエマを取り戻しに来たと。
「……そっちこそ、まだ錆びちゃいねぇみたいだな」
「毎日メンテナンスは欠かさないからな、そう簡単に錆はしねぇさ。……少し歩こうか」
カチャ、と背中に銃を突き付けられ、明日香とエマの居る店から離れるように促される。一見、人通りの多い通路で他の客を避けて歩いているように見えるがその間には拳銃が挟まっている。
「便利屋稼業は順調か?」
「体制強化で厳しくなったんで、今はアークスの傍ら仕事をしている」
「そうか、なら今度うちのガレージの掃除も頼もうか」
「その時の依頼料は倍額にしてやるよ」
「まあ、お互い……生きてたらな」
二人の間に沈黙が走る。
「ローレライをカースドに返せ。そうしたら事は丸く収まるぞ」
「はっ。ローレライね、随分立派な名前があったんじゃないの」
「お前の幼女趣味にとやかく言うつもりはないが、」
「幼女趣味はどっちだ。大の大人が寄ってたかって幼気な子供虐めようとしてるのを、はいそうですかって知らんぷりすることは出来ねえってだけの話だ」
「昔の好だ、出来ればお前を殺したくはねえんだよ」
ダリルが引き金に指を掛けるのが背中越しに伝わってくる。
「嘘こけ。殺意が声に現れてるぞ」
「奪い取るしかないか……なぁ!」
引き金を引くと同時に二人の後方で大きな爆発が起こる。銃声は爆発音に掻き消されたが、銃から放たれた弾丸は確実に便利屋の背中を貫き、便利屋はそのまま地面に俯せに倒れた。
衝撃波のあと爆風が一気に吹き抜けショーケースのガラスが割れ、一帯が煙に包まれる。
銃声と爆発音で耳鳴りが止まず薄れた視界の中で状況を確認する。周りには衝撃波によって飛来した瓦礫やガラス片が刺さって怪我をしている人、逃げ惑う人々が見える。被弾した腹部はシャツが真っ赤に染まるほどの血が噴き出ていたが傷は既に塞がっていた。辺りを見渡してもダリルの姿はなく代わりに黄色のMA-1を着た武装した集団が散見された。
感覚を研ぎ澄ませ、あらゆる雑音をシャットアウトして目的の音だけに意識を集中する。
「いやっ!」
エマが何かを拒絶する声が聞こえる。
顔を上げ、目を開き煙で視界の悪い中を走り、声のする方へと向かう。ジャケットの内側から一丁の回転式小銃を取り出しシリンダーに一発ずつ慎重に弾を込める。
「目標を確保。撤収する」
弾を装填したシリンダーを戻し、銃を構える。煙の中で敵の位置をはっきりと目視出来ないなか、便利屋は引き鉄を引く。放たれた銃弾は煙の中を飛び、通信を行っている男の頭部を捉え、額に風穴を開ける。
「正確無比な射撃……死穢か。G、Kをガードしながら即時撤収を」
司令塔と思しき人物の指示でエマを抱えた男ともう一人の足音が遠ざかっていく。更に離れていく二人を守るように周辺の男たちが集結する。続けて一人、二人と銃口から放たれた銃弾がイエロージャケットの隊員を的確に葬る。
音で確認できる範囲でエマを抱えた男たちと目の前にいる男たちで残るは四人。残る銃弾は三発。一発足らない。
時間が経ち、徐々に煙が濃くなってくる。気を失っている明日香をこのまま放置して戦うのはリスクが高い。
「……時間だ」
司令塔が小さな筒のようなものを放り、便利屋の足元にそれが転がる。刹那、目を覆う程の眩しい閃光が一帯を包み込む。
「くっ……!」
閃光に視界を奪われ、焦点が合わなくなる。研ぎ澄まして意識も解け、周囲の雑音が耳に入ってくる。イエロージャケットの足音は周りの音に掻き消され聞こえなくなり、エマの足取りは完全に途絶えてしまった。
「ここまでか……くそっ」
意識を失い倒れる明日香の口元に布を当て、煙を吸わせないように配慮しながらモールを出る。ショッピングモールの前には消防車や救急車が何台も並び、騒ぎを嗅ぎ付けたメディアが爆発後の様子を中継していた。
外から見るショッピングモールは酷い有様になっており、前の大型駐車場も阿鼻叫喚。当然だがそこにイエロージャケットの姿は一人としてなかった。
ジリリリリ。
黒電話のベルが鼓膜を叩く。薄っすらと目を開けるとそこには知らない天井。ゆっくりと感覚が冴えていきコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「~~~。~~~~~、~~」
誰かが喋っている声が聞こえてくる。何と言ってるかまでは聞き取れない。身体を覆うタオルケットを剥がして身体を起こすとそこには見覚えのあるドローンが立ち止まっていた。白と黒の装甲の一輪型ドローン。装甲にはマジックペンで様々な落書きが施されている、大熊猫のドローン。
ベッドから降りて声のする方へ歩く。薄く開いたドアの先には見慣れない綺麗に整頓された便利屋のオフィスがあり、便利屋に大熊猫本人と見たことのない女性の三人で忙しなく電話片手にラップトップを動かしていた。
「あらあら、まだ身体起こしちゃダメよ。頭を強く打ってたんだから」
起きた明日香に気が付いた女性がペタペタと身体を触る。
「どう、どこも痛い所とかない?」
「あ、大丈夫です」
「そう、よかった。貴方もコーヒー飲む?」
「じゃあ頂きます」
女性は備え付けキッチンに向かい明日香分のコーヒーを用意する。
記憶がだんだんと鮮明になっていき、その場にいるべき筈の人物の姿がないことに気が付く。何処にもエマの姿が見えない。
明日香は血の気が引きドスドスと足音を立てながら電話中の便利屋の前に立ち胸倉を掴み上げる。
「エマは、エマはどこですか」
