世界地誌

Last-modified: 2022-06-29 (水) 13:51:50

東南アジア

マレーシア

民族構成

オラン・アサルはマレーシア全土におり、人口の11%、約210万人を占める。オラン・アサルは、半島マレーシアと東マレーシアの両方のすべての先住民を含む包括的な用語である。

半島マレーシアの先住民は、より具体的にはオラン・アスリと呼ばれている。その数は約14万9500人で、マレーシアの総人口の0.7%にすぎない。正式には、ネグリト (Negrito)、セノイ (Senoi)、プロト=マレー (Proto-Malay)のいずれかに分類される19の民族的サブグループからなる。

多少数には異動があるが、東マレーシアには、サバ州では約39、サラワク州では約25、合計で約64の先住民グループがある。オラン・アサルはサバ州の人口の60%、サラワク州の人口の50%を占めている。サバ州の先住民族は非常に多様で、50以上の言語と80以上の方言を話している。サラワク州で最大のグループはイバン族である。

  • ダヤク族ボルネオ島に居住するプロト・マレー(オランアスリの一つ)系先住民のうち、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称。
  • サバ州ではカダザン(ドゥスン)族*1(28%)が最も多く,次いで華人(21%),バジャウ族(12%)となり,マレー人は増加しつつあるがまだ3%にすぎない。
  • ビダユ族はマレーシアのサラワク州のクチンとセリアン周辺の町や村に住んでいるが、インドネシアの西カリマンタン州では主に北部のサンガウ摂政に集中している。サラワク州では、ビダユの人口のほとんどは、クチンとセリアン地区内のグレータークチンとして知られる地理的領域から40 km以内にある。彼らはサラワク州でイバン族に次いで2番目に大きいダヤク族であり、西カリマンタンの主要なダヤク族の1つである。ボルネオ島西部でイバン族と言語・文化的に異なる民族に陸ダヤク(Land Dayak)とも呼ばれるビダユ(Bidayuh)族がいる。 ビダユ族はサラワク州最南端のインドネシア国境に近い丘陵地帯に居住する。首狩りの風習を持ち、敵の首級を保存するための首堂が建築されるなどしていた。近年は狩猟や採集だけの生活ではなく、都心へ働きに出る者などもいる。
  • イバン族=ボルネオ島西部の焼畑民であるイバン(Iban)族は海ダヤク(Sea Dayak)とも呼ばれる。 カプアス川中流域を起源に持ち、サラワク州に約50万人、東カリマンタン州に約50万人が居住している。ツアクと呼ばれるもち米、タピオカ、トウモロコシなどを原料とした酒を製造することで知られる。平等主義的で階級制度を持たず、少人数の直系家族集団を形成して生活を送る。アニミズム信仰に伴う首狩りを頻繁に実施していたが、近年は他宗教への改宗が見られる。

サラワク州には、イバン族(68.8%)、中国人、マレー人、ビダユー族(16.44%)、メラナウ族、オランウル族(14.76%)の6つの主要な民族グループと、ケダヤン族、ジャワ人、ブギス族、ムルト族、インド人など、人口は少ないが依然として相当な民族グループがある。2015年、サラワク州の先住民族であるビダユ族とイバン族は、マレーシア政府によってダヤック族を構成するものとして公式に認められた。サラワク州にはまだ50以上の部族が存在または絶滅しているが、マレーシア連邦憲法には主要な部族のみが記載されている。サラワク州のイバン族の人口は1,297,700人で、2016年の統計によると、州内最大の民族グループとなっている。イバン族は過去には社会的地位、特に武勇を発揮した人々や農業や演説などの様々な分野で専門知識を発揮した人々に特に注意を払った社会であった。特定の用語は、ラジャ・ベラニ(金持ちと勇敢な人々)、オラン・マユー(普通の人々)、ウルン(奴隷)などの特定の社会的階層に属する人々を指すために使用された。現代の影響にもかかわらず、イバンはガワイ・アントゥ(死者の祭り)やガワイ・ダヤック(収穫祭)などの伝統的な儀式の多くをまだ観察している。

半島マレーシアと東マレーシアでは種族の構成に大きな相違がある。
①半島マレーシアのマレー系人口50.1%に対して、サバ州は78%、サラワク州は70%を占めるほど高い。②半島マレーシアは新マレー系、東マレーシアは原マレー系が圧倒的に多い。③半島マレーシアはインド系人口9.7%に対して、東マレーシアは1.0%以下である。
半島マレーシアでは原マレー系がマイノリティグループに対して、東マレーシアでは過半数を占める。東マレーシアの原マレー系には多くの種族がいる。
サバ州=カダザンードゥスン族(24%)、バジャウ族(15%)、ムルット族(3%)
サラワク州=イバン族(29.6%)、ビダヤ族(8.3%)、メラナウ族(5.7%)

