アンサイクロペディアのローマ皇帝一覧を見て、ひたすらローマ皇帝たちをバカにしつつも、しっかり各皇帝の特徴やローマ史の面白さを伝えていて感嘆したので、そのタッチを参考に日本史の権力者バージョンを作ってみたかった。元ネタより多少はバカにした感じを減らして正確さを増やしたつもりだが、ふざけていることに変わりはなく信頼には値しないので、興味を持った人物はちゃんとした方法で調べてね。そもそも最高権力者が誰か、という判断もテキトーです。一日一人ぐらいのペースが目標。
黎明期
文献資料が乏しいため謎多き時代。当時の中国の歴史書を見ても、日本について書かれた部分はごく一部であるし、後に書かれた日本の歴史書を見ても、この時代の記述は特に事実と創作の混在が著しいと思われる。
年代 | 最高権力者 -概要- | 説明 | その他人物 |
1世紀半ば | 奴国王 (なこくおう) -ハンコ王- | 中国の歴史書に登場する日本の王様。王様といっても当時の日本には多くの小国があり、その中で福岡県らへんにあった1国の王にすぎない。だが超大国・中国(後漢)から日本との「外交窓口」の指定を受けたことで、中国皇帝直々の家来の証である金のハンコをゲットした。その権威を傘に、他国に対し大いに威張ったことだろう。当然、金のハンコはとても綺麗な状態に保ち、巨大な岩の下に大切に隠していた。が、約1700年後にジンベエというただの農民に、農作業中に発見されてしまった。 . | 光武帝? |
2世紀前半 | 帥升 (すいしょう) -ハイセンス- | ↑の約50年後に中国の歴史書に登場する日本の王様。奴国王のように日本の国々を代表して中国に使者を送ったが、どんなお土産を贈れば皇帝に喜んでもらえるか考えた結果、生身の人間(奴隷)160人という結論に達した驚異のセンスの持ち主。そのサプライズが実ったかは不明。 . | |
2世紀中後 | (倭国大乱) | 70~80年にわたる内戦。まだ日本に多くの小国が存在した中で、それをとりまとめる強力なリーダーシップを持った王様が現れない限り、争いが絶えなかったのだろう。結局、男の王はこれを誰も解決できず、カリスマ女性占い師の登場を待たなければならなかった。 . | |
3世紀前半 | 卑弥呼 (ひみこ) -ひきこもりの カリスマ- | いわずとしれた女王。よく当たる「骨焼き占い」などで一世を風靡し、邪馬台国の女王に担ぎ上げられた。女王就任後はひたすら部屋に引きこもって神の意志を聞くことに専念した。なかなか人前に姿を見せないことで、なんとなくミステリアスさを醸しだす作戦が功を奏し、実務・広報担当の弟とのチームプレーで30ほどの国をまとめあげた。こうして久々に日本に平和をもたらし、中国三国時代の最強国・魏からも認められて金のハンコや銅の鏡をゲットした。だが日本のすべての国が従ったわけではなく、「卑弥弓呼(ひみここ)」とかいう大変紛らわしい名を名乗る王(※男)が率いる狗奴国との抗争が勃発。その最中に亡くなった。 . | 卑弥弓呼? |
3世紀後半 | 台与 (とよ) -スーパーJC- | 「いよ」と読む説もある。卑弥呼の死後、男が後を継いだが再び内乱に突入。悩んでいた人々は、卑弥呼の時代を思い出した。「そうだ!政治能力とかは脇に置いて、もう一度女性占い師を立てれば良いのだ!」と。そこで卑弥呼の一族とかいう触れ込みで、今でいう中学一年生の少女が女王になった。さすがに無理があるよ、いよはまだ13だから…と思いきや見事に内乱は収まった。不思議なものである。 . | |
4世紀 | (空白の4世紀) | スーパー女子中学生・台与が266年に中国に使いを送って以来、中国が混乱の時代に突入する中、約150年間にわたり日本に関する記述は中国歴史書から姿を消す。この間どんな王様がいたかはまったくのナゾ。ただヒントとして、この頃の西日本に前方後円墳の古墳が急増している。古墳というのは単なる大きめの丘である。(普通に横から見たら。)この単なる丘を、奈良県の強い王様(大王)が作っているという理由だけで各地の王様も「それかっこいいっすね!」とマネして躍起になって作った。このことから、奈良県の大王を中心とする「ヤマト政権」が、多くの豪族を傘下におさめていったことがわかる。 . | |
5世紀前半 | 仁徳天皇 (にんとく-) -ギネス- | ヤマト政権の大王で、のちの日本の歴史書では第16代天皇とされた。そもそもこの頃の記述は信憑性が怪しく、この方も110歳まで生きたことになっており、もし本当なら当時のギネス記録間違いなしである。(もっと長い天皇も多くいるが。)まあ細かいところはともかく、実在した可能性は高い。民衆の貧しさを見て「かわいそう!3年間誰からも税取らない!」と宣言した上に、実際は6年間も取らなかったという有言実行を超えたギネス認定ものの聖人君子。その後は土地開発事業でも大活躍した。死後は大仙古墳に眠り、そのギネス認定レベルの巨大さは1500年経った今も(古墳の中では)日本一である。なおこんな完璧に見える天皇だが、不倫しまくったので奥さんとの関係だけは上手くいかなかった。 . | |