「……悪い。あとで掛け直す」
「エマは何処にいるんですか!」
「……まあ、落ち着け。一旦冷静になれ」
はっ、と気が付き掴んでいた襟を離す。便利屋はシャツの襟の皺を正して椅子に座り直す。拳を握りしめ真っすぐな瞳で見つめる明日香の問いに答える。
「見ての通りだ、エマは連れていかれた」
「何故、何故そんなに平気な顔で居られるんですか……」
「連れていかれちまったもんは仕方ない、俺らの不甲斐無さが災いした結果だ」
「くっ!」
明日香は握った拳を振り上げるが、ここで便利屋を殴っても仕方ないと、拳を降ろしハンガーに掛けられたコートを羽織る。
「何処に行く気だ」
「当然です。エマを探しに行きます」
「行く宛てでもあるのか」
「そんなものはありませんよ! でも絶対に見つけ出して見せます」
「連れて行った相手がどんな連中かも知らないのにか」
「……じゃあ、何もせずに黙ってコーヒーを飲んでろって言うんですか!」
バチン。明日香の頬に痛みが走る。キッチンにいた女性が明日香の頬を叩いたのだった。突然のことに言葉が出ない明日香。女性の顔を見るとその顔は明らかに怒っている顔だった。
「ニコが何もしてないみたいに言うのはやめなさい」
「やめろ、アンジェ」
「いや、やめないわ。……自分こそ呑気に寝てただけなんだから、まずはここまで運んでくれたニコにお礼を言うべきでしょ」
「あの、アンジェも明日香さんも一旦落ち着こ?」
大熊猫はアンジェをソファに座らせる。
「……確かに彼女の言う通りでした。ここまで運んでもらってありがとうございます。でも私はここでじっとしている訳にはいきません。今もエマが苦しい想いをしてると思うと胸が、張り裂けそうです。……私は私で奴らを追います」
明日香の言葉に便利屋は何も返さなかった。アンジェは何か言いたそうにしていたがその口を大熊猫が塞ぎ、沈黙が走る。
事務所のドアに手を掛け開こうとすると、反対側から何者かによってドアが引っ張られる。
「うわ、取込み中じゃったかの」
小柄でつなぎを着た老人が手提げ鞄を手に便利屋を訪れた。大方便利屋の依頼人だろうと、老人に道を譲る。
「兄ちゃんの言ってた黄色い服のやつらの話聞き回ってきやしたぜ」
老人の言葉に思わず振り返る。老人は手提げ鞄から地図と付箋が貼られた紙を広げる。
老人の後に続いてパン屋の店員や近くの建築現場の職人などの多くの人々が便利屋を囲むようにして集結し始める。チラシの裏紙に描かれた地図が壁に貼られる。つなぎの老人が書いたというその地図は市販されているものよりも正確な情報が記載されており所々に目撃情報と思われる付箋がびっしりと貼られていた。
「おい、何してる。情報を共有するぞ」
便利屋が明日香を手招く。啖呵を切った手前そのまま飛び出していきたいところだが、先にも言われた通り黄色のジャケットの集団についての情報がなさ過ぎて捜索どころではなかった。明日香は諦めて、便利屋を中心に広がる輪に戻った。
目撃情報を纏めるとイエロージャケットは第24階層に拠点を築いていることが分かった。本来表面上、第20層より下の階層は上層階とはポータルで繋がっておらず、輸送用の巨大エレベーターなどを利用してでないと上がることが出来ないようになっている。しかしあまり知られていないが政府に管理されておらず反政府勢力に管理されているポータルを利用すれば、簡単に上層階へと移動することが可能となっている。加えてポータルの出口は自由に設定できるため、出口は市街地内に無数に存在する。
目撃した老人の話では、第肆階層の地下鉄駅周辺で『最近黄色い服の集団がよく出入りする』という浮浪者からの情報を掴んでいた。他のパン屋の店員や職人たちの話からもイエロージャケットの特徴と一致する容貌の目撃情報がある地点をリストアップする。
ポータルの出現可能地点を予想し、大熊猫が実際に使われた地点を特定、周辺の監視カメラにハッキングを掛け襲撃より少し前の映像を画面に映し並べる。そこには十数人のイエロージャケットたちが光学迷彩装備を着用して、ショッピングモールまで一直線に向かう様子が撮影されていた。
「助かったよ、ここまで詳細に調べてくれるとは思わなかったけど」
「いいんじゃよ、兄ちゃんには世話になってるからの」
「いやほんと助かったよ。……んじゃ今日の報酬です」
机の引き出しから現金をそのまま老人とその他二人に渡すと、三人は便利屋たちにお辞儀をして事務所から出ていく。老人たちそして便利屋たちのあまりの手際のよさに明日香は少々戸惑いを隠せなかった。
「あのニコさん……その、ごめんなさい」
「んや、気にしてないよ」
怒っていた女性を見ると便利屋に謝る姿をドヤ顔で眺めていた。
「そのあなたも申し訳ありませんでした」
「分かってくれればいいのよ。……お互い第一印象は最悪だったかもしれないけど今度は一緒に戦う仲間になるんだし、自己紹介しとくはね。アタシはアンジェ、整備士をしているわ」
「私は明日香と申します。よろしくお願いします」
「ちょっと、そんなに畏まらないでよ」
「まあ明日香さんはともかく、アンジェへの印象は最悪だろうね……それでニコこの後は?」
「地下街と工業地区の情報は今ウィルに確認中だ。アイツから連絡があるまで、明日香に今回の敵を明確に伝えておく必要がある。データベースから情報引っ張り出してくれ」
