安土城

Last-modified: 2018-07-02 (月) 23:35:12
#include(): No such page: 城娘項目
#include(): No such page: 城娘ステータス注釈
安土城(あづちじょう)
E5AE89E59C9FE59F8E532E706E67.png&ref(): File not found: "安土城.png" at page "画像で一覧RE";図鑑No.179
レア7
城属性&ref(): File not found: "平山水.png" at page "画像置場";
令制国近江
武器属性法術?
最大レベル120
実装日2016年11月29日
合戦
初期配置/最大値巨大化5回/最大値
消費気12消費気*1140
耐久1120/2214耐久2016/3985
攻撃61/256攻撃109/460
防御40/170防御74/314
範囲240/240範囲408/408
回復10/34回復15/51
特技?
[無印] / 第六天魔王自身の攻撃が30%上昇。範囲内の敵の防御が
20%低下
[改壱] / 第六天魔王波旬自身の攻撃が35%上昇。範囲内の敵の防御が
25%低下、被ダメージが20%上昇
計略?
[無印] / 夢幻の如くなり
(使用まで90秒:消費気15)
武器攻撃が攻撃対象の周囲の敵にもダメージを与
える(自分のみが対象)
[改壱] / 滅せぬもののあるべきか
(使用まで90秒:消費気15)
法術の移動速度低下効果が上昇、武器攻撃が攻撃
対象の周辺の敵にもダメージを与える(自分のみ)
図鑑文章
何? まさか我のことを知らぬとでも
言うつもりか? まあ良い。己を語るも一興よ。

安土城とは、日の本において初めて天守を
構えた城であり、三英傑が一人、織田信長の
天下取りの拠点となった場所でもある。

近代城郭の手本などと謳われているが、
過去に興味などはない。
汝と我は、これから天下という未来を見て
歩むのだからな。
築城05:00:00
神社招城儀式

#style(class=submenuheader){{
-城娘改築?
}}

#style(class=submenu){{

}}

#table_edit2(td_edit=edit,tr_edit=edit,table_mod=open,calc=1,form=text=|text=|select=_1_2_3_4_5_6_7_8|select=_3_4_5|select=_1_2_3_4_5_6_7_8_9_10_11_12_13_14_15_16_17_18_19_20|select=_34-5_45-5_57-5_42-6_55-6_70-6_48-7_63-7_80-7_56-8_73-8_93-8_63-9_82-9_104-9_71-10_93-10_118-10_76-11_100-11_127-11_84-12_110-12_140-12_91-13_119-13_151-13_98-14_128-14_163-14_105-15_138-15_175-15_113-16_148-16_188-16,){{
|>||>|>|>|>||>|>|>|>|>|>|>|>|>||c
| | |~レア|~巨大
化数
?
|>|>|~消費気?|>|>|>|>|~初期配置|>|>|>|>|~巨大化|h
|~|~|~|~|~基本?|~強化?|~合計|~耐久|~攻撃|~防御|~範囲|~回復|~耐久|~攻撃|~防御|~範囲|~回復|h
|>|BGCENTER:50|>|BGCENTER:30|>|>|CENTER:30|BGCENTER:60|BGCENTER:60|BGCENTER:60|>|BGCENTER:60|BGCENTER:60|BGCENTER:60|BGCENTER:60|>|BGCENTER:60|c
|>|無印|7|5|12|140-12|@cell_ra(0,1)+@cell_ra(0,2)|1120/2214|61/256|40/170|240/240|10/34|2016/3985|109/460|74/314|408/408|15/51|
|>|改壱|8|5|11|127-11|@cell_ra(0,1)+@cell_ra(0,2)|1197/2412|65/280|44/198|240/240|10/35|2154/4341|117/504|81/366|408/408|15/52|
}}

#style(class=submenuheader){{
-ステータス一覧(クリックで展開)
}}

#style(class=submenu){{
#include(安土城/ステータス,notitle)
}}

 