5世紀後半 | 雄略天皇 (ゆうりゃく-) -大胆- | ヤマト政権の大王で、第21代天皇とされる。あまりにも荒々しい性格で、自分が大王になり権力を高めるためなら誰でも容赦なく殺す。肉親も殺す。有力豪族も殺す。それで気づいたらライバルがいなくなって、ヤマト政権が中央集権的な統一国家に近づいていたという、名君と言って良いのかよくわからない方。一方、このころ中国の南部を支配していた宋の歴史書には、日本の「武」という王が登場する。彼は478年に使者を通じて「俺の一族は超頑張ってんだぜ!東方、西方、朝鮮半島合わせて216コも国を倒したんだぜ!」と皇帝に猛アピールし、ものすごく長い称号を要求してだいたい認められた。この王「武」イコール「雄略天皇」であるという説が、いくつかの証拠から有力である。さすが、海外での活動もド派手な男であった。 . |
継体朝以後
6世紀初めにかなり無理のある皇位継承があるために、実際はここで王朝交替が起こっているという説は一定の支持を持つ。その真偽はどうあれ、ヤマト政権の大きな転換点であったことは間違いない。これから約200年の間に、有力豪族が次々と淘汰されて一部の豪族および大王(天皇)へと権力が集中していく。そして、中国に誕生した統一国家の制度や文化の影響を大きく受けながら、日本は官僚制による中央集権的な「律令国家」へと変貌を遂げていく。
年代 | 最高権力者 -概要- | 説明 | その他人物 |
507-540 | 大伴金村 (おおともの かなむら) -人選下手- | 有力豪族の大伴氏に生まれ、武烈天皇を支援し即位させて出世した。だが武烈天皇は、「人の爪を剥がし、その手で芋を掘らせる」「人を木に登らせ、木を切り倒し落下死させる」などの素晴らしい趣味をお持ちだった。こんな人を即位させた金村もある意味ヤバい。しかも武烈天皇は、後継ぎがいないまま若くして崩御した。 天皇家断絶の危機を迎えたヤマト政権。ここで金村は奇策に出る。福井県に在住の「俺の父さんの爺さんの爺さんは天皇だったんだ」と自称する男性(58歳無職)を見つけ出し、継体天皇として即位させたのだ。あまりに胡散臭い即位には反発も多かったと想像され、彼が首都に入るまでに20年近くかかっている。こうまでして王朝の交代を避け徹底的に血統に拘ってきた結果、今もタテマエ上は2600年にわたる万世一系が続いているのは日本史の特異な部分であり、これはその原点ともいえる。 その後、朝鮮半島の同盟国・百済が苦境に陥ると、「ヤバい俺ら滅亡しちゃう、領土くれ」と求められるがままに、日本が朝鮮半島に持っていた領土をホイホイあげてしまう。結局その領土はさらに敵国・新羅に奪われ、領土をタダで敵国に渡すという大変マヌケな結果に終わった。この一件で金村は叩かれまくり、大伴氏衰退の因となった。 . | 継体天皇? 磐井? |
540-572 | 蘇我稲目 (そがのいなめ) 物部尾輿 (もののべの おこし) -ケンカ- | 大伴氏が失脚した後有力となったのは物部氏と蘇我氏であったが、2人いれば争いが起こるのが常である。この時はちょうど大陸から伝わってきた「仏教」が争いのタネになった。物部尾輿が「仏って要は外国の神様だろ。そんなの拝んだら日本の神々が怒り出すわ」といえば、蘇我稲目は「大陸の国はみんな仏教信じてるのに、俺らだけ信じないのヤバくね」と言い返す。何というか、そもそもお互い仏教の教義などわかっていないし、わかろうともしておらず、それ以前のレベルで争っている。その後もたまたま病気が流行ると、物部氏が「蘇我氏が寺を建てるからバチが当たった」と言い出したり、そのくせ物部氏もこっそり自分の寺を建てていたりとメチャクチャである。この争いは、稲目・尾輿の息子の代にまで引き継がれることになる。 . | 欽明天皇? |
572-626 | 蘇我馬子 (そがのうまこ) -短気は損気- | 蘇我稲目の子。物部尾輿の子・物部守屋とともに、偉大なる父たちを見習い、ちょっと病気が流行るたびに「お前が仏を拝むからだ」「お前が寺を燃やすからだ」などと言い合う幼稚なケンカを繰り広げた。ケンカするほど仲が良い…と見せかけて、めちゃくちゃ短気だった彼はある日、守屋をついカッとなって殺してしまった。さらに、自分の思い通りにならない天皇も、ついカッとなって殺してしまった。 そして女性の推古天皇を即位させ、もうすべてが馬子の思い通り…と思いきや、天皇の摂政(代理)となった聖徳太子に対しては、熱烈な仏教ファン同士ということもあって心を開き、協調して政治を行った。そして様々な改革を主導し顕著な実績を残したが、子と孫がしくじったせいで彼よりはるかに聖徳太子が活躍したかのようなイメージが定着してしまった。若かりし頃の悪行のバチが当たったか。 . | 物部守屋? 崇峻天皇? |