老人が作った地図を壁から剥がし、壁にラップトップの画面を映し出す。シップでは出生届が出た時点から政府によって個人に関する全ての情報が管理される。当然一般的には公開されることはなく、政府内でも一部の人間にしか閲覧することの出来ない機密として扱われているが、大熊猫には破れないセキュリティは存在せず、この通り簡単に中を覗くことが出来る。
映し出されたのは一人のキャストの情報と写真。写真は恐らく過去に撮影されたもので隣には便利屋の姿が映っていた。兜から伸びる一本の長い角、黄色のMA-1を着たそのダリルという男の姿に明日香は見覚えがあった。
「この人がエマを……」
「他のイエロージャケットはただの雑兵だがダリルは違う。かつてはアークスとして前線にも出ていた男だ、実際に剣を交えた経験があるなら奴の強さについては語らずとも分かるだろう。……奴は報酬さえ支払われればどんな仕事もやり遂げる。決して侮るな」
「はい」
「赤鬼相手になると準備は入念にすませないとね。……アンジェ、明日香さんに渡さなくていいの?」
「私に?」
アンジェはもぞもぞと横長の大きなバッグの中から一本のパルチザンを手渡す。原型はディムパルチザンと全く変わらないが、フォトン刃の形成箇所に何となく違和感を感じる構造をしていた。
「あなたの戦闘映像見せて貰ったんだけど、フォトンの保有量に対して武器側の出力が合ってないと思ってね、同型のものをアンジェに改良してもらったんだ。いつもより強めにフォトンを込めてみて」
大熊猫に言われた通り、いつもより強めにフォトンを流し込むと、赤いフォトンによって通常の倍程度の大きさの刃が形成された。
「アークスの武器って誰でも扱えるように作られてるからリミットが設定されててね、それ以上は出力されないように出来てるんだ。アンジェにはそのリミッターを外してもらったからこれで今まで以上に武器が使いやすくなると思うんだ」
先程よりも多く長い間フォトンを流し込むと刃は形状を変え、柄を包み込むように円錐型に形成されていく。
「これは……すごいですね!」
「アンジェは武器弄りの天才なんだ。あまり褒めると天狗になるから程々にしてね」
「ちょっと、余計なことは言わなくていいわよ」
「ありがとうございます」
「勘違いしないでね、ワタシはダーリンに言われたからそうしただけであなたの為じゃないからね」
「はい、ありがとうございます」
明日香は自分のアイテムパックに貰ったディムパルチザン改を収納する。
「地下街での奴らの動向が分かるまでにはもう少し時間がかかる。それまでにシャワーでも浴びて、戦いに備えてこい」
便利屋は明日香の肩をポンと叩いて再びラップトップの前に戻っていった。
腕の端末を起動して待ち受けで明るい笑顔を見せるエマの写真を眺めながら、絶対に助け出すという意思を固めた。
便利屋からシャワーを借り、浴室で身も心も清め、精神統一で心の準備を済ませ、事務所へと戻ってきた。そこにはもうアンジェや大熊猫の姿はなかった。奥の机に便利屋が突っ伏して寝息を立てる音、時計の秒針が進む音以外に音は無く、いつも騒がしい事務所が静寂に包まれていた。
「もう、こんなとこで寝てたら風邪引きますよ」
奥の部屋のベッドからタオルケットを引っ張り便利屋の肩に掛けてやる。眠る便利屋の表情は至極穏やかで、いつもの彼には見えない程綺麗なものだった。よく見ると意外と長い睫毛や、眼の下にホクロがあるのを見つけたり、耳に沢山ピアス穴が空いてるなど、様々な発見があった。
ふと、便利屋の頬に触れると、何かが身体に流れ込んできた。それは過去にも感じたことのある嫌な感覚。他人のフォトンが流れ込んでくるような気持ちの悪い感覚。それもただのフォトンではない、黒く穢れた死の匂い、ネガフォトンの奔流が明日香の心を攫う。
――人の飼イ主に手を出すなんて舐めてるのかしラ? 貴女?
暗く深い闇の中、怪しげに艶めく黒い海の中に立たされる明日香。身体は金縛りのように動かず、意識だけが正確に機能していた。背後には何者か、いや何かの気配を感じた。おそらく人ではない何かの気配。
――それも寝込みヲ襲うなんて卑怯な手を使うのネ
背後から前方に現れたそれは黒く艶やかな液体で形作られた獣の姿。流動的な身体に浮かび上がる赤い宝石のような眼玉。風を受けずとも自然にたなびく鬣はまるで人間の腕のようにも見える。
謎の獣が鼻を明日香の身体に近付け匂いを嗅ぐ。
――どうも静かだと思ったら、あなた彼ト同じ匂いがするわ、同類ネ
明日香の中の闇が蠢く。殻を突き破って今にも飛び出しそうな勢いに胸が苦しくなる。
――貴女の中にいるアナタも暴れたくてウズウズしてるようネ
――宿主なら、その子の欲求を叶えてあげるのも貴女の役目ヨ
獣の鬣が、流動的に動く不気味な腕が明日香の胸元に添わされる。鬣の腕が目に見えない何かを引っ張るような動きを見せると、胸に激しい痛みが走る。まるで心臓を握りつぶされてるかのような感覚。吐き気を催すような不快感が頭の中を支配して今にも気を失いそうな感覚。
動かなかった身体が闇に慣れ始め、辛うじて動かせるようになる。腕は依然何かを引っ張り出そうと虚空を強く掴み、その苦痛のあまり膝をつく。腕に抵抗しようと明日香は手を伸ばすが、その獣には触れることが出来ない。
「おい」
痛い、苦しい、誰か助けて。そう強く思った時、聞き慣れた男の声が聞こえた。手首を強く掴まれ意識を声の方に向けられる。目の前には便利屋の姿があり、周囲の風景も真っ暗闇から見慣れた事務所に戻っていた。時計の秒針が進む音を掻き消す様に頭に響く心臓の鼓動。肩で息をするほど呼吸を荒げ、額には汗をかいていた。