ゲーム上の性能・評価

  • 概要
    最高ランクのレア度の法術ユニット。平山/水属性という複合属性により適応力が高い。
    特に水属性としては初の高レア法術武器種で、中レア以上の選択肢が少ない水属性の法術として見ても貴重な戦力である。
    最大の特徴は法術らしからぬその戦闘能力。
    攻撃が非常に高い上に特技でさらに伸び、また特殊な計略を有するため、通常の法術ユニットとは運用が大きく異なる。
    通常の法術に求められているサポート的な役割のほか、積極的に敵を倒すアタッカーも担える。
    法術をベースにいくつもの武器種を複合、折衷させたような能力を持つ城娘だが、計略のCTが長く消費気も決して低いとは言えない。
    そのため、本領を発揮できるのは配置後ある程度時間が経ってからとなる。
      
  • 特技「第六天魔王」
    自身の攻撃30%上昇に加え、範囲内の敵の防御を20%低下させる。
    法術ユニットである自身は元から防御無視なので、一見すると防御デバフは必要性が低い。
    が、計略で敵を一カ所にまとめやすいことから、大砲や近接ユニットと組み合わせることで驚異的な殲滅力を発揮できる。
    特技を前提に運用するならば、この特性はしっかりと覚えておきたい。
    自身の計略との兼ね合いから浜松城?の計略とは相性があまりよくないのには注意。
     
  • 計略「夢幻の如くなり」
    対象が自身限定のバフで、通常の単体攻撃が敵に命中したときにワンテンポ遅れて周囲の敵にも攻撃判定が生じるという効果を付与する。
    この巻き込みにも鈍足効果は付与されており、複数の敵を同時に足止めすることができる。
    攻撃に大砲や槌のような範囲攻撃が発生するようになるといえばわかりやすいが、それらと比べると巻き込み範囲は狭く、密集した状態でないと範囲ヒットしない。
    とはいえ法術の鈍足効果によって敵同士の距離が詰まりやすいため、実際にそれが気になることは少ないだろう。
    他城娘の鈍足効果や足止め効果などで、後続との間隔を詰めたところに撃ち込んだりするとさらに効果が見込める。
    この効果に時間制限はなく、ウェーブをまたいでも消えることはない。
    ただし、指定対象が城娘のタイプの別の計略で上書きすると、効果が切れてしまう(特に、数を増やしつつある「指定範囲内の城娘が対象」の計略もこうなる)ので注意。
     
    難点は、あくまで「単体攻撃の追加効果」であること。
    つまり着弾前にターゲットが倒されても範囲ダメージが発生する大砲と異なり、ターゲットが居なくなって単体攻撃が空振りした場合は何も巻き込まない
    また、最初の発動までが90秒ととても長く、消費15と高コストなため、気力のやりくりが厳しいマップでは配置や計略発動のタイミングに注意が必要である。
    ちなみに発動までが長い都合上、計略初回発動時間短縮の施設の効果もまた大きい。
     
    安土城を編成に投入する場合、基本的にはこの計略の発動が前提となる。
    強力だが癖の強い計略であるため、必要な時に発動できなかったり、うっかり消してしまったということがないようにしたい。
    なお、遠隔城娘にとって攻撃を誘導される竹束式トッパイ形兜は厄介な存在であるが、安土城の場合は範囲攻撃によって周りの敵ごと倒したりする。
     
  • 改築
    ステータスアップはもちろんのこと、ネックのひとつだったコスト面が改善され、特技発動までが早くなった。
    また、特技と計略にもそれぞれ強力な効果が追加された。
    ☆7改築の難易度が高いのは言うまでもないが、使い勝手が良くなるのでぜひ狙いたいところである。
      
    • 特技「第六天魔王波旬」
      改築により特技が変化し、攻撃バフが35%、防御デバフが25%と一回り大きくなったことに加えて、範囲内の敵が受けるダメージが20%上昇する効果が追加された。
      被ダメージ上昇は自身にも恩恵のある効果であり、特技全体では改築前と比べると24.6%ものダメージ上昇率となる。(敵の被ダメージ上昇のデバフについては新田金山城?を参照)
      相手を選ばずダメージを増加させられる強力な特技なので、なるべく発動まで持っていきたい。 
       
    • 計略「滅せぬもののあるべきか」
      改築により計略も強化され、丸岡城?大和郡山城?の特技のような命中時の鈍足効果上昇が追加されている。
      もちろん範囲攻撃の巻き込みにも適用されており、自身の攻撃範囲内にとどめる時間が増える(=手数が増える)ことで殲滅力がさらに上がっている。
      巻き込みの範囲自体に変化はないが、鈍足効果強化によって敵をまとめやすくなっている。
      単体の強力な敵を相手に、鉄砲などのノックバック効果との連携も期待できる。
       
