1-2.外国船の接近と黒船来航

Last-modified: 2019-06-15 (土) 23:31:59

アメリカのペリー来航によって200年以上ぶりに解かれた日本の「鎖国」。
しかし、実はペリー以前にもたくさんの欧米の外国船が日本に接近していました。
それらを拒絶してきた江戸幕府が、ついに開国を決断したのはなぜでしょうか。
そして、アメリカが日本に対し、とりわけ熱心に開国を迫ったのはなぜでしょうか。

 

外国船の接近と幕府の対応

さて、いよいよ外国船の接近ですが、ここからアメリカがたくさん出てくる関係で
これからは「欧米」という言葉を使っていきます。
欧米とは、ここでは簡単に「アメリカとヨーロッパ」と考えましょう。
日本が突然、関わりを持つようになる相手が、欧米諸国です。

 

ところで、実はペリーで有名なアメリカよりも先に、日本に興味を示した欧米の国があります。

 

それはロシアです。もともと、欧米諸国の中で、唯一日本に近いところに領土があるのがロシアですから
興味を持つのも当然と言えますね。何度か日本に来航し、貿易の開始を求めますが
日本はもちろん「新しい国と関係を持つことはありません!」と、とにかく拒否の構え。

 

そうこうしているうちに、イギリスやアメリカの船の接近も始まりました。
中には、オランダ船のふりをして長崎に乱入し、略奪するなんて奴まで現れます。
もちろん(失礼)イギリスのしわざです。

 

そういった欧米船の接近の増加に悩んだ江戸幕府は、大胆な対策を打ち出します。それは…

 

1825年 異国船打払令

 

その名の通り、「関わりのない国の船が日本に接近したら、迷わず武力で追い払ってしまえ!」
という命令です。ナメられたらいかんからな、とでも言うような…

 

でもこれはひどい。遭難して弱ってる船とか、
日本人の遭難した人を助けて届けようとした船とかも、区別なく、追い払うんですから。
その場では追い払えたとしても、相手国が怒って、後で武器を積んで仕返しに来たら
当時の日本だったら、簡単にやられてしまうかもしれません。怖いもの知らずも良いとこです。

 

ところが1842年になって、幕府は「薪水(しんすい)給与令」というものを出しています。これは
「やっぱり外国船が来たら、燃料と水を与えていいから、大人しく帰ってもらってね。」という命令です。
あれ、なんか急に弱気になりましたね。なぜかわかりますか?

 

一番のきっかけは、1840年のアヘン戦争です。
そう、世界チャンピオンのはずの中国がイギリスにボロ負けしたのを見て、さすがに幕府もビビったわけですね。
とはいえ、外国には帰ってもらう、新たな関係を結ぶことは絶対ない、という姿勢自体は変わってません。

 

日本って、すごくガードが堅い友達みたいな感じですね。
「俺はこいつとこいつとこいつしか付き合わない!他の奴は近づいたら殴る!」みたいな。
そんな日本に対し、ついにナイフをつきつけて、脅しをかけながら「俺と友達になれ!」
と言ってくる国が現れることになります。

 

黒船の来航

それは1853年7月のこと。
今でいう神奈川県の横須賀市にある浦賀に、4つの巨大な船が現れました。
いわゆる黒船です。

 

巨大な…というのは、当時の日本人の感覚ですけどね。
ただ大きいだけでなく、もくもくと煙をあげる蒸気船。そして完全武装。
そこから現れたのは、威圧感を放つアメリカ人。そう、マシュー・ペリーです。

 

彼の目的は、日本を開国させるべく、アメリカ大統領の手紙を江戸幕府に渡すことでした。
しかし、今までの日本の態度を考えても、普通に渡そうとしたのでは
良い返事を受けるどころか、手紙を受け取ってくれるかも定かではない。

 

そこで彼は「脅し」を使ったわけですね。
日本人が見たこともない軍船で来航し、さらに、勝手に江戸湾の測量を行ったりして
「アメリカに逆らったらどうなるか…」と言わんばかりの態度を見せました。

 

ところで、なぜアメリカはここまでして、日本と関係を結びたかったのでしょうか。
アメリカはロシアと違って、日本の近くに領土があるわけでもありませんよね。
これは、アメリカのことを知って、当時のアメリカ人の気持ちになればわかります。

 

そもそも、アメリカというのはイギリス人の一部が北アメリカ大陸の東海岸に移住して、
建国した国です。この時点では日本とは本当に関係のない国です。

 

<地図>

 

しかし、徐々に西の方へと領土を拡大していき、ついに1848年、西海岸に到達しました。
特にカリフォルニアで金が発見され、一攫千金のチャンス!と思った人たちが急速に移住していきます。
ところで、西海岸まで行けば、目の前は太平洋ですね!ここにもチャンスが眠っています。
そう、太平洋へと航海して、利益を上げようとする人がたくさん出てきたのです。