「大丈夫か」
思わず膝から崩れ落ち、その場にしゃがみ込む。真冬の寒空に立たされているかのように絶えの無い寒気に襲われ、思わず身を抱える。
過去のトラウマが蘇り、不安に苛まれて肩を震わしていると人の温かみが明日香を包んだ。蹲る明日香の身体を抱擁する便利屋。その身体は狂気的な闇を抱えた人物とは思えないほど暖かく、自然と明日香の不安を溶かしていった。
背後から抱きしめられた状態で少しの時間が経過する。
「落ち着いたか」
「……はい」
「立てそうか?」
「……はい」
脚に力を入れて踏み込むがあまり力が入らない。便利屋が手を差し出すが、その手を握ってしまったらまたあの闇の奔流が流れ込んでくるのではないかという不安で手を握ることが出来なかった。見兼ねた便利屋は脇に腕を通して持ち上げるようにして明日香を立たせた。
心臓の鼓動の音が小さくなっていき、脈も安定し始める。呼吸も整っていき、自然と意識もはっきりする。目の前に心配に顔を覗き込む便利屋の顔があり驚いて思わず二歩三歩と後ろに下がる。
「ん、やっと意識がハッキリしてきたな」
「はい」
「平気か?」
「はい。もう大丈夫です」
ちゃんとした受け答えが出来ることに安心したのか便利屋はキッチンに向かってコーヒーを淹れ始める。
「あのニコさん」
「ん?」
「さっきのアレは」
「……同じだよ。アンタがそこに抱えてる物と」
ダークファルス。深遠なる闇から産み落とされた破滅の偽神。明日香がその内に秘めてる闇と同じものを便利屋も抱えていた。それに何となく気が付いたのはリリーパで敵として初めて対峙した時、彼の力を目の当たりにした時だった。自身が抱えるものとは異なる形質の闇、明確な形を持たず、何処までを広がり続ける広く深い深淵。
「それと……ルツだ」
「え?」
「俺の名前だ。ニコはあくまで……社名みたいなもんだ」
テーブルにコーヒーが置かれる。コーヒーに口を付けながら純粋な疑問をぶつける。
「ルツさん」
「なんだ」
「貴方はどうやって……それを抑え込んでるんですか」
「何も。俺はコイツとの共生を望んだ、それをコイツが受け入れた。ただそれだけだ」
「そんなことで……?」
「そんなことでだ……もしかたらいずれアンタにも分かるときが来るかもな」
大熊猫が特定したポータルを管理していた仲介業者から連絡が入る。この手の連中は顧客の使用用途については言及しないのが業界の暗黙の了解だ。イエロージャケットの襲撃に加担したことなど微塵も知らないだろう。
第弐拾肆階層の一画、多くの製薬工場がある区画とは離れた場所にある、白い外壁の長方形の建物。その敷地内にある旧工場跡地に新設された同じく白一色の塔のような建物が、イエロージャケットが警備する『カースド』の拠点。
普通の製薬会社の工場では考えられないほどの厳重な警備が敷かれているのが大熊猫の友人からの情報提供により判明していた。
戦闘向きではない大熊猫やアンジェは拠点のすぐ近くで待機し、ルツと明日香がエマを取り戻すべく拠点に乗り込む。トラックごと拠点を目視できる距離までポータルで移動する。アンジェはアクセルを踏み込み、みるみるうちにスピードを上げ、正面入り口の固く閉ざされたゲートをぶち抜く勢いで前進していく。
「揺れるよ、捕まって!」
建物を警備するイエロージャケットの制止を完全に無視して前進するトレーラーに発砲するが防弾仕様のトレーラーはものともせず突き進んだ。警備員を巻き込む勢いで隔壁へと突っ込み、隔壁はボロボロと崩れ工場内部にトレーラーが急停止する。
騒ぎを聞きつけたイエロージャケットがトレーラーを囲む姿が車載カメラからトレーラー内部のディスプレイに映し出される。
「ルツ! 絶対にエマちゃん連れて帰んなさいよ!」
「あぁ、そのつもりだ」
トレーラ―のバックドアを蹴り開ける。最初にルツを迎えたのは名も知らない雑兵だった。しかし便利屋は幾許もの銃口を向けられながら感覚を研ぎ澄ませ、辺りを見渡す。
「ったく結構いやがんな……。俺が道を開けるから、アンタはエマを頼む」
言われた通り明日香はルツを置いて先に進む。その背を追いかけようとする傭兵の後ろから弾丸を撃ち込む。そこにいる全ての敵を引き付け明日香をエマの元に向かわせる。
トレーラーを囲む包囲網のおおよその人数を数えると銃に弾を込め包囲網へ突っ込む。まるで全てがスローモーションに見えているように無数に飛び交う銃弾を掻い潜り包囲網に飛び込み、雪崩れ込むイエロージャケットたちの額に確実に穴を開けていく。その眼に躊躇いはなく確実に命を奪うという強い意志が感じられた。銃と同時にナイフや簡易地雷を巧みに操り兵士たちが次々と傭兵たちが死体となり果てていく。アルバス製薬をの清廉潔白なイメージで作られた白一色の工場が徐々に赤く血に染まっていく。
蟻のように巣穴から雪崩れ込む傭兵たちの相手に気を取られていると背中を突き刺されたような痺れに襲われる。背中に撃ち込まれた電極から高圧電流が身体に流れ込み、身体から影が溢れ出す。
「電気と共に強力なフォトンを流し込まれたら、多少なりともDFに影響はあるようだな」
ダリルを先頭としてフォトミニウム合金製の黒いパワードスーツを装着した集団がテーザーガンを構えルツを囲む。ダリルの合図で順番にテーザーガンを撃ち込み電極が背中に、脚に、腕に撃ち込まれ激しい電撃がルツの身体を巡る。全身がバチバチと帯電し、藻掻き苦しむ姿が見て取れる。服の袖口や裾から真っ黒い影のような瘴気が絶え間なく流れ、ダリルたちの足元に淀む。
