戦国史メモ一覧

Last-modified: 2021-08-09 (月) 11:31:25

戦国史サンプルシナリオデータ>>

1550.7(天文19年)

安芸の毛利元就が、重臣の井上元兼とその一族を殺害した。
井上一族は、1523年に毛利家家督を庶子の元就が相続する際にこれを支持して功績を上げた。
しかし、このことから次第に増長し、横暴な振る舞いが目立つようになったため、元就は井上一族の粛清を断行した。
これにより、元就は毛利家当主としての支配権を家中にしらしめることとなった。

1550.10(天文19年)

甲斐の武田晴信(信玄)は、北信濃の村上義清方の戸石城を攻めた。
しかし城の救援に駆けつけた村上義清の攻撃により武田方は多数の死傷者を出し、
大敗を喫することとなった。これを「戸石崩れ」といい、信玄の敗北した戦いとして有名である。

1551.?(天文20年)

蝦夷の蠣崎季広は抗争が続いていたアイヌ民族と講和し、「夷狄の商舶往還の法度」を定めた。
これにより、蠣崎季広は蝦夷地に訪れる商船から取った税の一部を
アイヌの東部首長チコモタインと西部首長ハシタインに与えることを約束し、
そのかわりにアイヌとの独占的な交易体制を確立した。

1551.3(天文20年)

尾張の織田信秀が病のため死去した。(没年について異説もあり)
信秀は、もともと尾張守護代の織田大和守の三奉行の一人に過ぎなかったが、
しだいに勢力を伸ばし守護代織田家や守護斯波家を凌ぐ力を備えつつあった。
信秀の嫡男、織田信長は葬儀の際に抹香を仏前に投げつけるなどの奇行を行い、
「大うつけ」として周囲の反感をかったと言われる。

1551.8(天文20年)

周防・長門を中心として中国九州7カ国の守護である大内義隆が、
周防守護代の陶隆房(晴賢)の謀反により自害に追い込まれた。
武断派の陶隆房は、文治派の相良武任が義隆に重用されていることに反感を抱き、
かねてから義隆と対立するようになっていた。
大内義隆が相良武任を重用したのは、1542年の出雲月山富田城攻めに大敗してから
軍事面に興味を示さなくなり、文化面に傾倒していったためと言われる。
この謀反により、義隆の側近や公家たちも殺害された。
また、大内氏による明との勘合貿易も終わりを迎えることとなった。
この後陶隆房によって義隆の甥である豊後の大友宗麟の弟・晴英が大内家当主に迎えられ、大内義長と名乗った。

1552.3(天文21年)

関東管領上杉憲政は、北条氏康の関東侵攻により、劣勢に追い込まれていた。
上杉家を見限り北条家に内通した家臣によって追放された上杉憲政は、
越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃亡した。こうして、名門山内上杉家は没落した。
関東管領職は、後に長尾景虎(上杉謙信)に譲られることになる。

1553.4(天文22年)

尾張の織田信長と、美濃の斎藤道三が濃尾国境付近の聖徳寺で会見した。
道三の娘は1548年に信長に嫁ぎ、斎藤家と織田家は講和を結んでいる。
道三は、娘婿であり「うつけ者」と評判の信長がどのような人物かを見極めるために
会見を申し入れたが、織田家の軍備や信長の才覚あふれる態度に驚き、
以後信長に対して一目置くようになったと言われる。

1553.8(天文22年)

畿内で勢力を振るう三好長慶は、将軍足利義輝を攻め、義輝は近江朽木に逃れた。
細川晴元の有力重臣であった三好長慶は晴元に敵対する細川氏綱側に寝返り、
1549年には晴元を近江に追いやって畿内の実権を握っていた。
将軍を追放した三好長慶は、幕府によらず畿内を支配する三好政権を成立させた。

1553.8(天文22年)

甲斐の武田晴信(信玄)と越後の長尾景虎(上杉謙信)が、
川中島(現在の長野市)で戦った。信玄と謙信の戦いとして世に名高い川中島の戦いである。
これ以後、1564年まで計5回の戦いが川中島で繰り広げられることになる。
(1561年9月に行われた4度目の戦いが最も激戦であり、
一般に川中島の戦いというとそれを指す場合もある)
この年、晴信に葛尾城を追われた村上義清は越後の長尾景虎を頼っていた。
義清ら北信濃の国人の要請により信濃へと出兵した景虎は、川中島で晴信と対峙した。
この戦いは、局地的な小競り合いのみで終始し、やがて双方が軍を引き幕を閉じた。

1553.9(天文22年)