  • 性能の変遷
    • 2017/04/11:計略が時間経過で解除されないように変更
  • 余談

    #style(class=submenuheader){{
    あづにゃん(クリックで表示)
    }}

    #style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
    第三回名城番付の会話パートにて丹波亀山城に「キミはあづにゃん―――とかって呼ばれてもイヤじゃないのか!?」との問いに、安土城は「是非もない。汝がそう呼びたいのならば構わぬ。」とあっさり許可してしまった。
    逆に安土城は丹波亀山城を明智光秀と縁があるためかキンカンと呼んでいる。
    }}

キャラクターボイス

CV担当:大原さやか

←クリックすると台詞一覧が表示されます。

#table_edit2(td_edit=off,tr_edit=edit,table_mod=close){{

|BGCENTER:60|160|400|c
|所領|ログインボーナス|よく戻ってきたな。我は汝を待っていた。馬鹿者。妙な勘違いをするでないわ。|
|~|変身|我が真意、その眼に刻め。|
|~|帰還|常態を望むも、また一興。|
|~|放置|黙することで、我を試すか。変わった男よ……ふっふふ、金平糖でも食べるか?|
|~|御嬢クリック|城娘/クリック時と同じセリフ|
|~|城娘クリック|出陣/クリック時と同じセリフ|
|出陣|キャラクリック|天下を望むすべての者達、出陣だ。|
|~|~|合戦/城娘配置完了時と同じセリフ|
|~|委任出撃|頼むところにあるものよ、我が期待に応えよう。|
|城娘|キャラクリック|かつて在る者が、我を比類無き壮大な宮殿と評した。なれば汝も近う寄れ。ここが、我の天守だ。どうだ、大したものであろう?|
|~|~|我が意を受け継ぎし大坂城が『あいどる』……だと?汝も我にあのような格好を求めるか……ふ、華やかに舞うというのも、一興ではあるな。|
|~|~|新しい催し物を考えているのだが……よし、決めた。汝を賭けて所領内の城娘らによる相撲大会を開くぞ。ふふ、当然我も出るに決まっているだろう?|
|~|部隊編成|我が力を欲すか……それもよかろう。|
|~|~|人、城を頼らば、城、人を守らん。|
|~|城娘合成|穴太衆をこえるその手腕、見事なり。|
|~|贈り物|城娘/クリック時と同じセリフ|
|~|詳細確認(サンプルボイス)|合戦/開始時と同じセリフ|
|図鑑|城娘|~|
|~|御嬢|所領/放置時と同じセリフ|
|~|特技|合戦/特技時と同じセリフ|
|~|大破|合戦/大破時と同じセリフ|
//
|合戦|開始|我が生命、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。|
|~|城娘配置|何を戯れておる?妙な所を触るな。|
|~|城娘配置完了|真の天下布武、今こそ示さん。|
|~|配置中城娘選択|ここは我に任せよ。汝は生き、その生涯にて光を放て。|
|~|巨大化|我が力、ここに集約せり!|
|~|特技発動|我の魔を起こしたのだ、覚悟せよ!|
|~|計略使用|[無印]鳴け、さもなくば滅びよ。 / [改壱]|
|~|大破|生を享け……滅せぬもののあるべきか……。|
|~|勝利|功名こそ、武士の本意。そのあり方を見定め、覇道の糧とせよ。|
//|~|~|高らかに勝利を歌い、その祝言を天下への道標とするのだ。|
//|~|敗北|およそ勝負は時の運……諦めも肝心だ。|
//|~|~|敗北から学ぶべきこともあろう。|
//|~|小破|この体に、傷をつけるか。面白い。|
//|~|中破|痛みさえ、興じてみせよう。|
//|~|解放|愚かな間違いを犯した我を……許すというのか。まったく……汝は甘いな。だが、悪くはない……ああ、悪くないぞ……殿よ。|
//|~|装備|美しき武具は、それだけで価値がある。|
}}

