そもそも、『草木図説』を論じるにあたって、著者の飯沼慾斎について触れなければ話は始まらないと思うので、この項では慾斎の生涯や交友関係について述べる。慾斎は、伊勢国亀山(現・三重県亀山市)にて商人・西村信左衛門守安と妻・登勢のあいだに次男として生まれた。「慾斎」は晩年の名のりで、平生は「長順」と名乗ったが、本稿では「慾斎」で通すこととする。
幼少期
西村夫妻はもともと美濃国大垣(現・岐阜県大垣市)の人で、西村家の分家筋の一つの「大垣西村家」の人であったが、経緯は不明ながらも家族総出で大垣から亀山に移っている。父親は慾斎の生まれたころは生業がはっきりしていなかったため、一家は貧窮を極めた。そこへもってきて、慾斎の幼少期は天明の飢饉(江戸時代の中でも最もひどい飢饉であった)の真っただ中で、生活は一層苦しかった。慾斎の親友・江馬活堂(1806~1891)によれば、「初め貧にして、幼なるときツケギ*1を売」らなければならないほどであったという。そうした中で、一家は亀山西村家の営んでいた豪商「鮫屋」を手伝うことで、口に糊することができていた。「鮫屋」は飢饉の間も事業は順調で、当時飢饉にあえぐ何人もの人々を救っていることから、慾斎ら一家を養っても懐は痛まなかった。
とはいえ、慾斎はこうした家庭環境に何かしら思うところはあったのだろう。『7歳か8歳(以下、年齢は数え年)のころ、乳母に背中に負ぶわれているとき、「凡そ大丈夫たる者は片田舎の僻地で一生を送るのではなく、都に出て広くいろいろなことを学び、そうして志を高く持って高名を得たいものだ」と述べていた』という逸話が知られている。わずか7歳か8歳の子供の発言にしてはやや出来すぎているような気にさせられるが、自身の生まれ育った土地に対して幼いうちから愛着が持てなくなった少年の心情が感じられて、悲しい。そうして慾斎は数えで12歳の時、学問で身を立てることを志し、単身、美濃国大垣に戻った。母方の叔父で町医であった飯沼長顕(龍夫)の営む私塾・桐亭塾に入塾し、そこで6年間儒学や医学の勉強に励んだ。
青年期・壮年期
18歳の時、大垣を出て京に赴き、かつて朝廷の侍医であった福井榕亭に学び、漢方医を学んだ。当時、蘭方医が日本である程度知名度は高まっていたとはいえ、まだまだ漢方医学が隆盛で、医師を志す者の多くは漢方医学を学んだ。やがて漢方医の知識を確実に身に着け、22歳で大垣に戻り、長顕の娘・志保と結婚した。そうして、叔父の跡を継いで飯沼姓と叔父の「龍夫」の名を名乗り、大垣の俵町で開業した。漢方医として妻子を養う中、薬を処方するにあたって、その原料となる植物や動物を扱う本草学に興味を覚えた慾斎は、当時京都において本草学の大家として高名であった小野蘭山に弟子入りした。蘭山は積極的に野山をめぐって植物を採集するなど、現代でいうフィールドワーカーのはしりであった。蘭山のもとには慾斎以外にも多くの人物が弟子入りしていたが、本人は本草学を名誉欲や金銭欲のために利用することを嫌っていたという。
28歳の時には、妻子を親類に預けて江戸に出た。江戸遊学も、やはり純粋な知識欲からくるものであった。ある日、慾斎は友人から蘭学について教えられた。当初は大垣で蘭学を学ぼうとしたが、そこで得られた知識量は知れたもので、満足しなかった慾斎は江戸へ出た。とはいえ、潤沢な予算があるわけではなかったため、学費のために家財すら叩き売ったほどであった。そうして、妻子を親類に預けてから単身江戸に出て、蘭方医・宇田川玄真(榛斎)に蘭方医学を学んだ。飯沼家と宇田川家の縁はこののちも続き、のちに慾斎の三男が玄真の養子・宇田川榕菴の養子に入っている。余談だが、榕菴は植物学に興味を抱き、最古の近代的植物学の教科書「菩多尼訶経」を著したことで知られている。
