誠と響子は今後の生活について話し合っていた。響子の自宅兼事務所に誠が転がり込む形で住むということ自体は二人ともなんとなくそのつもりで居たらしく、特に問題はなかった。
しかし、寝室を別々にするかしないかで二人の意見が食い違っていた。1つ空き部屋はあるにはあるのだが、寝室として利用するには充分な広さではない。
一方、現在響子が寝室として利用している部屋は新たにベッドを追加しても余裕がある。
その事実から、響子は誠に同室で寝るように言ったのだ。しかし、誠は首を縦に振らなかった。
「僕は空き部屋で適当に何か敷いて床で直に寝るからいいよ」
「それじゃ、ゆっくり体を休められないでしょ? それとも何? 私と同室じゃ問題でもあるの?」
誠の提案に納得できるわけもなく、響子は彼を睨みつける。鋭い眼光を向けられて誠は苦笑いを浮かべた。
「えっと、ある意味問題があるというか……」
「なんとなくあなたが考えていることは分かるけれど……家族になるのだから問題はないはずよ? むしろ慣れてもらわないと困るのだけど」
響子は少し頬を染めて誠に訴える。響子の言うことは分かってはいるのだが、プロポーズを済ませたと言っても、交際過程を飛ばしているため誠は正直そこまで心の準備が追い付かないでいた。
しかし、響子のそんな顔を見せられてしまったら少し心が揺らぎそうになる。
「そうなんだけど、でももう少し経ってからでも……」
「誠君、あなた……家主に逆らうの?」
――変わったのは外見ばかりで、中身はヘタレのままじゃない。
響子は、やはり自分が主導権を握るのが一番良いのだと痛感した。
欲を言えば、男性である誠の方に色々と積極的にリードをしてほしい、というのが正直な彼女の気持ちだが、彼は言葉の面では積極的なところもあるが、行動の面では少々奥手すぎた。
また、家主である自分が強気に出た方が早く話が進むと彼女が判断した上での発言だった。
「はぁ……返す言葉もございません。わかった、響子さんに従うよ」
「最初からそう答えていればいいのよ。……とりあえず、今日はまだベッドが無いから私のベッドで寝ていいわよ」
「えっ? さ、さすがにそれには従えないよ! 家主を、女の子をベッド以外に寝せるなんて――」
「何を言っているの? 私はベッドで寝ないなんて言ってないわよ」
「あ、そうですよね。はははは……」
――なんだか、響子さんは僕のことを精神的に殺す気なんじゃないかと思えてきたよ。
誠は乾いた笑いを浮かべながら、額に冷や汗を滲ませていた。一方響子は動揺している誠を見て、最初にからかわれた際の仕返しがようやくできたとひそかに満足していた。
そして、それは響子の淡白だった毎日が幸せな濃い毎日に変わった瞬間だった。
誠は悩んでいた。イギリスの男性は『紳士』である、というイメージがあったのだがそれは一昔前の話だったらしい。
誠はこちらに来たばかりで、生活必需品が充分に無かった。
それらを揃えるために、彼は響子と一緒に買い物に来ていたが、昼時になったため丁度近くにあった、ファーストフード店で食事をとることにした。
「僕が注文するから、響子さんは先に席に着いてて良いよ」
「ええ、わかったわ。向こうの角の方が空いてるからそこに居るわね」
誠は、あまりファーストフード店に馴染みがないという響子を先に席に着かせ、昼時なだけあって結構な人数が並んでいたその後ろに誠は立った。
席へ向った響子を目で追って、少し顔が緩んだ。
「やっぱり、後ろ姿も綺麗だなぁ……ただの平凡な人間だった僕があんな綺麗な人と一緒に居られるなんて幸、せ………………」
誠は幸せをひしひしと感じながら、呟いていたが最後まで言い終えることが出来なかった。先ほどまで、緩んでいた顔もスッと無表情に変わる。
彼の目の先にはもちろん席に着いたところの響子が居る。それだけなら何も問題はなかった。しかし、彼女が席に着いた途端にどこからともなく若い一人の男が響子の前に現れ、話しかけていた。
恐らく地元の人間だろう。長身で顔立ちもスタイルも良い、いわゆるイケメンというやつだ。
誠の胸の中で、ドロドロとしたものが湧き上がる。今すぐ彼女の元へ行きたいが、せっかく並んで少しずつ前に進んでいる所を離れることも出来ない。
