100分日本史 テキスト5

Last-modified: 2020-05-23 (土) 17:41:17

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第二十五章 平氏政権

前回のおさらい
1156 保元の乱(崇徳上皇 ×-〇 後白河天皇)
 = 日本のトップを決める戦いが、武士の力で解決!
1159 平治の乱(後白河天皇の側近同士の戦い)
 ⇒ 平清盛が勝ち残り、源義朝などは斬首

 

平氏のやり方
平清盛やその一族「平氏」が政治の実権を握っていく。
武士らしく新しいこともやっているが、基本的には
藤原氏・上皇のやり方に近い(土地・政治権力の私物化

 

すると権力を失った上皇や貴族、そして他の武士たちも反発
⇒ 平氏は「強硬手段」でしか対抗できず
  =後白河法皇の軟禁・院政停止、強引な遷都(失敗)など

 

ついに後白河法皇の息子が全国にSOSを出す「平氏を倒してくれ!」
各地の武士が挙兵!(1180)

第二十章 源頼朝の挙兵

挙兵した中の1人が、かつて平清盛に敗れた源義朝の子・源頼朝
彼は敗れた当時13歳、命だけは助けられ伊豆へ流された。

 

そこで平氏の子分・北条時政の監視を受ける
⇒ 時政の娘・北条政子と恋愛結婚 時政は最初反対するが覚悟を決める
他にも多くの武士が頼朝に味方し、平氏相手に勝利を重ねていく。

 

一方、同じく挙兵した源義仲は都から平氏を追い出すが、その後都で暴れる
  ⇒ 源頼朝は、義仲を倒して後白河法皇の信頼を得る
その勢いで平氏も西に追い詰めて滅ぼす(1185 壇ノ浦の戦い)

 

この時、源頼朝の弟・源義経(牛若丸)が大活躍
⇒ 後白河法皇の支援を受け、調子に乗る

後白河法皇は武士の時代に対抗し、一人を強大化させないため
どんどん支援する相手を乗り換えていく作戦をとった。
(平氏 ⇒ 源義仲 ⇒ 源頼朝 ⇒ 源義経)
 

しかし強力なリーダーシップのある頼朝から家来は離れず
⇒ 源義経と、奥州藤原氏(東北地方の独立政権)を一緒に滅ぼす

第二十七章 鎌倉幕府の成立

これで頼朝に誰も逆らわない!
だが彼は都で威張るのではなく、武士の都・鎌倉に新しい政府を作る!

 

2つの政府
京都の政府 … 朝廷(トップは天皇や上皇)
鎌倉の政府 … 幕府(トップは将軍。武士による武士のための政府)

いきなり幕府がすべての権力を獲得するわけはなく、この時点では
朝廷と幕府がどちらも一定の支配権を握る二重支配のような状態。
主に東日本は幕府、西日本は朝廷の影響力が強かった。
 

幕府のしくみ
将軍と、その家来である御家人が、「御恩と奉公」の関係で結びつく。
 将軍 ⇒ 御家人 : 守護や地頭に任命し、土地を管理する権利を認める。
   (御恩)     また土地に関する争いに対し、公平な裁判を行う。
 御家人 ⇒ 将軍 : 命をかけて戦う。戦争がない時は鎌倉・京都の警備
   (奉公)

 

もともと自分の「土地」を守りたくて武装したのが武士。
だから「土地」を公式に認めてくれるのは涙が出るほど嬉しい。
こうして多くの武士から信頼された源頼朝は、強力なリーダーとなった。

第二十八章 承久の乱

源頼朝が死去(1199) 若い息子(頼家→実朝)が将軍となるが、リーダーは務まらない
⇒ 御家人たちが主導権を争うが、将軍の母の実家である北条家が有利
  政子の弟・北条義時執権に(幕府No.2) 多くのライバル御家人を滅ぼす

 

一方、何もさせてもらえない3代将軍・源実朝は現実逃避。
京都の文化に憧れ、朝廷のトップ・後鳥羽上皇と交流 1219暗殺される
⇒ 怒る後鳥羽上皇、この好機に鎌倉幕府打倒をめざす
 「全国の武士たちよ、北条義時を倒せ!」(1221 承久の乱)

 

北条政子の演説「あなたたち御家人の生活があるのはすべて頼朝様のおかげです」
(論点を「北条義時が好きか」から「頼朝の作ってくれた幕府を守りたいか」に!)
⇒ 御家人たちは感動し、20万人となった幕府軍が朝廷に圧勝(数字は確実に盛っている)

 

京都を攻めた大将は、北条義時の子・北条泰時。
彼は京都にそのまま残り、「鎌倉幕府の京都支店」こと六波羅探題を設立
⇒ 幕府が東日本だけでなく、西日本にも睨みを利かせ、朝廷より優位に立つ!

第二十九章 執権政治の安定

1225 北条泰時が3代執権に就任し、鎌倉へ
独裁せず、集団で話し合って政治・裁判を行うシステムを作る
例:評定衆の設置(有力御家人が話し合う機関)
  御成敗式目の制定(武士のために裁判基準をわかりやすい文章に)

 

1246 北条時頼が5代執権に就任
裁判を効率化するシステムを作る(引付衆)
また、将軍を務めてきた藤原家が、一部御家人と結びつき反・北条の動き
⇒ 京都に送り返し、親王(皇族)をつれてきて将軍にさせる
時頼はライバル御家人も倒し、このころから北条家独裁の空気に

第三十章 二度の元寇

8代執権・北条時宗の時に、日本は大きな危機
モンゴル帝国(元)がユーラシア大陸の大半を支配していき
中国の北部も制圧(南部は宋が粘る)、朝鮮半島も服属させる
⇒ 日本にも服属要求 だが時宗は仏教好き「師匠の故郷・宋は裏切れない!」

 

1274 1回目の来襲(文永の役)
元+高麗軍約3万人が博多に来襲する
⇒ 火器などを使用し日本を戸惑わせるが、敵も小手調べですぐに撤退
時宗は2回目にそなえ、九州に石垣作り、御家人を動員し守りを固める

 

1279 元がついに宋を倒す
1281 2回目の来襲(弘安の役)
元+高麗軍約4万人と、宋軍約10万人を従えて、博多に来襲 ⇒ 見事撃退!
「神風」(台風)による勝利? ⇒ 日本は神に護られた国という思想の元に

実際は撃退できた理由は1つではなく、日本側の対策の効果、御家人の奮闘、
宋軍のやる気のなさ、彼らに突貫工事で船を造らせたゆえの船のボロさ、
そこに台風が直撃したゆえの大損害、など色々と推測できる。
そもそもモンゴル軍は騎馬民族。陸上戦での機動力が一番の長所であり
海路での攻撃はベトナムやジャワ島でも失敗している。

第三十一章 鎌倉幕府の衰退

3回目の来襲(なかったけど)へ向け、御家人の負担は続く。
だがもう御家人たちの不満は爆発寸前!

  • 金と命をかけて戦ったのに恩賞不足(日本は何もゲットしてないので…)
  • 幕府の政治は北条本家(得宗家)とその家臣が独占状態
  • 社会の変化(貨幣経済の浸透など)による貧困
     

幕府は徳政令を出す「御家人の借金チャラ!」

もう少し正確に言うと、「借金を返せなければ土地を手放す」
という契約によって失った土地を、無償で取り返せるという法律

根本的な解決にならない。またすぐ貧しくなる上に、商人「もう貸さんわ!」