この小説を読む前に>>124の注意書きを参照してください。
125-129の続きにあたります。
かの炎を抱く地は吾が子孫の帝たるべき地なり。皇孫これ就きて治らせ。
天日のもとに吾が霊を継ぐ者の栄えまさむことまさに天壤と窮まりなかるべし。
~ アスタルテの神勅 『紋章書紀』より抜粋 ~
闇があった。深遠があった。数十年にわたりこの地には日の光が差した事は無い。
天空は晴れる事なき暗雲に覆われアスタルテの加護たる陽の光を拒み続けている。
そうだ。恨み深きかの神の勅などに誰が従うものか。
我が呪いは地を蝕みアスタルテの定めし都を覆いつつある。
アスタルテの子孫もそれに従う者どももことごとく滅びるがいい―――――
ラグドゥの山頂。鬼神フォデスの社……その名を魔殿という。
魔殿の奥の台座の中に青年は座していた。
フォデスの軍勢…妖怪の只中にあって彼は唯一の人間であった。
………リオン………鬼神の社の神主である。
「ヴァルターが討たれた……」
その口から呟きがもれる。
彼の者は有力な妖魔であった。痛いと言えば痛いがまあいい。
エフラムは一歩一歩確実に山頂へと近づいてくる。
六年前のあの日に別れてからそれはわかっていた事だ。彼はそういう男だ。
必ず自分を助けにここへ来るだろう。
「助けに……ね。そうだ。君はそういう男だよエフラム。上ってくるがいい。
一歩一歩ラグドゥの穢土を踏みしめて上ってくるがいいさ。一歩一歩が死への一里塚となる…」
待ちわびていた。エフラムが山頂まで辿り着くのを待ちわびていた。
それがかなわず途上で息絶えるならそれまでの事とも思ったが…彼は着実に近づいてくる。
ヴァルターが滅びた以上は残った雑兵どもでは山頂までの道を阻む事はかなわないだろうが。
「だが…それでいい。六年ぶりの再会を盛大に祝おうじゃないか…僕の晴れ姿を君も喜んでくれるだろうエフラム?
君は僕の唯一の友なのだからね……」
青年が見上げるその視線の先には鬼神フォデスの木像が虚ろな目を虚空に向けていた……
禍神ユンヌ……大蛇メディウスと並びアスタルテの勅に従う事を拒み続けた鬼神の望みがかなう時も近い……
青い髪の若者はゆっくりと瞳を開いた。
先ほどまで重くて満足に動かなかった体が楽になっていくようだ。
開けた視界に映るものは自分と同じ髪の色をした娘。
随分立派な狩衣を着ている。公家であろう。
「兄上…」
「こういう時は久しいと言うべきなのだろうな。だが俺はそなたの名を知らぬ。名を教えてくれるか?」
「エイリーク……エイリークと申します」
エフラムは噛み締めるようにその名を呟いた。
「エイリーク…か。よい名だ…だが今は多くを語るまい…俺にはやらねばならぬ事がある」
生まれる前から共にあった半身…その者と幾年月を経てここに巡り合った事はエフラムに深い感慨を持たせる物があった。
だが今はやらねばならぬ事がある。感傷に耽るのはそれからでもよかろう。
「まだ動いてはなりませんわ。外傷は塞がっても骨まで治癒するのは時間がかかりますことよ!」
身を起こそうとしたエフラムを叱りつけたのは傍らで治癒の術を唱え続けていたラーチェルである。
周辺にはルネスの従士ゼト、フレリアの姫武者ターナ、検非違使のヒーニアスの姿もある。
とりわけ憮然としているのはヒーニアスだ。かつて自分が取り調べた浪人者の破落戸がエイリークの兄上である事が面白くないのだろう。
この男をこの自分が義兄上と呼ばねばならないなどと反吐が出る。
山頂へ向けて気の急くエフラムにゼトが告げる。
「エフラム殿は私の馬にお乗せいたす。道々治療しつついかれるがよろしかろう」
「待て。女子供連れで鬼神の待つ山頂まで行くわけにはいかん。エイリーク。それとターナだったか?
あとそっちの小さいの。お前らは今すぐ山を降りろ。ここに来るまでの妖怪は大体成敗したから帰り道は安全なはずだ」
「んまっ!小さいのとはご挨拶ですわね!わたくしは名門公家たるロストンの姫ラーチェルですわ!
