If(もしも…)

Last-modified: 2012-01-18 (水) 08:02:04

好きこそ物の上手なれ。

―――ある成功者の格言
「もし、夢と仕事、どっちか一つ取らなきゃいけないとしたら、
おまえどっち取るよ?」
俺が、普通の会社に入ってから、1年が経とうとしていた時の、
友人の不意な言葉だった。

ガタイがでかくて、スポーツ系に見える俺。
しかし、実は、美術大学の出身だった。
将来は、絵で食っていくんだ。
そう、躍起になっていたあの時が、もう懐かしくなっている。

そして、何で、今、俺は普通の会社に入っているのかと言えば、
これまた普通の理由だが、夢にチャレンジするための資金を稼ぐためだった。
こんなことを聞いたら、企業側は俺を、さっさと追放したくなるだろうが、
その事実は曲げられない。

そうやって、営業日は一日も欠勤することなく、今日まで、俺はずっと働いてきた。
それこそ、絵の修行などをやっている暇などないくらいに。

そんな矢先のこの言葉だった。
言われて俺は、少し動揺した。
今まで、そんなこと、考えたこともなかったからだ。
お金がたまれば、画家としてチャレンジしようと、最初から決めていた。
今だって、そのつもりだった。
・・・そう、思っているつもりだった。
しかし、仕事にも慣れてきた今、無意識のうちに、考えていることがあるのだ。
それは、このまま、この会社で、安定した収入を得て暮らしていっても良いのでは
ないだろうか、と言うこと。
画家って職業に、安定したものなどありはしない。
売れたとて、世界的に有名になるまでには相当な道のりがある。
今に名を轟かす多くの画家達も、その多くが、自身の死後、人気が出始めた者たちだ。
その、永遠にも思える逆境に耐えうる力が、今の俺にあるだろうか。
ちょうど、大学時代の仲間の作品が、名のあるコンクールで佳作を取ったことで、
俺の自信も、少し揺らいでいた。
・・・だから、安定した収入も良い。
そんな気持ちが、徐々に出始めている。

友人は、まるで、そんな俺を見透かしたかのように、笑いながら訊ねているのである。

俺は、少しだけ考えてから、答えた。
「俺は、会社には悪いけど、ある程度金がたまったら、夢を取るつもりだぜ。」
・・・自分に言い聞かせるのも、半分ある。
すると友人は、なおも笑いながら、自分の意見を言った。
「俺なら、今の仕事を取るかな。
収入は安定してるし、社会保障だってついてる。
運よく定年まで働ければ、退職金だって出る。
可能性の少ない夢より、俺なら、現実に、今ある幸せを取るな。」

・・・その言葉、笑いながら言うことではないと思うのだが・・・。

そんな言葉を交わし終わったと同時に、午後の営業時間が始まりを告げた。
どちらからでもなく、「さて、もう一頑張り行きますか。」と腰を上げ、俺達は、
仕事場であるオフィスへと向かっていった。

・・・それから、数ヶ月後のこと・・・。

俺の、あの大学時代の友人が、個展が開くことになったと言う情報が、休日で、
寝ぼけ眼の俺を叩き起こしにやってきた。
情報の持ち主はもちろん、本人である。

心地よい朝のまどろみを邪魔され、しぶしぶドアのロックをはずし、友人を出迎える。
「おー・・・久しぶり・・・」
今だに視界がぼやける俺の眼前に、旧友がいる。
「久しぶりだなぁ。元気してっか?」
そう言う友人は、天にも昇るような、そんな、うらやましい表情を浮かべている。
「ぼちぼちだな・・・」
対して俺は、満身に、一週間の疲れを持て余していた。

個展の話は、その場で行われた。
一週間後、ちょうど俺の、次の休みの日に行われると言う、小さな個展。
会場は隣町のイベント会場。
入場料600円。
スポンサーは・・・。
ちょっと待てぃ。
俺が思わずそう呟いた、その項には、画家の間では有名な、あの出版社だった。
「お、おいっ!?おまえ、あそこに認められたのか!?」
ガタイから発せられる、甲高い地響きとも取れる、驚嘆の声。
隣から「うるさいぞ」と苦情が来るくらいの騒音であったらしい。
しかし、そんな俺に慣れてしまっているのか、友人は、相変わらず幸せそうな表情で、
「ああ。念願かなって、ようやく俺もプロデビューさ。」
と、自信たっぷりに言ってみせた。

そして、友人は用件を告げると、忙しそうに、俺の安アパートを後にした。
俺に残ったのは、友人の、輝かしくもうらやましい、成功の証だった。
・・・あいつの腕は、確かだったからな・・・。
どこかで、一種、自分を否定するようなニュアンスの言葉を考えている自分がいた。

そして、また一週間が過ぎ・・・。
俺は、先の旧友の個展へと出かけた。
今の職場には、趣味を同じくしているヤツなんかいやしない。
当然、俺は一人で出かけた。

隣街まで、電車で15分。
揺られながら、俺の頭の中では、いつかの職場の友人の言葉が、これでもかと言わん
ばかりに反響を繰り返していた。
・・・俺に、あいつみたいなひたむきさがあれば、俺も、今ごろ・・・。
と思う自分がいて、同時に、俺には、今の職場が性に合ってるんじゃないか、と、
諦め半分に思う自分がいる。
それを払拭するためにも、俺は、友人の絵を見に行かなければならなかった。
電車を下りてからも、俺の頭の中はそればっかりだった。
自然に、地図を見ながら歩くスピードも速くなる。
そして、目的の場所にたどり着いた。