「アァァ、痛っデェなぁ電気は嫌イなんだよ……」
ルツの声に女性の声が混ざり聞こえる。ダリルの足元の瘴気は別にルツの周囲を漂う瘴気が顔に纏わりつくように集まり、黒い靄]に十三個の赤い宝石のような瞳が浮かびあがる。
パワードスーツの集団がテーザーガンを捨て、アークス製のアサルトライフル、ディオティグリドルを構え一斉射撃を行う。ばら撒いてるようで確実な射撃による弾丸はルツの姿を捉えてはいるが、それがルツに当たることはなかった。払うようにして振った腕から伸びた黒い液状の腕が、銃弾から身体を守る盾のように拡がり、黒い澱みの中に弾丸を沈めて吸収していく。
黒く触手の様に伸びた腕が元の場所に戻ると、鉛の塊となった銃弾を吐き出される。ルツを含むその場の全員の足元には黒く澱んだ沼が広がり、足を捕られる。
「見ない間に随分化け物に近付いちまったみたいだな、ルツ」
イエロージャケットたちの死体が積みあがった研究所前に現れたのはアークス製の振動剣『HFBブレード』を握ったダリルだった。
雑兵相手に使っていたリボルバーを手放すと足元の沼に落ち、飲み込まれていく。すると入れ替わるようにして沼の中から白い鞘の刀が浮き上がり、ルツの手の中に納まる。
「御託はいい。アンタは契約、俺はエマの為に戦う。それだけ分かってれば十分だ」
「つまらん奴だ」
脱力し、だらりと項垂れ、腰を低く強く踏ん張る。地を蹴り一瞬でダリルの懐に潜り込むと下から切り上げ頭の角を折る勢いで斬りかかる。だがダリルも熟練の戦士、瞬時に間に振動剣を挟み、斬り込みを受け止める。
他の追随を許さない剣戟は目にも留まらぬ速さで繰り広げられ、常人はその残像を目で追うのもやっとな程だった。
ルツの刀を弾き上げ、腹部に鋭い蹴りを入れ、ルツの身体が重力に逆らって浮き上がる。人間離れしたキャストの脚力で飛び上がると両手を組んで振り下ろし再度腹部に重い一撃を見舞う。重い一撃が腹に刺さり重力に逆行した身体は地面に突き刺さるように落下し、土煙が巻き上がる。飛び上がったダリルが着地するタイミングを計っていたように土煙の中から黒い影が飛び出し、足元を刈り取らんとする。一閃が煌めき剣圧によって生み出された衝撃波が飛ぶ斬撃となって襲い掛かる。
ダリルは同じく刀で斬撃を相殺し火花を散らす。ぐるりと刀を弄び、鏡面の刀身にお互いの姿を映し出し、息を吐く。
「流石にしんどいな……」
「はは、まだウォーミングアップ程度だぜ? もう疲れちまったか?」
「俺ももう歳かぁ?」
「じゃあ、ここらで退場願えるか」
「冗談抜かせ。だが一人じゃ辛いのも事実だ、ここからは若い衆にも活躍してもらおうか」
「いいねぇ、こっちも『コイツ』が暴れ足りないって言ってきたところだ」
ルツの足元の黒い沼が一帯に広がり水面が小さく波打ちながら揺れる。ルツの足元の沼の中を、何かの背びれがぐるぐると泳ぐ。
足元に潜む未知の存在に息を呑む。ダリルが手を振り上げ合図を送るとテーザーガンを構えていたパワードスーツの集団がダリルと同じ刀に持ちかえ刀身に電流を走らせる。ダリルの前で隊列を成して並び、準備万端の意志を示し、ルツの口が弧を描く。
「さぁ、踊れ――」
「エマぁ!」
明日香の声は届かずエマは深い眠りについていた。
「まったくしつこい奴だ」
エマを物の様に担ぎ上げ去っていった研究服姿の集団にようやく追いついた明日香はエマを担ぐ巨漢の男にすごむ。
「エマを解放しなさい」
「エマ? あぁこのガキのことか、なんだ名前なんか付けて飼い慣らしていたのか?」
巨漢の男は、となりの細身の男にエマを渡すと白衣を脱ぎ捨て強靭な肉体を露わにした。最新のサイバネティックによる鋼で出来た筋肉が体中を覆い、筋繊維のような筋が青く光り輝く。グパッと顎を開き、蒸気を口から排出する動きはおよそ人と言えるものか怪しかった。
「間違ってもらっちゃ困るが、コレは元々俺たちの所有物だ。それを奪ったのはお前たちの方だぜ」
「エマは物じゃない、一人の人間だ」
「これは俺たちが作った武器だ。人間だと? 笑わせてくれるぜ」
おい、と細身に何か合図を出すと細身の男は手に持っていたアタッシュケースからプラグのついたケーブルと端末を取り出し、エマの身体に張り付けていく。それを見た明日香がやめさせようと近付くも立ちはだかる巨漢の男。俊敏な動きで細身の男の背後に回ろうとも明日香を上回る速度で回り込む男。
「ツシマ、3706号の調整を急げ、最終チェックにこの女は丁度いい」
明日香の変異した腕が伸縮し、男の身体を数メートル後方に退かせるほどの重い拳を喰らわせても男は身体の前で腕を交差させ重い一撃を受け止める。
「邪魔をするなぁ!」
「崇高な研究を邪魔しているのは貴様だぁ!」
明日香は地面を蹴って殴りかかる。男もまた拳を突き出し飛びかかる。双方の腕が交差しそれぞれの頬に拳が衝突する。口端から血が出るも、痛みを忘れさせるほどアドレナリンが上昇した二人はそのまま連続で拳を打ち放つ。
千手観音の如く幾許もの腕が具現化したように思える二人の猛攻は周囲の誰をも寄せ付けない衝撃波放っていた。空間そのものが捻じ曲がるような強力な力のぶつかり合い。
「デクスター博士、装置が壊れてしまいます!」
「ちぃっ!」