格調高く姫様とお呼びなさいこの無礼者!」
高い声をあげて怒気を露にするラーチェルを押しとどめるとエイリークは一歩歩みでた。
「兄上。私どもの身を案じていただけるのは嬉しく思いますがルネス家大納言エイリーク。
帝の一臣として朝廷に弓引くフォデスを成敗に参りました。帰れと言われても帰るつもりはありません」
言うだけ言うとエイリークはゼトらと協力してエフラムをゼトの馬の背に括りつけた。
充分に傷の癒えていないエフラムでは抗う術も無い。
「な、何をする!俺は自力で歩けると…」
「強がりはおよしください。ラーチェルの見立てでは手傷も骨折も多数。
傷が癒えるまでは後続に回っていただきます」
かくて一行は再び山頂を目指して歩み始める。
エイリークと馬を下りたゼトとターナが前列に立ちそれをヒーニアスが弓で援護し、
最後尾にエフラムとその馬の手綱を取るラーチェルが続いた。
エフラムにとって守られる立場とは不本意なものではあったが傷の深さを思えばやむを得まい。
それから山頂まではあまり苦にはならなかった。
襲い来る妖怪の数も少なく怪異どもはエイリークやゼトの太刀に叩き切られターナの槍に貫かれヒーニアスの弓に倒れていく。
ジークリンデが輝き土蜘蛛を一刀両断にする。ジークリンデについた体液を一閃して拭い去る。
周囲に次々と落下してくるのはターナが叩き落した邪眼どもだ。
「まつろわぬ者ども……思ったより守りが薄い?」
エイリークの疑問に答えたのはエフラムだ。
「…七合目まではかなりの数が出てきたのだがな…山頂に陣を張りなおしたか?」
「ふん、ならば早々に討ち滅ぼすまでの事だ。鬼神が御首はこのヒーニアスが見事取ってみせようぞ」
疑問とともに歩みいる山頂。
鬼門の頂。冥府魔道の地。
重苦しい瘴気が岩場を覆っており歩いているだけでも気分が悪くなってくる。
やがてその建物は姿を見せた。
意外なほど小さな社。人が数人入ったらいっぱいになってしまうような小さな建物。
だがそこが瘴気の中心であった。
「あそこ…か?」
ここに辿り着くころにはエフラムの傷も癒えていた。
ラーチェルが懸命に術を唱え続けた結果だ。もっともそのラーチェルは疲れ果てて馬の上で荒い息をついているが。
「…一気に踏み込む?」
地表近くに下りてきたターナが問う。
「いや…待て……」
瘴気を撒き散らして社の扉がゆっくりと開いていく。
そうして姿を見せたのは痩身の男であった。
彼は彼は一行を眺めわたし……その視線はエフラムの顔で止まる。
「やぁ……来てくれたんだねエフラム…久しいね…六年ぶりになるのかな?」
「リオン…無事でよかった…もう心配はいらんぞ。山を降りよう」
六年…そうだ。この六年というものずっと武を磨いてきた。
それも今日この日のためだった。あの日の誓いはもう目の前にある。
後は友を無事に連れ帰るだけだ。エフラムはそう信じて疑わなかった。
だが…あの日妖怪に浚われた友の言葉は彼の理解を超えていた。
「ああ、変わらないね。君はずっとそうだった。僕が苛められっ子に苛められていると真っ先に助けてくれたね。
いつも君は僕の前を歩いていて…僕は君の後ろを半歩控えて歩いていて……君はずっと眩しくて…
僕は君の事が大好きで…憎かったよ……」
「お前……」
エフラムの顔に戸惑いの色が浮かぶ。
対照的にリオンは唇を吊り上げて見せた。
「知っているよ。君はね。自分より弱い者を庇護していないと安心できないのさ。
誰かを守る自分でいたいのさ。自分が強くて立派だって再確認したいんだろ?
だけどね。守られる者にとってはね。君の自己満足に付き合わされて弱者扱いされて…
そして頼んでもいないのに鬼神の地にまで踏み込んでくる……」
リオンの顔にはありとあらゆる負の感情……
羨望…嫉妬…憎悪…屈辱…侮蔑……そんなものが滲み出ていた。
「だけどね。フォデス様は違う。フォデス様だけが僕を認めてくれた……
新たなる御子としてね!」
その言葉に弾かれるようにエイリークが御剣を向ける。
「その言葉捨て置けません!鬼神に魂を譲り渡した不忠者!成敗いたします!」
「待て…エイリーク!」
一閃であった。リオンの手のひらから発した闇がエイリークを弾き飛ばし岩肌に叩き付けたのは。
「邪魔だよ。僕とエフラムの話に割って入ってこないでくれるかな。脇役はお呼びじゃないんだよ」
したたかに体を打ち付けて悶絶するエイリークが見たものはぞっと底冷えのするようなリオンの冷たい眼だった。
「貴様……っ…何故だ?