592-622 | 聖徳太子 (しょうとくたいし) -神様は作れる- | 本来の名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)。蘇我馬子とは親戚同士で仏教好きという点でもウマが合い、協調して政治を行って実績を残した。決して馬子の言いなりではなく、彼自身の意思が政治に反映された時期もあった可能性は高いが、晩年は蘇我氏の力の増大に抗いきれず、政治の世界から遠ざかったとも言われている。 ところが死後、彼自身も思ってもみなかったであろう扱いが待っていた。蘇我氏本家が滅ぼされ徹底的に悪者とされた影響もあってか、聖徳太子はたった一人でものすごく多岐にわたる結果を出した天才、いやスーパーマン、いや神様ということにされていく。寺を建てまくり、優れた仏教の本を書き、歴史書を書きながら、内政では冠位十二階や憲法十七条を考え出し、外交では超大国・隋から独立国としての承認を得ることに成功したことにされた。さらに、イエス・キリストと似た誕生の仕方をしたことにされ、生まれた瞬間から喋れたことにされ、10人の話を一度に聞き分けられたことにされ、馬に乗って空を飛べたことにされ、200年後の平安京遷都や1250年後の黒船来航を予言していたことにされ、「聖徳太子」という尊称も与えられて、今に至るまで数えきれないほどの人々の信仰の対象となった。まさに逆理不尽とでも言うべきこの扱いに、天国の当人はどう思っているだろうか。あ、極楽に往生したんでしたね。 . | 推古天皇? 小野妹子? |
626-642 | 蘇我蝦夷 (そがのえみし) -親バカ- | 蘇我馬子の子。父の権力を受け継ぎ、思いのままに天皇を即位させ操った。だが彼は、長男の入鹿が可愛すぎるあまり、事実上の最高権力者である「大臣」の位を勝手に譲ってしまう。本来「大臣」の位は天皇が授けるものなのに、である。ただでさえ強大すぎる蘇我氏への反発が強まっていた中、この息子可愛さゆえの行動が「蘇我氏は天皇になろうとしている」と捉えられ、火に油を注ぐ結果となってしまった。乙巳の変で愛する息子は殺され、その死体を見た蝦夷は生きる気力を失いすぐさま自殺。それも自宅に火を放ち、貴重な歴史書や宝物ともども燃え尽きてしまうという、何とも迷惑な親バカであった。 . | |
642-645 | 蘇我入鹿 (そがのいるか) -勘違い- | 蘇我蝦夷の子。父に甘やかされ、何で思い通りと勘違いした彼は、自分の家を「みかど」と呼ばせ、息子たちを「皇子」と呼ばせる。まさに「天皇家を乗っ取ろうとしている」と言われても言い訳ができないレベルの配慮の無さであった。挙句の果てに、自身の支援者にとって邪魔だと感じた皇族(あの聖徳太子の息子)を殺してしまう。この人だって入鹿とは親戚だったのに。この愚行には、さすがの父も呆れてついに息子を叱ったが、もはや手遅れであった。完全に一線を超えてしまった彼は、中大兄皇子らによって無残に殺害され、その後二度と蘇我氏の権勢が復活することはなかった。この入鹿の失敗を踏み台に、のちに栄華を極めた藤原氏は、決して天皇家を乗っ取ろうとはせず、天皇の代理人として君臨し続けることになる。まさに日本史上屈指の優秀な踏み台であった。 . | 山背大兄王? |
645-671 | 天智天皇 (てんぢてんのう) (中大兄皇子) | 藤原鎌足? (中臣鎌足) | |
672-686 | 天武天皇 (てんむてんのう) | 弘文天皇? | |
686-703 | 持統天皇 (じとうてんのう) | 高市皇子? |
律令施行後
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
697-720 | 藤原不比等? | 刑部親王? | |
720-729 | 長屋王? | ||
729-737 | 藤原四兄弟? | ||
737-757 | 橘諸兄? | 聖武天皇? 行基? 鑑真? | |
757-764 | 藤原仲麻呂? | 淳仁天皇? | |
764-770 | 道鏡? | 孝謙天皇? | |
770-781 | 光仁天皇? | 藤原百川? | |
781-806 | 桓武天皇? | 坂上田村麻呂? 最澄? 空海? | |
