不登校問題の根底には年齢別教育が存在する

Last-modified: 2007-06-14 (木) 03:45:07

そもそも不登校とは?

近年、不登校という言葉をよく聞くようになった。新聞などでは、不登校が13万人を超えたなどと大騒ぎしており、教育問題に疎い人でも不登校という単語を目にしたことはあるだろう。だが、この用語は非常にあいまいな意味で使われているのだ。本題に入る前に、まずは不登校という言葉の定義から説明を始めなければならない。辞書を見れば、不登校とは学校に行っていない状態のことだと書いてあり、これは多くの人にとっては言うまでもないことである。しかし、政府発表やマスコミでは、辞書通りの意味でこの語を使用している例はわずかで、かなり限定された意味で用いる場合が多いのである。現状のような用法では、議論の上で混乱を招き、既存の考え方から脱却することが難しくなるので、ここで改めて正しい定義を示しておきたい。

現状について説明すると、文部科学省は1991年から「児童生徒が病気や経済的な理由ではなく年間30日以上学校を欠席すること」を不登校と呼んで統計しており、新聞などのマスコミもそれに倣って、ほぼ同じ意味でこの語を用いている。この用語の問題点は、「学籍がある長期欠席者」しか指していないという点である。辞書的な意味の不登校のほんの一部分が、政府やマスコミのいう「不登校」にあたるに過ぎないのだ。例えば、学齢期(6歳から15歳)の在日外国人(日本国籍も持つ者を除く)は、義務教育の対象ではないため、小中学校に通わない例も多い。しかし、彼らは学籍がないのでこの「不登校」には計上されない。また、日本人であっても学齢を過ぎたりして学籍がなくなると、やはりこの「不登校」には当てはまらなくなってしまう。

なお、「不登校」という用語が広く用いられる以前は、「学校嫌い」や「学校恐怖症」といった用語が使われていた時期があり、その次に「登校拒否」という呼び方が広く使われていた時期があった。しかしそういった用語に対し、さまざまな批判があったため、プレーンな不登校という用語に切り替えたという経緯があるようだ。しかし、以前の「登校拒否」という用語の意味する対象をそのまま引き継いで、呼び方を「不登校」という用語に代えただけであるため、意味の異なる用語でほぼ同じ対象を指すことになってしまい、かなり分かりにくくなっている。

不登校という言葉は、病気や怪我による欠席、貧困や虐待による欠席、児童の登校意欲がないことによる欠席、非行による欠席、学籍がない人の不出席など、さまざまな場合を表す。しかし、欠席の原因を区分して、とりあえず物理的な事情のないケースだけを議論したいという要求から、言葉遊びに似た狭義の用法で「不登校」という用語が広く使用されているようだ。広い意味の言葉で、特定の狭い意味のことを表そうとしているために軋轢が生まれる。

本質的な問題は、学籍があるかないかではなく、学齢期かどうかでもない。本人が学校に行きたいかどうかである。そうすると、理由いかんにかかわらず「不登校」という用語を使用して論ずるのが適切だろう。政府やマスコミの用法に従うと、議論の視野が狭くなってしまう。

そういったわけで、この記事では、辞書通りの意味で不登校という言葉を使う。そのうち、学籍のある者の不登校には長期欠席という言葉を使う。また、長期欠席のうち病気や怪我などではなく、本人の自由意志による欠席には登校拒否という用語を使う。なお政府とマスコミの言う「不登校」の定義は、この登校拒否が相当する。

例えば20歳でどこの学校にも所属していない人は、「不登校であるが長期欠席ではない」。従来は、この場合は不登校という言葉で語られてこなかった。しかし生涯学習時代の今、単に年齢や学籍だけで就学の必要性を論ずることは避けるべきである。

児童生徒が自主的に欠席していて、復学を望んでいないというだけならば、問題はないのである。しかし現実には、復学を望んでいる児童生徒も多いし、それ以外の人にも入学を望んでいる人も多い。現実には大きな問題があり、復学を阻んでいるのだ。