武田晴信(信玄)との川中島の戦いを終えた長尾景虎(上杉謙信)は、上洛して後奈良天皇に謁見した。
この時、後奈良天皇から自国周囲の敵討伐を許可する綸旨を受けている。
景虎は、北条氏康に追われた関東管領上杉憲政や、武田晴信に追われた北信濃の国人を受け入れていたため、
関東や信濃に進出することに対して正統性を得ることが目的だったと思われる。

1554.3(天文23年)

甲斐の武田晴信(信玄)、相模の北条氏康、駿河の今川義元が駿河の善得寺で会見し、三国同盟が締結された。
(3者が実際に善得寺で会見したかどうかは、史実性に疑念が持たれている)
信濃制覇を目指す武田晴信、関東平定を目論む北条氏康、尾張進出を狙う今川義元の
3者の利害が一致し、今川家の太原雪斎の働きかけによって三国同盟が実現した。
また、3者間で互いに婚姻関係を結ぶことにより同盟を強固なものとした。

1554.11(天文23年)

出雲の尼子晴久が、叔父の尼子国久やその嫡男の誠久ら一族を殺害した。
尼子国久の一族は新宮党といわれ、各地を転戦して尼子家の躍進に功績を上げていた有力な一族であった。
この粛清については、国久の横暴なふるまいのためとも、毛利元就の陰謀説とも言われる。
しかし、尼子家中でも軍事面では最強であった新宮党を粛清したことにより、
今後尼子家の勢力は衰えていくことになる。

1555.4(天文24年)

尾張那古野城の織田信長が、尾張守護代の織田信友を攻め、清須城を落とした。
前年、織田信友は尾張守護の斯波義統を攻め滅ぼしていた。この時、義統の子義銀(よしかね)は信長を頼った。
信長はこれを好機として、叔父の織田信光と共謀して織田信友を討ち、清須城を手中にした。
この時、信長は信光を守護代として尾張下四郡を任せる約束をしていたが、これを反故にして自ら清須城に入った。
こうして尾張の中心ともいえる清須城を手にした信長は、尾張統一への道を着々と進みつつあった。

1555.10(天文24年)

安芸の毛利元就は、暴風雨の中、厳島で陶晴賢と戦いこれを撃破した。
晴賢の軍勢2万に対して、元就の軍勢は僅か3千5百だったと言われる。
元就は厳島に宮尾城を築き、これを囮にして晴賢の大軍をおびき寄せた。
天候と地形を味方につけた元就の奇襲に嵌った晴賢は、自刃して最期を遂げた。
この勝利以降、元就は中国地方の覇者として大躍進を遂げることになる。

1555.10(天文24年)

戦乱が相次いだことから、天皇は改元を要求。
『北斉書』の中から取り、『弘治』と改元された。

1556.4(弘治2年)

美濃の斎藤道三が、息子の義龍と争い敗死した。
下克上により美濃一国を手中に納めた斎藤道三は2年前に家督を義龍に譲り隠居していた。
しかし、道三は息子の義龍に対して挙兵し、両軍は長良川河畔で衝突し、劣勢の道三は敗れた。
道三挙兵の背景として、義龍の生母が先代美濃守護土岐頼芸の愛妾であったことから、
実は義龍が道三の実子ではなく、土岐頼芸の子であったためとする俗説もある。

1557.4(弘治3年)

安芸の毛利元就が、大内義長を攻めて自刃させ、周防・長門を制圧した。
大内義長は厳島で元就に敗れた陶晴賢によって大内家当主に据えられていたが、
これで西国の名門大内家は名実ともに滅亡した。

1557.9(弘治3年)

後奈良天皇が崩御し、方仁親王(正親町天皇)が践祚した。

1557.11(弘治3年)

尾張の織田信長は、反目していた弟の信行(実際には信勝が正しいとされる)を、
自身が病気と偽って清須城に招き、これを謀殺した。
うつけ者と言われ奇行が目立った信長に対して、
弟の信行は品行方正であったとされ、織田家家中では支持が分かれていた。
織田家宿老の柴田勝家や林秀貞(一般には林通勝)は
信行方についていたが、許されて再び信長に仕えた。
こうして織田家家中は一つにまとまり、尾張統一にむけて前進していく。

1557.11(弘治3年)

安芸の毛利元就は、一揆鎮圧のために出陣していた陣中で、
嫡男の毛利隆元、次男で吉川家を継いだ元春、三男で小早川家を継いだ隆景の三人に対し、
毛利家のために力を合わせていくようにと教訓状を与えた。
これは、後世脚色されて三矢の教えとして広まったとされる。
(三矢の教え:一本の矢はたやすく折れるが、三本まとまると容易には折れないとして、
元就が息子達に対して兄弟の結束を説いたという教え)

