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Last-modified: 2007-12-31 (月) 11:39:42

「やめて。耳が腐るわ」
「…な……なっ…」

 場所はトルバス神曲学院、数ある教室の一つ、専門課程生徒が基礎課程生徒へ勉強を教える授業のフォロンが担当する教室。
 今回は少々珍しい事が起こった。
 いつもは静かなプリネシカがダングイスに冷たく暴言を言い放つ。
 教室に居る全員が凍りついてしまったかのように、あまりの以外さに固まって動かなくなった。
 ダングイスも予想外の出来事でワンマン・オーケストラによる神曲の演奏が中断された。
 しかし教室に居た者の中で最もプリネシカの変わり様に意外性を感じたのは、彼女と最も長い時間を共に過ごしている双子の姉のペルセルテだ。
 今のプリネシカの姿は、ペルセルテも初めて見る程に珍しい姿であった。
 普段はとても大人しく、暴力的な雰囲気など微塵たりとも縁のないプリネシカ。
 いつもは潤い帯びた可愛らしい瞳が今は、汗が引き背筋が凍ってしまいそうな位に鋭く凍てついてしまう眼差しに変わっている。
 その眼差しの意味は怒りを表す。
 かっとなって頭に血が昇るような単純に熱くなる怒りではなく、腹の底から渦巻く苛立ちを隠す冷めた怒り。
 いつもと全く違う、プリネシカの凍てつく怒りを帯びた鋭い眼差しはダングイスを射抜いている。

「精霊の反応をうかがうまでもないわ。あなたの演奏は雑音以下よ」
「…なんだ、と…っ!?」

 ダングイスの眉が震え、徐々に怒りで顔が赤くなっている。

「聞いているだけで、いえ、耳に入るだけでハラワタが裂けそうな位にむかむかするの」
「おまえに…何が分かる……」

 暴言を吐き散らすプリネシカに対するダングイスの怒り。それはプリネシカの冷めた怒りとは反対の熱い怒り。

「あなたの演奏は程度の低い自己満足の垂れ流しに過ぎない。口から血を吐きそうな位に気分を不愉快にさせてくれたわ」
「精霊でもないくせに……ダンティストでもないくせに……特別優れているわけでもないくせに…おまえ……レベルの低いおまえ如きに何が分かるんだ!
ボクの天才的な神曲の素晴らしさが分かってたまるかよ!」

 貶されている事を認められないダングイス。冷たく言い放ってくるプリネシカに対して勢い良く指刺しながら大声で怒鳴り散らし返した。
 ダングイスはさらに血圧が上昇し血管が浮き出て顔が真っ赤になってしまう。
 眉間に沢山の皺がより眉が鋭利につりあがる。
 髪の毛があまりにも凄まじい怒りで逆立ってしまい、その怒髪が今にも天を衝きそうだ。

「分かってたまるかよぉぉおおおおおっ!」
―ガシャァンッ!
 やり場の無い怒りを我慢出来ず、背負っていたワンマン・オーケストラを豪快に投げ捨ててしまった。
 車一台分の値段もする精密機器である、とても易々と取替えが出来ないワンマン・オーケストラを。

「誰も分かっちゃいない。ボクは天才だ! ボクは天才なんだっ!
ボクの神曲に精霊が集まらないのはボクのせいじゃない!
ボクの類い稀なる超越的な才能を恐れる嫉妬深い哀れなダンティストがボクの周りだけ精霊が居ない状態にしているだけなんだ!
分かったか愚民共っ!」

 とんでもない勘違いを饒舌に言い放つ。
 常時目には見えないがどこにでも居る無数の精霊を、誰か固有の者の周りだけ精霊の居ない状態にする事はとても難しい。
 そのような難しい事が出来るダンティストならば大抵の者は恐れる必要など微塵もない。
 ダングイスのような一度も実績を示していない者など語るまでもない。
 ダングイスの思考を一言で言えば自身を神聖視し過ぎている。

「…………」

 プリネシカは無言で凍りつく様な冷めた瞳でダングイスを睨み続ける。

「…はぁ……はぁ……なんだよぉ、その目はぁっ…!」

 ダングイスはもう、怒りの頂点に達していて目の血管も白い所が見えない程に物凄く血走って真っ赤だ。
 いつ血管が破裂してもおかしくない。
 他人の目を気にするよりも、まず自分の目を気にした方が良い位に真っ赤になっていた。