年齢別教育の問題点

筆者は書店で教育書を見るついでに不登校問題について扱っている書籍を立ち読みすることもあるのだが、その種の本を見てきて思うのは、ほとんどの書籍では重要な部分が欠けているということである。学校復帰について書いている書籍は多いが、復学時の学年をどうするかについて述べられている本は、今までお目にかかったことがない。いずれの本も、淡々と復学する説明のみで、「どの学年に復学するか」については全く考えられてないようで、なかなか奇妙な違和感があった。

復学を主題にした本は、この点において似たり寄ったりである。例えば、小学5年生のときから長期欠席し、2年後に復学したと書いてある本があったとしよう。さて、この人は何学校の何学年に復学したのであろうか?実は中学校の1年に復学したのである。2年の間に自動的に進級と進学をしていたのだ。普通、復学といえば同じ学校に戻ることをさす。しかしこの例では学年も学校種も変わっているのである。なぜ、彼は同じ学年に戻れなかったのであろうか?

これこそが年齢別教育の問題点である。日本の小中学校においては「同じ学年は同じ年齢」という硬直的な慣例が蔓延しており、これが不登校児の復学を困難なものとしている。この「同じ学年には同じ年齢の人だけを所属させる」という考え方を年齢主義と呼ぶ。本人側から希望すれば留年できる場合もあるが、必ずしも可能なわけではない。特に小学校では、1990年代に留年希望にもかかわらず校長判断で進級させられ、裁判になったものの家庭側が敗訴したという例すらある。

この年齢問題については、ほとんどの不登校関連書籍には載っていない。おそらくどの書籍も、その年齢で入れる最高学年(「年齢相当学年」などという人もいる)へ復学することを前提として書いているのであろう。教育学の書籍全体まで対象を広げてみても、この問題について扱っている本はほとんど見当たらない。そういう本しか見つからないため、筆者はあまり不登校関係の本を買う気になれない。教育書を中身を見ずにネットで買うことは多いが、不登校問題の本は買うと毎回がっかりする。なので最近は立ち読みをして少しでも読む価値がありそうなものだけを買うようにしている(ほとんどないが)。

なお、長期欠席が始まる原因にはさまざまなものがあり、必ずしも年齢主義は主要な原因ではない。しかし、1年、2年と休んだあとで復学しにくくなる原因には、この年齢主義が間違いなく関わっている。要するに、学校に通っている間は弊害に気づきにくいが、一度学校を長く離れると牙をむく「制度」なのである。

常識的に考えれば、2年間学校を休んでいたのに、自動的に2年分進級した学年に進むのはおかしい。学校外で学習をしていたりする場合はともかく、そうでない場合まで一律に押し上げてしまうのは不合理であろう。漫画週刊誌を1週分買い忘れたら、ストーリーがよくわからないまま読むことになるのと同じである。

復学拒否にあう青年たち

強制的に上の学年に飛び級させられてしまうだけならまだよい。問題は、学齢期を過ぎた場合である。将来的にも小中学校への復学の意思がない場合や、高校などへ進学することが確定しているような場合は別だが、学校復帰をすべきかどうか迷っている段階で学齢期が終わってしまったような場合には、大きなハードルが立ちふさがる。

長期欠席生徒の家に、担任が訪問することはよくあるようだ。それが望ましいことだとされているのだろうし、悪いことばかりではない。生徒が会うのがいやなら会わなければいいだけの話である。おそらく担任は「復学してほしい」という考えの下に訪問しているが、いったん学齢を過ぎてしまうと教員が来なくなるどころか、本人が復学を希望しても難色を示されてしまうのである。

多くの教育委員会では、16歳以上の人が中学校に入学したいといってきても、拒否する場合が多いのである。無論法律上は問題ないし、かなり昔には「収容能力などに問題なければ受け入れてよい」という通達も出ている。しかし現在、学齢超過者を積極的に受け入れている一般の中学校はほぼゼロである。ごく一部の地域にある夜間中学校などは例外だが、あらゆる面で「日常的な」学校ではなく、それまでの生活環境から断絶しなければ通えない。