お前は女に手をあげるような男ではなかったはずだ!」
エフラムが一歩歩み出る。その瞳には怒気が漲っていた。
ヒーニアスが弓に矢をつがえる。ゼトが太刀を抜く。その彼らをエフラムは眼光を持って下がれと威圧した。
今は誰にも割って入ってほしくはなかった。
「僕はね。もう昔の僕じゃないんだよ。フォデス様の神霊はすでに僕の中におられる。
文弱と謗られるひ弱なリオンじゃないんだ。かつてオルティナがアスタルテから帝に選ばれたように…
僕はフォデス様に選ばれて新帝となる…誰もが僕を仰ぎ見る!エフラムが見下したリオンが君よりも遥かな高みに上るんだ。
出でよ我が民!雑魚共をフォデス様の贄とせよ!」
闇が立ち上った。リオンの足元から広がる闇は大地を漆黒に変えてゆき地の中から続々と妖怪変化が湧き出してくる。
土蜘蛛や腐人…がしゃ髑髏に邪眼…ありとあらゆる妖怪が……
「数を頼みとする雑兵ごときが!」
ゼトが太刀を持って腐人の首を叩き落す。わらわらと群がってくる怪異どもにエフラムらは円陣を組んで立ち向かった。
「兄上!これを!」
エイリークはゼトの馬に括っていた白木の箱を開けてその中身をエフラムに差し出した。
それは宝槍。帝より賜りし対なる槍ジークムント。
その柄の手触りはエフラムの手にまるで数十年に渡って振るい続けた槍のようによく馴染んだ。
「おう!これはよき槍かな!いくぞ!」
突き出された穂先は眼前に迫っていた一つ目鬼の鎧のように頑強な腹筋を貫きただの一突きで討ち果たした。
そのままエフラムは地を蹴ってリオンに迫る。
「貴様ら雑魚共は頼むぞ!」
「ま、待て貴様!フォデスを討つのは私…」
ヒーニアスが何か言っているが取り合うつもりはない。
リオンの中にフォデスの神霊がいるならそれを叩き出さねばならない。
「リオン!」
青年は両手を広げて薄笑いを浮かべていた。
「エフラム…君は僕の過去なんだよ。君をフォデス様への贄として僕は生まれ変わるんだ!」
リオンの口が呪いを発し凝固した闇そのものがエフラムの体を撃った。
呪いが肌に染み込み体内から焼け付くような痛みをもたらす。
だがエフラムは前進をやめなかった。全身の血管が沸騰するような灼熱の呪いに身を焦がされてもなお。
「俺の言葉が届かぬならその性根叩き直してくれる!」
呪いを浴びながらも進めばそこはすでに間合いだ。
だが…槍を突き出すつもりはない。俺は…友を救いにきたのだ……
「歯ぁ食いしばれい!」
拳が飛んだ。
リオンは一瞬何が起こったかわからぬような顔をしている。
…これは…エフラムが自分を殴りつけた?