端末に繋がれた3706号もといエマに視線を移した瞬間を狙った明日香の正拳がデクスターの側腹部を捉え、研究棟の壁にめり込むほどの勢いで吹き飛ばされ、研究棟全体が激しい横揺れに見舞われた。
「ぐはぁっ!」
内蔵をやられたか激しく血を吐き出し倒れるデクスター。明日香の化け物染みた怪力にデクスターの助手、津島は怯えエマの首元にインジェクターを添える。
「来るなぁ!それ以上近付けばこのガキの命は無いぞ」
「どこまでも卑劣な!」
「ま……ま……」
騒ぎに目を醒ましたエマが首に突き付けられたインジェクターに怯えている。
「待っててエマ、今助けるから」
じりっとにじり寄る明日香。
「ぼ、僕はそれ以上近付くなと言ったんだぞ!」
津島はインジェクターをエマの身体に差し何かを注射する。
「う、あ……――――――――!」
声にならないエマの喘鳴は研究棟内に響き渡り地響きを起こした。明日香とデクスターを除き津島を含み、明日香達を取り囲んでいた研究者と傭兵たちが苦しみ出しエマ同様に喘鳴上げる。
「一体何が」
「ローレライのリミッターを解除し、暴走を意図的に引き起こしたのだ」
口端に血を垂らしたデクスターが壁に寄り掛かりながら言った。
「ローレライは元々特定のナノマシンをターゲットとして、細胞に伝播する命令信号を上書きするものだ。だが、3706号は更にその上の段階まで進化した我々の実験の最高到達点なんだぜ……」
ぜぇぜぇと息を切らし、誇らしげに語るデクスター。
「ローレライの進化によってアレは、一定数値以下のフォトン保有量の人間全てに作用してその脊髄や脳を支配し、全身の筋肉に与えられる命令信号を上書きする。こうすることで自身の意思に関係なく身体を意のままに操ることができる。今回貴様らがこうしてコレを奪い返しに来ることは夜叉より事前に聞いていたからな、お前ら用に特別な命令式『ネガフォトンを有する者の強制排除』を組み込んでおいたのだ!」
「どうして、そのことを」
「知られていないとでも思ったか、お前は自分自身が思っている以上に我々の業界では注目を集めた実験対象なんだぜ。ダークファルスを宿しながらも正常な精神を保っている数少ない存在『DOOMS』 なぁ、どうやってその力を押しとどめているんだぁ?」
「黙れ」
「アークスが解明できてない数少ないダークファルスという存在と貴様はどうやって共生している、なあどうやってるんだ!」
科学者としての好奇心が全面に押し出た少年のような無邪気な問いを掛ける口を変異した腕で塞ぐ。
「黙れと言っている」
「ぐはぁっ!」
陥没する壁に更に押し込むように強く叩きつける。ゴキっと嫌な音共に津島の鋼鉄の脊髄が歪に曲がり鯖折りされたような態勢で地面に転がり、壊れたラジオのように、なぁなぁと延々と明日香に語り掛ける。
喉を枯らし喘鳴が聞こえなくなる頃、デクスターや津島を囲んでいた私兵たちが理性を失い、口をだらしなく広げ涎を垂れ流しゾンビのように覚束無い足取りで明日香に接近する。武器を持った兵は武器を振るい、何も持たない兵は無い爪を振るうように掴みかかってきていた。
「くっ!」
前腕に生えた刃のように変形した鋭利な棘を伸ばし鞭のように扱いゾンビの足首を刈り取る。足首を失ったゾンビは痛みを感じている様子はなく傷口で立ち上がったり、地面を這って尚も近付く。眼窩に爛々と輝く瞳の光はヒトのそれではなく獣のそれだった。腕を削ぎ落としても、足を刈り取っても、腹を切断してもなお動くソレには思わず吐き気が込み上げる。
倒しても倒しても復活し襲い掛かってくるゾンビの動きがピタっと止まったかと思えば、再びまた動き出す妙な動きをし始めた。動きが止まった一瞬に首を切断し再起不能にしていく中でエマが己の力に抗い戦ってる姿がゾンビの津波の奥から目に飛び込む。
「エマ!」
腕を伸ばしエマの肩を優しく掴み瞬時に腕を縮め覆いかぶさるように優しくエマの身体を抱擁する。
「大丈夫だから、大丈夫よ」
明日香の腕の中で苦しみながら声にならない喘鳴を叫び暴走する力に抗うエマ。
研究棟の外からもエマの<唄>に反応したゾンビが集結し覆いかぶさる明日香の背中に容赦なく武器を突き立てる。
背中には幾本もの剣が突き立てられ口端から血を流しじっと耐え続ける。
「大丈夫……大丈夫よ」
「ま……ま……」
変異していた腕が人間のそれに戻り、ヒトの温もりがエマの身体を包み込む。
「撃てっ!」
命令と共に明日香中心に覆い尽くすゾンビのような者たちの出来たシェルターの一部が炸裂する。派手に血飛沫を上げ見るも無残な姿になり吹き飛んでいく。地面を揺らすような轟轟とした銃声でゾンビたちは次々と吹き飛ばされ、覆いかぶさっていたゾンビたちが払われる。
何者かの声に振り向くとそこには白いコートのような形状の戦闘服を身に纏った別の集団が明日香達の周りを囲っていた。白いコート集団の垣が割れ、現れた黄緑色の髪の男性は情報参謀本部主席のカスラ、そしてエマに瓜二つの少女だった。
「どうやらギリギリ間に合ったようですね、安心してください、我々はあなた方を助けにきました」
「貴方は六芒均衡の……」
「事態は急を要しますので、我々についてはまた後程」
エマに瓜二つの少女が小走りでエマに駆け寄り、額を撫でる。すーすーと寝息を立て眠るエマに安心したようにエマの手を頬に寄せる。『医療共同体:L.I.F.E.』の腕章を付けた看護官たちが明日香の腕の中からエマの身体を離し担架に乗せ、何かを注射する。
