『石燕町長めのスク・くだんのふだん』

Last-modified: 2011-07-23 (土) 21:17:06

■石燕町長めのスク・くだんのふだん■

 「くだん、このプリント回して貰える?」

  斜陽差し込む夕暮れの教室。
  恩明学園三年で、風紀委員にして学級委員長を務める木々津陽子は己が製作したプリントをクラスに配っていた。
  彼女は列の先頭の席に座る生徒に、順々にプリントを渡し、後ろの席へ回すように促していく。
  最終列…窓際の先頭の席の件にも、それが手渡された。
  件はこくんと頷くとそれを受け取り、一枚だけ自分の机の上に置くと、後ろの席の男子生徒に手渡した。

「………」「………」

  しかし、後ろの席の男子生徒は、視線を窓の外に逸らし、それを受け取らない。
  件は虚ろに濁った瞳で彼をじっとみつめた。
  ところどころ刎ねた黒く艶のある長い髪。少し面長で鋭い狐目で目つきは少し悪いが、端正な顔立ちをしている。
  プリントに気付いていないのかと件は思ったが、瞳孔がちらちらとこちらを伺うように向いているのがわかった。
  気付いていない訳ではないらしい。

「………」
「………チッ」

  後ろの席の男子は嫌悪を露に擦るように舌打ちしした。
  件はそのまま彼をみつめ続けた。
  彼の後ろの生徒達が、訝しげに首を長くしてその様子を窺っている。

「…プリント、回して貰える?」
「…くそっ。話かけんなよっ」

  彼は、小さく履き捨てると、プリントを手の甲で弾き飛ばした。
  プリントが宙を舞い、ひらりひらりと墜ちていく。
  教室中の空気が静まり、視線が二人の間に集まった。
  木の葉の様に舞い散るプリントが地面に落ちきるまでの間を沈黙が支配する。

「ちょっと、飯綱、あんたねっっ…!」

  口火をきったのは、木々津陽子だった。
  プリントの内容に関する注意事項を述べる為に教壇の上にいた彼女はづかづかと足音を立てて、
  件を拒絶した男子生徒、飯綱――飯綱恭介の前に立ちはだかった。

「なんだよ。どうせ俺はそんなもん見ねえし、いらねえ。いちいち回してくるんじゃねえ!」

  飯綱は激昂する。陽子は飯綱の胸倉をつかみあげた。
  彼は驚いて一瞬、びくっ、と身を引いたが、視線を反らしたまま動かなかった。

「あんたが読むかどうかなんてどうでもいい。他のみんなには必要なの。早く拾いなさいよ」
「うっせえ。どうせ誰も読まずにゴミ箱に入れる紙くずなんだよこんなもん」
「…いいわ。それもあながち間違ってないだろうし。でもね、くだんには謝りなさいよ」
「………」

  飯綱恭介は、視線を反らしたまま黙り込んだ。
  木々津陽子は彼の掴んだ胸倉をぐいっと動かして、無理矢理にその身体を件のほうへと向けた。

「さあ、早くっ!」
 
  飯綱恭介の黒い瞳を、件の濁った目が見つめる。
  彼は畏怖するように震え、瞳を閉じた。

「飯綱?」

  木々津陽子は訝しげに彼の青い顔を覗き込む。

「くそッ!」
「きゃっ!!」
 
  飯綱恭介はどろん、とその姿を小さな管狐の姿に変えると、窓から飛び降りて教室から姿を消した。  

  
  くだんの通う恩明学園と、彼女の住んでいる神社の通学路間には、小豆洗いが経営する駄菓子屋がある。
  彼女は日が堕るより前に、そこを通りかかった。
  駄菓子屋の中や外を子供たちはいったりきたりして元気にはしゃいでいた。
  その中の影の一つが、彼女の姿を見つけ、駆け寄ってきた。
  齢は十二歳くらいといったところで、子供独特の愛嬌と、どこか奥深い不可思議な雰囲気を持つ少年だった。
  彼女の目の前で立ち止まると、その足から頭まで――セーラー服を見て、口を開いた。

