1-1.江戸時代の外国との交流

Last-modified: 2019-06-02 (日) 18:36:26

日本の近代史スタート地点は「ペリーの来航」による「鎖国の終了」あたりです。
ところで、ペリーの来航が日本をどう変えたのか。それを理解するためには、
まず、江戸時代の日本の国際関係が、どのような形であったのかを知らなくてはいけません。

 

現代の常識との違い

江戸時代の国際関係は、現代の我々が「当たり前」と思っていることが当たり前ではありません。具体的には

①現代の日本は、世界中の多くの国と関係を築いていますが、当時はそうではありません。
②現代は、国家と国家の関係は基本的に「対等」ですが、当時はそうとは限りません。

②については、「えー、今だって日本はアメリカの言いなりっぽいじゃん」とか
「えー、発展途上国の中には実質、先進国に従属しているような国もあるんじゃない?」とか
思う人もいるかもしれません。ただ、確かに日本はアメリカより立場が弱い。
としても、じゃあ日本の総理大臣がアメリカの大統領と会談する時、日本の総理大臣が

 

「ははぁーっ!」

 

なんて頭を下げて、アメリカの大統領が偉そうにそれを見ている…そんな光景見たことありますか?
違いますよね。対等に握手して、会談スタート、です。
お互いを対等な独立国として承認し、関係を結んでいるからです。

 

しかし、200年前はそのような関係ばかりではありません。詳しくは、今回の後半で。

 

江戸時代の「鎖国体制」

では先に、①についてです。①は、しっくりくるのではないでしょうか。
江戸時代といえば「鎖国」というイメージがありますもんね。
そう、現代の日本と違って、江戸時代の日本は、外国に対して閉鎖的な国でした。

 

ただし、「鎖国」とは「まったく外国との関係を断ち切ること」だと思っている人はいませんか?
だとすれば、それは間違いです。
「江戸幕府」という当時の日本政府が、認めた国とはちゃんと関係を持っています。
ただ、その認めた国の数は少ないし、後から新しく追加することも、かたくなに拒んだわけですが。

 

たとえばオランダに対しては、長崎の「出島」という人工の小さな島の中に限り、貿易を認めました。
オランダはヨーロッパで唯一、日本との貿易を認められた国ということで、オイシイ思いをしました。
ただしその代わり、オランダの商人の代表者は、定期的に江戸に挨拶にいったり、
海外のニュースを幕府に報告したり、色々とめんどくさいことを義務付けられていました。

 

その「オランダニュース」のおかげで、実は江戸幕府は、黒船が来るらしいという情報も、事前に握っていたりします。
握ったところで、何も有効なことはできなかったですが(笑)

 

また、江戸幕府と正式な関係を持った国として挙げられるのは、琉球王国。そう、今の沖縄です。
この国は、日本の一部である「薩摩藩」(今の鹿児島県)に征服され、従属国、つまり格下の国と扱われました。
ただし、日本に従属すると同時に中国にも従属しているという、不思議な状態にありました。

 

<画像>

 

最後に、古代から日本とは深い関係性のある、中国と朝鮮についてです。
実はこれらの国とは、因縁があります。

 

そもそも江戸時代とは、「徳川〇〇」という名前の人たちが将軍として、実質、日本の王様のような存在だった時代。
その時代を作り上げたのはご存知、徳川家康ですが、彼の前に日本の王様のような存在だった人といえば、豊臣秀吉です。
この豊臣秀吉が、死ぬ5年ぐらい前になって、厄介なことをやってくれました。朝鮮への出兵です。

 

朝鮮は中国の子分のような存在でした。
つまり彼は、朝鮮にケンカを売ったというより、中国にケンカを売ったのです。
結局、遠征は失敗に終わり、撤退しましたが、当然中国や朝鮮との関係は最悪になりました。

 

江戸時代に入り、その関係はどうなったのか。
朝鮮については、古くから付き合いのある対馬藩(九州と朝鮮の間にある島で、日本の一部)の努力によって
しだいに日本と仲直りをしていき、正式に対等な関係を結びました。

 

