綾ちと

Last-modified: 2025-12-09 (火) 21:35:40

「どうしよう千歳」
「また恋人役を頼まれちゃった」
いつも通りの放課後。綾乃ちゃんは顔を赤らめながら言った。瞬間、うちの心をざらりとなにかがなでた。
「そっか、よかったなぁ綾乃ちゃん」
気づかないふりをして、うちは笑顔を作った。それは本心からの言葉やった。綾乃ちゃんが歳納さんの恋人役になること———それは綾乃ちゃんにとっても、うちにとっても嬉しいことで。
「あーやのっ」
「と、歳納京子っ」
歳納さんと船見さんが、掃除当番から帰ってきた。歳納さんが近づいただけで、あたふたしだす綾乃ちゃん。
「恋人らしく、一緒に帰ろっ」
「ええっ!……し、しょうがないわね」
「ってことで、二人ともまた明日っ」
そんなやりとりの末、二人は手を繋いで教室を後にした。うちと船見さんがその場に残された。……頑張ってな、綾乃ちゃん。
「ごめんな、京子のやつまた綾乃に変な役押し付けて……」
わざとらしくうちに笑いかける船見さん。その笑顔の裏に宿るものから、うちは目を逸らした。……ほんまに、歳納さんは罪深い女の子や。
「いやいや、うちにとっては、むしろありがたいわぁ」
「はは、千歳は相変わらずだな……それじゃ、私は部室に行ってくるから」
「うん、また明日ー」
手を振って船見さんを見送る。鼻血は出ていなかった。教室にうち一人だけが残された。
なんとなく体が重くなってきて、椅子に座った。いつもはあれだけ騒がしい教室も、今は椅子の軋む音が聞こえるくらいに静かやった。

綾乃ちゃん、嬉しそうやったなぁ。まだ恋人役やけど、もしかしたらいつかは本当の……
本当の。その先を考えると、途端に息が苦しくなった。この苦しさの正体に気づかないふりにも、もう限界がきていた。うちにとって綾乃ちゃんは大切なお友達で、綾乃ちゃんの恋を応援するのがうちの役割。それ以上なにも望んではいけない、それをわかっていたはずやったのに。うちの心はとっくに奪われていた。

うちは綾乃ちゃんのことが好きやった。
友達になったばかりの頃。初めて笑顔を見た時の鼓動の高鳴りを、今でも覚えている。……思えば、一目惚れやったんかな。

窓から差し込む夕陽が長い影を落としていた。机に肘をついたままうちは動けずにいた。
歳納さんだけに見せる、綾乃ちゃんのあの表情。歳納さんと手を繋いで教室を出ていくあの瞬間の映像が、頭の中でリピートしていた。

なんでやろ。
うちの幸せは綾乃ちゃんの幸せやのに。
なんでこんなに、苦しくなるんやろ。
こんなことなら、綾乃ちゃんの歳納さんへの想いになんて気づかへんかったらよかった。
うちは我儘になってしまった。
応援しとるなんて、そう言っておいて。心の奥では、いつも綾乃ちゃんを求めていた。
誰のものにもなって欲しくなかった。あの綺麗な目で、うちだけを見ていて欲しかった。
綾乃ちゃんを想えば想うほど、苦しさは増すばかりやった。必死に押さえつけて、隠してきたこの感情を、今すぐにでも吐き出したい。うちの全てを見透かしてほしい。そう願ったところでなにも変わらない。だって、綾乃ちゃんが好きなのはうちやなくて歳納さんやから。
笑顔が素敵で、自由奔放。それでいて、実は気配り屋さん。みんなの中心で輝く太陽のような女の子。うちが勝てるところなんて、せいぜい腕の強さくらいや。
「……はは」
微かな自嘲が漏れた。

綾乃ちゃん、今は何をしとるんやろなぁ。
なんせ恋人役やもん、手は繋いでたし。
……ちゅーとかしてまうんやないんかな。
まず、歳納さんが綾乃ちゃんの顔に手を添えるやろ。それで、顔を真っ赤にする綾乃ちゃんの口にそのまま……
あぁ。ほんまに、ええなぁー……
「……はぁ」
小さく息を吐いたら、雫が一粒袖に落ちた。
あれ。今うち、泣いとる?
頬をなにかが伝う感覚がした。
ひとつ、またひとつと袖を涙が濡らしていく。
あー、やっぱり泣いとるなぁ。
冷たい涙。止める気力すら、湧かなかった。
綾乃ちゃん。
綾乃ちゃん、綾乃ちゃん、綾乃ちゃん。
その名前を繰り返すたび好きが溢れて、壊れそうになる。
……泣いても無駄だと知っていた。何もかももう覆ることはなくて。この片思いは、いつまでも片思いのままで。その事実が刺さって。痛くて。辛い。

涙が収まりかけた頃、太陽が沈んでいくのがみえた。外の部活の声もまばらになっていた。

うち、なにしとるんやろ。これはうちの選んだことなのに、勝手に一人で苦しんで。
……もう帰らな。千鶴に心配させてまうし。

明日からも綾乃ちゃんの"お友達"でいられるように。横から背中を押してあげられるように。
うちは、感情に蓋をして押さえつけた。

冬の空は、すっかり暗くなっていた。月も星も、うちの目には映らなかった。