機械工業の立地変化

Last-modified: 2022-06-23 (木) 16:42:50

電気機械工業

労働集約的な組立工業で、製品の種類が多岐にわたるため、製品間・工程間空間分業が発達している。小型で軽量、高付加価値な製品が多いためトラック輸送や航空機による空路も可能で、都心部に本社、近郊に研究開発拠点、外縁部に本工場(製品の組立)が大都市圏のそれぞれに立地し、地方都市・農村部に分工場(部品の生産)が立地するなど企業組織の階層性に対応して拠点も階層性がみられ、階層的立地が発達するのが特徴(末吉,1999)。

大きな特徴点は東日本(東京中心)と西日本(大阪中心)の対照性。電気機械工業の歴史的経緯により、重電企業(東芝・日立・三菱電機)は東日本に、家電企業(シャープ・パナソニック)は西日本に、それぞれ複数工場を設置。

明治~昭和初期(萌芽期)→3つの系譜
①鉱山機械とその修理。日立製作所(日立鉱山)、安川電機(筑豊炭田)など。
②政府の需要によって成長した重電企業(電灯・発電施設・電車)。東芝・三菱電機など。
③通信機メーカー(電信・電話・軍事用無線)。富士通・日本電気・沖電気など。

戦後高度成長期→国民所得増大で家電製品が市場を拡大(3種の神器)。大阪に本拠地をもつ家電企業(松下電機・三洋電機・シャープ)が成長。結果、東京・大阪の二大中心地が形成されたが、両地には大手企業(最終製品を販売する)だけでなく、中小零細工場(各種部品を生産)が集積し、両大都市圏にある豊富な低賃金労働力が下支えを行っていた(竹内,1968)。

電気機械工業の展開過程を研究した北川(2005)は、一万人以上の従業者数を数えるのは5都道府県だけで、他には長野県・茨城県・福岡県とする。

1973年の第1次オイルショックにより、高度経済成長は終焉を迎えるが、日本の場合は低成長期において、電気機械工業を柱としてハイテク工業化に向かう。高速自動車道が地方圏に伸び、九州では空港の整備がされ、地方への工場移転が進められた(赤羽1975,1980・山口1982)。その結果、量産型組立工場は大都市圏外縁部に立地し、部品工場の地方立地が進められた、

また、1970年代には、弱電部品(コンデンサなど)のアジアNISEへの立地もみられるようになった。
1980年代には、日本企業の競争力は強く輸出も多かったが、1985年の円高以降、欧米市場を目指した組立工業(カラーテレビ・VTR・電信レンジなど)の立地が本格化した。90年代初頭、EU域内での現地生産を進めたが、多くの企業はイギリス、特に旧産炭地域に立地する傾向がみられた(松原,1989)。

1980年代後半は、バブル経済の影響で国内の地方立地もみられたが、90年代に入り、バブルが崩壊するとASEAN諸国の工場に生産をシフトする動きが強まり、空洞化が問題となった。90年代後半以降は、中国(改革開放路線をとる)に立地が集中するようになるが、ASEAN諸国や中国で賃金上昇すると、労働力立地から市場立地へ転換するようになる。中国のリスクを回避し、ベトナム・フィリピン・インドなど新規立地を進めることになる(チャイナ+1)。

2000年代以降になると、デジタル家電ブームが到来し、国内回帰と呼ばれるように(シャープの亀山工場・堺工場、パナソニックのプラズマディスプレイ工場など)大型設備投資が進められた(近藤,2009)。しかし、これらの製品の寿命は短く、生産方法も普及し、メーカーだけの独壇場は短期間に崩れ、日本・韓国・台湾・中国のグローバル競争が激化し、価格破壊・コモディティ化が進んでいる。カラーテレビの図からみるように、世界のマスマーケットに対して日本製品は品質は高いものの、多くの機能が付与されており、世界市場から隔絶されているとして「ガラパゴス化」という表現もなされる(宮崎,2008)。1990年代の「垂直統合モデル」の限界が2000年代のITバブル崩壊・家電不況により表面化し、組織再編・事業撤退・国内工場閉鎖が相次いでいる。

