ファンタジーRPGで参考するための戦史の調査

Last-modified: 2019-01-14 (月) 02:57:24

(作成中20190113~)


ファンタジーRPGにおける冒険の舞台や背景として、戦争を取り扱うことがあります。そのようなゲームにおける参考のため、古代から近代における有名な戦闘をリストアップしてまとめてみました。

 

記載内容は各項目でリンクを張っている「フリー百科事典」Wikipediaの記述を参考にしています。引用している画像はリンクしているページ内にあるもののうち、パブリック・ドメイン画像の解像度を変更したものです。

 

 

【有名な戦闘のリストと戦力推移の概観】
まず有名な戦闘を年代順にリストアップしてみました。古代から中世における戦闘に参加した兵数は諸説あることが多く、その中から現在の主流と考えられる兵士数を記載しています。

 
西暦戦いの名称勝者(兵数)敗者(兵数)
-480テルモピュライの戦い(ペルシア戦争)ペルシア(60000)スパルタ、他(7000)
-480サラミスの海戦(ペルシア戦争)アテネ、他(76000)ペルシア(136800)
-479プラタイアの戦い(ペルシア戦争)ギリシア連合(110000)ペルシア(300000)
-333イッソスの戦い(大王東征)マケドニア(40000)ペルシア(108000)
-316ガビエネの戦い(後継者戦争)アンティゴノス軍(31000)エウメネス軍(43000)
-216カンネーの戦い(ポエニ戦争)カルタゴ(50000)ローマ(80000)
-202ザマの戦い(ポエニ戦争)ローマ(50000)カルタゴ(60000)
200官渡の戦い(三国時代)曹操軍(10000)袁紹軍(100000)
208赤壁の戦い(三国時代)孫権・劉備連合軍 (50000)曹操軍(200000)
1099アスカロンの戦い十字軍(第一回)(10000)ファティーマ朝(30000)
1346クレシーの戦い(百年戦争)イングランド連合(12000)フランス連合(35000)
1364オーレの戦い(百年戦争)イングランド王国(3500)フランス王国(4000)
1429オルレアン包囲戦(百年戦争)フランス連合(5000)イングランド王国(9400)
1455St.オールバンズの戦い(薔薇戦争)ヨーク派(3000)ランカスター派(2000)
1461タウトンの戦い(薔薇戦争)ヨーク派(36000)ランカスター派(42000)
1485ボズワースの戦い(薔薇戦争)ランカスター派(5000)ヨーク派(8000)
1560桶狭間の戦い(戦国時代)信長軍(6000)今川軍(25000)
1805アウステルリッツの戦いフランス(73000)ドイツ、他(84500)
1815ワーテルローの戦いイギリス、他(68000)フランス(72000)
1836アラモの戦い(テキサス独立戦争)メキシコ共和国(1600)テキサス独立派(250)
1916ソンムの戦い(WW1)*人数は概算連合軍(1500000)同盟軍(1500000)
1942スターリングラード攻防戦(WW2)ソ連軍(1700000)ドイツ軍、他(1040000)
1944ノルマンディー上陸作戦(WW2)連合軍(1332000)ドイツ軍(380000)
 

それぞれの社会の人口に占める兵士の割合は、それぞれの社会構成などによって変わってきます。しかし、だいたい人口の1%~2%くらいが人口に対して維持できる兵士の数と言われています。

 

