第九世界-3-レト?
聖堂の正面扉が開けられ、少女がおぼつかない足取りで入ってきた。
白かったワンピースは今や赤黒く、ねっとりと少女の肌にへばりついている。時々そこから、血の滴がこぼれていた。
――ポチャン
――ぺたり
――ポチャン
――ぺたり
――ぺたり
――ハあ
――ぺたり
――ポチャン
少女はゆっくりと、聖堂の正面にある神像に向かって歩いていく。
――ぺたり。
なんで?
――ポチャン
どうして?
――ハ、ぁ
少女が神像に求めるのは何か。
彼女はわきに転がる誰かを見つけるがあえて無視し、神像にひざまずき、箱ごと手をあわせ、こう。
助けて
、と。
追い掛けてきた人達から助けて。狙われる私を助けて。
彼等を虐殺した力から私を助けて――果たして少女の祈りが届いたのか、しばらくして聖堂が光に包まれた。少女は眩しさに目を細めつつ、期待を胸に顔をあげる。
神像の目の前に扉が現れつつあった。頂上の三角部分から、まるで覆いがすり落ちていくかのようにすぅっと。少女は立ちあがり、しかし一歩二歩と扉からさがっていく。何故ならその扉は、凶々しい装飾が施されているからだ。とても、神とか天使とかが救いを与えるために現れるようなものには決してみえない。
素足が中央に敷かれた絨毯を踏みしめて血の雫がポチャ、また溢れた――現れた扉は少女の行いのためなのだろうか。少女は自然と箱を握りしめる。森の中での時と同じ様に。
光がやんで再び暗い世界、扉が音もなく自動的に開いていく。扉の向こうは、何も見えない。暗いからではなく、まさしく闇の断面を覗いているような感覚だ。やがて断面から異物が溢れだす。
第九世界のおよそどの生態系にも属せないような容姿の生き物。なんということか、それは俗に悪魔と呼ばれる第十世界の住民だった。少女の祈りに、悪魔が答えたのであった。
「――――!」
それが少女の前に降りたって、扉が閉まっていく。彼女は既に恐怖で足がすくんでしまっていた。降り立った悪魔は翼を一回羽ばたかせてから、動けない彼女に声をかける。
「ヤアハジメマシテ、Λιπυノ保持者ヨ」
それは言葉というより意味が直接伝わってくるものだった。
悪魔は少女からの返答を期待できないのを確認すると、やっと自らがいる環境を確認した。
「ココハ教会ジャナイカ。教会トハ悪魔ヲ祓ウトコロテモアルンダロウ?ジャア俺モモウスグ祓ワレルナ」
悪魔はそう言って乾いた笑いを溢した。それに少女は身をすくませる。悪魔にしてみれば冗談を言ったつもりだっただろうが、余計不気味にしか見えない。しょうがなく悪魔は自分が通った扉のわきに転がる人を観察する。
上下共に黒色で奇妙な風に白い線が走っている服をきた男――チェスで知恵熱を起こしオーバーヒートしたグレイブだ。呼吸の深さと長さ、いろんな事象に対する反応を検討していって今は気を失っていると断定した悪魔は少々安心した顔で少女の方に振り向く。
読者の皆様。ここでの説明になるのは少々遺憾だが、他にタイミングが見当たらないからさせてもらおう。今舞台となっている教会にいる悪魔――即ち第十世界の住民は自由気ままに第九世界へと降りたっていいとは許可されていない。もし許可されているのならば、ここは既に地獄絵図とされているだろう。では、何故許可されていないのか。それは悪魔の技術である“魔術”を維持するためである。
第十世界は霊海と表される第十一・十二世界と、逆に物質海と呼ばれる第一~第九世界との間に位置している。一応は物質海でもあるのだが霊海の影響を受けているために魔力と呼ばれる力が溢れているのだ。御察しの通り、それが魔術の材料である。魔力だけなら第九以下物質海やそこに住む人々も所有しているのだが、いかんせん第十世界そのものの魔力は質が違う。なんたって魔力を固定化することできるため保存・携帯する事ができ、解放させてやることによってその魔力に込められた情報に基づいて様々な効力を発揮することができるのだ。これが魔術である。嬉しいことに、情報の込められた魔力は霊海から常に流れ落ちてきている。
では何故悪魔が自由に第九世界へ行けないのか?答えはいたって単純である。扉を開くことによって第十世界の魔力が流れ出てしまうからである。おっと、これを馬鹿にしてはならない。第十世界の魔力濃度は元来物質海と同じ人型であった第十世界の住民を悪魔のような姿に変えてしまうほどのものだ。その為、扉が開けられた際第九世界の方では植物や鉱石等が変質している事例も報告されている、と第九世界の悪魔研究機関は発表している。
さて、説明している間に件の悪魔が動きを始めたようだ。
「サアオジョウチャン、Λιπυヲ寄越シナサイ」
そう悪魔は少女に詰め寄っていた。しかし少女は一体何を寄越せと言われているのか判らない以上首を縦にふる事ができない。
解説をしておくと、悪魔が今少女に対して話しかけているのは自動通訳の魔術で、使用する前提が「相手もその意味をしっていること」。つまり、初めから相手が知らないことは伝えられない。