そうして、慾斎は江戸での遊学を1年足らずで終了し、大垣に帰った。ほどなくして、江戸で得た西洋医学の知識をフル活用するために蘭方医として営業を始めた。大垣では慾斎の蘭方医としての名声は高まり、全国各地から慾斎に蘭学についての教えを乞う者が多く現れた。やがて、45歳の時には、藩から藩主への御目見えと帯刀が許された。本来、帯刀を許されるのは武士や藩医、将軍や朝廷の侍医などごく限られた身分のみで、一介の町医者であった慾斎が台頭を許されるというのは異例のことで、かつ大きな名誉であった。この翌年、慾斎は藩の許可を得て、弟子で高須藩(現・岐阜県海津市)の藩医・浅野恒進と共に死刑囚の遺体の解剖を行った。1745年に京で行われた漢方医・山脇東洋による初の人体解剖以来、時代が下っていくらか西洋医学の知名度が高まったとはいえ、人体解剖は美濃では初めてのことであったことや、人体解剖への抵抗や嫌悪感は当時いまだに多少なりとも残っていたことで、慾斎や解剖に立ち会った弟子たちは無理解からくる誹謗中傷にさいなまれた。
晩年
50歳になった慾斎は家督を義弟に譲り、平林荘という別荘で隠居生活を送っていた。その頃には加齢による体調の衰えや、前述のように解剖に対する誹謗中傷により、肉体的にも精神的にも疲弊していた。60歳ころには一層自室にこもるようになり、深刻な精神状態になってしまっていた。ところが、62歳になってから慾斎は突如として発奮し、植物図鑑『草木図説』の作成に着手した。「慾斎」の名は若き日の自分が知識欲の塊であったことを思い出してつけたものであった。
『草木図説』執筆の最中、尾張出身の植物学者で、尾張や美濃の野山で植物を観察するサロン「嘗百社」を結成していた伊藤圭介(1803~1901)らと知り合い、慾斎はそのサロンにオブザーバーとして加入させてもらい、伊藤や本草学者・山本章夫と親交を持った。伊藤はかつて長崎に赴いた際、シーボルトに学んだ。そうして植物を所属する科ごとに分類する、カール・リンネの考案した「分類法」をシーボルトから教わり*2やがてスウェーデン出身の植物学者・ツュンベリーの著した『日本植物誌』をシーボルトからもらい、これを翻訳した『泰西本草名疏』を執筆していた。伊藤はその「分類法」を慾斎に教授し、慾斎はそれを自らの著書に取り入れたのであった。さらに伊藤は、カフ型顕微鏡を慾斎にプレゼントした。これにより、慾斎は雄蕊や雌蕊など、植物の細かな部分を観察することができるようになった。慾斎は『草木図説』と手掛けながら、『本草図集』11巻、『南勢菌譜』6巻、『南勢海藻譜』1巻、『南海魚譜』4巻、『林氏訳稿』14巻、『植物用語対訳』『雑筆記』などの著作を手掛けた。
慾斎は年老いてもなお植物研究へ情熱を注いだ。二人の植木職人とともに、よく平林荘近くの山に植物採集に出かけた。やはり高齢ということで、足を痛めることはしょっちゅうであったが、それでも山駕篭に乗って植木職人に駕篭を運ばせ、山奥まで入って採集を行った。植物の研究に力を注ぐ傍ら、蘭方医として往診も行っていた。70歳のときには『草木図説』の「草部」の下書きを完成させたのち、生前に4回にわたって『草部』を『草木図説前篇』名義で出版した。最晩年には西洋文明へ興味を一層深め、藩の命で大砲用の火薬の研究を行い、また写真の研究もおこなった。現在、慾斎の写っている写真と妻・志保の写真のガラス湿版と紙焼き版が数枚、早稲田大学図書館に保存されている。ペリー来航の折は、慾斎の評判を聞きつけた幕府が蕃書調所への出仕を要請したが、こちらは71歳と高齢のため出仕を断っている。余談だが、同時期に仕官の誘いを受けた伊藤圭介はまだ50代半ばで体の自由は大いに利く年齢であったため、幕府の求めに応じて江戸に住まいを移し、維新後は東京大学の理学博士に就任した。
1860年、「シーボルト事件」のほとぼりが冷め、シーボルトが再来日する。当時78歳の慾斎はかねてより圭介からシーボルトについて話を聞いていたので、シーボルトの再来日の報を知るや、シーボルトに面会し、自身の採取した植物の同定をしてもらう計画を立てたが、親族の不幸が重なり、さらにその2年後にシーボルトが帰国してしまったため、面会はかなわなかった。
1865年、慾斎は不帰の客となった。享年83歳。法名は「徳量院道全寿覚」。