←クリックすると贈り物イベント、台詞一覧が表示されます。ネタバレ注意

#table_edit2(td_edit=off,tr_edit=edit,table_mod=close){{
|BGCENTER:60|160|400|c
|イベント1|BG……私服、可愛いな。|ふふ、まったく、汝というやつは!ああ、我も気に入っている。美しきもの、可憐なものが我は好きだ。汝も、着てみるか?|
|~|ちょっと怖いかも……。|馬鹿者。この程度で臆してどうする。覇者とはなんたるか躾ける必要があるようだな。|
|イベント2|じゃあ城娘あいどる決定戦だ。|あいどる……大坂城の独壇場ではないか。いや、我が真のあいどるを目指すというのも一興か。|
|~|BGじゃあ城娘対抗相撲大会だ。|城娘同士で競わせるか……面白い。ならば我も参加しよう。もちろん汝もだ。ふふ、実に楽しみだ♪|
|イベント3|BGこの気持ちは永遠に変わらない。|我の手を取り、心を示す……か。ふふ、ならば我の心も汝に示さねばな。殿、我は汝が堪らなく愛おしい。ずっと側にいてくれ。|
|~|…………。|ふむ、黙すことで、我が心を映すとは……さすがは我が主だ。だが、時には言の葉がほしい時だってあるのだぞ。|
}}

画像

イラストレーター:冬野ユウキ

35326638373037313130353538323332316131653536306530383761306334662E6A7067.png
入手
←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。
6b6351f0ebc3f87df54e4d5143dd2b88.png安土城 城娘.png
御嬢城娘
←クリックすると大破、特技画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。

大破、特技画像

安土城 大破.png安土城 特技.png
大破特技

改壱

←クリックすると御嬢、城娘画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。
6b6351f0ebc3f87df54e4d5143dd2b88.png&uploader(3eecacda6a52881e5595c13bc9f2f94d395bc3cb_scre_2025,50%);
御嬢城娘
←クリックすると大破、特技画像が表示されます。見たくない人はクリックしないで下さい。

大破、特技画像

&uploader(5a9f3b8a9054e2ddb39e2ea2e1094dcd939a7feb_scre_2027,50%);&uploader(27f2b93e8dad470b2c2efbefaf68e2e841d331b6_scre_2026,50%);
大破特技

城娘の元ネタ情報

【デザイン】

#style(style=padding-bottom:.5em;){{

//次の6行を使って折りたたんでください。
//#style(class=submenuheader){{
//(題名を入力してください)(クリックで表示)
//}}
//#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
//(本文を入力してください)
//}}

}}

【特技・計略】

#style(style=padding-bottom:.5em;){{{

#style(class=submenuheader){{
敦盛(クリックで表示)
}}
#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
「人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか」
信長の辞世の句として有名な一節。
安土城の計略名として引用されている。
元は信長が好んで舞ったとされる幸若舞の演目のひとつ『敦盛』の一節である。
なお、人の世の儚さを謡ったものであり、当時の平均寿命が50年と謡ったものではない。
また、「人間」は「じんかん」と読むのが正しいとされることもあるが、元々は仏教用語で「にんげん」と読んだものが世間では「じんかん」とされたのである。
さらに、「化天」は六欲天の第五位の世、「下天」は六欲天の最下位の世のことで意味が異なり、本来の幸若舞においては「化天」であったが、『信長公記』では「下天」としている。
それに従えば、下天の一昼夜は人間界の50年にあたるため、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になるが、化天ならば一昼夜は人間界の800年にあたるため、人の世はさらに短いことになる。
}}

#style(class=submenuheader){{
第六天魔王(クリックで表示)
}}
#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
特技名になっている「第六天魔王」は、武田信玄が「天台座主沙門信玄」と名乗った書状に対し、皮肉を込めて返した書状で織田信長が自称したことで知られる。
そもそもの意味は仏教用語で、欲天と呼ばれる天界の下層部の六層の最上天が他化自在天こと第六天であり、その第六天のトップに君臨するのが第六天魔王である。
改築後の特技名にある「波旬」とはサンスクリット語のパーピヤス(悪意あるもの)の音訳で、釈尊が瞑想に入ったとき、悟りを得るのを妨げようとした魔王マーラ・パーピヤスと同一視される。
いわゆる「煩悩」であり、仏道修行者はこれに打ち克つことで境涯を高めることができるとされ、仏教においてはこの魔王は滅ぼすべき敵ではなく、乗り越えるべき試練とされている。
比叡山?復興を宣言する信玄に対し、それを妨げてやると宣戦布告する意味があったものと思われる。
なお、単に信長が自称しただけと思われがちであるが、本能寺の変の翌月に書かれ、平成29年(2017年)に発表された『當寺御開山御真筆』でも「六天ノ魔王」と称されるとともに安土城の天主の美的センスも否定され、信長は「黒鼠の清盛の再来」と痛烈に批判されている。
}}