「安心してください、安全な鎮静剤です。貴女の傷も治療しなくては」
三人の女性看護官が明日香を担架に運び眠るエマの横で怪我の治療を始める。
突如現れた情報参謀本部の重鎮と医療共同体の看護官の到着に状況を飲み込めなかった明日香だったが疲労感からか中々思ったことが口に出ない様子だったそれを察してくれたのか、カスラの方から状況の説明を始めてくれた。
「我々もアルバス製薬の裏にカースドが潜んでいる情報は掴んでいました。カースドの研究所に拉致された子供たちの救出作戦が水面下で進行していたのです。貴女たちが研究所を強襲してくれたお蔭で便乗して表立って作戦を進めることが出来ました。あなた方のおかげで捕らえられていた子供たちも既に全員こちらで保護しております」
「この子は、エマは……どうなるんでしょうか……」
「彼女はこのあと医療共同体が有する医療艦に移送され、そこで集中治療を受けさせます。一切の音を遮断する専用の治療室で手術を行います。治療中に《ローレライ》を発動されてしまっては看護官たちの身も危険ですので」
「そこは本当に安全なんでしょうか……」
「私が知る限り他のどの医療機関よりも安全な場所と言えるでしょう」
明日香の簡易治療が看護官がモノメイトを渡す。
モノメイトを吸引していると地響きと共に轟々とした音が近付き、研究棟の入り口を抉り取るように、隔壁が破壊される。
白いコート形状の戦闘服の一団が明日香やエマ、カスラ、看護官たちを爆風から守るように覆い被さる。流れ込む風によってすぐに土煙が晴らされ外の光景が目に飛び込む。
黒く艶やかで不気味な液体が付着したイエロージャケットたちがあちこちに転がり、研究棟周辺の地面は小型の流星群でも落下したのかと疑いたくなるほどボコボコになっていた。中でも一際大きなクレーターの中で凄まじい攻防を繰り広げていたのは、赤鬼と呼ばれたキャストの男と、見たこともない姿の化け物だった。
獣のような四足歩行に特化した身体、胸は裂け刺々しい肋骨が露わになり中で怪しげな光を放ち鼓動する心臓と思わしき物体。人間の腕のように不自然にたなびく鬣、鬣との境界線の分からない頭部には巨大な口が備わっている。烏賊の触腕のような尾を持ち、泥のような流動的な身体の中に浮き上がる赤い宝石のような眼。
ルツに触れた時に、ルツの中の闇で見た不気味な怪物と似た姿。
「ルツさん……?」
明日香の前にカスラが立ち、白いコート集団が隊列を組んでクレーターを囲み、怪物と赤鬼に銃口を向ける。
戦闘に夢中だった双方は周囲の気配に気が付き攻撃の手を止め、クレーターのふちに立つカスラを見上げる。
「ほう、これはこれは……誰かと思えばシュツルム・リヒターの皆様じゃあないか」
余裕げな態度とは裏腹にダリルはかなり消耗した様子で、左腕は肩から先が著しく破損しており中から人間でいう血管に等しいであろうチューブ類が露出した状態となっており、身体のあちこちに傷が目立つ。
「銃口を向ける相手を間違っちゃいないか? 向けるべきはこっちの化け物だろう」
「連邦艦隊刑法66条に基き、貴方を執行する権限が我々にはあります。我々とて無駄な血は流したくありません。武器を捨て投降してください」
ダリル同様に銃口を向けられた化け物は訝し気な視線を周囲一帯に送る。爛々とした赤い眼光に見つめられ、背筋が凍るような感覚がシュツルムリヒターの隊員たちに奔る。
空を仰ぐようにして咆哮を上げ、苦しんでいるようにも聞こえる金切り声が研究施設全域に響き渡る。不愉快な音と共に化け物の身体がドロドロと液状に変化し、中心から人の姿が浮かび上がる。上半身の衣服がボロボロに開けたルツが濁流の中に佇み、濁流は足元の影に吸い込まれていく。
ダリルは依然、残った右手に刀を握りしめ、武器を捨てる素振りは見せない。
「相変わらずアークスってのは生温い考えの奴が多いな。今ここにいる全員、あの世に送ってやってもいいんだぜ?」
「第弐拾玖階層の惨劇》のようにですか?」
《第弐拾玖階層の惨劇》という単語を聞くとダリルはにやりと笑みを溢し、一歩踏み込む。化け物もといルツに向けられていた銃口までもがダリルへと向く。
「二度は言いません。我々の準備出来ていますよ、もとよりそうなる可能性を考慮してきています」
カスラが手を振り上げるとクレーターより更に外の何処からか向けられたポインターがダリルの額に集束する。
シュツルム・リヒターの隊員たちがヘルメットの下で息を呑む。目の前の男にはここにいる全員を葬り去る力とそれを証明する過去があったからだ。風も凪ぎ静寂の中、緊張が走る。
「ダリル、無駄に命を消費するな、遊び足りなかったら獄中でいくらでも付き合ってやるぞ」
ルツの言葉に振り返った瞬間、背中に電極が撃ち込まれダリルの全身に電流が走る。
「確保ー!」
シュツルム・リヒターの隊員が十数人がかりでルツとダリルを取り押さえにかかり、それぞれに手錠と足枷を装着する。荒っぽい装着に暴れるダリルと、うつ伏せで身動きが取れなくなった状態で頭だけを動かし、眉を下げ困ったような笑みを浮かべ明日香を見るルツ。
「ルツさん……」
生産工場の敷地内に続々と集結する救急車と護送車の列。明日香とエマは救急車に、デクスターやダリル、ルツは護送車へと運び込まれた。
発車した救急車の窓から外を見る明日香の目にはアルバス製薬の生産工場と併設された研究棟には警官たちが押し寄せていく後ろ姿が映った。