1558.2(弘治4年)

正親町天皇即位につき、改元される。
『群書治要』の中から取り、『永禄』と改元された。

1558.6(永禄元年)

三好長慶に京を追われ近江朽木谷に逃れていた将軍足利義輝は、
この年の2月に弘治から永禄へと改元されていた事実を知らず、
3ヶ月以上も発行文書などに弘治の年号を使い続けていた。
改元の事実を知らされなかったことについて、義輝は朝廷に抗議の使者を送っている。
従来、改元に関しては費用を幕府が負担するかわりに、幕府が自由に改元に対して介入していた。
しかし、今回の改元は近江に逃れていた義輝が一切関与することなく進められ、
室町幕府が弱体化していることを露呈させる結果となった。

1558.11(永禄元年)

将軍足利義輝と三好長慶の和議が成立し、義輝は5年ぶりに京へ戻った。
これ以後、義輝は長慶に実権を握られつつも足利幕府の権威復興を目指すが、
1565年に三好義継と松永久秀によって暗殺されることになる。

1559.?(永禄2年)

飛騨の三木良頼は、前年に朝廷より従五位飛騨守に叙任され、飛騨国司に任命されていた。
そして、既に名跡が途絶えていた旧飛騨国司の姉小路氏を継承し、以後姉小路を名乗るようになった。
姉小路氏は、伊勢北畠氏、土佐一条氏とともに三国司と呼ばれる名家であり、
良頼はその名跡を継ぐことで飛騨統一を有利に進めようとした。

1559.1(永禄2年)

肥前の竜造寺隆信は少弐氏の勢福寺城を攻め、少弐冬尚は自害して九州の名門少弐氏は滅亡した。
竜造寺氏はもともと少弐氏の家臣であったが、しだいに台頭し主家を凌ぐ勢力となっていた。
こうして九州は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏、
そして新たに台頭した竜造寺氏による三勢力の鼎立状態となっていく。

1560.5(永禄3年)

尾張に攻め込んだ今川義元が、桶狭間で織田信長に討ち取られた。
今川の軍勢は2万5千の大軍であったが、わずか2千の信長軍による本陣急襲によって義元は討ち死にした。
大将を失った今川勢は総崩れとなり、駿河へ敗走した。
この戦いによって織田氏と今川氏は今後の明暗を分けることになる。
海道の名門今川氏は衰退の一途をたどり、勢いづいた織田氏は天下統一への道を進み始める。
今川方の松平元康はこれを機に独立し、2年後には織田信長と同盟関係を結ぶことになる。

1560.5(永禄3年)

土佐の長宗我部国親の嫡男、元親が本山茂辰との戦いで初陣を飾った。
本山氏の支城を攻めていた長宗我部軍と、城の救援に駆けつけた本山軍は、長浜戸ノ本で衝突した。
この時、元親は見事に初陣を飾り、その働きで長宗我部軍を勝利へと導いた。
元親は幼少のころは病弱で、「姫若子」(女の子のような若君)などと陰口を言われていたといが、
この時の見事な戦い振りから、以後は「土佐の出来人」と称賛されるようになったという。

1561.3(永禄4年)

越後の長尾景虎(上杉謙信)が、庇護していた関東管領上杉憲政から
関東管領職を譲り受け、鎌倉の鶴岡八幡宮で拝賀の儀式を執り行った。
この時、景虎は上杉家家督を正式に継承するとともに、
憲政から「政」の一字を貰い受け、上杉政虎と名を改めた。
この年、景虎は北条討伐を宣言し、関東の諸大名・国人を従えて10万ともいわれる大軍で
北条の小田原城を包囲した。しかし、堅城小田原城を落とすことはかなわず、包囲軍は撤退した。
しかしこの後も、関東管領として北条討伐を掲げた政虎は、関東出兵を繰り返すことになる。

1561.9(永禄4年)