鼻から毀れる血がそれを証明している。
「エフ…ラム?」
「どうした。さっさと殴り返してこい」
そうだ…たった一つだけ思う事は…エフラムは子供の頃リオンとただの一度も喧嘩をした事がない。
それは…どこかで自分がリオンを弱い奴と決め付けていたからではなかったか。
喧嘩は対等の男同士がするものだ。そしてエフラムはリオンをそうした対象と見てこなかった。
それがどれだけリオンを傷つけていただろうか。
「何をばかな…新帝が君に手を汚すと思うのか?僕の呪いは…」
「殴り返してこいと言っている!」
再び鉄拳がリオンを殴り飛ばした。
もんどりうって倒れた鬼神の神主は怒りと屈辱に顔を歪めて…その時である。
リオンの取った行動はフォデスの予想を超えたものではなかったか。
フォデスの束縛を振り払った彼は喚き声をあげて起き上がると拳を握りエフラムの顔面を殴りつけたのだ。
リオンの細腕ではあるが…防ぎもせずにまともに顔面に受けたためにエフラムの唇の端は切れて血が滲み出している。
「そうだ…やればできるじゃないかリオン…お前を侮ってすまなかったな…」
痛みよりもエフラムはどこか胸がすくような気持ちを味わっていた。
そうだ……本気で喧嘩をした事の無い友などというものがどこにいるだろうか。
自分はこの時本当の意味で生涯の友を得たと思った。
……だが鬼神の呪いは豪傑の希望を容赦なく打ち砕いたのだ。
「すまない…エフラム…ぼくが…弱かったから…僕の中の鬼神が……ああ…」
「リオン…どうした!?」
「鬼神は…あまりに強大な妖気を持っているだけに…アスタルテの加護の薄いラグドゥでしか動く事ができない……
だから…だから、闇の術の素養を持った僕に宿って変わり身としていたんだ…信仰が廃れアスタルテの加護が国中から完全に失われる日まで…
……フォデスの意思を拒絶した僕を…見限り……っ」
リオンの体から瘴気が立ち上ったのはその時である。
リオンはドス黒く濁った血を大地に吐き散らして地に倒れ伏せた。
彼の本来の性質を歪めていた鬼神の神霊は形を成してその身から離れて宙に舞った。
声…?
いや…直接脳裏に響いてくるようだ。
あまりに大きな神の魂そのものの意思が。
「小癪なり。我が仇敵アスタルテの兵どもよ。憎き朝廷の犬どもよ…我が神主をたぶらかしおって……」
強い意志が鬼神の魂…青白く輝く妖気そのものを見据える。
「御託はいい…俺の友の仇は取らせてもらうぞ」
エフラムはあまり感情を露にするほうではないが…彼の声には静かなる怒りが込められていた。
六年も人生の若き青春を奪われた友。血を吐き散らし命を落とした友。
その仇を討たずにはいられなかった。
「待て!フォデスを討ち果たし男を上げるのはこの私だ!」
そこに割って入ってきたのはヒーニアスである。
リオンが放った妖怪どもを打ち滅ぼし他の面々が駆けつけてきたのだ。
ヒーニアスが放った矢はフォデスの魂の中心を射抜いて…そのまま溶けて消えていった。
「なにっ!?」
「アスタルテならいざ知らず…たかが人間に神が討てるか…我が怒りの深さを知るがよい!」
フォデスの魂はたちまち実体化を始めた。
神が信仰を力とするなら鬼神は怨念を力とする。
その力と怨念の深さはかつての禍神ユンヌすら比較にならぬほど強大なものであった。
その巨大さと強大さは…まるで山の如し……
天を突くような巨躯は百米はあろうか。
その巨体は数里離れた麓の村からも目撃されたと記録に残されている。
肌は暗雲そのもののように暗い灰色をしており分厚い皮に覆われている。
胴は神のためにあつらえられた伽和羅を纏い甲の表面にはところどころ傷跡が見られた。
神代の時代にアスタルテと戦って受けた傷跡であろうか。
山をひとなぎにするような腕には黒の斧ガルムが握られている。
長さは二十米を超え重さは何百貫あるか想像もつかぬ。人間の身で受ければ肉片も残すまい。
面構えは禍々しく頭には鬼神の名に恥じぬ二本の角が生えている。
古の昔、アスタルテと覇権を争い敗れラグドゥに幽閉され続けていた鬼神は呪いを放ちながらアスタルテの力が弱まるのを千年以上に渡って待ち続けてきたのだ。
そしてここ百年ほどの間に陽の神の加護は弱まり鬼門は大きく開いている。