「最近はどう?くだん」

  彼女に語りかけたのは、庚龍といい、その姿こそ少年だが、この石燕町と恩明町の守護者であり、
 真の姿は黄金の龍である。

「何も変わりはない」

  件は無表情に無機質な声で返した。
  庚龍はそのあまりにも彼女らしい答えに、少し笑った。

「そうじゃないよ。学校のこと」

  件は頷いた。

「学校なら慣れてきた」
「良かった。勉強の方はどう?」
「知識はずっと件から受け継いでるから凡そわかる。でも日本史の教科書は間違いが多い」

  庚龍は苦笑いした。

「教科書を作った人たちは見てきたわけじゃないから、そこはお手柔らかに。
 友達はできた?」
「うん。みんなとても優しい。でも…」
「でも?」

  庚龍は眉を少しあげた。

「件のことを避ける者がいる。嫌われているらしい」
「…どうしてだろう。くだん、君はその人に何かしたの?」

  件は首を横に振った。

「してない。その者とはあまり接した記憶がない。でも、恩明学園に通い始めた時から、ずっと避けられていたように見える」
「…どうしてだろ…」

  庚龍は腕を組んで考え始めた。
  その動作は妙に落ち着いていて、その子供の容姿には不釣合いに大人びて見えた。
  件は、少し飯綱恭介について思い浮かべた。
  あの、畏怖するような彼の黒い瞳。

「…嫌われているというより、恐れているようにも見える」
「…ふむ。ちなみに、その子、名前は?」
「飯綱恭介という。管狐の家系の」
「ああっ彼か」

  庚龍はその名前を聞いてすぐに手を打った。
  彼はそれだけで謎が解けたらしかった。
  そして少し唸ると、方眉を上げて少し訝しげにして、尋ねる。

「…もしかして、件は自分の事を彼に…というより、みんなに話した?」
「うん」
「そうか」

  庚龍は、自分の考えに年を押すように、何度か頷いた。

「…その子は件の事が嫌いなんじゃなくて、本当は大好きなんだ」

  件は庚龍の言葉に驚いて、瞼を少し吊り上げた。
  彼女は記憶の中の彼の挙動を総て蘇らせて見る。
  そして、やはり庚龍の言葉に納得がいかなかったらしく、首を横に振った。

「そうは思えない」
「…人は――彼の場合は妖なんだけど――みんな、別れを惜しむ生き物なのさ」

  件は首をかしげる。

「別れを惜しむ?」
「…そう。君は一年の終わりに予言を行って三日後、死ぬ。その別れが辛いんだよ」
「件は死ぬというより身が朽ちるだけ。それに件はまた件になる。そこに惜しむ命はない」

  その淡々とした言い方に、庚龍は困ったように頭をかいた。

「でも、今のくだんは、次のくだんとも、前のくだんとも違うくだんだろう?」

  件は頷いた。

「そう。くだんはくだん。でも、前のくだんも、次のくだんも、違うくだん。でも、くだんはくだん」

  庚龍は、儚げに視線を伏せた。

「…僕は、いつも悲しいよ、くだんとの別れが。僕は好きだよ。前のくだんも、前の前のくだんも、
 前の前の前のくだんも。もちろん今の君もね。そして…きっと、次のくだんのことも」

  件は降注ぐ斜陽を眩しそうにして、瞼を伏せた。

「そう…ごめんなさい、庚龍」
「謝る事はない。くだんにもきっとわかる日がくる。きっとその日こそが、本当に君が生まれ変わる日なんだよ」

  件は少し困惑したような表情で、押し黙った。
  そして、自分より背が低い庚龍を上目遣いに見て言った。

「……庚龍の言う事は、くだんには難しい」
「…そうかもね。今は…それでもいいよ」

  庚龍は、斜陽を背負って微笑んだ。

「うあーん…」

  その時、鳴き声がして庚龍は駄菓子屋方を振り返った。
  視線の先には、小さな――五、六歳くらいの男の子が、転んで泣いていた。
  周囲の子供たちは慰めているが、泣き止まない男の子に困惑している風だった。
  庚龍は駄菓子屋の前まで、たたた、と駆け戻ると、その男の子を抱き起こす。

「大丈夫、大丈夫だよ。ほら、見て」

  男の子は、庚龍に言われて、少し泣き止むと彼の手をみた。
  そこには駄菓子屋で売っているキャンディーの包まれた袋が入っていた。
  庚龍は、男の子――というより、皆の視線が飴玉に向いている隙に、そう、まるで手品師がするように
 自然な仕草で膝の擦り傷にそっと手を置いた。
  斜陽に包まれてよく見えないが、淡い緑色の光が少し、掌から漏れる。
  男の子は飴玉をとり、包み紙を取るのに懸命になっている間に彼は傷口から手を離した。
  傷口は綺麗に消えていた。
  件はそれを興味深そうに、じっと見つめていた。