14歳のときに「学校に戻って来い」といわれた人が、16歳になったら「復学はできません」といわれるわけである。学校に行くべきかどうかについて、なぜ年齢が少し違うだけでこうも正反対の対応になるのだろうか?
人間は工業生産品ではないので、同じ年齢だからといって同じことを要求するには無理がある。

学齢を超えた人たちがスムーズに入学できるのは高校である。そういった事情を反映して、サポート校などの業者が繁栄し、高校こそがその生徒にとって発展の場というイメージが強まっている。逆に言えば、中学校の卒業までは学年進行に追いかけられていた日々だった不登校者が、ようやく学齢期を追えて一息つけるということだろうか。

学年と年齢を切り離せ

児童生徒側が「同じ年齢の人と学びたい」と強く思うのであれば自動進級制は無害だろう。だが学校を学びの場と考える人にとって、「ところてん式進級」で追い出されるというのはどんな気持ちであろうか。

長期欠席者が復学したいというときは、どの学校のどの学年に戻りたいか、十分に希望を聞き、体験入級なども踏まえて実施すべきである。それができないのでは教員はいなくてもよい。

諸外国においては、同じ学年に異年齢の生徒がいるのが当然であり、日本の同年齢教育の話を聞くと驚く人が多いようである。アメリカは人種や移民の複雑な問題があるので、例外的に年齢主義に近いが、それでも完全に同年齢ではない。

明治時代はじめの日本も、かなり進級基準が厳しく、同じ学年に何歳も異なる生徒がいるのが普通であった。当時はまだ教員数が足りなかったことや、軍国化の波で徴兵制の関連から昭和にかけて次第に同年齢化していくが、現状の少子化の日本では、教員数も十分であるし、異年齢教育でも問題はないはずである。

不登校生徒の増加は学校制度への警鐘である。これを受け止め、学年と年齢を切り離して、在学年齢の自由化を果たすべきである。これが実行されれば、多くの教育問題が解決する。

他の問題点

教育書は応用が充実、基礎は無し

第二の問題として、教育情報の不足が挙げられる。実は日本では基礎的な教育情報を得ることがはなはだ困難なのである。疑うなら、書店に行って探してみればよい。初心者向けの解説書がないのである。

園芸、釣り、ゴルフなど、さまざまな趣味について基礎から分かる本が出ているのに、学校についてはそういった本がないようだ。これは不登校者だけの問題ではない。登校者でも、伝聞でしか教育制度の情報を得られず、自主的にマイナーな路線に進みにくいという結果を生む。

世に教育書は数多いが、いずれも教育問題や教育技術などの応用的分野のみ充実しており、学校制度を一から学ぶための書物が欠けている状態である。日本人の就学率が高いため、学校制度を空気のようなものだと感じる人が多いためであろうか。

こういった情報環境では、学校の仕組みについて知ろうとしても困難である。世の中にどのような学校があって、どのように社会と繋がっているのかがわからない限り、学校社会に戻ろうとする気になれないのは当然である。

学校の魅力の低下

第三の問題として、学校の魅力の低下が上げられる。そもそも、いじめなどの理由がなく、学校へ行く意欲がないというのはなぜだろう。家の方が役に立つ場合もあるが、要するに、学校に魅力がないからである。学校へ行っても役に立つ情報が得られない。

確かに学校での情報は少ない。日常生活に役立つ教育が明らかに不足している。学習指導要領は数度の改訂で簡略化され、塾の方がはるかに高度な内容を教えるようになった。すると「浮きこぼれ」といわれる現象が発生し、学校の授業はすでに知っていることを改めて聞くに過ぎなくなる。

まず日本の教科書は薄い。諸外国のように、辞典のような教科書を採用し、読書に耐えるものにすべきだ。アメリカの学校の教科書は非常に分厚く、学校に置いたままにすることが多い。そして個人所有ではない。日本の教科書流通のしくみでは同様な方式はなかなか導入できないであろうが、参考書を充実するという形で対応すべきだ。

そもそも、教育内容を簡素化すればゆとりが生まれると考えてはならない。辞書を引く際に、厚い辞書の方がわかりやすいのと同じで、情報量は多いほど理解は進む。