国中から聞こえてくる怨嗟と呪いの声がフォデスの力を大きく増していた。
「……化け物……」
小さく呟いたのはターナであった。
見上げるしかなかった。聳え立つ巨神を見上げるしかなかった。
声も無い。言葉も無い。人間は理解を絶する存在の前には思考すら放棄して呆然と立ち尽くすしかないのかも知れない。
膝が震える。冷や汗が伝う。誰かが息を呑む音が聞こえる。
巨神の腕がゆっくりと上がっていく。
重々しいガルムの不気味な刃が天高く掲げられ………
「いかん……よけろぉ!?」
まるで天そのものが落ちてきたかのような地響きであった。
ラグドゥの山が割れていた。振り下ろされたガルムは大きく地を穿ち切り裂き山頂に谷間を作り出した。
地形までもを変えてしまったのだ。現代でもこの谷間はガルムと地名をつけられて残り鬼神の伝承を現代に伝えている。
地を走った衝撃は地響きとなって周辺数十里にまで伝わりそれはここ都の御所までももたらされた。
大きな揺れに屋根瓦が落ちて砕け女官たちが悲鳴を上げるのを長のシグルーンが叱咤して落ち着かせる。
「陛下…お怪我は!?」
「いや…大事ない」
シグルーンの声に応じた帝サナキは小さく呟く。
「神代の昔…皇祖アスタルテと鬼神フォデスの戦いは地を揺るがし雷雲を呼んだと伝え聞く…」
ルネス、フレリア、ロストンの三家の者たちが鬼神討伐に向かった事はすでに帝の耳にも入っていた。
「アスタルテよ。心あらば朕が臣をして凱歌をあげさせたまへ―――」
朗々と祝詞を謳い上げる現人神たる帝を前にして女官らは唱和するように祈りの声を上げるのだった。
大地が裂け崩落していく中、地を蹴り逃げ惑う事で精一杯の中それでもなお闘志を失わぬ者もいた。
最初に鬼神に向き直ったのはヒーニアスである。
「ふん、そうだ。そうでなくてはな。そのくらいであってこそ私の武功の引き立て役になれようぞ!」
「兄上!何をやってるのよ!?逃げないと踏み潰されちゃうわよ!?」
「ええい五月蝿い!考えてもみよ。絵巻物や鬼退治の物語は私のような善玉の美丈夫が勝って大団円と相場が決まっているのだ!」
妹に怒鳴り返すとヒーニアスは狩衣のもろ肌を脱ぎ弓に矢をつがえた。
そうだ。鬼神の首を取り晴れてエイリークをこの腕の中に迎えるのはこの自分なのだ。
だが立て続けに放たれた矢ははるか頭上の鬼神の頭まで届くはずもなく途中で勢いを失って落ちていく。
目標をフォデスの足元に切り替えてみたが何本か矢が刺さっても小揺るぎもしない。それはそうだろう。
人間でいえばノミに棘を刺された程度の事なのだ。
「こ…これではどうにもならないじゃありませんの!?」
「いえ、勝機はあります!」
ラーチェルの声にエイリークが応じる。
「対の神器は破邪の武具!鬼を討つためアスタルテが授けた力ある武具。
その力は同時に振るう事でさらに増し輝きます。
ジークリンデとジークムントを同時に持ってすれば…」
「どうするのだ?」
「鬼の鬼たる力の象徴はあの双角…あれを同時に貫ければ…」
その時である。
フォデスの口が呪いの言霊を撒き散らし闇そのものが地を這い周囲を覆っていったのは。
ヒーニアスが悶絶する。
呪いにその身を焼かれているのだ。
その呪力の強さはまさに全身を引き裂かれるような激痛だった。
鬼神の神霊の前には人の魂など吹けば飛ぶような小さな物にすぎない。
「ああもう!世話が焼けますこと!」
ラーチェルが駆け寄って治癒の術を唱える。
「ターナ!天馬の手綱をください!兄上と私で鬼神の頭上まで飛んで双角を断ち切ります!」
「扱えるの!?」
「なんとかします!…兄上!」
「おう心得た!」
ターナは天馬を降りると手綱をエイリークに渡した。
天馬を操るには極めて卓越した馬術が必要な上に天馬は女子にしか手綱を許さない。
不安はあるが他に方法は無かった。自分がジークムントを扱えていれば己が飛べばいい事だが神器は誰にでも扱えるものではない。
エイリークは不慣れな天馬によろめきつつもかろうじて宙を舞った。しかも後ろにエフラムを乗せての二人乗りだ。上手く飛べようはずもない。
飛び立つ両名を見上げながらゼトは太刀を握る手に汗をこめた。
鬼神はあの巨体だ。死角はいくらでもあろう。人間とてまとわりつく小虫をすべて視認できるはずもないのだから。