――だ、大丈夫。響子さんならすぐにああいう男はあしらうに決まってる。
誠は響子の性格からそう考えて見守っていたが、目の先の光景は全く異なっていた。誠はあり得ないと思った。
響子が、見知らぬ男に話しかけられて追い返すそぶりさえ見せずにあろうことか少し頬を赤らめて笑みさえ浮かべていた。
その光景は誠の感情をかき乱し、列に並んでいることさえ忘れて男に殴りかかりたい気持にさえなった。しかし、それには及ばなかった。
男は響子に手を振りながら離れ、こちらへ向かってくるとそのまま店外へ出て行った。誠はちらりと男から視線を向けられた気がした。
「……はい。コーヒーとフィッシュバーガー」
「ありがとう。誠君、どうしたの? 店員の対応が嫌だったのかしら。まぁ、日本のサービスには少しだけ劣るかもしれないけど、これも慣れていかないといけないことかもしれないわね」
「別に……店員は関係ないよ」
「……それじゃあ――」
「さっき、君に話しかけてた男の人誰?」
誠の不機嫌な理由の推理を続けようとした響子の言葉を遮り、理由そのものだと分かる質問を彼はぶつけた。
響子は少し面食らったような顔をしたが、すぐに表情を戻す。
「見ていたのね」
「響子さんなら、ああいう輩はすぐに追い払うと思ってたんだけど。僕にだってめったに見せない笑顔まで向けてさ……彼、スタイルも顔立ちも良かったもんね。
そりゃ、響子さんみたいな綺麗な人にはああいう人が似合うのかもしれないけど――」
「何言ってるの? あの人は以前、私に依頼をしてきた人よ」
「……へっ?」
「たまたま、私を見かけて、その時のお礼を改めてしたいと思って話しかけたって言っていたわ。でもちゃんと報酬をもらったから断っていただけよ」
「で、でも響子さんが他人に微笑むなんて滅多にないじゃない」
「そ、それは……彼が今日はボーイフレンドと来ているのかとか、結婚式はいつなのかとか思いがけない話をするから……その、恥ずかしくて……」
「え、そうだったの!? ご、ごめん! 勘違いなんかしちゃって」
響子から話を聞いて、誠の顔はみるみるうちに赤くなった。しかし、誠の勘違いはあの光景を離れた所から見れば、当たり前なことだろう。
それでも誠は勝手に勘違いして勝手に不機嫌になったことが恥ずかしかった。
「フフッ……誠君も嫉妬するのね。それもあんなにあからさまに不機嫌になる程に」
「そ、そりゃ響子さんが僕以外の男と談笑してるなんて考えるのも嫌だもん! ていうか無駄に近づいてほしくないくらいだよ。80cm以内には近づかないで欲しいかも……」
「意外だわ。あなたの独占欲がそんなに強かっただなんて」
「僕だって意外だよ」
「ちなみにだけど、私はあなた以上に独占欲が強いつもりだから……気をつけてちょうだいね」
「え……?」
「それと、あなたと会えなかった6年間、私だって、あなたのことをずっと好きだったの。あなた以外なんて考えたこともないわ。だから滅多なことは言わないで」
「ごめん。わかった」
誠はひとまず安心して昼食を食べたが、その後買い物の続きを済ませて帰宅すると、叫ばずにはいられなかった。
「なんでだよ! 少し目を話す度に男に話しかけられるとか、何なの? いや、依頼人だった彼以外はさっさと響子さんがあしらってたから別にいいんだけど……いや良くないって!
あんなにしょっちゅうナンパされるって、僕もうなんか犯罪に手を染めてしまいそうなくらい頭に血が上ってやばいんだけど!
それだけ響子さんが綺麗で魅力的な女性だっていうことだから嬉しいし誇らしいんだけど、ああ! もうなんか嫌だ!」
「そんなことを言われても……一応私もむやみに話しかけられないように気をつけているつもりなんだけど、日本で通用してもここでは通用しないみたい」
誠は頭を抱えて悩んだ。イギリス人なんて全然紳士ではないと知ってしまった今、彼が行き着いた解決方法はこれだった。
「僕、外出するときはもう絶対響子さんから目を離さないようにする。いや、手も離さない。響子さんが嫌がってもこれだけは譲れない!」
「……はぁ、もう好きにしてちょうだい」
響子は頭が痛い、とでも言うように額に手を当てて嘆息しているが、その頬は心なしか赤く染まっているように見えた。