「プ、プリネ、やめよ? もうやめようよ」

 流石に今回は教室に居た誰もがダングイスの状態に危険性を感じた。
 プリネシカの双子の姉であるペルセルテは、いつもと全く雰囲気の違うプリネシカに恐怖を感じながらも止めに入った。

「…………」
「……はぁ……はぁ………はぁ……」
「ねえプリネ? プリネってばぁ」

 まるでペルセルテの声が全く聞こえていないかのようにぴくりとも動じないプリネシカ。
 ダングイスの方は荒い呼吸をゆっくりと整えようとしている。
 流石に身の危機を感じる程の怒りは無理にでも押さえ込まなければならないであろう。
 ペルセルテは恐る恐る、血を分け合う双子の妹であるプリネシカの制服の二の腕の部分を、指先で少しだけ積まんで軽く引っ張っぱりながら呼ぶ。
 当然いつもならこのまるで知らなくて怖い人に話しかけるかのような仕種は絶対しない。
 ましてや遠慮など要らない程に仲の良い姉妹なのだから、怖いもの見る目をするのは決してありえない筈なのだ。

「……プリネ…?」
「……ふう、そうねペルセ。こんな事しても不毛よね…」
「…胸糞悪い。ボクは、もう帰るぞ…ふざけんなよっ、低レベルな塵共が!」
―ガラッ、ビシャン!
 ダングイスは吐き捨てる感じにそう言って、教室の前面黒板出入り口のドアを乱暴に開けて出て行き、乱暴に閉めて立ち去った。
 ダングイスが去った後、しばしばの間だけ教室に静寂が訪れた。

「……なんか、痛い」
「……なんていうか、痛い」
「……ほんとう、キ●●イ過ぎる」
「……それ、禁句だよ」
「……単身楽団高いのに…もったいない…」

 フォロン担当の基礎課程生徒数名が下級精霊芒雷の様に片言な感じでダングイスの醜態を表現した。
 ダングイスは裕福で成金な家庭で甘やかされて育てられた。
 つまりお金でなんとかなる限定された思い通りになる狭い世界で自分がとても優れている者だと思い込んでしまい、
 実力勝負な社会に付いて行けない事に気付かず、思い込みが激しく状況を認められない性格になってしまった。

「所詮、楽器も大切に扱えない奴が精霊を呼び出せる筈もないさ」

 鮮血色の髪と瞳がとても特徴的で黒い大きなレース付きのリボンが良く似合う、見た目14~15歳ほどの少女が言った。
 名前はコーティカルテ・アパ・ラグランジェス。精霊だ。
 コーティカルテの言うとおり、神曲は奏でる者の魂の形を描き出す行為。
 物を大切に出来ないような穢れた魂の持ち主の神曲に、当然精霊は寄って来ようとしないであろう。

「あんな塵臭い雑音、初めて聞いたわ…」
「まったくだ」

 先程ダングイスが奏でた曲を酷評するプリネシカと相槌を打つコーティカルテ。

「ところで、お前は…精霊か…?」
「…………」

 プリネシカのダングイスにも向けられた凍てつく様な眼差しが、鮮血色の精霊コーティカルテにも向けられ氷の刃の様に射抜いた。
 コーティカルテの脳裏に張り付いた僅かな疑問。
 ダングイスの演奏は、普通の曲として素晴らしいものである。
 しかし、神曲としてではとても良いと評価出来ない。
 人間には簡単に分からない、曲と神曲の違い。

「私は人間ではないからよく分からないのだが、先程あの小僧が演奏したのは曲の構成としてしっかりとしていた筈だ」
「そうね」

 プリネシカは短く吐き捨てる。まるで係わりたくないというように。

「なかには人間でも神曲を感じる事が出来る。
しかし、肉体という殻に閉じ込められている人間の魂では…まったく感じないに等しい。
例えるならば、遠く離れる所で針を落とした音を聞き分ける事など普通の人間では無理な筈だからな」
「…なにが言いたいの?」
「つまり、お前は精霊の真似事をした。という事だ」
「プリネが精霊な筈ないじゃないですか! プリネは私の妹ですよ!」
「ペルセ……」

 一度も見た事がないプリネシカの変貌に驚きながらも助け舟を出す。
 一度も見た事がない姿であっても唯一無二である血を分けあっている双子の妹。
 困っているとか腹立っているとか調子悪いとか、嬉しいや楽しいや大好きなど、いつどんな時でも一緒だった双子の姉のペルセルテにはお見通しだ。