1990年時点の電気機械の大規模工場において、2016年時点の状況と比較すると閉鎖は全体の16%。特に東京・大阪大都市圏で多くなっていたが、九州・南東北でも閉鎖工場がみられた。また、組織再編の影響を受けた工場は全国に拡がっていた。関東の工場は維持される傾向があるが、関西の工場は閉鎖・組織変更の影響が比較的多い(松原・鎌倉,2020)。

鹿嶋(2016)は、多品種少量生産の業種は大都市部で減少、相対的に分散したのに対して、資本集約的な業種(集積回路・液晶関連)は集中傾向、労働集約的な業種(電子部品の組立など)は地方農村部での衰退が顕著であったことを指摘。

2020年代に入り、日本が強みとしていた電気機械工業は韓国・台湾・中国の追い上げでテレビ・パソコン・半導体から撤退する企業が相次ぎ、全体としは縮小傾向にある。ただし、専門特化した部門において国際競争力を維持・強化している面もある。

参考文献

  • 末吉健治(1999)『企業内地域間分業と農村工業化』大明堂
  • 竹内淳彦(1968)「電気機械器具工業の地域構造」『地理学論評』41,571-584.
  • 北川博史(2005)『日本工業地域論 -グローバル化と空洞化の時代―』海晴社
  • 赤羽考之(1975)「長野県上伊那地方における電子部品工業の地域構造」『地理学評論』48,275-296.
  • 赤羽考之(1980)「長野県上南佐久地方における電気機器工業の地域構造」『地理学評論』53,493-510.
  • 山口不二雄(1982)「電気機械工場の地方分散と地域的生産体系ー宮城県・熊本県の実態調査事例の分析を中心に」『経済地理学年報』28,38-59.
  • 松原宏(1989)「多国籍企業の経済地理学序説」『西南学院大学経済学論集』24-2,127-154.
  • 宮崎智彦(2008)『ガラパゴス化する日本の製造業』東洋経済新報社
  • 松原宏・鎌倉夏来(2020)『工場の経済地理学 改訂新版』原書房
  • 鹿嶋洋(2016)『産業地域の形成・再編と大企業ー日本電気機械工業の立地変動と産業集積』原書房

日本経済地理読本の見解

電機工業のルーツ
①弱電機器=東京城南の電気照明機器・通信機器類
②強電機器=東芝・日立製作所による電力原動機・発電機・変圧機器類
1930年代には、品川区・大田区・川崎・日立・門真で電機機器の量産体制が確立。

戦後、産業用電機機器の需要増大・耐久消費財ブームにのって、発展し電気音響機器を中心に重要な輸出産業としての地位に浮上。1960年代後半からは半導体集積回路(IC)の生産が着手され、様々な工業製品に活用され、日本工業を1980年代の栄光へと導いた。

比較的早い時期から、地域間における工程間分業の論理が取り入れられ、1960年代からは長野県・東北地方・九州地方に労働集約的な部分工程を担う分工場が展開。地域間分業の様態は、大都市圏で開発・最終製品生産/地方圏で部品生産だったが、次第に地方工場が製品開発・一貫生産化を図るなど複雑な企業内地域間分業へと発展。

1990年代半ばは、この地域間分業が崩壊。生産の海外移管・国際的な分業が進む→宮城県・福島県・長野県で雇用調整。地方分工場は、少量生産品の製造に特化、マザー工場化を図る、非正規雇用・生産請負業への社内外注の拡大→操業を維持した工場が多いが、その協力工場は廃業・業種転換も少なくない。

雇用調整の波は2001年まで続いたが、2003に新たな局面を迎える。薄型テレビの開発→国内の設備投資が活性化。国内回帰は大都市圏回帰の様相を呈する(3工場)。
大都市圏回帰の要因
①バブル崩壊後の地価下落によって立地のコスト負担が軽減
②大消費市場・輸出港湾へのアクセスが再評価された(大阪港湾→減価した産業遊休地→薄型テレビ)
③開発現場と生産現場間の空間的距離を圧縮しようとする企業戦略(関連企業の支援が必要→大都市圏が外部経済上優れる)
④大都市労働市場との結びつき。

しかし、国内市場が飽和状態に達したこと、国際市場での競争力を発揮できなかったこと→生産設備の整理・縮小が2010年前後より始まっている。