東海道中膝栗毛増殖事件とは、1982年当時国立御御御付博物館に収蔵されていた東海道中膝栗毛が増殖したことに端を発する一連の事件である。
経緯
1982年2月7日、閉館後館内を巡回していた警備員がケース外に放置された東海道中膝栗毛を発見。通常通り展示されている東海道中膝栗毛と合わせ、二つの東海道中膝栗毛が存在することを確認。展示物ではないため、警備室で保管されることとなった。
2月8日、閉館時間になっても警備員室に戻らない当直の職員(館長)を探していた副主任学芸員が東海道中膝栗毛のケース内にて職員の死体を発見する。この時すでに彼は死亡しており、死因は不明*1。なお、ケースの床には血痕があり、彼が倒れていたと思われる場所から血液反応が出たため、警察は事件と事故の両方で捜査を開始することとなった。
同日、閉館後の調査によりケース内に大量の紙片が発見された。また翌9日には、この紙片は死亡した警備員の所持品であり、遺書ではないかと推測がなされた。しかしこの時点では遺書の内容は不明だった。
9日の夜になると、今度は別のケース内で男性の白骨死体が発見されることとなった。こちらは死後十数年ほど経過しているとみられており、警察ではこの事件との関連も調べている。
10日、遺族の意向もあり、博物館職員による指紋採取が行われた。
12日、鑑定の結果、男性の死体は12年前に行方不明になった学芸員のものと判明し、その身元は判明したものの男性は既に死亡していたものの、生前は学芸員として博物館に勤務していたことなどがわかった。
13日、前日に引き続き、警察はDNA鑑定を行ったところ、その結果が新聞報道される事態となった。
14日、複数の新聞社の取材に対し、博物館側は事実関係を認めることを表明した。
15日、全国紙の朝刊各紙において記事が大きく扱われた。
16日、前日の記者会見を受け、NHKをはじめとしたテレビ局や民放各局の報道特別番組が組まれる。
17日、日本考古学協会より、本件について学術的な見地からの意見表明がなされる。
18日、上野公園にある国立博物館前で大規模な抗議活動が行われる。
19日、警察庁はこの事件について公式発表を行うとともに、全国の警察署に対して警戒命令を出すことを決定した。
20日、国立御御御付博物館で臨時休館が行われ、全館立ち入り禁止となる。
21日、全国各地の大学で一斉に抗議デモ活動が発生。
22日、日本政府及び文化庁は事態収拾のため緊急会見を行い、事態の説明をすると共に、関係者への厳重注意を行うことを表明。ただしこの時点ではまだ事件の真相については明らかにされていなかった。
23日、JR新宿駅構内で発生した爆発によって死傷者が出る事件が発生、現場検証中に警察官一名が事故死した。
24日、都内各地の大学などで機動隊との衝突が起きる。
25日、千代田区霞ヶ関にあった文部科学省ビル付近で暴動が発生して警官隊と衝突し、死者三名負傷者五十二名の惨事となった。
26日、警視庁は一連の騒動を受けて、特別捜査本部を設置することを決定した。
27日、上野公園内にある西郷隆盛像前に座して居眠りをしていた男性が公務執行妨害容疑で逮捕された。
28日、静岡県警沼津署に脅迫電話がかかる。内容は、犯人の要求に従うようにという趣旨であった。
29日、埼玉県川越市上空に発生したオーロラを観測していた市民らが突然昏睡状態に陥り、病院へ搬送されたものの全員死亡した模様であると報じられた。この件に関しては後日原因不明のまま終息宣言が出された。またこの一件を以て東海道中膝栗毛増殖事件は終息したと報じられることとなる。
現代における考察
2018年現在においてもこの事件は解決されておらず、未だ謎に包まれたままとなっている。また、この一連の事件に関してどのような犯罪行為が行われていたのかについても、未だに不明である。当初は館内で死亡した館長の死が自殺か他殺かも定かにされてはいなかったのだが、2020年に実施された警察の科学捜査によれば、彼の死は病死であり犯行ではなかったことが証明されている。また、ケース内の紙片と白骨死体から採取されたDNAが一致したことから、警察は遺体の男性を学芸員だと断定しており、彼が何らかの方法で殺害され、紙片を遺していったのではないかと考えられているようだ。しかしながら、なぜ紙片を遺していく必要があったかについては依然として解明されていない。なお、被害者の男性は入館時には既に死亡していたことが判明しているため、彼が何者かの手によって殺害されたことは間違いないと思われる。また、この紙片には何かしらの文字が記されており、それが何を意味しているものなのかは現在も研究中である。
影響
この事件以降、世間では博物館を不気味がり敬遠する人が増え始め、閉館する施設も出てくるなど、大きな社会問題へと発展した。またこの事件の影響により、これまでは博物館の展示物に対してさほど興味のなかった人々も、その価値を見直したとも伝えられている。しかしこの事件にはいまだ不明な点も多く残されており、今後も様々な憶測を呼び続けることになると思われる。