上杉政虎(謙信)と武田晴信(信玄)が、川中島で4度目の戦いを繰り広げた。
川中島の戦いは1553年から1564年の間に5回行われているが、今回の戦いが最も激しいものであった。
政虎は、北信濃に勢力を伸ばす武田に対抗するため、1万8千の兵を率いて川中島に出陣した。
一部を別働隊として善光寺に残し、主力は武田方の海津城の背後にある妻女山に陣を張った。
対する晴信は1万7千の兵で出陣して海津城に入り、城兵3千と合わせて2万の兵で城の守りを固めた。
両者互いに出方を見守りながらの対峙が続いたが、先に動いたのは武田であった。
武田勢は夜陰に乗じて海津城を出ると二手に分かれ、半数が妻女山の上杉勢に夜襲を仕掛けて
八幡原へ追い立て、晴信の本体が八幡原でこれを待ち伏せて一気に殲滅するという作戦に出た。
「甲陽軍鑑」によれば、これは山本勘助が考案した「啄木鳥(きつつき)の戦法」と言われる。
しかし夜襲を受ける前にこれを察知した政虎は、濃い霧が立ち込める中、八幡原へと全軍を移動させた。
そして、夜明けとともに霧が晴れると、上杉勢は八幡原の武田勢に襲い掛かった。
不意を突かれ、兵数でも劣る武田勢は混乱し、晴信の弟信繁や山本勘助、諸角(室住)虎定らの有力武将が討ち死にした。
しかし、やがて妻女山から戻った武田の別働隊が戦いに加わると形勢は逆転し、上杉勢は劣勢となり越後へと退却した。
この戦いによって両軍はともに多くの死傷者を出し、武田方は有力武将を失うなど、大きな痛手を負うことになった。
また、戦いのさなか政虎が武田の本陣に単身で駆け込み、晴信と一騎打ちをしたという伝説も残されている。

1562.1(永禄5年)

尾張の織田信長と三河岡崎の松平元康(徳川家康)が尾張清須で会見し、同盟を締結した。
桶狭間の戦いで今川義元が敗死して以降、今川家から半独立状態にあった松平元康は、
これで完全に今川家とは袂を分かつことになる。この同盟によって、
織田家は美濃攻略、松平家は三河・遠江の今川領攻略に専念することが可能になった。
また、今川家から完全に独立を果たした松平元康は、この年の7月、
今川義元からの偏諱である「元」の字を捨て、松平家康と改名する。

1563.10(永禄6年)

三河の一向宗門徒と松平(徳川)家康との関係が悪化し、全面的な戦いが始まった。
事の発端は、松平氏が一向宗寺院の不入権を犯し、一向宗が持っていた特権を否定しようとしたためといわれる。
一向宗の門徒は武家の中にも多かったため、松平氏の家臣の中でも一向宗側に与する者が多く現れた。
このため松平氏の家臣団は分裂し、国を二分する戦いが翌年5月まで続いた。
この戦いは松平氏の勝利に終わり、家康は三河の支配を強固なものとした。

1564.1(永禄7年)

相模北条氏康と、安房里見義弘の軍勢が下総国府台で戦い、北条方が勝利した。
江戸の太田康資は北条氏に属していたが、北条からの独立をはかるべく、同族の太田資正を通じて上杉謙信にに寝返った。
太田康資・資正を救援すべく上野に兵を進めた上杉輝虎(謙信)の要請に応じて、
里見義弘は下総国府台に布陣し、これに太田康資・資正が加わり北条勢と対峙した。
しかし、北条勢の奇襲によって里見勢は大敗する結果となった。
これによって北条氏は江戸一帯の強固な支配権を確立、さらに下総・上総にも勢力を拡大させ、
里見氏は逆に安房・上総南部へと勢力を後退させた。

1565.5(永禄8年)

三好義継と松永久秀の軍勢が、室町御所の将軍足利義輝を襲撃した。
剣術に秀でていた義輝は、自ら剣を振るって応戦したが、奮戦むなしく討ち死にした。
幕府権力を牛耳ろうとする三好義継・松永久秀にとって、将軍家復権のために
独自の政治活動を行う義輝は扱いにくかった。そのため、足利義維の嫡男義栄(義輝の従兄弟)を
義輝の代わりに将軍職に据えようと画策し、義輝襲撃を決行した。

1565.8(永禄8年)

毛利元就の次男吉川元春が、尼子攻めの陣中で太平記全40巻を書写しおえた。
猛将として名高い元春であるが、決して武勇一辺倒というわけでなく、文武両道の名将であったことがうかがえる。
元春が書写した太平記は「吉川本太平記」と呼ばれ、
現存しない太平記原本に近い写本としてたいへん貴重なものとなっている。

1566.9(永禄9年)

織田信長の家臣木下藤吉郎が、美濃墨俣に一夜城を築いたという逸話が残る。
美濃攻略を進めていた織田信長は、戦略上の要所である墨俣に城を築こうとしていた。
しかし、佐久間信盛や柴田勝家らが何度か築城を試みたものの、美濃の斎藤勢の攻撃により毎回失敗に終わっていた。
この難題に木下藤吉郎が名乗りを上げた。藤吉郎は、蜂須賀小六らの協力を得て、
木曽川上流で砦を構成する柵などの部材をある程度組み立て、
それを下流の墨俣に流して一気に城砦を組み上げるという手法を用いて、一夜の内に砦を完成させたと言う。
しかし、この逸話は江戸時代の創作であるとする説が有力である。