 

たとえばアメリカ人は、北太平洋で捕鯨を盛んに行いました。そう、クジラ漁です。
今では日本がクジラ漁を続けていることに対して批判を受けていたりしますが、
当時はアメリカが世界一の捕鯨国。といっても、竜田揚げにして食うのではないですよ。
肉は捨ててしまって、使ったのは油です。クジラから取れる油は貴重な燃料でした。

 

また、太平洋の先には、巨大な人口を誇る中国があります。
イギリスのように、中国との貿易で大儲けしよう…そんな夢も現実的になってきました。

 

しかしながら、捕鯨船にしろ貿易船にしろ、航海する距離は相当なものです。
当時の技術では、アメリカで積んできた燃料が、途中で尽きてしまいます。
また、冷蔵庫もない時代、水や食料も途中で傷んでしまいがち…

 

そこで、いつでも安心して立ち寄れて、燃料や水や食料を補給できる港があったらどんなに良いだろうか。
どこかちょうど良い場所にある港はないかな…日本!! というわけです。

 

また、船は遭難することもありますので、そういう時に安心して逃げ込み、
助けてもらえる港もほしいところ。その役割も、日本に求めたのです。
少し本格的な言葉を使うと、「寄港地」がほしい、ということです。

 

和親条約を結ぶ!

さて、ペリーの脅しを受けた江戸幕府は焦ります。
さすがに巨大な黒船を前に、キッパリと断る勇気はなく「回答まで1年待ってくれないか」と答えました。

 

ちなみに当時、江戸幕府の将軍は病気で、No.2の阿部正弘という人がこれに対応しました。
彼は優秀ですがまだ若く、決断力に欠けるところもありました。
そして、この前代未聞の事態にどう対応すべきか、全国の大名たちに
アンケート調査みたいなものまでしますが、良い考えは生まれません。

 

そうこうしているうちに、1854年、再びペリーがやってきました。
おお、ちゃんと1年待ってから来たな、と思ってはいけません。来たのは2月。
前回の来航から7か月後です。しかも前回4つだった船は、9つに増えていました。

 

当然、江戸幕府は再び大あわて。というか、抵抗しようがありません。
このあたりが、欧米の国の外交のたくみさ、したたかさです。
日本はちょうど将軍が死んだ後で、ただでさえ混乱している時でした。
それもわかった上で、予定を繰り上げて来航しているのです。

 

ついに阿部正弘は、アメリカの要求を受け入れて開国することを決定しました。
鎖国が完成してから、実に215年が経っていました。

 

こうして1854年に結ばれたのが、有名な日米和親条約です。
条約の中身は、アメリカが日本に期待していたことを思い出せば、簡単に理解できます。

 

(1)アメリカの船に、燃料や水や食料を提供すること
(2)アメリカの船が遭難した時に救助すること

 

そして、「じゃあ日本の中でもどの港に行けば良いの?」ということになるので、
(3)静岡県の下田と、北海道の函館の2つの港を開く
と先に書かれています。

 

下田は日本の中心である江戸に比較的近い港であること、
函館は地理的にアメリカ船が立ち寄りやすいことなどが理由だと思われます。

 

<地図>

 

そして、鎖国という伝統を捨てた江戸幕府は、このあと2年間の間に
イギリス、ロシア、オランダともそれぞれ、似たような内容の条約を結びました。

 

この中で特に大事なのは、ロシアと結んだ日露和親条約でしょう。
隣国といって良いロシアと関係を結ぶ以上は、国境を定める必要があったからです。
これを曖昧にしてしまうと領土問題になってしまうのは、まさに現代の状況からもわかることですね。

 

この時定められた国境は、「エトロフ島から南は日本、ウルップ島から北はロシア」です。
今となっては、エトロフ島などの北方領土4島はすべてロシアに占領されているわけですが
この時点では話し合いによって、日本のものだとロシアも認めていたわけですね。

 

<地図>

 

ちなみに樺太という大きな縦長の島については、この時点ではどちらの領土とも決めきれず
「両国雑居地」つまり、どちらの国民も住んで良い場所となりました。
このままではトラブルが起きそうですが、この問題は20年ほど後にしっかりと整理されます。

 

さて、とにかく鎖国は終わり、これで一気に日本の外国との関係は変わったように見えますが
よくよく考えれば、この時点ではまだ、2つほどの港が外国に開かれただけです。
それに何より、自由貿易を始めたわけではありません。外国と自由にモノを売り買いするわけじゃない。
そういう意味で、本当に大きな変化が訪れ、日本が大きく混乱するのは、また数年後の話になります。

 

(終)