多民族社会

華人
第2期の中華系住民については、1842 年、清朝が阿片戦争に敗れたことで、漢民族の海外移住が認められるといった政治的混乱や飢饉などを理由に、多くは広東・福建といった南部地域の貧困層の農民が、労働者として流入し始めた時期からを指す。大半は読み書きのできない、あるいは低学歴の農民と、チケット(欠費)制度といわれる渡航費用前払い制度を利用して、借金をしてマラヤに渡ってきた。親類縁者を頼るか、ケタウ(客頭)と呼ばれるブローカーの手配によって、マレー半島の西岸、特にペラやスランゴールで開発9が進められていた、スズ鉱山に労働者として入り、その周辺に居住地域を構えた。これらのクーリー(苦力)と呼ばれる労働者たちは、マレー人との接触がほとんどなく10、自分たちの中国文化や生活習慣に沿った華人社会を形成し、定着すると同族や同郷の者を呼び寄せ、富を増やし、集団を大きくしていった。また、年季の明けた者11がマラッカやペナン、シンガポールの海峡植民地で貿易や商工業を担うなどして、コミュニティを拡大していった。これらは「苦力貿易」と呼ばれ、20 世紀になり、イギリスの持ち込んだゴム栽培のプランテーションが開拓されると、労働者の流入はさらに続いた。
多数を占めたのは、福建、広東、次いで客家、潮州、海南である。これら5つの地域からの華僑を5大幇といい、これは東南アジア全般に見られる傾向である。幇は、同郷や同族、同業ごとに「会館」と呼ばれる組織や秘密結社などを組織し、中国の儒教、仏教、道教などを信仰し、マレー人との通婚やイスラームへの改宗はほとんど見られなかった。それどころか、縄張り争い12をするなど5大幇同士の同化もなく、それぞれの言語、出身地域に基づいた社会組織を強化し、今日に至っている。1920 年代以降、裕福な商人、実業家などが台頭すると、華語学校を設立して華語教育を独自に始めた。それにより、5大幇同士のコミュニケーションは広がっていったが、マレー語やタミル語については、商人が商売のために身につける程度であった。こうしてイギリス領マラヤは、イギリス植民地政府の意のままに、生産性を上げるため、多くの中華系住民を受け容れながら発展していった13。イギリスの植民地政策、統治方法は、マレー半島の中で重要な港であるペナン、マラッカ、シンガポールを直轄の海峡植民地とし、残る地域ではスルタン14を通じた統治を行った。具体的にはマレー連邦州(ペラ、スランゴール、ネグリ・スンビラン、パハン)と、マレー非連邦州(ジョホール、クランタン、ケダ、トレンガヌ)に分けて直接あるいは間接統治をしたのである。イギリス植民地政府と第 2 期中華系住民の間には、英語教育を受けた海峡華人が橋渡しとなることで、インド系、マレー人もまた英語教育を受けたエリートたちが双方の間に立つことでこの統治は機能した。
スズ鉱山、ゴム農園の発達したマレー連邦州では、中華系、後述するインド系のコミュニティがそれぞれに形成された。多くはないが、マレー人コミュニティも形成されている。海峡植民地は中華系、インド系が積極的に動員され、都市化が進む。一方、タイとの国境に近い稲作地域のケダ州やマレー半島東岸地域のマレー非連邦州では、マレー人が大多数を占めたまま、植民地政府の恩恵を受けることなく、農業や漁業に従事、経済的な格差を生じさせる(第 3 章 マレーシアにおける華人の移住と定住の歴史過程)。


インド人
華人とは、17 世紀にオランダがマラッカを占領したとき招き入れられた中国人(金子2001:29)と、19 世紀から始まったスズ鉱山の開発のための労働者、そして 20 世紀以降、スズ鉱山のほかにゴムプランテーションなどの労働者として働いたものたちの子孫である。インド人も、ムスリム商人がマラッカやペナンに定住し、マレー人と混血を進めるものも出てきた。またイギリス植民地であった 19 世紀から 20 世紀初めにかけて、プランテーション労働者として多くの人がエステートに移住した。その他、鉄道や公共部門で仕事をするものもいた。華人はスズ鉱山、インド人はエステートと、仕事や生活空間が棲み分けされていた。一方で、「インド人」といわれる人々は、タミル人やテルグ人など言語による違いや、ヒンドゥー教徒、ムスリム、シーク教徒など宗教の違いによって分かれており、それぞれが異なる習慣・文化を維持し、容易に親族関係を持つことはなく、対立関係も見られる。出自や言語、宗教などによって細分化される集団は、サブ・エスニック集団である(古賀,2022)。


*1 同一ないし似通った宗教や食習慣を持った民族の間で通婚が一般化し、混血が進んでいる