「………」「…………」

  次の日、二人は背中を挟んで、沈黙を守っていた。
  件はいつも通りではあったが、片膝を曲げて壁に背をもたれさせて窓の外を見る飯綱恭介の黒い瞳は、
 バツが悪そうに泳ぎ、ちら、ちら、と間を置いて件の首筋に視線を投げていた。
  
「あ――」

  木々津陽子は友人達と雑談しながら、その二人の様を見ると、その輪から抜け、件の方へと歩み寄った。
  飯綱は、あからさまに嫌そうな顔をした。

「くだん、おはよう」
「おはよう、木々津陽子」
「で、さあ、くだん――」

  木々津陽子は顔を件に向けたまま、視線を飯綱恭介に向けて、わざとらしく言った。
  
「こいつ、ちゃんとくだんに謝った?」

  飯綱は大きな音をたてて舌打ちした。
  
「謝っていない」

  件が言うと、木々津陽子は飯綱恭介の方に身体を向けて、見下ろした。

「やっぱり。あんたね、そのくらいも出来ないの?」
「いちいちうるせーよ! お前はお局様か!」

  ついには飯綱恭介も身を乗り出して叫ぶ。

「昨日の事だけなら…そうね、お局様も百歩譲って、無かったかのように振舞ってあげる。
 でもね、あんたはずっとくだんにそういう態度とってるでしょう。
 いい加減にしなさいよ。あんたくだんに何か恨みでもあんの?」

  飯綱恭介は眉を怒らせながらも、視線を反らして少し口をつぐんだ。

「理由があるならあるで、言い辛いなら無理には聞かない。
 私も口を挟んで悪かったって思うし、自分の行為が愚かだったと恥じるわ。あんたに謝る。
 で、何なの。何かあるの?」
「………なんにも、ねえよ」
「あんたねっ、好きな子に辛く当るような真似、ガキじゃあるまいし、みっともないのよ……!」

  木々津陽子の言葉に、飯綱恭介は椅子からずり落ち、教室中の視線が集まる。
  
「てめ、あほな事…!」

  うろたえて口をぱくぱくさせる飯綱恭介に――

  くだんが、追い討ちをかけた。

「…庚龍が言ってた」

  ぼそぼそと呟くような件の声に、教室中の意識が集中する。

「飯綱恭介は、くだんの事が大好きで、別れるのが辛い、って」
「………」

  その衝撃的な告白に、教室中の誰もが、ずっこけそうになった。
  特に立っていた木々津陽子は、膝が笑って落ちそうなのを必死に堪えなければならなかった。
  飯綱恭介は、半ばずり落ちたまま件を見あげた。
  二人の視線が交わる。
  死人のように灰に濁った目。
  彼の端正な顔はみるみるうちに崩れ、その黒い瞳からは涙が溢れた。
  泣き顔を隠すように両手で前髪を掴んで、さめざめと泣き始めた。

「俺…だめなんだよ…ちぃ子が死んでから、こういうの…だめなんだよぉ…」

  そして、何度も、ちぃこ、ちぃこ、と繰り返した。
  彼の涙に誘われ、教室内の所々で涙を引かれて泣き始めるものがいた。

「…ごめん、飯綱。私がおせっかいだったみたいだ…」

  木々津陽子は己を戒めるように唇を噛んだ。
  件はしばらく泣いている飯綱恭介を見ていると、立ち上がった。

「…くだん?」

  件は木々津陽子を押しのけると、飯綱恭介を抱き起こした。
  飯綱恭介は驚き、涙の留まらない目を見開いて件を見上げる。

「大丈夫、大丈夫。ほら、見て」

  件はポケットから2センチ四方程度の小さなチョコレートの包まれた袋を取り出した。
  チョコを見て呆然としている飯綱恭介の頭を、件はそっと優しく胸に抱き、ゆっくり撫ぜた。
  飯綱恭介は差し出されたチョコを、握りつぶす程に力強く握ると、件のたいらな胸にしがみついて、
 大声をあげて泣き始めた。
  その二人の姿は、さらに貰い泣きをさらに誘発させ、教室中が涙に包まれた。