600円払い、建物の中に入った俺は、次の瞬間、またも驚愕した。
・・・新人らしからぬ、見事なまでのタッチ。
独自の世界観が、会場全てを埋め尽くし、まるで、何かを訴えかけてくるような
その「美術品」達は、全てが光り輝いて見えるではないか。

しばらく放心状態だった俺だったが、しばらくして、我に返ったとき、ふと思い出す
事があった。

大学時代、俺と旧友は、絵の方向性こそ違うものの、実力は、ほぼ互角だった。
そのことは、自他共に認める、決定事項でもあった。
俺達は、友人であり、そして、ライバルだった。

そして、思う。
俺も、やればできるのではないか・・・。

そして、その気持ちは、日に日に高まっていった。
いつかの職場での言葉などどこ吹く風、俺は、それから、懸命に働きつめた。
働いて、働いて。
帰ってきてからは、今までサボりがちだった絵の練習を、基礎からやり直し始めた。
睡眠時間は、一日3時間。
悲鳴を上げる体に鞭打ちながら、俺の情熱は、ただひたすらに、膨張を続ける。
夢は、宇宙の広さになった。

・・・それから4年後、俺は会社を辞めた。
資金がたまったのと、体調が思わしくないこと、そして、夢にチャレンジしたいと言う
気持ちが、抑えきれないほどに膨らみきってしまったのが理由だった。
4年の間にたまった疲労は、すでに、実年齢に+10くらいした肉体年齢を与えていた。
しかし、歩みを止めるわけにはいかなかった。
俺も、高みを目指す。
たとえ生活が苦しくなろうとも、あの日の夢を、今こそ実現するんだ。
今の俺を支えているのは、ただただ、その思いだけだった。

絵を描いては、コンクールに出品しまくった。

服が絵の具まみれになりながら、俺は、日夜、絵を描きつづけた。

いつしか、今が何日かさえわからなくなっていた。

そんなことはどうでも良かった。

コンクールの締め切りの日さえ、守れれば。

それでよかった。

ただ無心に、絵を描き続けた。

それから、何年経っただろう・・・。
遅れを取りはしたものの、努力の甲斐あって、俺の絵は、ようやく、名のある
コンクールで佳作を取るに至った。
コンクールで賞を取ることは、それだけで、画家にとっては名誉である。
俺は、心の底から、今日と言う日を喜んだ。

・・・しかし、その後は、あの時の旧友のようにはいかなかった。
その後も、絵を出品し続けた俺だったが、批評家達は、そのうち、俺の絵を、口々に
否定するようになっていった。
悔しい。
悔しすぎる。
俺は、才能ある画家なんだぞ。

・・・そう思っているのも、その時からしばらくするまでの間だけだった。

最近の俺の悩み。
絵が、嫌いに思える事。
いくら頑張っても、どんどん売れていく旧友には追いつけない自分が、嫌に思える事。
そして、後悔する。
安定したあの職場に留まっていれば、別の人生が開けていたのに・・・と。

それから、俺は、画家の道を諦め、いつか働いていた会社と同業種の場所へ、再就職
していた。
そこで、運命の人を見つけ、結婚に至り、時をあまり移さずして、かわいい我が子が
生まれた。
俺は、一家の主として、社会人として、忙しい毎日を送っていた。

そんな日常が10年も過ぎたある日。
不況・リストラの影響で、一人単位の仕事量が増えたせいもあって、俺は、
実に1ヶ月ぶりの休日を迎えていた。
余暇を満喫しようと頭を回らせていた俺の目に、今年10歳になった娘が、紙に向かって
何かをしているのが飛び込んできた。
「お、知夏(ちなつ)、何やってるんだ?」
・・・夏のような情熱を持った人になって欲しいと願いを込めた、娘の名前である。
その娘が、一心不乱に向かっている紙は、何の変哲もない、ただの画用紙だった。
だが・・・。
そこに描かれていたものと、描いている知夏の表情を見て、俺は、久しぶりの驚愕を
覚えた。

・・・絵。
幼い絵。
描いている知夏は、とても楽しそうだった。

そして、俺は、今になって、思い知ったのである。
あの時、なぜ、批評家達がこぞって、俺の絵を酷評したのかを。

絵を描いていたあの時の俺には、「楽しい」と言う感情が、
一切入っていなかった。
ただ、大学時代のライバルをうらやましがり、追いつこうと、
そればかりが先になっていた。
そこから生まれた絵に、ライバルの絵が持ち得た、あの迫力が、
果たしてあっただろうか。
・・・有るわけがなかった。

そう。
あの時の俺の絵は、今、目の前で絵を描いている知夏の絵よりも、劣っていたんだ。

もし、俺が、絵への情熱と、ただの執念を履き違えてなかったら・・・。
本当に、夢はかなっていたのかもしれない・・・。
絵の本質を忘れた俺に、夢をかなえる力など、なかったのだ・・・。