//次の6行を使って折りたたんでください。
//#style(class=submenuheader){{
//(題名を入力してください)(クリックで表示)
//}}
//#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
//(本文を入力してください)
//}}

}}}

【セリフ】

#style(style=padding-bottom:.5em;){{{

#style(class=submenuheader){{
信貴山城からの抗議?(クリックで表示)
}}
#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
安土城の天守は、信貴山城の城主である松永久秀が築城した多聞山城の天守を参考にしたという説がある。
信貴山城?のセリフにおいて「ファッションを真似ている」という旨の抗議を受けていたりするのだが、おそらくはこの説が元ネタと思われる。
…のだが、両者の御嬢姿を比較しても類似点を探す方が難しかったりするのは、いわゆる大人の都合であろうか。
}}

#style(class=submenuheader){{
鳴け!さもなくば滅びよ!(クリックで表示)
}}
#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
「美しい鳴き声を聞くために飼っていたホトトギスが鳴かなかったら、信長、秀吉、家康の三人の天下人はどういう反応をするか」という川柳が由来と思われる。(実際に本人たちがそのような句を詠んだわけではない。)
信長の場合は「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」であり、敵対者を悉く滅ぼしてきたその苛烈な気性をイメージしてのものと思われる。
ちなみに秀吉、家康の場合は間の七音が「鳴かせてみせよう」「鳴くまで待とう」となる。
}}

//次の6行を使って折りたたんでください。
//#style(class=submenuheader){{
//(題名を入力してください)(クリックで表示)
//}}
//#style(class=submenu,style=padding-bottom:.9em;){{
//(本文を入力してください)
//}}

}}}

現実の城情報

織田信長による安土城の築城は天正4年(1576年)正月から天正7年(1579年)5月のことで、目賀田城?の跡地である琵琶湖東岸の安土山(標高199メートル)に天主が完成した。
安土城の台詞に近代城郭の手本などと謳われているとあるように、安土城は織豊系城郭の先駆となった。
信長は諸大名及び家臣のみならず、町民百姓にまで自ら100文の拝観料を取って見学させたと言い、天主は懸け造りの構造でテラスから目の前の広場を見下ろせたとされる。
なお安土城の場合、天守に相当する建物を天主と呼ぶが、岐阜城?の麓にも天守とは別に天主と呼ばれる御殿が存在した。また、明治の文豪・芥川龍之介は「天主閣はその名の示すがごとく、天主教の渡来とともに、はるばる南蛮から輸入された西洋築城術の産物である」としている。

 

