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Last-modified: 2021-08-09 (月) 11:48:03

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薩摩諸豪族蜂起

薩摩島津家では、相州家や奥州家など分家や国人の力が強く、内乱が絶えなかった。
しかし、伊作家の島津忠良が相州家を嗣ぐと、子の貴久を島津宗家(奥州家)の家督に付かせ、宗家筋となり、反抗勢力を駆逐していった。
島津家が内乱に明け暮れる中、島津家が守護を務める薩摩、大隈、日向の諸豪族もまた、勢力拡大に余念がなかった。
しかし、新たな島津宗家は内乱を収めると、守護大名から戦国大名への道を進み、国人の家臣化に乗り出した。
〇年〇月、島津家の動きに危機感を覚えた諸豪族は、一揆を組むことで島津家に対して反旗を翻した。
――効果――
大隈蒲生家、入来院家、祁答院家、菱刈家、北原家と島津家が宿敵となります。
島津家と敵対した大名同士で連合が組まれます。
戦略の見直しを図るため、島津家は全軍撤退します。

大友遠征軍

〇年〇月、隈本城に入城した菊池義武、三池親員、溝口丹後守らの謀反を鎮圧するため、
肥後に遠征していた戸次鑑連を総大将とする大友家の軍団は、この月、
各地で菊池軍を撃破。これによって「二階崩れの変」にはじまる大友家の騒動は
一応収束し、九州には束の間の平和が訪れた。
遠征軍の武将達はそれぞれの本拠地へと帰り、いったん領地経営に専念することを許された。
「志賀家、佐伯家、一万田家、星野家、問注所家が、大友家に対する臣従状態を解除され、
従属大名の地位に変更されました。」

筑後方面軍

〇年〇月、大友家の筑後方面軍は、菊池義武に同調した筑後国人衆を撃破。
大津山城を奪取することに成功した。
筑後方面軍の武将達はそれぞれの本拠地へと帰り、いったん領地経営に専念することを許された。
また、大津山城には小原鑑元が入城し、菊池残党軍に睨みをきかせることになった。
「自領に戻り内政に励む事が許され筑後の国人もまた従属となります。」

筑前の乱

・大友氏と対決への道を取った秋月氏は反大友勢力を糾合した。
・秋月氏の蜂起に〇氏も合流した。
・秋月氏の動きに対し、立花氏は大友氏の代官を領内から閉め出すなど不穏な動きを見せた。
・様子を窺っていた立花氏は、遂に秋月氏の蜂起に合流した。
・筑前で秋月氏が兵を挙げたことにより、大友氏は目的を達することなく菊池討伐遠征軍を退却させることになった。
 この遠征失敗は、大友氏に「二階崩れの変」による混乱を治められない無力さを周辺大名に知らせてしまい、むしろ状況悪化を招く。
 結果、大友氏の凋落を見た筑前・肥後の親大友大名は大友氏に対する態度を改めねばならなくなった。
 各地で大友氏に対する反旗の声が上がり、遂にその火の手は本拠・豊後にまで拡大することになるのである。
 「大友家の全従属・臣従大名が独立しました」「大友家の民衆支持率が急落しました」

九州鼎立

今や九州は大友・島津・龍造寺の三大勢力に席巻されようとしている。
大友・島津・龍造寺は他の二勢力の勢力拡大に警戒し、それぞれ宿敵関係となる。
九州は鼎立時代を迎える--。

1551.6以降 陶隆房の謀反

対尼子戦における主君大内義隆の弱腰と、「文治派」偏重に憤った陶隆房が、
この月、義隆に対して反旗を翻した。陶謀反の知らせを受けて、
大内家の他の重臣達も一斉に主家から距離をとりはじめた。
この謀反劇の行方如何によって、西国の勢力図は大きく変化することとなるだろう。
「大内家の臣従従属大名がすべて独立しました。」
「陶隆房は決着をつけるため、大内家居館へと軍を進めています。」

陶晴賢の台頭

謀反を決行した陶隆房は、次々と果敢な行動に出た。
まず主君大内義隆を自害に追い込む。と同時に、大友家と誼を通じ、
同家からかつて義隆の養子であった晴英を迎え、大内家の家督を継がせた。
また隆房自身は晴英から「晴」の一字を貰い受けて晴賢と改名することで、
自ら実権を握りつつも大内家の家名を守り立てていく意思を表明した。
この一連の行動に、内藤、宗像など、大内家家臣団の有力者達が同調しはじめた。
ここに中国地方最大の勢力を率いる者として、陶晴賢が歴史の表舞台に登場することとなった。
「陶家は大内家を実質的に配下に組み入れました。」
「内藤家、宗像家、鎮西宇都宮家は、陶家に臣従しました。」
「大内家が大友家から奪った豊後の諸城は返還されました。」
・大内家の混乱の最中、一時的に滅亡していた佐波家は再興を成し遂げた。
・大内家の混乱の最中、一時的に滅亡していた石見小笠原家は再興を成し遂げた。