「人間をばかにしないで下さい! 私だってダングイスさんの演奏には気分悪くなりました。プリネが怒れるのも無理ありません!」
「んっ、そうだな小娘。やっぱり見所ある奴だ」
「なんの事ですか?」
「小娘。おまえの魂の形、とっても良いものだぞ。つまり神曲を奏でる才能があるという事だ」
「え、そうですか! わたし才能ありますか!」

 普通の者ならば、神曲は一般の曲よりも素晴らしいだけの曲と認識する事が殆ど。
 その認識は実は間違いではない。
 先程ダングイスが演奏した曲は自惚れる自信があるだけあって、技術的には良い演奏であった。
 故に、実際問題は神曲と言って良いかもしれない。
 神曲は、曲を演奏する事によって己の魂を磨き上げ、魂を旋律に乗せ精霊と心を結ぶ行為。
 良い旋律であれば良い旋律である程、ダイレクトに精霊へ己の魂の形を伝える事が可能となる。
 しかし伝えるべき魂の形が酷いものならば、それは外見に騙された酷い神曲だ。
 つまり食べ物に例えれば、見た目だけ豪勢に飾ってとても美味しそうな料理だが、悪臭ただよっていてとても食べられたものではない。
 極論でいえば美味しそうに見えて実は腐っている神曲という事。
 そして、精霊には神曲への視覚と味覚と嗅覚があり、人間には神曲への視覚があっても味覚と嗅覚は…全くないという訳ではないが、ないに等しい。
 コーティカルテが思うには、銀髪の少女プリネシカは精霊並みに神曲への感覚が優れているのではないかと判断し、金髪の少女ペルセルテは神曲を奏でる為の魂の形が良いものだと判断したようだ。

「ペルセ、あんまりおだてに乗っちゃだめだよ」
「えぇー、だめなのぉ?」

 プリネシカはいつのまにか落ち着きを取り戻していた。
 姉のペルセルテの想いが伝わったのだろう。
 いつも冷静なプリネシカであるが故に、怒りを覚えてもダングイスのように我を失うこともなく、落ち着きを取り戻すのも早い。

「根拠なくおだてている訳じゃないぞ。この前の演奏、悪くなかったからな」
「やった! 上級精霊のお墨付きだよプリネぇ、ってどこで私の演奏を聴いたんですか?」
「精霊を甘く見ない事だ。この学園の全箇所に流れる神曲なんぞ、手に取るように分かる。そしてどの様な者が奏でているかもな」

 精霊の能力には程度の差はあれど、基本的にどこで神曲を奏でようが聴こえてくる。
 物質の干渉など無意味な精霊にはたとえ分厚い壁で覆われようとも筒抜けなのだ。
 ただ例外があるとすれば、精霊文字による制限がかけられているもの。
 精霊は物質ではない精神体であり、物質という肉体を持つ人間の常識はあまり通じない。

「はえぇぇ、精霊さんって…そんな事まで分かっちゃうんですかぁ……」
「ペルセ、肉体の概念がなくなると広さなんてあまり関係ないんだよ」
「対するお前…演奏する時、極端に魂が揺れ動いているな。まるで精霊が神曲を奏でようとするみたいに」
「まだ言いますか! プリネは人間です! ただ私よりも精霊の知識が豊富なだけの私の妹です!」
「……ペルセ…知識が豊富な、だけって…?」
「そうだな。私の勘違い、だな…銀髪のお前は……精霊じゃない…
……半端な存在なんて、ありえない筈…だからな……」

「…ダングイス…駄目だって、言ったのに……」

 哀れな子供を見るような目でフォロンに見詰められている壊れた単身楽団。
 ダングイスが怒り任せに投げ捨てたとてつもなく高価な単身楽団は、衝撃に耐え切る事敵わず壊れてしまった。
 外装はぐちゃぐちゃに歪んでしまい、蜘蛛の脚を連想させる装飾品のいくつかが枯れた向日葵の花みたく垂れ下がっている。

「先輩、そのワンマン・オーケストラ、壊れちゃったんですか?」
「なんとか動くようだけれど…」

 フォロンは単身楽団のスイッチを入れると、空中にいくつものモニターが現れた。
 それぞれのモニターは一人で神曲を演奏する為に、いくつもの楽器の情報を記したものや部屋の湿度と壁の反響を計算するもの等いろいろある。
 どうやら内部の機械系統は生きているようだ。

「あ、ばか、やめろっ」
―グギギギギギギグァバリバリバリバリッ!
「きゃあぁぁっ、いやぁああああ!」
「うっ…く、ひどい音だ…だ、だから…やめ、ろ…と…言……ったのに……」
「コーティっ!? プリネシカっ!?」