一方、中国とはその後も、正式な関係は結ばれませんでした。
とはいえ、日本にとってはお隣の国。中国の民間人の商人たちは、私的な貿易をするため来日してきます。
日本は長崎に中国人向けの居住地区を作り、そこに限って貿易を行うことにしました。

 

以上のように江戸時代の日本は、限られた場所で、限られた国とだけ関係を持っていた
これが「鎖国体制」なのです。その目的は、外国との交流を幕府が徹底的に管理することによって、
キリスト教が広まるのを防いだり、各地の大名が勝手に貿易でお金持ちになるのを防いだり、
などの意図がありました。

中国の特殊性 -冊封体制-

ところで、中国とは国家どうしの正式な関係が結ばれなかったと言いましたが
その背景には、東アジアにおける、中国という国の特殊性が関係しています。

 

歴史上、東アジア周辺において、中国とは常に別格の存在でした。
まさに、世界チャンピオンと言っても良いでしょう。
そんな中国は、他の国と関係を結ぶ時は、格下として扱うのが原則でした。
なぜなら中国は、世界の中心だと自認しているからです。「中華思想」と言ったりします。

 

たとえば、「三跪九叩頭」という言葉があります。どういう意味だと思いますか?

 

「3回ひざまずいて両手をつき、9回頭を地面に打ち付ける」という意味です。
痛そうですね…大事な壺でも割ったんでしょうか。

 

実はこれ、江戸時代に中国を統一した国「清」の皇帝が、
「自分に会いたければこれをしろ」と他国の使者に要求した儀礼の一例です。
1つの国を代表して来ている使者が、他国の代表に対して派手に土下座をする…
これは、物理的に痛いとかの問題でなく、国としての屈辱ではないでしょうか!

 

ですが、中国にとって、周辺の国が頭を下げてくるのは、昔から当たり前のことです。
古くから周辺の国々は、よく中国に使者を送り、頭を下げて中国の皇帝の臣下となることを誓ってきました。
同時に、自分の国のお土産をたくさん、皇帝に献上します。これを朝貢(ちょうこう)と言ったりします。

 

すると中国の皇帝は、その使者を送ってきた相手の国の代表者を「王」などと認めて称号をあげました
ついでに、世界チャンピオンとしての威厳を見せるため、ちょうど先輩がおごってくれるような感じで
もらったお土産の何倍も価値のあるものをお返ししてくれたりします。

 

これ、周辺の国にとっても、悪くない話じゃないですか?
頭を下げるのは屈辱ではあるけれど、世界チャンピオンの中国に「お前は王だ」とお墨付きを貰えれば
自分の周りには威張ることができます。おまけに、お土産のお返しでずいぶん、儲かる。

 

こうして周辺の国々は、中国の子分であることを受け入れ、中国に侵入・略奪するようなこともなくなります。
結果、中国にとっても、ちょっとカネはかかるけれど、平和が保たれ、ついでにプライドも保たれる。
そういう、Win-Win(?)な関係が成立するのです。この中国と周辺国の上下関係を「冊封(さくほう)体制」と呼びます。

 

まあ、今の我々の感覚から言ったら、かなり特殊ですけどね。
最初に言ったように、今は「国と国の関係は対等」が常識ですから。
でも、今の世界の常識って、基本的にヨーロッパの国々が作ったものなので、
ヨーロッパの国が世界中に影響を与える前は、アジアにはアジアの常識があったってことです。

 

ちなみに日本人も歴史上、何度か頭を下げたことがあります。
有名なのは、足利義満でしょう。14世紀に活躍した、室町幕府の3代将軍です。
彼は中国(当時の国名は「明」)に頭を下げ、日本国王と認められた上に、大儲けしました。
だからこそそのお金で、あの金ピカの建物を建てられたのかもしれませんね。そう、金閣寺です。

 

つまり、足利義満は恥を捨てて利益を取ったとも言えますが
江戸幕府はその手は選びませんでした。
先ほど言ったように、江戸幕府はあくまで中国とは正式な関係は結びませんでした。
結ぼうと思ったら、頭を下げなければいけないですからね。
それどころか、中国が子分としている琉球王国を、日本の子分としても扱っているわけですから
江戸時代の日本は、中国に左右されず、独自の外交を展開していたと言えます。

