「ねぇ、誠君」
「何?」
誠はロンドンに着いてから真っ直ぐにここへ来たため、昼食をとっていなかった。それを聞いた響子が用意してくれたものを食べているのだが、それはやはりカップ麺だった。
せっかくの彼の一世一代のプロポーズの余韻も台無しである。しかし、それでも誠はこうして響子と一緒に居られるのが何より嬉しかった。ちなみに響子は、誠がちょうどロンドンへ着いた頃に、
彼が今食べているものと同じカップ麺を食べたらしい。そのカップ麺をすすっている誠に響子は尋ねた。
「あなたの6年間を聞いてもいいかしら? 私は淡々と探偵の依頼を受けていただけで代わり映えしない日々を送っていたのだけれど……」
――あなたは、色々あったのでしょう?
確かに色々あった――誠は過去を振り返る。しかし、彼は敢えてしれっと嘘をついた。ある目論見を思いついたのだ。ごく自然に、笑顔を彼女に向ける。
「うーん、別にこれといって何もなかったよ」
明らかな嘘をつかれて響子は眉を顰めた。彼女は誠の目論見通りの言葉をいつもの落ち着いた口調で言い放った。
「私に嘘をつくなんて……誠君のくせに、生意気ね。大体さっきあなたは、”身長だけは努力じゃどうにもならなかった”って言っていたじゃない。つまりそれは他の部分では努――」
「ぷっ、ふふふふっ……あはははっ」
「……何を笑っているのかしら?」
誠は彼女の反応が自分の予想通り過ぎて、彼女が話している途中にもかかわらず、つい噴出してしまい声に出して笑った。
一方響子はいつもだったら……いや、6年前であればすぐに謝罪の言葉を述べているはずの誠が、謝るどころか自分の話を遮って大笑いし始めたことに内心驚きを隠せない。
「いや、ごめんごめん。響子さんの"誠君のくせに、生意気ね"って台詞を聞きたくてわざとバレるような嘘をついたんだけどさ、あまりに、君の反応が予想通りすぎて、ふっ、ははははっ」
涙目になりながら相変わらず笑い続ける誠から、そこまで聞かされて響子は彼に手玉に取られたことに気付いた。
いつもの響子であれば、バカ正直な誠程度のいたずらや嘘はすぐに気づき、逆に騙し返すくらいのことはしているはずなのに、すっかり彼の罠にはまってしまった。
6年ぶりの再会と彼からのプロポーズの影響でまだ、本来の冷静さを欠いたままだったのかもしれない。それでも響子は、表情には出さないものの悔しいものは悔しかった。
「本当に、生意気になったものね。そんな人には、この貴重なカップ麺は食べさせられないわ」
仕返しのつもりだろう。彼を非難するとすかさず、響子は誠の食べているカップ麺を没収しようと手を伸ばす――が、失敗した。ひょいっと、いとも簡単に誠は彼女の仕返しを躱したのだ。
「ごめんって。そんなに怒らないでよ。それに、僕も無駄に6年過ごしたわけじゃないからね。簡単には取られないよ」
「……別に怒ってないわ」
かつてはからかう側だった響子が、6年経って誠に再会してみたら反対にからかわれた上に仕返しすらも躱された。誠が明らかに色々と成長したということは分かっているし嬉しいのだが、この状況は面白くなかった。
そんな響子にも構わず、楽しそうに笑っていた誠は笑い止むと、ふと遠くを見るような目をして呟いた。それは彼自身にも再認識させる為に放たれたようにも感じられる。
「僕の6年間ね。うん、本当に色々あったよ……」
懐かしそうに目を細めながら、誠は自分の過ごした6年を語りだした。
「朝比奈さんと十神君に色々と協力してもらったんだ。二人が居なかったら、こうやって自信満々に君をからかう僕なんて存在してなかったと思うよ」
「朝比奈さんと、十神君に?」
「うん……たとえば、体力とか運動能力とかを鍛えようと思って、僕は朝比奈さんに相談したんだよ。
ほら、彼女スポーツマンだし、それに大神さんと仲が良かったじゃない? だから良いトレーニングとかを知ってると思ったんだ。
だから朝比奈さんと二人で一緒に過ごした時間が結構多いかも」
「そう、朝比奈さんと二人で……。それはとても充実した時間だったでしょうね」
響子が少々ぶっきらぼうに反応した。その表情はいつものポーカーフェイスを保ってはいるが、少し引きつっているようにも見える。