その後、第2層階の医療施設に運び込まれた明日香たちは適切な治療を受け、安静を言い渡された。エマは情報参謀本部主席カスラの警護のもと医療共同体が所有する隔離病棟艦イルシールへ移送され、体内に埋め込まれた違法ナノマシンと唄の発声器官の摘出手術を行う手筈が整っているらしい。鎮静剤の効果もあってエマは静かに眠ったまま、同じ施設で育った子供たちと共に連れていかれた。
あとから聞いた話によれば、研究施設に居たカースドの構成員とイエロージャケットたちは全員もれなくシュツルム・リヒターによって全員捕縛され、重犯罪者の収容される監獄へ送られたらしいが、研究主任のホワイトと研究員の津島だけは行方が掴めておらず依然逃走中だという。
逃亡中の構成員が研究を邪魔した明日香に復讐に来る可能性を考慮し、一時的な措置として病院の警備にはシュツルム・リヒターが当たることになった。
「貴女の身柄は一度私たち医療共同体が預かります。身の安全が保障されるまでしばらくアークスとしての活動は制限されます。軽い休暇だと思ってこれを機会に身体を休めてください」
医療共同体局員の腕章を付けたの女性がベッドの横に立ち、カスラからの伝言を明日香に渡す。女性の声に耳を傾けつつ窓の外を眺めるとそこにはエマくらいの年齢の子供たちが運動場で楽しそうに走り回る姿が見えた。
「それと、これはカスラ様から明日香さん宛てに預かった書類です」
三冊ものバインダーと紙媒体の書類を渡される。一番上に置かれたバインダーの背表紙には《DOOMS》と銘打たれていた。情報参謀本部が独自に調べ上げたダークファルスの存在だった。アークスでは公表されているダークファルスは【巨躯】【若人】【敗者】【双子】の四体のみとされているが、明日香がそうであるようにその身にダークファルスを宿したアークスというのは少なからず存在していた。
「あの看護師さん、聞いてもいいですか」
「はい、なんでしょうか」
「《DOOMS》って何なんですか?」
看護師は説明した。《DOOMS》とは情報参謀本部やそれと類する機関や企業内で呼ばれるダークファルスを身に宿した人物たちの総称だという。破滅の運命を背負った者達という意味を持つらしい。
アークスにとってダークファルスとは、元来絶対悪として認識してきた倒すべき敵性存在、眷属を率いるダーカーの王。そんなダークファルスを身に宿した人が良き隣人として暮らしていたらどうだろうか、本人の人の良さを幾ら知っていようともその身に秘められた強大な力に人々は不安を隠せないのは必至だろう。故に宿主がアークスであろうと、力を持たない市民だろうが、脅威となるべく芽は摘んでおくのが吉として、密かに監視され続けているのが《DOOMS》と呼ばれる人々だった。
「中でも危険とされている《DOOMS》が貴女もよく知っているあの男なの」
ダークファルス【[[rb:死穢 > ドゥルジ]]】 五年前アークスシップ内で顕現が確認されたダークファルスで、宿主はルツ。現状眷属は確認されず、顕現も五年前の一度きりだった。それが昨日二度目の顕現が明日香やカスラたちの前で確認されたのだった。
「噂ではダークファルスとも異質な存在じゃないかって言われてるらしいです。本当の所はどうか分からないんですけど」
「ルツさんは今どこに」
「ごめんなさい、私の口からそれをお伝えすることは出来ないの」
「そうですか」
再び自分の手元のファイルに目を通していくが、DOOMSファイル内に明日香の名は記されていなかった。
(アークスの方にはバレていないようだけど、あのデクスターとかいう奴は私の過去を知っていた……)
二つ目のファイルのタイトルには《第弐拾玖階層の惨劇》と書かれ、カスラがダリルに言った言葉を思い出す。その単語がカスラの口から零れるとダリルは笑みを溢し、シュツルムリヒターの隊員たちは息を呑んだ。ファイルには十五年前当時の新聞記事の他、事件の詳細をまとめた著作の抜粋などがファイリングされていた。15年前、第29階層で発生した凄惨な事件、一つの傭兵部隊がとある研究施設を襲撃し、施設内の人間を虐殺したという事件。公安局の特殊部隊が現場に到着した時点で傭兵部隊は鎮圧されたものの、生存者はたったの五人のみでそれ以外の百人近くの人々が命を落としたという。
事件発生後の公安局の調べにより、そこは虚空機関の関連施設と判明し、研究員が各国の戦争孤児などの身寄りのない子供たちを実験台に非人道的な研究を行っていたことが明白になったという。惨状の中なんとか生き延びた五人の他に、襲撃以前に別施設へ移送されていた一人は後に全員が《DOOMS》としてリストに登録されていることからその研究施設はダークファルスについて独自に研究をしている機関だということが判明したらしかった。虚空機関はこの件については、件の研究施設の暴走行為として関与を否定していたが、二年前の虚空機関総長の一件から再び組織全体の共同研究ではないかと関与が疑われているらしい。
「こういうきな臭い事件の大体に関与してますよね虚空機関って」
「やっぱり二年前のこともありますし、どうもいいイメージはないですよね……あ、もうこんな時間」
三冊目にも目を通そうとした時、明日香の膝上の書類たちが退かされる。
「そろそろ先生の所に検診に行かないといけませんね」
「あ、はい」
三冊目が気になり、サイドテーブルに手を着く時にタイトルだけを確認し看護師のあとに続いた。
タイトルは《ドルグワント石盤》