 

とにかく、世界チャンピオンの中国にとって、外国は頭を下げて当たり前。
そんな中国に、ヨーロッパの船が接近するようになったことで、アジアの歴史は大きく変わり始めます。

 

アヘン戦争の衝撃

さて、今度はちょっとだけヨーロッパの話です。

 

ヨーロッパでは15世紀(1401~1500年)後半あたりから「大航海時代」に入り
世界中を航海するようになりました。それを聞くと、

 

「ああ、さすがヨーロッパは先進国だから、当時も世界最先端を行ってたんだな~」

 

と思いがちですが、それはちょっと微妙ですよ。
少なくともこの時点では、たとえばトルコ、インド、中国といったアジアの大国と比べれば
ヨーロッパの国々は、とても豊かとは言えませんでした。

 

むしろ、アジアでしか取れないもの(香辛料など)がほしくて、
買い物したさに頑張って航海した・・・というのが現実でしょう。
しかも、買い物ついでにこちらも商品を売りたいけど、売れるモノがない、なんて苦労も・・・

 

ところが、18世紀(1701~1800年)後半あたりからイギリスではじまり、
ついでヨーロッパ各国に広まった「産業革命」が、その立場をガラリと変えていきます。

 

「産業革命」とは、すごく簡単に言うと、蒸気機関という新しい動力が
発明された結果、機械でモノを大量生産できるようになったことです。
また、蒸気機関車(鉄道)や蒸気船が生まれて、飛躍的に人やモノの移動がしやすくなりました。

 

これによって、特にイギリスは急速に発展し、
世界中に植民地(領土と考えてください)を広げたり、自由貿易を要求していきます。
機械で大量生産した安い服などを、自由に世界中に売ることができれば、ボロ儲けですからね!
アジアでもインドに植民地を広げ、さらに、ついに中国に接近。貿易を開始したのです。

 

しかし、イギリスと中国の貿易は、イギリスにとってまったく満足できないものでした。
中国としては当然、上から目線。広東港でしかヨーロッパとの貿易は認めない!と決め、
貿易の内容も非常に制限され、イギリスに不利なものになりました。
これを改善してもらおうと使者を派遣しても、「皇帝に会いたければ三跪九叩頭しろや!」です。
イギリスの使者は、とてもじゃないがそんな屈辱的なことはできないと断り、追い出されます。

 

また、豊かなイギリス人たちが欲しがったので、イギリスは中国産のお茶や絹などを大量に輸入しました。
そして、それに匹敵するほどは、イギリスの商品は中国に大量には売れませんでした。
このままでは赤字が続いてしまいます。そこでイギリスは考えました。
植民地のインドで、中毒性の強い麻薬「アヘン」を大量に生産しそれを、密かに中国人たちに売ってしまおうと…

 

1度、中国人の一部をアヘン中毒にしてしまえば終わり。
中国人たちは次から次へとアヘンを欲しがりますから、飛ぶように売れます。
しかし、みるみるアヘン中毒者が広がっていくのを見た中国政府にとっては、たまったものではない。
もちろんアヘンの輸入を禁止しますが、お構いなしに広まっていきます。
ついに中国は、イギリス商人の持っていたアヘン2万箱を燃やしてしまうなどの強硬策に出ました。
これに対しイギリスも逆ギレ!1840年のこと、イギリスvs中国の、アヘン戦争が開幕したのです。

 

いやー、イギリス、ヒドいですねw
まあ歴史を勉強するほどイギリスが嫌いになる、とよく言われますからね(笑)
昔は色んな国が、今考えるとヒドいことを山ほどやっていましたが、昔のイギリスは別格でしょう。

 

とにかく、戦争の結果はどうなったかというと…
産業革命によって軍事力を強大化させていたイギリスを前に、中国はボロ負け
五つの港を開港させられ、不平等条約を結ばされ、自由貿易を認めさせられてしまいます。

 

この海の向こうの出来事を知った日本は、驚愕します。
「あの我らが世界チャンピオンの中国が、ボロ負け…だと…!?」
そして日本にも脅威は迫っていました。ペリーが来航するのは、この13年後のことです。

 

(終)