【古代の戦闘】

  • -480:テルモピュライの戦い(ペルシア戦争)
    • 勝者 ペルシア(60000)vs敗者 スパルタ、他(7000)
    • クセルクセス1世の率いるアケメネス朝ペルシアによるギリシア侵攻における戦闘の一つです。ペルシアの大軍に対してスパルタを主としたギリシア連合は峻険な海と山に挟まれた街道で迎撃、地形とスパルタ兵の強さによってギリシア連合は数の有利を覆してペルシア軍を抑えて有利に戦いました。しかし、山の裏側からのペルシア迂回部隊によって背後をとられたことによって戦況が代わりました。ギリシア連合の半数部隊が離脱し、より広い地形での戦闘を強いられて全滅、ペルシア軍が勝利しました。この戦闘で時間を稼いだことで、ギリシア軍は後の戦闘のための準備をおこなえました。
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  • -480:サラミスの海戦(ペルシア戦争)
    • 勝者 アテネ、他(76,000)vs敗者 ペルシア(136,800)
    • ペルシア戦争における戦闘の一つです。テルモピュライの敗戦の報を受けてギリシア都市連合の海軍はサラミスに集結し、一方でペルシア海軍は偽情報でこの海域に誘き出されました。ギリシア海軍に気付いたペルシア海軍は攻撃に向かい、ギリシア海軍によってサラミス水道に誘い込まれます。艦隊戦に主眼を置いた喫水線の深いギリシア船に対し、ペルシア船は上陸に主眼を置いた重心が高い不安定な構造でした。海戦の詳細は不明ですが、この海域における一定時刻に吹く風によってペルシア海軍は隊列を崩し、そこにギリシア海軍が攻撃したようです。この海戦でギリシア水軍はペルシア海軍に勝利、ペルシアの侵攻を破たんさせました。
       この当時の海戦の主力となる三段櫂船と呼ばれるガレー船の乗員数は200人(漕ぎ手170人、兵士30人)、海戦に参加したギリシア連合の船は380隻、ペルシア海軍は684隻でした。
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  • -479:プラタイアの戦い(ペルシア戦争)
    • 勝者 ギリシア連合(110,000)vs敗者 ペルシア(300,000)
    • ペルシア戦争の戦闘の一つ。サラミスの戦いの1年後、ペルシア軍は体制を整えて再侵攻、アテナイを破壊した後に北西のプラタイアまで退いて陣を築きました。ギリシア諸都市は連合軍を集めつつこれを追い、山麓に陣を築きました。ペルシア軍の夜襲によって水源を奪われたギリシア連合の多くが撤退した結果、スパルタ部隊のみが突出する形になりました。翌日、ペルシア軍の攻撃によってスパルタとアテナイ部隊は分断、占いによって守備に徹するスパルタ部隊に攻撃が集中しました。数回の衝突の後、占いで吉を得たスパルタ部隊が攻撃を開始、突然の反撃にペルシア軍は混乱、激しい戦闘の末にペルシア指揮官が死亡し、ほぼ35,000のスパルタ部隊のみでペルシア軍を敗走させました。この後、野営地にこもったペルシア軍を攻城戦を得意とするアテナイ部隊が突入、合流したスパルタ軍とともに攻略、ペルシア軍を追い払いました。
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【中世ヨーロッパの戦闘】
この時代のヨーロッパでは農業生産性の低さや、封建領主が統治する小規模な領地ごとに兵士が管理されていたことから、比較的小規模な戦闘が散発していたようです。領地の警護のために雇用した傭兵団の給金を支払わなかったために反乱を起こして、乗っ取りあるいは山賊化、鎮圧のために近隣で別の傭兵団が雇われることなどもありました。数十人~数百人規模の戦闘は頻発していたようですが、あまり記録に残っていません。
 また、この時期のAC800~1050年くらいの期間はヴァイキングによる沿岸地域への襲撃が頻発した時期でもあります。ヴァイキングが用いるロングシップは総員32人ほど、喫水線が浅く竜骨と帆と櫂の両方を備えていることから、外洋から河川、地上運搬まで可能で活動は広範囲にわたりました。かれらの襲撃に参加した船の数は3隻(96人)~35隻(1,120人)の規模でした。
 以下に中世ヨーロッパで知られている有名な戦闘を記載します。ちなみに同時期でもヨーロッパ以外の地域ではより大規模な戦闘が行われています。

 

【近世の戦闘】

【近代の戦闘】