806-809 | 平城天皇? | 藤原仲成? 藤原薬子? | |
809-842 | 嵯峨天皇? | 藤原冬嗣? 恒貞親王? |
摂関政治期
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
842-872 | 藤原良房? | 文徳天皇? 清和天皇? 伴善男? | |
872-891 | 藤原基経? | 光孝天皇? | |
891-897 | 宇多天皇? | 藤原時平? 菅原道真? | |
897-930 | 醍醐天皇? | ||
930-946 | 藤原忠平? | 平将門? 藤原純友? | |
946-967 | 村上天皇? | ||
967-972 | 藤原伊尹? | 源高明? | |
972-986 | 藤原兼通? 藤原頼忠? | ||
986-990 | 藤原兼家? | ||
990-995 | 藤原道隆? | 藤原道兼? | |
995-1017 | 藤原道長? | 一条天皇? 紫式部? 清少納言? | |
1017-1068 | 藤原頼通? |
院政期
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1068-1072 | 後三条天皇? | ||
1072-1129 | 白河天皇? (白河法皇) | 平正盛? 源義家? 藤原清衡? | |
1129-1155 | 鳥羽天皇? (鳥羽法皇) | ||
1155-1167 | 後白河天皇? (後白河法皇) | 崇徳天皇? 源義朝? | |
1167-1181 | 平清盛? | 以仁王? | |
1181-1183 | 平宗盛? | 源義仲? |
鎌倉幕府
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1183-1199 | 源頼朝? | 源義経? 九条兼実? | |
1199-1205 | 北条時政? | 源頼家? | |
1198-1221 | 後鳥羽天皇? (後鳥羽上皇) | 順徳天皇? 土御門天皇? | |
1205-1224 | 北条義時? | 源実朝? 北条政子? 大江広元? 和田義盛? | |
1224-1242 | 北条泰時? | 北条時房? | |
1242-1246 | 北条経時? | 北条重時? | |
1246-1263 | 北条時頼? | 三浦泰村? 藤原頼経? | |
1263-1284 | 北条時宗? | フビライ? | |
1284-1311 | 北条貞時? | 平頼綱? 安達泰盛? | |
1311-1333 | 長崎円喜? 長崎高資? | 北条高時? | |
1333-1336 | 後醍醐天皇? | 楠木正成? 新田義貞? 護良親王? |
室町幕府
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1336-1358 | 足利尊氏? | 足利直義? 高師直? | |
1359-1368 | 足利義詮? | 佐々木道誉? | |
1368-1408 | 足利義満? | 今川貞世? 山名氏清? 大内義弘? 世阿弥? | |
1408-1429 | 足利義持? | ||
1429-1449 | 足利義教? | 足利持氏? | |
1449-1493 | 足利義政? | 足利成氏? 細川勝元? 山名持豊? 畠山義就? 日野富子? 足利義尚? |
戦国時代
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1493-1507 | 細川政元? | 北条早雲? | |
1507-1532 | 細川高国? | ||
1532-1549 | 細川晴元? | ザビエル? | |
1549-1568 | 三好長慶? | 足利義輝? 松永久秀? 斎藤道三? 今川義元? | |
1568-1582 | 織田信長? | 足利義昭? 武田信玄? 上杉謙信? 北条氏康? 長宗我部元親? 毛利元就? 島津義久? | |
1582-1598 | 豊臣秀吉? | 明智光秀? 千利休? 伊達政宗? |
江戸幕府
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1598-1616 | 徳川家康? | 石田三成? 淀殿? 豊臣秀頼? | |
1616-1632 | 徳川秀忠? | ||
1632-1651 | 徳川家光? | 酒井忠勝? 松平信綱? 天草四郎? | |
1651-1680 | 徳川家綱? | 保科正之? 酒井忠清? | |
1680-1709 | 徳川綱吉? | 柳沢吉保? 荻原重秀? | |
