誠を乗せた飛行機は予定通り12時間かけてロンドンの地へ降り立った。
空港内にある時計を確認すると、現地時刻は13時過ぎ。
すぐに手持ちの時計の時刻をそれに合わせると、彼はスーツの内ポケットから1通の手紙を取り出した。
6年前に別れた直後、響子が誠に送った唯一のもの。
白地に薄く桜の絵が描かれた便箋には、綺麗に整った字でロンドンのとある住所のみが記されていた。
当時の誠はそれが示すものが何なのかすぐに分かった。
彼は約束が有効である証だと感じて、それを糧に6年間を乗り越えることが出来た。
その約束の日が今日であることを再認識すると、誠の胃の辺りがぎゅっと締め付けられるような緊張感に襲われる。
6年間、顔を見ることも声を聞くことも叶わなかった彼女がこの国に居るのだ。
緊張で彼の顔が強張った。
住所が示す場所――霧切響子の探偵事務所を目指して誠は空港を出ると、出口に並んでいたタクシーに乗り込んだ。
流暢な英語で行き先を運転手に伝える彼の手には、辞書も英会話の本も翻訳機も無い。
もちろん、誠が日本以外に住んでいたという事実はない。
しかし、長年現地に住む人間のように彼が流暢な英語を話すことが出来るのは、6年の間彼がどのように過ごしたかを垣間見せる。
ロンドンのタクシー運転手は厳しい試験をくぐり抜け、ストリートの名称など熟知したプロばかりだ。
誠が乗ったタクシーも例に漏れることなく、最短経路で目的地まで彼を送り届けてくれた。
走行中は、誠は運転手から出身やロンドンに来た目的などを尋ねられたり、観光スポットを紹介されたりと暇を持て余すことにはならなかった。
おかげで待ち遠しかった目的地までの時間を短く感じられ、降車する際に彼は運転手へのお礼の意を込めてチップ分余計に代金を支払った。
タクシーを降りると、目の前には数種類の赤茶色い煉瓦を積んだ、いかにもロンドンらしいと感じられる建物があった。
深い焦げ茶のドアの上部は白くアーチ型にあしらわれており、中央にはアンティーク風の外灯が取り付けられている。
洒落た外観に、ただ観光で来ていたのなら、誠もそれを見てお洒落だ、などと笑っていられたかもしれない。
しかし、誠はロンドンらしい外観よりもドアに控えめに掛けられた小さなプレートの方を凝視していた。
Detective bureau Kirigiri
霧切
小さなプレートの英字、『Detective bureau Kirigiri』 は 『探偵事務所 霧切』と訳せる。
そしてその下には漢字で「霧切」とある。
それらを目にした瞬間、誠の胸が高鳴った。
そのプレートは誠にとってはこの上ない存在感がある。
しかし、恐らく一般の目に留まることはほぼ無いだろう。
それほどプレートはささやかなもので、色はドアとほぼ同じ色だった。
彼は、過去に彼女が自分にだけ話してくれたことを思い出す。
――霧切家は敢えて自分たちの存在を隠している――それが誇りってものでしょう?
その言葉と、眼前のプレートが誠の頭の中で繋がる。
そして次第にそれは実感となって誠の中に湧き出してくる。
――ここ開ければ、霧切さんが居るんだ。
誠は震える手で、ドアの右側に取り付けられた小さなインターホンを押した。
ドアの向こうで響いたその音は、誠の耳にはやけに大きく聞こえた。
そして――ドアが開くまで数秒――彼にとって永く、ゆっくりに感じられる数秒間、ドアの動きに伴い、誠の心臓がうるさいくらいに脈打つ。
ドアの隙間から懐かしい淡い紫がかった銀髪が誠の目に入る。
彼は息をするのも忘れ、徐々に見えてくるその姿に目が釘付けになっていた。
「――苗、木君…………」
――会えた。ああ、やっと会えたんだ……。
「久しぶりだね。霧切さん――約束を果たしに来たよ……約束、覚えてる?」
「私から言い出した約束だもの。もちろん覚えているわ……とりあえず中へ入って」
「うん、お邪魔するね」
懐かしい香り、懐かしい姿、懐かしい声――誠は泣きそうになるのを、喜びで叫びだしたくなるのを抑え込んで、かつてと変わらない無邪気な笑顔を彼女に見せた。
「身長、少し伸びたみたいね。体格も――結構鍛えたのかしら? 6年も経てば、苗木君でもこんなに変わるものなのね」
当時は、時々可愛いとさえ思うこともあった少年が、今は立派な青年になって目の前にいる。
響子は、懐かしいけれど、あの頃の誠からすると大分成長したことが見て取れる彼の身体を上から下まで観察していた。
響子は、ドアを開けた向こうに彼が居た時は、夢を見ているのかとかさえ思った。
いや、未だ目の前の誠の姿は自分の妄想ではないのかとさえ彼女は疑う。
二人が6年間会うことがなかったのは、響子自身が誠を拒絶したからだ。
いくら約束をしたからといっても、彼が本当にここへ来ると響子は思っていなかった。
