超越神力、それは、ヒナヤーナ、マハーヤーナ、タントラヤーナ、ヴァジラヤーナそして、
テーラヴァーダの実践により、すべての魂が身につけることのできる最高の力である。
これ以外の方法により身につけられた超越神力は、必ず欠陥があるのだ。
ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。愚者は例えばここでオレンジを一個買う。それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。次の日も二個 三個四個と買って飽きるまで食べる。
そしてオレンジに飽きる。もはやおいしくはない。次はリンゴにしよう。彼はリンゴを食べる。飽きるまで食べる。 次はバナナだ。バナナで同じことを繰り返す。
ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。その人は、オレンジに飽きたとき「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。そして「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけどひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っという考えに至るだろうね。
そしてリンゴに挑戦するとき、「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら心の変化を理解していく。そうするとねオレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから次のバナナまでいかない。いく必要がないんだ。
オレンジやリンゴがね車に変わっても同じだね。例えばブルーバード例えばスカイライン例えばシビック。初めにブルーバードに乗っていてね飽きてスカイラインにする。次はシビックにしてみる。これとオレンジ、リンゴバナナのプロセスは全く同じだ。
異性について考えても同じだよ。A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセスこれも全く同じだ。私達はだからもしオレンジで心の動きを理解したならば車に対しても異性に対しても惑わされることはないだろう。その時自ずと悟りが訪れます。
急に悟りなんて言葉がでてきてびっくりしたかな。オレンジや車と悟りがなにやらつり合わないような気がするかもしれない。しかし悟りとは心の動きあるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、客観的に見て理解できる状態のことなんだ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。
ご存知のように日本語と中国語は文法的にかなりかけ離れています。言葉の生まれる背景である文化も大きく異なっています。発想が全く違うという表現がたくさんあります。
例えば、
「想吃什么就点什么。」
という文、直訳すれば、
「何かを食べたければとりもなおさず何かを注文して。」
となりますが、こんな日本語では何を言いたいのかさっぱりわかりません。
ですから、
「食べたいものをどんどん頼んで。」
などと日本語らしく訳されるわけです。
しかし、
「食べたいものをどんどん頼んで。」
から
「想吃什么就点什么。」
を導き出すのは至難の業です。
発想も文法も全く違うからです。
“どんどん”はどう言えばいいんだろう?
などと日本語の表現にとらわれてしまったら、どうなるでしょう。
「把你想吃的东西尽管点吧。」
と直訳して、ぺらっと例文帳をめくると、
「想吃什么就点什么。」
が出てきたらイラっとしませんか?
やる気がうせますよね。おとり捜査に引っ掛かった気分です。
決して、
「想吃什么就点什么。」
という表現を知らなかったわけではないのに思い出せなかった。
これは日本語に攪乱されてしまった結果です。
ですから、例文帳は作ってはいけないのです。
テキストによっては、非常にこなれた日本語訳が付いているものがあります。そんなものをまる写しして例文帳を作ったら、日本語の表現に攪乱されまくって、めくるたびにイライラするはめになります。