「なればこのゼト…身命を賭して鬼神の意識を引き付けてみせようぞ!」
彼は雄たけびをあげると馬を駆り巨神の足元へと突っ込んでいった。
「エイリーク…奴はあの図体だ!なるべく密着して飛べばそうそう見つかるものではない!」
「は…はい!」
覚束ない手綱捌きでかろうじて飛ぶ二人は鬼神の肌に触れるようなすれすれを飛んでいく。
だが………不慣れな手綱捌きのためであろう。天馬の羽先が鬼神の肌に触れてしまったのだ。
鬼神の瞳が冷たく輝く。
「纏わりつく疎ましい蝿めが…………」
―――――鬼神の口が雄たけびをあげた……それは大気そのものを振動させるような大音響であった……
「う…馬がっ!?」
人間も鼓膜が破れるのではないかと思うほどの大音響である。
軍馬といえど恐れて戦かずにはいられない。まさしくその時天馬の動きが止まってしまったのだ。
鬼神の空いた左腕がその隙をついてエフラムとエイリークを拳に握りこむ。
軋むような痛みに呻き声をあげざるを得ない。
「エイリーク様!?」
はるか鬼神の足元からゼトの声がする。
「お…おのれぃ…」
ヒーニアスが歯軋りしながらも弓を番える。
だがもはやなすすべはない。
ゼトの太刀もターナの槍もヒーニアスの弓も捉われし双子を助ける力は無いのだ。
「無為な事よ。アスタルテが黄泉に去りし今、我を妨げる者はおらぬ。
我こそがこの地を統べる主神となるのだ。神々の王権交代を目の当たりにした事を名誉として我が贄となれい!」
フォデスがあとほんの少し力を入れればエフラムとエイリークの体は人間が平手で蚊を叩き潰したのと同じような有様になるであろう。
全身を激痛が苛なむ。意識が遠のいていく―――――
ああ…無念だ……俺は……リオンの仇も討てずに…エイリークを守ってやる事もできずに逝くのか……
その時…闇夜を割くように三日月が煌いた……
何が起きたのか理解はできなかった。
一つだけわかった事は鬼神の手首から血が噴出し握りこむ力がわずかに緩んだ事である。
はっとして輝きが走った方向に視線を向けたエイリークは確かに見出したのだ。
幼き日…はるか過去の記憶……
あの日闇夜の中で怪異を切り裂いた黒備えの武者が岩場の上に立っているのを。
鉄面に覆われた顔は伺い知れないが…それに鬼神に手傷を負わせたであろうあの太刀は……
伝承に曰く神剣ラグネルと対をなしオルティナ帝が振るったとされる双剣…エタルド?
だが……今はそれを考えている余裕はない。闇夜に溶け込むように消えてしまった武者の事を考えている余裕はない。
エフラムとエイリークは力の緩んだ鬼神の掌を抜け出すと鬼神の腕の上を疾走した。
かの者の頭……その両脇より生えし双角めがけて。
「おのれ小虫ども……っ!」
鬼神の瞳が驚愕に開かれる。
それは…人間どもが携えしその刃は……
神すら断ち切りうるアスタルテが与えし………
対の神器が放つ光は皇祖神の…主神の加護そのもの。
それは互いに揃い得た事でその力を何乗にも高めていた。
本来人間が持つはずがないほどの……
「何故だ―――何ゆえに貴様はそうまで……っ」
鬼神は吼えた。
この場にはいないかの神の背に向けて吼えた。
我が地を奪いラグドゥに封じたのみでは飽き足らず神ならぬ人に討たれる屈辱まで与えようというのか。
振るわれた御剣。突き出された宝槍。
二対の武具は鬼神の双角を断ち切り打ち砕き神の霊をあるべき世界へと返したのである…………
―――どことも知れぬ場所のどことも知れぬ宮殿―――
「鬼神が滅びた…か…愚かなものよ。いつまで現世に拘っておるやら」
「そなたは拘りがなさすぎる。己が一族十五万が海神の元に消えた時もそうであったが…」
「龍神よ。国産みの時代も神代の時代もとうに過ぎ去ったのだ。
我らはここで供物の酒でも飲みながら人間どものやりたいようにやらせておけばいいのだ。
そらそのうち鬼神がこちらにくるぞ?
数百年は腸が煮えくり返って落ち着くまいが」
「宥めるには骨が折れるか。知らぬな。儂は元よりあの者の敵だ……」
銀色の髪をした女神は仏頂面の龍神の渋面を見やると小さく肩を竦めて見せたのだった。
次回
侍エムブレム戦国伝 風雲編
~ セリカの章 進者往生極楽退者無間地獄 ~