鉄の塊のような豪腕が唸り大の男が宙を飛ぶ。
顎を砕かれた男が地に這い蹲り周囲の者たちがざわめいた。
「野郎……くたばれっ!」
倒れた男の仲間が腰の物を引き抜く。日光を反射してぎらつく刃に周囲の見物人が悲鳴をあげる。
だが豪腕を振るった男は怯む様子も無い。素手であるにもかかわらずだ。
その男は六尺五寸もの巨躯に巌のような筋肉をまとっており、
着流しのもろ肌を脱いで逞しい上半身を衆目に晒している。
その堂々たる体躯は威圧感に満ち溢れていたがなによりも人目を引いたのは全身を彩る刀傷だろう。
体中を幾筋もの傷跡が走っており男の潜ってきた修羅場の数を思わせる。
男はそれを男の勇敢さの証、まさしく男の勲章として誇っていた。
刃を抜いた男が喚き声を上げて上段より太刀を振り下ろす。
だが大男は類まれなる握力でその切っ先を掴んだ。
どれだけ男が掴んだ掌ごと太刀を切り降ろそうと力をこめても太刀はピクリとも動かない。
大男の腕は隆々とした筋肉が盛り上がりどれだけの力を拳に込めているのかと思わせる。
切っ先が掌の皮を僅かに裂いて血を滲ませたがすさまじい握力がそれ以上太刀が食い込む事を許さなかった。
やがて周囲から歓声が響き渡る。
信じがたいことだが大男は鋼仕立ての太刀を素手でひん曲げたのだ。
あまりの怪力に恐れを為した男は悲鳴をあげ太刀を捨てて逃げ去っていった。
逃げる男を見送った巨漢に傍らの弟分が声をかける。
「兄貴、お疲れ様っす!」
「おう」
兄貴と呼ばれた巨漢は着流しを着直すとまるで何事も無かったかのように踵を返し弟分を伴って雑踏へと消えていった。
ヘクトルの弟分を称するマシューという男は後に知人にこう語っている。
「兄貴は語らねぇけどさ。あの人の素手へのこだわりはいっそすがすがしいくらいさ。
ゴロはスデで巻くもんだって信念なんだろうな。相手が刀持ってようが槍持ってようが懐刀一本使った事ねぇよ兄貴は。
それがヘクトル兄貴ってお人なんだ」
炎正十三年五月十日――――
オスティア城下を締める牙一家にその人ありと謡われる巨漢ヘクトル。
この年十九歳を迎えていた。
二人は牙一家の屋敷の門を潜る。
建物の門構えはそれなりに立派なつくりをしており住まう者の風格を感じさせた。
だが………
「遅かったじゃない」
玄関を潜る二人を出迎えたのは長い黒髪を艶やかしく垂らした派手な女だった。
艶やかな着物に身を包み派手な扇子で口元を隠している。
牙一家の親分ブレンダンの妻ソーニャ………
妖艶な美貌をもってブレンダンの心を蕩かした美女は冷めたような瞳で二人を見つめていた。
「あ…姐さん…」
マシューがうわずったような声をだす。彼はこの女を苦手としていた。
マシューだけではない。ヘクトルも顔には出さないが内心でソーニャを嫌っている。
「で、首尾は?」
「……適当に痛めつけといた。もうここらで悪さはしねぇでしょうよ」
低い声を出してさっさと話を切り上げようとするヘクトルにどこまでもソーニャは冷ややかだ。
手首を軽やかに翻して扇子を閉じるとその先でヘクトルの顎先をなぞった。
「おかしいわねぇ…私は簀巻きにして川に叩っこめと言ったような記憶があるのだけれど?」
「…………」
ヘクトルは黙して語らない。
ただその瞳には燃え立つようなものがあった。
それを察したマシューが慌てて割って入る。
「あ、姐さん!連中はもうすっかりビビッちまってほうほうの呈で逃げ出したんですぜ!