陶晴賢の誤算と毛利氏の台頭

陶隆房の謀反は周到に準備されていたが、一つ計算違いがあった。
冷泉隆豊の忠誠心と粘り強さである。
冷泉隆豊の奮戦に勇気付けられて大内義隆が決死の覚悟を固め、
篭城戦に踏み切ったとき、陶隆房が描いていたプランは音を立てて崩れ始めた。
「陶家と大内家・内藤家・吉見家・豊前杉家がそれぞれ宿敵となりました。」
「内藤家と吉見家は、改めて大内家に臣従しました。」
・元来不仲だったにもかかわらず、この月まで陶晴賢の行動を黙認していた杉重矩が、
 陶の急速な勢力拡大に危機感を抱き、陶軍の背後を襲うべく豊前にて挙兵しました。
・大内家の実権を握り、権勢を欲しい儘にしている陶晴賢に対して、各方面から不満が出はじめていた。
 故大内義隆の娘を妻に持つ吉見正頼は、そうしたなか、反晴賢の旗をかかげて挙兵した。
・毛利家は厳島の戦いで陶家を打ち破り、陶家の周防安芸の諸城を一気に支配下におさめた。

毛利・大友敵対

・勢力を拡大した毛利氏・大友氏は互いの利害が一致せず、敵対関係になった。
・大内氏の一族である大内輝弘は、本家と敵対していた関係で大友氏を頼っていた。
 大友氏は毛利氏との戦いに苦慮する中、この切り札を切る。
 密やかに周防に上陸した大内輝弘主従は山口を占領。
 周防山口に再び大内花菱の旗が翻る―

1551.10以降 毛利両川体制

この頃、毛利元就は両川家を完全に掌握し新体制の基礎を築き上げた。
天文十九年七月、井上元兼ら井上党三十余人を粛清。家臣238名の家臣連署起請文に署名させ忠誠を誓わせた。
九月、隠居の身の吉川興経と嫡男千法師の居館を急襲し、殺害。
天文二十年十月、沼田小早川家の繁平を出家させ、反対派家臣は攻め滅ぼし、
竹原小早川家を継いでいた隆景に宗家も継がせた。

1552.4以降 陰陽八ヶ国守護

尼子晴久は出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後八ヶ国の守護に任ぜられた。
これに対し周辺の大名は警戒を強めた。
但馬山名家・赤松家・備前浦上家・三村家が尼子家の宿敵となります。
・江田家は山内氏の誘いにより尼子家に従属した。
・宮家は尼子家に臣従しました。
・山内首藤家は尼子家に臣従しました。

1565.1以降 一領具足

四国制覇の野望を胸に秘める長宗我部元親は
大幅な軍事力増大を図って「半農半兵の一領具足」を編成した。
「長宗我部の城全てで民衆支持が50増加・石高が1500石低下した」

1565.5以降 一条兼定の乱行

土佐一条氏の一条兼定は、京の一条本家からの完全なる独立を目指していた。
しかし、これは本家や本家を支持する家臣団の反感を買うに止まってしまう。
また、国力を増大させるために行った外征により、国内は徐々に疲弊を見せていた。
他方、土佐では家臣筋の長宗我部氏が土佐一条氏をしのぐ大勢力になりつつあった。
一条氏もまた、長宗我部氏との戦いに臨むことになる。
その最中、一条兼定は過ちを犯した者を厳罰に処した。
重臣・土居宗算は、この行為を諫めんとするも、逆に兼定の怒りを買い、上意討ちとなった。
一条氏の重臣・土居宗算の死は一条氏の家臣団に大きな衝撃を与えることになる。

1565.5以降 一条兼定の隠居

土佐一条氏は、重臣の土居宗算が一条兼定に討たれて以来、不穏な空気に包まれていた。
一条兼定は、京洛の一条本家から、完全な独立を目指しており、そのことは本家にとって目の上のたんこぶであった。
一条本家とのつながりを守ろうとする重臣達にとっても、このことは由々しき自体である。
土佐一条氏はいわば、暴発の危機にある火薬庫となっていた。
そこへ、土居宗算の死という火が投じらると、
自身の危機を察した重臣達は本家や、勢力を拡大する長宗我部氏との談合を進めた。
重臣達は合議の末、一条本家の権大納言・一条内基を土佐に呼び、一条兼定を強制的に隠居に追い込む。
一条内基により、土佐一条氏は兼定の子・内政が家督を嗣ぐことになる。
・隠居に追い込まれた一条兼定は、妻の実家・大友氏を頼って、土佐を脱出した。
・土佐一条氏で家臣団が蜂起。一条兼定を追放した重臣達を襲ったのであった。
 これに対し、長宗我部氏は、内乱鎮圧の名目で一条氏領に侵攻。これを併呑するに至った。