100分日本史 テキスト2

Last-modified: 2020-05-16 (土) 12:37:18

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※以下、年号は前後関係をわかりやすくするために載せているだけであり、
覚えようとする必要はありません。

第五章 大伴金村と継体天皇

継体天皇の即位
6世紀に入り、武烈天皇が跡継ぎのいないまま死去。
最有力者・大伴金村は、越前(福井県)から
大王家の血縁者を連れてきて継体天皇に
= 日本はあくまで大王(天皇)の血筋を繋ごうとする国!(そして今も続く)

 

大伴氏の失脚
継体天皇は苦労しながら都に入り、大伴氏とともに統治
527 九州の豪族・磐井が反乱(朝鮮半島の新羅と結ぶ)⇒ 鎮圧
540 朝鮮半島の領土を失う ⇒ 大伴金村は批判され失脚

第六章 蘇我氏と物部氏の対立

二つの豪族の台頭
蘇我氏 … 子分に渡来人がたくさん。外国文化を理解。
物部氏 … 日本の伝統を大切にする。

 

崇仏論争
538ごろ 仏教が公式に伝来
 ⇒ 受け入れに蘇我氏は賛成、物部氏は反対で対立

※ただし実は物部氏も一族のお寺を建てており、それだけの単純な話ではないようだ

587 蘇我馬子が物部守屋を攻め滅ぼす
592 蘇我馬子が自分を嫌っていた崇峻天皇を殺す(馬子はかなり短気!?)

第七章 蘇我馬子と聖徳太子

聖徳太子の登場
聖徳太子 … 摂政(皇族が務める、女性天皇の代理)。仏教オタク、蘇我馬子の親戚
 ⇒ 蘇我馬子と協調した政治、仏教文化(飛鳥文化)の開花

 
※本来の名は厩戸皇子。「聖徳太子」の名は死後に「めっちゃすごい人だった」からつけられた。
ただし、最終的な敗者である蘇我氏をサゲるため(?)に、死後だいぶ功績を盛られた感はある。
それを特に強調したい人は「聖徳太子はいなかった」と言う。(厩戸皇子の存在自体は確か。)
 

中央集権化改革
589 「隋帝国」が中国を久々に統一、その脅威に対抗する必要
 ⇒ 日本も隋から学び、中央主権国家をめざす!
(皇族や蘇我氏に権力を集め、他の豪族たちと強力な上下関係を築いて国をまとめる)

 

600 第1回遣隋使派遣 相手にされず ⇒ 国内改革の開始
603 冠位十二階(豪族たち個人個人を能力・功績によってランク分け)
604 十七条の憲法(豪族たちに守るべき心構えを示す)
607 第2回遣隋使派遣(小野妹子) 隋に従属せず、日本も独立国だとアピール

第八章 蘇我氏の専横

聖徳太子と蘇我馬子死去 ⇒ 馬子の子・蘇我蝦夷(親バカ?)が天皇を操る
大臣(おおおみ)の位を勝手に息子の蘇我入鹿に譲る(お前は天皇か!)
蘇我入鹿は調子に乗り、聖徳太子の子を殺害

※蘇我氏は敗者なので歴史書に悪く書かれすぎている可能性は高い
 

645 蘇我入鹿が、中大兄皇子中臣鎌足に殺害される(父・蝦夷も絶望し自殺)
 = No.1(蘇我氏)を倒すため、No.2以下(皇族・中臣氏)が手を結んだ形?

第九章 大化の改新

大化の改新とは
中大兄皇子と中臣鎌足が中心となった中央集権改革。究極の夢は公地公民
 〇日本中の土地・人民を国家のものに!
 〇豪族は領土を持たず、給料をもらって働く国家公務員(官僚)に!

 

中央集権化の停滞
663 滅亡した朝鮮半島の友好国・百済(くだら)の復活めざし出兵
 ⇒ 白村江の戦いで大敗、日本は侵略の危機に怯える(結局攻められなかったけど)
国防への集中、リーダーシップの減退 ⇒ 豪族に対しては一部妥協

第十章 壬申の乱と天武天皇

二人の晩年
668 中大兄皇子、ようやく即位し天智天皇

※なかなか即位しなかった理由は、「立場が軽いほうが改革に集中できるから」とか
「人を殺しておいてすぐ地位を手に入れたら批判されるから」とか言われている。

669 中臣鎌足死去(死の直前に姓は「藤原」に)
671 天智天皇死去、息子の大友皇子が後を継ぐ はずだった…

 

壬申の乱
弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)も皇位を狙って挙兵。
東の方のローカル豪族を味方につける戦略で勝利
 ⇒ 天武天皇として即位

 

エリート豪族の多くは負けた側についたため没落
 ⇒ 天皇の権威が上昇、中央集権化が完成に近づく