 単身楽団が出した爆音で驚くプリネシカと苦痛で顔を歪めるコーティカルテ。
 フォロンはあわてて単身楽団のスイッチを切った。
 まだ電源が入り一通りの機能は生きていたのだが、肝心の音は残念ながら死んでしまっていた。
 本来ならば美しい旋律を醸し出す筈の単身楽団は、今は哀れにも錆びたノコギリで物を無理に裂こうとする様な割れて汚い雑音に変わってしまっている。
 もうこの単身楽団は使い物にならない。

「この馬鹿者っ! 壊れたと分かっている単身楽団を無理に使おうとするな!」
「ごめんコーティ…まだ動くようだからもしかしたらと思ったんだ…」
「馬鹿! 外部の形が変わっただけでもう駄目だろう。神曲は常に万全の状態で弾くものだ!」
「……ごめん…」
「プリネ、大丈夫?」
「え、えぇ…」

 単身楽団には何かの化石かと思われる希少鉱石である賢者の石が使われている。
 その賢者の石は非常に高度な技術を可能にしてしまう、とても優れた素晴らしい鉱石だ。
 単身楽団が空中にいくつものモニターを映し出し、一度に沢山の楽器を演奏したり部屋の湿度や壁の反響を計算したり出来るのも賢者の石を使っているお陰だ。
 その賢者の石は神曲楽士が使う単身楽団の他にも、主に事務業の超高速計演機や軍用の弾頭演算装置などの、いずれも高度な機器に使われている。

「プリネは昔から奇怪な音の類いには酷く弱いんですよ」
「そうなんだ…敏感なんだね」
「ガラスを刃物で引っかく音とか、金属が擦れる音とか、人一倍に弱いみたいなんです…」
「いやだよね。そういう音」
「…………」

 コーティカルテはプリネシカの特徴に過去であった事件を思い出す。
 その事件はおよそ十二年前、聞くも無残な嘆きの異邦人たちによる無差別テロ。
 一般人にはあまり知られていない事なのだが、テロリストで使われた兵器は残虐非道な兵器、人間と精霊が融合した精霊奇兵というもの。
 人間は精神的損傷では死なず、肉体的損傷で死んでしまう。
 精霊は肉体的損傷では死なず、精神的損傷で死んでしまう。
 人間と精霊その両方の特徴を合わせればという発想で誕生した技術。
 その精霊奇兵の技術で精神的損傷にも肉体的損傷にも強く、おおよそ人間の十倍頑丈で強い者が誕生した。
 だが、融合で殆どの者は心を無くし人形の様になり、心を保つ者は極稀にしか残らない。
 プリネシカは、人間のようでいて精霊のようなところもある。
 プリネシカは、精霊奇兵の技術によって人間の部分と精霊の部分を併せ持つのではないのだろうか?

「考え過ぎ…か……」

 十二年前の事件はもう終わった。
 あの事件はもう済んだ事。
 コーティカルテはそう心に訪い掛け、思い悩む思考を途切れさせた。
 精霊が精神を不安定にさせれば命に関わる為、半場強引に楽観しなければいけない時もあるのだ。

 僕が何故…何故なんだ……
 あのフォロンが、間抜けでどうしようもないフォロンに何故精霊が…
 しかも、契約した精霊はベルスト型ではなくフマヌビック型。
 大抵の者が下級精霊のみ扱え、大勢いるベルストの中級が扱えれば一人前と言われる所。
 フマヌビックはベルストと比べて数が極めて少なく、気難しく扱いづらい。
 扱えるだけでなく契約…ベルスト精霊と契約が出来れば、その神曲楽士はとても優秀といわれるようになる。
 奴の精霊…ヘンテコだが、噂では上級というじゃないか……
 上級との契約は、ダンティストにとって最高のスキル…
 あのおちこぼれなフォロンに出来て、四楽聖をも超えうる天才の僕に出来ない筈がない!
 やってやろうじゃないか…フォロンめ……っ!