「正直……あなた、かなり格好良くなったと思うわ」
「本当に? ありがとう。霧切さんにそう言ってもらえてすごく嬉しいよ。身長の方は5cmだけ伸びたんだ。
贅沢を言えばもう5cmくらい欲しいんだけど……さすがにこればかりは努力じゃどうにもならなかったよ」
誠が苦笑しながら理想の高さであろう位置へ手をかざす。
6年で少し外見は変わったのかもしれないが、彼の困ったような笑顔は、正真正銘の苗木誠なのだと響子を安心させた。
「そう。もう、私より高いのね。ヒールの靴を履いていない時に限るけれど」
響子が意地悪そうに笑うと、誠は肩をすくめて見せる。
「できれば、ヒールは控えめにしてくれると嬉しいかも。霧切さんは、本当に……あの頃からさらに綺麗になったね」
「そうかしら。自分のことはよくわからないわ。でも、ありがとう」
「うん。ずっと元気にしてた? ちゃんと食事はとってる?」
「ええ、無病息災といったところかしら。食事も日本からカップ麺を定期的に取り寄せて、忙しくない限りはできるだけとるようにしているわ」
「……ねぇ、まさかとは思うけど、いつもカップ麺を食べてるわけじゃないよね?」
「毎回ではないけれど、ほとんどの食事はカップ麺で済ませてるわよ? 時間が無いときはカロリーバーを食べることが多いわね」
何故か自慢げ且つ、「だからどうしたの?」と言わんばかりの顔で言い放った響子に誠は額に手を当てて嘆息する。
彼女ほどの優秀な女性が、カップ麺ばかり食べているという事実について誠は異議を唱えずにはいられなかった。
「6年間ほぼカップ麺ばかりって……霧切さん、僕は呆れるのを通り越してちょっと悲しいくらいだよ。残念すぎて泣きそうだよ」
「……苗木君は不思議な事を言うのね。必要なだけのカロリーはカップ麺で充分に得られるし、何より短時間で用意できるのよ?
それにこの国の料理より味も美味しいし、かなり効率的で問題はないでしょ」
「いや、問題あるから。カロリーはともかく栄養偏っちゃうだろ?
それに、別に料理は自分で作ればいいことだし。そんな食生活だといつか体壊しちゃうよ」
昔から響子は変なところが抜けていたり、基準がおかしかったりする。
特に自分のことには無頓着で危険さえ顧みない響子を自分が支えなくては――と彼女のそばに居た誠が思うのは必然だったのかもしれない。
「栄養はサプリメントで補っているつもりよ。それに、料理は作れないということはないけど時間も手間もかかるし、何よりこの手だから少し苦手なのよ」
彼女は一旦言葉を切り、胸の前に手袋を着けた手を持ってくると左手で右手をさすった。
そして、続きの言葉を発することを一瞬ためらうように目を伏せたが、すぐにいつもの調子に戻った、ように見えたがそれは口調だけだった。
「でも――あなたがここに居るということは、これからはあなたの作る料理が食べられると思ってもいいのかしら?」
響子は強気に尋ねるが、その瞳には不安をちらつかせている。
誠はそんな彼女の瞳を見つめて優しく微笑んだ。
不安を覗かせながらの彼女の言葉が誠は嬉しかった。
それだけ自分という存在が響子の中では大きいのだということが分かったからだ。
「最初に言ったよね? 約束を果たしに来たって……」
誠は一旦言葉を区切ると、一度目を閉じて静かに深呼吸をする。
再び開かれた目は真っ直ぐ響子の目を捉えた。
その目から響子は、覚悟・決意といった彼の感情を読み取ることが出来たが、冷静で居られたのはそこまでだった。
「――響子さん」
「は、い……」
初めて彼に下の名前で呼ばれて、響子の肩がぴくりと揺れた。
響子は自分の頬が熱を帯びるのを感じていた。
今、誠の目の前にいる彼女は探偵としての霧切響子ではなく、一人の女性としての霧切響子だった。
「6年間、僕の気持ちはずっと変わらなかった」
――変わるわけがない。そんなことは6年前から分かっていた。
「僕の中にはいつだって君が居たんだ」
――君のために、君しか考えられないから。
「……だから約束通り、強くなって、ここへ来たよ」
――僕の愛しい人の所に。
「僕は君のパートナーとして、君の隣で一緒に歩いていきたい……君の"家族になるような人"に立候補させてください――」
――この瞬間をずっと、ずっと夢見てきた。
この日を、この瞬間を二人とも待ち望んできた。そしてようやく、叶った。
静かに誠の言葉を聴いていた響子は、人前では絶対に見せることのない涙を目に浮かべている。
そして、それは溢れ――零れ落ちた。
「私も……私も誠君と歩いていきたい――よろしく、お願いします」
言い終わるよりも早く、響子は彼の方へ倒れ込み、細い両腕を誠の大きくなった背中に回した。
誠も彼女を受け止め、二人は6年という時間を埋めようとするかのように、きつく、きつく抱き合うのだった。