1567.9(永禄10年)

尾張の織田信長が美濃の斎藤竜興を攻め、斎藤氏の本城である稲葉山城を落として美濃制圧を完了させた。
これまで、信長は西美濃三人衆といわれる稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の抵抗により
美濃攻略を阻まれてきた。しかし、その西美濃三人衆が竜興を裏切って信長に内応した。
これを機に、信長は一気に斎藤氏を攻め、稲葉山城を落とすことに成功した。
これによって、斎藤道三から三代続いた美濃斎藤氏は滅亡した。
信長は、稲葉山城へと居城を移し、この地をこれまでの井ノ口という地名から、岐阜へと改めた。

1568.9(永禄11年)

尾張・美濃を制する織田信長は、足利義昭を奉じて上洛の軍を起こした。
岐阜を発った信長は、近江の六角義賢・義治父子を大敗させ、京に入った。
京で権力を振るっていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らも破り、信長は畿内を掌握する。
足利義昭は、この年10月に15代将軍に就任する。

1568.12(永禄11年)

甲斐の武田信玄は、今川氏真の領する駿河に侵攻し、駿府を攻略した。
武田と今川は長年同盟関係にあり、氏真の妹は信玄の嫡男義信に嫁いでいたが、
前年に信玄が義信を自害させ、その妻である氏真の妹が今川へ返されたことで、その関係は破綻していた。
今後、衰退する今川氏の領土を、武田と徳川が奪い合うことになる。

1570.1(永禄13年)

織田信長は、将軍足利義昭に対して五箇条の条書を認めさせた。
畿内を抑え、伊勢の北畠氏を攻略した信長は、着々とその勢力を伸ばしていた。
しかし、信長と将軍義昭の関係は、次第に悪化していった。
信長が突きつけた五箇条の条書の内容は、義昭の政治活動に対して
信長の許可を必要とすると定めるなど、義昭の権限を大幅に制限するものであった。
これによって、信長は義昭に対してその力関係をはっきりと示した。

1570.4(永禄13年)

戦乱などが続いたことから、改元される。
『毛詩』と『文選』の中から取り、『元亀』と改元された。

1570.6(元亀元年)

北近江の姉川で、織田・徳川連合と、浅井・朝倉連合が激突した。
北近江を領し、信長の妹を妻とする浅井長政は、信長とは同盟関係にあった。
しかし、浅井とは古くからの盟友である越前朝倉が信長と敵対すると、長政は信長に反旗を翻した。
姉川での戦いの結果、浅井・朝倉連合は大敗した。

1573.7(元亀4年)

この年、武田信玄が西上すると、足利義昭は織田信長に敵対する。
しかし、信玄は急死し、その情報が伝わらないまま、義昭は京で抵抗を続けた。
信長の和睦を蹴った義昭だったが、信長が上京を焼き討ちすると、ついに講和がなった。
しかし、7月に入ると、再び義昭は講和を破棄して槇島城に入城した。
7月18日に槇島城が陥落すると、足利義昭は子・義尋を人質に差し出し、降伏。
織田信長は義昭を追放し、ここに室町幕府は滅んだ。
ただし、信長が義昭の将軍職を奪わなかったことから、
義昭は1588(天正16)年まで征夷大将軍であり続けた。

 

元亀年間は織田信長にとって試練の時期であった。
浅井家との敵対から始まる織田包囲網、一向一揆の蜂起で弟を失った。
延暦寺も浅井・朝倉に味方し、これとも戦った。
ついには同盟していた武田信玄が織田・徳川家と敵対した。
こんな中、織田信長は早くから改元を要請していた。
戦災が続くことから、宮中もこれを支持した。
しかし、将軍・足利義昭がそれを阻止した。7月26日、その義昭は既に京にいない。
織田信長の改元要請は遂に通った。『文選』と『老子』の中から取り、『天正』と改元された。

1586.9(天正14年)

この年の7月、皇太子・誠仁親王が病没。
誠仁親王の子・周仁親王が新たに皇太子となった。
12月、正親町天皇は譲位し、周仁親王(後陽成天皇)が践祚した。

1593.12(天正20年)

後陽成天皇即位のため改元される。
『通典職官十七』の中から取り、『文禄』と改元された。

1596.10(文禄5年)

戦乱と天変地異が続いたことから、改元される。
『毛詩注疏』の中から取り、『慶長』と改元された。