Λιπυというものの意味を少女が知らないのを悟った悪魔は後頭部を指の腹でかいた。知らないのなら教えてやることはできなくもないが――その場合Λιπυの外観だけでなく性質までも知らせなければならない。今少女は手に持つ箱がいかなる力を持つのか知らないようだが、しかしそのΛιπυを持っている以上先天的に守護者であるはずなのだ。Λιπυの力を教えると――いかなる手段をもってしても守り通そうと意識が変わる恐れがある。そうなった場合殺すしかない。
悪魔は舌打ちをする。彼等悪魔にとって殺人は難しいことでない。殺人に対する背徳心は植えられてない。では何故か?答えは至極単純、証拠が残るからだ。彼等悪魔は魔力により体質を変化させられているのだが、そうであるがためにとある全員共通の体質が存在している。
それは、死者の魂がまとわりつくこと。そしてこれはとりもなおさず第九世界へと行った――つまり扉を開けたとして、罰せられる。厄介なことに、魔術戦闘になった場合罪人が勝てる要素など存在しない。
少女が突如息を飲んだ。悪魔は手段を変更し、扉脇に眠るグレイブを掴みあげ、鋭く変化した爪をその喉にあてたのだった。
「ソノ手ニ持ツ箱……コノ男ノ命ト交換デドウダ」
脅迫だった。しかし悪魔にも少女と男が繋がりを持ってるとは思えない。せいぜい行って顔見知りだろうか。今まで放置していた以上そんなに親密ではないと悪魔は判断している。実話、グレイブが一方的に少女の特徴をターゲットとして聞いただけなのだが。
だからと言って、それがどうしたのだろうか。初見?赤の他人?嫌いなヤツ?そういう人物が人質にされてなお向こうの言い分を聴けない読者に作者は助言しよう。道徳、もとい徳育を習い直せと。
少女は自分の持つ“箱”を見つめる。これがどういったものか自分は知らない。いや、知っている。彼女は知っているのだ。ただその性質を自分が認めたくないだけだと言うことを。森の中で誰かをコロした。草の上に誰かの血を撒いた。さっき、扉を開けた誰かを――銃を向けたあの人を向かい討った。箱が与えてくれる力で。箱が勝手に。そう、この箱さえなければ血を見ることはなかったはず。服がこんなに重くなることもなかったはずなのに。
「で、でも……」
そこで少女は初めて言葉をだした。私はこれを持ってなきゃいけない、と。なくしちゃいけない気がする、と。
実に健気な話である。悪魔からしてみれば迷惑千万間違いなしだが。
さて拒否された悪魔は次にどんな行動にでるのだろうか。と、読者様。カラヌイの存在を忘れてはいないだろうか。この舞台の教会の神父を務める彼である。実話、作者は忘れかけていた。ゴメンナサイ。
悪魔は神像脇の扉に人の気配を感じ、躊躇なく魔術を撃った。その扉は背後にあるため、自然振り向く際にグレイブを投げ捨てた。
木製の扉が砕けちり周りの壁が削りとられて塵が霧散する。最も単純で材料魔力も溢れる、衝撃波である。この攻撃を予測して扉から離れていたカラヌイは塵で白く染まった空間に飛び込み、舞台へと突入する。
その様子を見ていた悪魔は懐から魔力結晶を取りだし、同じ衝撃波の魔術の発動準備をする。赤い小さな魔力結晶を人指し指と中指に挟んで粉塵に狙いをつけて、ファイア。魔力結晶が砕けて中の魔力が解放、制動された衝撃波は粉塵からちょうど現れたカラヌイに向かって疾走する!
しかしカラヌイも何も戦闘準備していなかった訳ではない。白い世界を抜けて直ぐに銃口を悪魔にあわせ、トリガーを引き撃鉄を弾に打ちあてる。火薬が弾け、銃弾を走らせると同時にヒビ入らせた。空中で弾の形が崩れ、仕込まれた魔力結晶が自然解放、大きな光の釘となった銃弾は横長い放物線をなぞっていく。ほぼ水平に撃ったため軌道は悪魔まで届かないが、釘の運動量は衝撃波を消すのに充分すぎた。
カラヌイは横転しながら撃鉄を引き弾倉を回転、次の攻撃の準備をする。対して悪魔は強靭な脚で跳躍、天井近くまで跳んだ彼は大きな翼で滑空し神像の肩に降り立った。カラヌイが舌うちをする。その高さには、“釘”は届かなかった。
何故か攻撃準備をしない悪魔を視界の隅におさめつつカラヌイは少女の様子を確認する。酷い有り様だった。白かったワンピースは返り血でどす黒く染まり長い髪も血に塗れている。手には相変わらず自分の手よりも大きな箱を握り締めていた。その足元は、言うまでもない。
「…………おい悪魔。何故攻撃しない。ってか殺してない」
「私ハΛιπυヲ回収シニ来タダケダ。余計ニ殺スト後ガヨロシクナイ」
「へぇ、私には攻撃したのにな」
「ソノ服、衝撃ヲ激減サセル効果ツキダト私ハ判断シタガ。直撃シテモ失神程度デ済ムダロウ」
「そうかよく分かったな。だがとりあえず言わせてくれ。一人称が“私”のヤツ登場しすぎだ自重しろ」
それは私の台詞だ、カラヌイ。