1709-1716 | 新井白石? | 間部詮房? 徳川家宣? 徳川家継? | |
1716-1751 | 徳川吉宗? | 大岡忠相? | |
1751-1761 | 徳川家重? | 大岡忠光? | |
1761-1787 | 田沼意次? | 徳川家治? | |
1787-1793 | 松平定信? | ||
1793-1817 | 松平信明? | ||
1817-1841 | 徳川家斉? | 水野忠成? 大塩平八郎? | |
1841-1845 | 水野忠邦? | 徳川家慶? | |
1845-1855 | 阿部正弘? | ペリー? 島津斉彬? | |
1855-1858 | 堀田正睦? | 徳川家定? | |
1858-1860 | 井伊直弼? | ハリス? 吉田松陰? | |
1860-1862 | 安藤信正? | 徳川家茂? 和宮? | |
1862-1867 | 徳川慶喜? | 松平慶永? 坂本龍馬? 勝海舟? 榎本武揚? |
明治新政府
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1868-1878 | 大久保利通? | 明治天皇? 三条実美? 岩倉具視? 西郷隆盛? 木戸孝允? 江藤新平? 福沢諭吉? 渋沢栄一? 岩崎弥太郎? | |
1878-1888 1892-1896 1898 1900-1901 | 伊藤博文? | 井上馨? | |
1888-1889 | 黒田清隆? | ||
1889-1891 1898-1900 | 山県有朋? | ||
1891-1892 1896-1898 | 松方正義? | ||
1898 | 大隈重信? 板垣退助 | ||
1901-1906 1908-1911 1912-1913 | 桂太郎? | ||
1906-1908 1911-1912 | 西園寺公望? |
大正政変以降
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1913-1914 1923-1924 | 山本権兵衛? | 大正天皇? | |
1914-1916 | 大隈重信? | ||
1916-1918 | 寺内正毅? | ||
1918-19 | 原敬? | ||
1921-1922 | 高橋是清? | ||
1922-1923 | 加藤友三郎? | ||
1924 | 清浦奎吾? |
憲政の常道
戦時期
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1932-1934 | 斎藤実? | 石原莞爾? | |
1934-1936 | 岡田啓介? | ||
1936-1937 | 広田弘毅? | ||
1937 | 林銑十郎? | ||
1937-1939 1940-1941 | 近衛文麿? | 松岡洋右? | |
1939 | 平沼騏一郎? | ||
1939-1940 | 阿部信行? | ||
1940 | 米内光政? | ||
1941-1944 | 東条英機? | 山本五十六? | |
1944-1945 | 小磯国昭? | ||
1945 | 鈴木貫太郎? | 阿南惟幾? 東郷重徳? |
GHQ占領下
独立後
年代 | 最高権力者 | 概要 | その他人物 |
1954-1956 | 鳩山一郎? | ||
1956-1957 | 石橋湛山? | ||
1957-1960 | 岸信介? | ||
1960-1964 | 池田勇人? | ||
1964-1972 | 佐藤栄作? | ||
1972-1974 | 田中角栄? | ||
1974-1976 | 三木武夫? | ||
1976-1978 | 福田赳夫? | ||
1978-1980 | 大平正芳? | ||
1980-1982 | 鈴木善幸? | ||
1982-1987 | 中曽根康弘? | ||
1987-1989 | 竹下登? | ||
1989 | 宇野宗佑? | ||
1989-1991 | 海部俊樹? | ||
1991-1993 | 宮澤喜一? | ||
1993-1994 | 細川護熙? 羽田孜? | ||
1994-1996 | 村山富市? | ||
1996-1998 | 橋本龍太郎? | ||
1998-2000 | 小渕恵三? | ||
2000-2001 | 森喜朗? | ||
2001-2006 | 小泉純一郎? | ||
2006-2009 | 安倍晋三? 福田康夫? 麻生太郎? | ||
2009-2011 | 鳩山由紀夫? 菅直人? 野田佳彦? | ||
2012- | 安倍晋三? |