  …だが、この話にはオチが付いた。
  話をよくよく聞いてみると、飯綱恭介の言うちぃ子というのは彼が昔飼って可愛がっていた鶏で、
 しかも立派な鶏冠を持つ雄鶏だったという。
  確かに、ペットとの別れは哀しいものだが、柄も悪く良い噂のない彼が、鶏を飼っていて、
 しかも雄鶏で名前がちぃ子という?ギャップに、教室内には笑いの嵐が吹き込み、涙の雨をどこかに散らしてしまった。
「ちぃ子はいつも俺の後をてこてこついてきて、可愛かったんだっ!」
  という彼の力説に、笑いの神が彼にVIP賞を授けたのはいわずもがなである。
  しかし、彼が件の事を避けていたのには、彼がその見た目に反して涙もろい以上の理由があった。
  彼はその“ちぃこ”が死んだ後、その死が受け入れられずに、臭い始めて彼の母が処分するまでの数日間、
 ずっと傍においてみつめていたという。
  彼には、件のその灰色ににごった瞳が、どうしても愛しいちぃ子を想起させて仕方がなかったのである。
  ……この話にはさらにオチが付く。
  この一件(いっけん)は、尾ひれがついて学校中に行き渡り、『飯綱恭介にチョコを渡すと感激のあまり泣く』と
 噂になった。
  その為に彼はバレンタインをまだ何日も先に控えているというのに、学校中の好奇心旺盛な女子から(時には男子からも)
 チョコを渡され、
「んなわけあるか!」
  と叫んだ。
  ………さらなるオチとして、彼は面白半分に渡され溜まった大量のチョコを律儀にも完食しようとして腹を壊し、
 その身につまされる笑い話は悲しきかな、己の株をあげた。

「そっか、そんな事があったんだね」

  庚龍は言った。

「うん」

  件は頷いた。
  その日は日曜日で、庚龍は件の住む神社に来ていた。
  庚龍は既にその出来事を耳にしていて、あえて本人の口から聞きにきたのだった。
  彼女は先日とは違って巫女服姿で境内を箒で掃いている最中だった。

「………」

  少し二人は沈黙を置いた。

「庚龍」

  先に口を開いたのは、件だった。

「なに?」
「少し、わかった気がする」
「…ほう?」

  庚龍は、興味深そうに、相槌を打った。

「別れについて」
「そっか。どう理解した?」
「まだ、理解はできない。ほんの少しだけ」
「うん」
  
  少しの間、件は黙った。
  庚龍は何も言わず、言葉を待った。

「私は、庚龍が私の前からいなくなってしまったら、“哀しい”」

  庚龍は、彼女の一人称に驚いた。
  
「………うん」

  彼は、満面の笑みも以って、頷いた。

  庚龍が、件を学校に通わせたのは、ただの気まぐれではなかった。
  彼は何代か前の件が生まれた時、ある事に気がついた。
  件の存在感が薄れてきている。
  他の誰にも気付き得ない、ほんの些細な事だった。
  最初は彼にも原因がわからなかったが、前の件が死ぬ辺りに悟った。
  
 誰も、件を必要としなくなっているのだ。

  いつ何が起き、危機に瀕するか、先行きの見えない時代、災害や災難を避ける為に彼女の予言は必須だった。
  だから誰もが彼女を望み、“存在”させていた。
  平和が訪れ、誰も予言を必要としなくなった。
  それはつまり、彼女自身が必要ないという事と同じ意味だった。
  庚龍は悩みに悩んだが、結局、彼女を学校に通わせる事にした。
  彼女の存在を学生たちに友人として必要とさせるために。
  だからこそ、今回の話を聞いて彼は思惑が上手くいったと見て少しほっとしたが、ある事に気がつく。

 我々も、同じ穴のムジナだ。

  妖怪は人の想い(広義において)において生まれ、存在している。
  日本中の妖怪がここに集い始めたのは、人間が妖怪の存在を必要としなくなり、己が消えゆくのを防ぐ為に、
 互いに想い合い、その存在を世に繋ぎとめようとしたからではないのか。
  現にあちこちではいつのまにかその存在を失った妖怪達も数多くいると聞く。
  もしやすれば、いずれはこの町も―――

  と、そこまで考えて、庚龍は頭を振った。
  私は、人間を信じる。
  姿形は違えど、友として、家族として必要とし続けてくれると。
  だから暗い考えはよして、いまは今回のくだんの件について、素直に喜ぶ事にした。

おしまい

飯綱恭介は差し出されたチョコを、握りつぶす程に力強く握ると、件のたいらな胸にしがみついて、

件のたいらな胸にしがみついて、

件のたいらな胸
件「おまえはもうすでにしんでるむしろさっさとしね」
俺「ギャー」