ほんのわずかな、響子の表情の変化に誠は気づいた。
――気のせい、じゃないよね? なんか響子さん怒ってる。
誠がどうしたものかと響子の顔を見つめていると 「それで続きは?」 と無表情で促されたのでとりあえず彼は話を続けることにした。
「ええっと、そうだ。基礎体力とかは朝比奈さんとプールに行ったりして鍛えてもらったんだけどね、「ふぅん……二人でプールにね……」」
誠の言葉を遮った、冷たく静かな声に彼はゾクリとした。
「あの……響子さん?」
「何かしら? 誠君」
「もしかして朝比奈さんに嫉妬してる?」
誠がストレートに尋ねると響子は「別に」と答えながらも刺すような目つきで彼を睨みつけた。蛇に睨まれた蛙ってこんな気持ちなんだろうなと呑気に思いながら、
誠は懸命に笑顔を顔に張り付けてごまかしてみた。響子と話していると、6年前の頼りない苗木誠の姿がぶり返しつつあった。
「と、とりあえず感想とかは後で聞くから、続き話すね」
「ええ、お願い」
「う、うん。えっと、ある日僕は朝比奈さんに、体力だけじゃなくて格闘っていうか何か体術みたいなものを大神さんに習ったりしたことがないか聞いてみたんだ。
もし彼女が知っているなら、そういうのも学びたいなと思ってね」
「異性と格闘技……」
誠は、響子が再び何かを呟いていることにもちろん気づいていたが、先に宣言した通り最後まで話し終わるまで触れないでおくことにした。
「結局のところ、朝比奈さんはそういう格闘とか武術といった類のことは知らなかったんだけど、代わりに大神さんの知り合いのケンイチロウさんっていう格闘家を紹介されてね。
実際に彼に会って相談したら、快く僕のトレーニングに付き合ってくれることになったんだ。
それ以来朝比奈さんとのプールトレーニングと並行して格闘技術とか護身術みたいなものとかを教わったよ。これは6年間ずっと続けてたことなんだ」
「意外とあなた根性があるのね。大変だったでしょう?」
その「大変」なことを自分が強いてしまったという罪悪感から、響子の表情が少し曇った。しかし、誠は彼女を見て笑うのだった。
「大丈夫だよ。すごく楽しかったし、毎日を充実させることが出来たんだから。響子さんは何も気にすることないよ。僕は楽しかった6年間を君に話すんだ。君にも笑って聴いてほしいな」
「……あなたには適わないわね。わかったわ。続きを聴かせてちょうだい」
諦めたように響子が笑うと、満足そうに誠も笑顔で続ける。
「うん。あと、十神君にはずいぶん広範囲な分野でお世話になったな」
「よく協力してもらえたわよね」
「僕も最初は断られると思ったんだけどね、”好きなだけ俺を利用していいぞ”だなんてびっくりすること言われたんだ。
正直、これは十神君じゃなくて、別の誰かなんじゃないかって不安になったよ。まぁ、正真正銘の十神君だったんだけど」
誠がそこまで言うと、意外にも響子は声に出して笑っていた。
「ふふっ……あなたもだけれど、十神君もいろいろ変わったってことなのかしらね」
「はははっ。そうかもしれないね。
……それでね、色んな分野の専門家を呼んでもらって本当にたくさんの知識を身に付けたり、飛行機やヘリの操縦、ナイフや銃とか武器の扱いを覚えたり爆弾や化学兵器についても学んだり、他にも色々……ものすごく十神君にはお世話になったよ」
――え? 今彼は何て言った? 何かおかしな単語がなかったかしら。
響子はスラスラと話す誠に疑問と戸惑いの眼差しを向けずには居られなかった。十神家が関わるにしても、武器だとか爆弾だとかスケールが大きすぎる。
それに平凡代表のような苗木誠という少年が関わっていたと言うのだから尚更だ。さすがの響子もスルーできずに尋ねた。
「誠君、ちょっと待って。私の予想をはるかに上回る単語がぞろぞろ出てきた気がするのだけど……」
「あー、武器とか爆弾とかの下りでしょう? 僕がたまたま、そういうの知ってたら役に立つかなぁって冗談半分に十神君の前で呟いたら翌日にはその道のスペシャリストを紹介されてね。
僕もこんな機会滅多にないと思って、興味本位でご指導ご鞭撻をお願いしちゃったんだ」
#br