野武士商売は舐められちゃあおしまいだ。もうこの土地には近寄りませんって!絶対!間違いなく!」
道化に徹して間を持とうというマシューの意図を察したのだろう。
ヘクトルは下げたくも無い頭を下げる事にした。
「…やりかたがヌルかったのは認めやす。仏心がでちまいやした…お許しなすって」
「フン…」
面白くもなさそうに鼻をならして踵を返すソーニャの背を見送るとマシューは深々と溜息を吐く。
その時であった。玄関から一人の少年が姿を見せたのは。
「…………」
鋭い瞳の少年であった。
着物姿に草履となりは町の少年でしかないが、ヘクトルもマシューも彼が何をしてきたのかはよく知っている。
彼はソーニャが後妻となった日に伴った取り巻きの一人だ。
「げ……ジャファル……」
弟分はヘクトルの影に隠れる。この虎狼のような少年の視線に捕らわれると生きた心地がしないのだ。
「おい餓鬼……血の臭いがするぞ…」
ヘクトルの言葉に少年は動じる様子も無い。
軽く一瞥しただけで早々に屋敷の奥へ引っ込んで言った。
「けっ…なんなんすかねあの態度!」
はき捨てるような弟分の言葉を聞き流しつつヘクトルは奥の部屋へと向かっていった。
もうここは彼らがかつて草鞋を脱いだ頃の牙一家では無いのだ…
牙一家。
かつてはオスティア一帯を締める任侠集団として名を馳せた男たち。
侠気を極め弱きを助け強きを挫く事を美学とした極道たちはいまや僅かに若頭ロイドの周辺を残すのみだ。
ソーニャはブレンダンを骨抜きにするとたちまち己の息のかかったちんぴら共を次々と手の内に引き込み、
一家の様相はすっかり変わっていった。
今ではジャファルのような得体の知れない男が怪しげな仕事に手を染めている。
奥の間に進んだヘクトルは座布団を一枚取るとどっしりと腰を下ろした。
目の前には若頭ロイド、それとその弟ライナスがいる。
「おう…機嫌が悪そうだな、ええおい?」
「若頭…親分はいつまであんな女に好き勝手させとくんだ?」
搾り出すような声だ。
ヘクトルは憤りを吐き出すように胸の奥から息を吐いた。
それに答えるロイドの言葉も苦々しい。
「幾度も言ったさ。だがな…親父はもうだめだ。聞く耳をもたねぇ。
おれぁよ…もう、これしかねぇって思ってる」
ロイドは木の白鞘に収められた匕首を引き抜いた。
白刃の煌きは凄まじい切れ味を感じさせる。
かつての抗争相手との出入りでたちまち七人の猛者を切り伏せた人斬りロイドの恐ろしさはいまだ健在と知らしめる鋭さだ。
思わず息を呑みこむマシュー。だがヘクトルはこれをもう考えていたのだろう。
「若頭…女狐のタマ取るにしてもよ。奴の周りにゃジャファルもウルスラもいる。
それだけじゃねぇ…わけのわからん妖術師も出入りしてるらしいじゃねぇか」
「おうよ…だがな。奴らが牙の名をこれ以上汚すのを見てらんねぇ。
てめぇら俺に命預けてくれねぇか?」
七年…牙一家に属して七年の歳月をヘクトルは過ごしていた。
躊躇うまでも無い。
「おう。俺の命若頭に預けるぜ。
女狐の好き勝手をこれ以上許しちゃおかねぇ…」
立ち上がり拳を握り締めた巨漢の背にマシューはいままでにない侠気を感じた。
恩のある牙のため義理を果たそうという男の決意が漲っていた。
だがこの日に流れを変える事を目論んでいたのはロイド達だけではないのだ。
別の場所では別の意思が動いていた。
「ネルガル様…ネルガル様……すでに牙は我らの物……小賢しくも足掻く輩を一掃するのにさして時はかかりません」
「うむ…最後まで手綱を緩めるな。ここを足がかりにして次はオスティアだ。
愚かな輩、ベルンにしか目を向けておらぬ……」
「はい……城下には我らが草を忍ばせて……その動向は……」
「一つ気になる……侍大将エルバートが……間者を……」
その部屋はどことも知れぬ暗い一室。
画一的な同じ声をした者どもが幾人も幾人も声をあげて響かせる。
異様極まりない光景だった。
同じ顔をした者が幾人も居並び中央の老人に報告を発している。
老人は顎の髭を撫でると……天井を仰ぎ見た。
「エルバート…気がつかねば長生きできように…愚かな事よ。
貴様も死に掛けた息子も寿命を縮める事になる……」
常闇の中で東国を動かす何かが蠢き出していた。
次回
侍エムブレム戦国伝 邂逅編
エリンシアの章 懐に帯びる一本の刃