「…おい、そこの少年……」

 ふと僕の耳に、低めで闇に溶け入るような女性の声が聞こえた。
 視線を声のする方へ移せば魅惑的な大人の女性が、オレンジに輝く夕闇に照らされる公園の木陰のベンチの中心で、腕を広げて足を組み俯いている。
 腰のあたりまである闇夜のような漆黒色の長髪、光を吸い込む黒い瞳、その漆黒色の長髪と黒い瞳とは対照的な白い素肌の直接上に黒い高そうなスーツを着ている。
 スーツはボタンを一つだけ止めていて、白い大きな胸の谷間とへそが見えているのがなんとも刺激的だ。
 スカートはこれも高そうな革のベルトで止めていて、けっこう長いサイズでありながらも大胆なスリットが入っており、黒いオーバーニーソックスの途切れ目である白い太股が見えてしまっている。
 足もすらっと細く長く黒革のハイヒールをはいており、座っているにも関わらず結構な長身である事が分かる。
 ベンチの側らには大きく長く頑丈なケースが置いてある。
 ダンティストを目指す者ならば誰でも分かるであろう、そのケースの正体はワンマン・オーケストラだ。

「…そこの少年、おまえに訪い掛けているのだ……」
「少年? どこにも居ないぞ?」

 僕はあたりを見回したが、木陰のベンチで座る魅惑的な漆黒色の女性と、レンガ作りの道で立っている僕以外には誰もいない。
 少年とは誰の事だろうか?
 まさか18歳にもなる僕の事ではあるまい。

「…少年、おまえの事だ…」

 俯いている女性がゆっくりと頭を上げ、光を吸い込む黒い瞳がボクの顔を見る。

「まさか、ボクの事かい?」
「……そうだ…」

 漆黒色の女性がゆっくりと深みのある声で答えた。
 まさか少年というのが僕の事を言っていたとは驚きだ。
 確かに僕は18歳にもなってまだまだ若々しさがぬけないのだが、もう十分大人のつもりなのだ。
 少年というには少々無礼である。

「おまえ、悩みがあるのだろう?」
「…はぁ?」

 一瞬僕は真実を突かれてドキリとしてしまった。
 もう二年以上もしたのだから分かっている…僕が、世間知らずで井の中の蛙だったという事が。
 しかし歯止めの聞かなくなった人格は云う事を利かないものである為、僕はボクが天才であるという事をいつも自己暗示し続けている。
 傍目から見てしまえば、僕はとても痛い性格であるという事もよく分かっている…しかし、ボクは元からこういう性質なのだから今更切り替える事など不可能。
 いつからか、僕はボクでありながら、ボクという仮面を被り続ける破目になっていた…

「おまえはこの天才であるボクに悩みがあると言ったのか?」
「そうだが?」
「はあ? このボクが? 天才のボクは残念ながら産まれていらい一度も悩んだ事なんてないねぇ。まったく、悩める凡人どもが羨ましいよ」
「…おまえ、面白い性格だな。私はそういう性格…嫌いじゃないぞ」

 既に分かっている事、僕は実際に天才なんかじゃない。
 ましてや四楽聖最強のシダラ・レイトスに適う所か、並み居る神曲楽士にも追いついていない。
 僕はふと左手の指先を見る…ギターの弦を抑え続け硬くなっている。
 富豪の家に生まれ、なに一つ不自由なく育ったお坊っちゃんである僕…その僕が唯一上手くいかない事、それは…美しい神曲を奏でる事。
 上辺では努力しているというのをただひたすら隠し続け、努力無く実力を持った大天才を演じている。
 だって格好悪いじゃないか…白鳥は優雅に水上を泳いでみせて、水面下では必死にバタ足で水を蹴っている。

「私の名前はライカ。見ての通り、ダンティストだ」

 ライカと名乗った漆黒色の女性は、側らにあるケースに手を置いて神曲楽士である事を示した。

「そのダンティストがボクに何の用だ?」
「おまえ、まだ精霊を呼べた事がないのだろう? どうだ、私が一つ教授してやろうか」
「…お節介ならいらないぞ。僕は…僕自身の力で、精霊を呼び出してみせる…」
「一人の力では限界というものがある。だが、人は力を合わせれば実力以上の力を発揮出来るものだ」
「なにが言いたい…」
「私は…おまえに興味がある。協力させてくれ」
「断る」

 いつの間にか、天才である事を演じ続けるボクの仮面が剥がれていた。
 ライカという者は何者なのだろう、神曲楽士として何をしているのか分からないまま首を立てに振る事は出来ない。

「何故、僕に関わろうとする…僕の何を知っているんだ」
「お前達とは顔を合わせていないだろうが、今日教師としてトルバス神曲学院に来ていたのだ。
 そして、偶然防音室の中で演奏していない神曲を耳にした。
 いい技術を持っているじゃないか…
 あのような優れた技術を持っていながらも、神曲として精霊が寄り付ける演奏になっていないのはとても勿体無い。
 その神曲を弾いていた者を調べ、それがお前の事だった…間違いないな?」