響子は呆気にとられた。自分が6年間、何の面白味もない生活を送っている間、彼はなんて濃厚な生活を送っていたのだ。差がありすぎる――と。
「もちろん地理とか経営学とか外国語とか……一般的な勉強もしたよ。今では英語・ドイツ語・ロシア語・中国語そして日本語の5か国語を話せるようになったよ」
誠は響子が今まで見たことのないような得意気な表情をして6年間で身に付けたものを挙げていく。
確かに響子は誠に「強くなって」と言って別れたが、彼がそこまで貪欲に知識や技術などの能力を自分のものにするとは思ってもみなかった。
「苗木君のくせに……何でもないわ」
「生意気でごめんね。……ていうか僕がさっき、からかったことをまだ根に持ってたんだね」
「別に、違うわよ」
誠は響子が言わないでおいた台詞をわざわざ言って謝る。6年という時間は彼に相当な自信をつけさせるには充分な時間だったようだ。
そして、彼は今までの調子とは一転し、少しだけ申し訳なさそうな顔をして静かに話す。
「ごめん――本当に生意気だとは思うけど、実は君と別れて4年経ったくらいの頃に、僕は探偵になったよ。
事務所も開いて、日本を発つ直前までそれなりに活動してたんだ」
「え? 探偵にって……あなたが?」
今まで誠が話した内容、特に十神が関わった部分も充分突拍子もないことばかりだったが、これは群を抜いて響子を驚かせるものだった。戸惑い動揺している様子の響子を見つめながら誠が再び口を開ける。
「僕は響子さんに釣り合う人間になりたかった。君ができることを、僕もできるようになりたかった。危険を対処できるだけじゃなくて、危険から君を守れる男になりたかった。
だから僕はたくさん努力して、探偵になったんだ。君に近づきたくて」
「誠君の気持ちはすごく嬉しいわ。
けれど、正直……あなたが探偵になったなんて言われても複雑なだけだわ……確かに強くなって私の所へ来てほしいとは言ったけれど、無駄に危険に足を踏み入れてほしかったわけじゃない」
響子は、彼が探偵になったという事実を拒絶することも受け入れることもできないような葛藤に襲われた。複雑だが、嬉しいと言ったのは確かに彼女の本心だった。こんなにも自分は彼に想われているのだ、と。
しかし、この稼業は常に危険が付きまとう。いくら彼が体を鍛え知識を蓄えたからといっても、わざわざ危険に近づいてほしくなかった。そして、強ければ危険な目に合わないというわけではないのだ。
せっかくあの学園生活から解放されたのだから、誠には平和に過ごして欲しいというのが響子の願いだった。
「響子さんがそういう風に思うってわかってたから先に謝ったんだ。でも、聴いて響子さん。それは君の勘違いだよ」
「……私の勘違いって、どういうことなの?」
響子が誠の言葉の意図を図りかねて聞き返すと、彼はニヤリとした。
「だって、響子さんが僕にそうさせてるんじゃなくて僕がやりたくてやってるんだ。響子さんだって、もし僕が”危険だから探偵なんて辞めて”なんて言っても、そんなの無視して活動するでしょ?
ずっと探偵として生きてきたから、探偵稼業を誇りに思うから、そしてやりたいからやるでしょ? 僕だってやりたいからやってるだけだよ」
響子は大きくため息をついた。彼の言うことは概ね正しい。響子が誰かに何か言われて探偵を辞めるなどあり得ないことだった。その誰かが例え誠であってもだ。
誠に自分のことを指摘された響子には反論の余地がなかった。そして降参だと示すように両手を軽く上げて誠を見る。
「苗木君のくせに生意気よ――私にあなたの6年間を否定する権利もないし、する気もないわ。複雑なことは確かだけど、自分がやりたい放題やってるのにあなたには駄目だと言って縛り付けるなんて、
とんだわがまま女にもなりたくないし。だから私は、私の意見ばかりをあなたに押し付けないことにするわ。つまり――誠君、ここまで言えばわかるわね?」
「うん。許してくれてありがとう、響子さん」
空白の6年間。お互い会うことは出来なかったけれど、二人とも相手のことばかり考えて過ごしてきた。空白の6年間は、絆をより強くした6年間だったのだ。
そして、その絆を表すかのように誠が手にするカップ麺はすっかり太く長く伸びていた。