 トルバス神曲学院はいつもどこかで活躍している神曲楽士を、ゲストなり教師なりとして呼び出している。
 今日知り合ったのは偶然の廻り合わせなのだろうか。

「ああ。今日、あの神曲を弾いていたのは、僕だ」
「やはりそうか。コマロ・ダングイスで間違いないな」
「いやボクは、隠れ天才ダンディスト、コマロ・ダングイス様だ。以後よろしく」

 僕はそう言いながら、自己紹介する時の為の手作り名詞を漆黒色の神曲楽士、ライカに手渡した。

「ぷっ、くっくっく…やっぱりお前は面白い奴だよ。気に入った」
「光栄だな」
「それでは、教授されるのを引き受けるのだな?」

 普通に神曲楽士を目指す者ならば、現役の神曲楽士から教授してやろうと言われれば、即行立てに首を振るのだろう。
 しかし僕にとっては屈辱的でしかない。
 いま目の前に居るライカという女性よりも、僕が神曲楽士としての能力が劣っているという事実が認められない。
 だから、僕はこう言う。

「断る。僕は、僕の力のみで天才ダンティストになるのだからな」
「…では、なぜトルバス神曲学院に通っているのだ? 矛盾していないか?」
「親元から離れるには、一番都合がよかったんだよ…」
「…なるほどな……」

 もう、富豪のお坊っちゃん育ちは御免だ。
 僕は、僕の実力で天才神曲楽士になる。

「では、気が向いたら私に連絡してくれ。おまえの連絡、待っているぞ」
「気が向いたらな」

 一枚の厚みある小さな紙を手渡された。
 名詞なのだろうか?
 その紙には名前と電話番号くらいしか書いていなかった。

「少年、また会おうじゃないか」
「ああ」

 ライカは大きな単身楽団のケースを背負い、公園の駐車場に止めてあった赤色のスポーツカーに乗る。
 オレンジ色の光が闇に包まれる時間帯、赤色のスポーツカーは映えた色合いから闇に溶ける迷彩色と変わっていた。
 ライカの乗った闇に紛れ込む赤色のスポーツカーは、交通量の多いトルバスの繁華街へと溶け込んだ。

「連絡…か……今の僕を考え直す必要がありそうだ…」

 ライカ、色々と謎のある女性であった。
 僕はライカから先程貰った一枚の厚みある紙を街路灯の明かりに照らし、見詰め続ける…
 自分の努力だけでは、やはり限界があるのだろうか?

『やめて。耳が腐るわ』

 今日、学院で銀髪の少女プリネシカに言われた言葉を思い出す。
 何年もの間、独学で見に付けた神曲を否定された瞬間だ。
 あの時は流石に気が狂い、物凄い高値の単身楽団を地面に叩き付けてしまった。
 勢い余ってやってしまった事といえ、単身楽団の弁償をしなければならない事を考えると気が重くなってしまう。

「そうだ忘れよう」

 忘れた。
 え、僕が単身楽団を地面に叩き付けて壊した?
 まさか、天才であるこのボクがそんな楽器を粗末に扱うなんて事があると思うかい?
 ありえないだろう。

『偶然防音室の中で演奏していない神曲を耳にした。いい技術を持っているじゃないか…』

 先程、ライカから言われた言葉を思い出す。
 お坊っちゃん育ちのこの僕が唯一、独学で身に付けた演奏の技術を褒められたんだ。
 純粋に嬉しかった…
 もう少し、頑張ってみよう…

「ん? なんだこれは…」

 ふと見詰め続けていたライカから貰った名刺らしき紙に違和感を覚えた。

「開くぞ……」

 一枚の厚い紙は封筒みたく開いた。
 中には小さく折りたたまれた薄い紙が入っていた。

「これは…楽譜か?」

 見慣れた五本線に黒い玉がいくつも並んでいる。
 間違いなく楽譜だ。

「何の曲なんだろうな…帰ったら弾いてみるか」

 その名詞のようなものに入っていた楽譜には、題名が書いていなかった。
 なんにしてもあのライカからの志しといったものなのだろう。
 何の曲なのか純粋に気になり、早く楽譜に書いてある曲を弾いてみたくなった。
 早く弾いてみたいという気持ちが胸を焦がし、僕は早々と帰宅路を駆けた。