#style(class=submenuheader){{
続きをクリックで表示
}}

#style(class=submenu){{

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が死去した後はいったん明智光秀が入城するが、光秀が羽柴秀吉との戦いに敗れた後、6月14日から15日にかけて天主をはじめとする主郭部が炎上、焼失した。
放火したのは明智光秀の家臣・明智秀満という説があるが、秀満は既に安土城を出て坂本城にいたので誤りである。
また、ルイス・フロイスは「放火したのは織田信雄(三介殿?)で、馬鹿なので理由もなくやった」と推測しているが、明確な根拠はない。混乱に乗じた略奪目的の一揆勢が犯人と見るのが妥当とされる。
#br
いずれにせよ炎上によって安土城が廃城となったわけではなく二の丸を中心に機能し、織田信孝、羽柴秀吉、織田信雄、三法師(織田秀信)が相次いで安土城に入城している。
安土城への入城は自分が信長の後継者であることをアピールする行為で、織田氏の天下の象徴としての安土城は健在だった。安土城入手時のセリフはおそらくこれを表現している。
天正13年(1585年)、秀吉は近江国割を行い、近江八幡城?を築かせて甥の秀次を入れ、この年以降に安土城に関する記録が見られなくなることから、安土城とその城下町はこの段階で機能を失ったと考えられる。
#br
このように城が存続した期間は短く、残された資料もほとんどない。信長が狩野永徳に描かせ、天正9年(1581年)に巡察師ヴァリニャーノに贈られ、天正13年(1585年)3月に天正遣欧使節がローマ法王グレゴリオ13世に献上した『安土城之図』は現存する可能性があるが発見されていない。
『安土城之図』は献上された後、少なくとも7年間はバチカン宮殿内の展示室「地図の画廊」に展示されていたことが確認されたが、その後の消息は不明となっている。
#br
余談だが、安土城にてヴァリニャーノが信長との謁見の際に連れていた黒人の従者は信長に珍しがられ、当初は墨でも被っていて黒い肌なのだろうと疑われたが、洗い流しても一向に色が落ちることはなく、これを気に入った信長は黒坊主と称された黒人の従者を召し抱え、弥助と名付けて本能寺の変の際にも側近として置いていた。
変により本能寺?から逃れたのちは織田信忠が籠る二条御所に駆けつけるも明智光秀の軍に捕らえられたが、光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として命を取ることはしなかったという。
#br
さらに余談だが、信長は大の相撲好きでもあり、安土城下で行なった相撲大会で互角の勝負を演じた力士2名にそれぞれ、東から土俵入りしたことから「東」、西から土俵入りしたことから「西」という名字を与えたという。
一説には相撲が東と西に分かれたのはこのことが起源であるとされ、実際に現在も安土城下には二人の子孫が東姓と西姓を名乗り暮らしている。
#br
現在の安土城は、大手道や石垣の一部が復元されている。かつては琵琶湖に突き出した半島状であり水運支配の要であった安土城だが、埋め立てが進んだことで周囲は田畑や住宅地となり、湖岸は彼方にある。
復元された天主は、「信長の館」と「伊勢安土桃山文化村」の2箇所にある。詳しい資料が未発見なのでいずれも想像による復元だが、八角形の構造物と信長好みの豪華絢爛な内装はユニークであり他に類を見ない。
}}

所在地滋賀県近江八幡市安土町下豊浦・東近江市能登川町きぬがさ
現存状態曲輪、堀、石垣、土塁など
城郭構造平山城(山城・水城)
 

#style(class=submenuheader){{
城郭構造(クリックで表示)
}}

#style(class=submenu){{
**城郭構造 [#ifcfd132]

安土山は天主のある峰を中心とする山と、北に長く伸びる尻尾のような山並みに分けられるが、特に天主が築かれた山の方では表も裏も至る所に曲輪が設けられ、信長の家臣たちが屋敷を構えており、山の上と下とは完全に一体化している。
安土城に限らず、城郭分類の常として平山城か山城かで見解が割れる事があるが、山城から平山城への歴史的転換点ともいえる安土城においてはその分類の差は顕著である。
#br
織豊系城郭研究の第一人者である奈良大学の千田嘉博氏も平成28年(2016年)のテレビ番組『趣味どきっ!』で「町に近い低い山を使った平山城だった。町とお城が一つになっている近世城下町の原型」と説明している。
その他、千田嘉博氏は『城から見た信長』では、滋賀県安土城郭調査研究所による山麓から山腹にかけた大手道が本丸の正面となる「黒金門」につながっていなかったという説を強く批判した上で、正親町天皇の行幸計画も容易に実行できる設計だったとしているが、小和田哲男氏も『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』で、近江八幡城?と比較して「安土城のような平山城の場合は、山上との往復がそう大変ではなく」と、往復の容易さが平山城か否かの判断基準であるかのように説明している。
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一方で、縄張研究者の中井均氏は『城館研究の手引き』で「山上部と山麓部の二元構造は山城として扱うべき」としているが、山上部と山麓部が一体化した安土城について『歴史群像 <織田信長と戦国時代>地の利を生かせ! 織田信長の築城計画』では「信長は、配下には琵琶湖岸に平城(湖の城)を築かせたが、自らはけっして平地に居城をかまえなかった」と特異な例としており、自著『近江の山城ベスト50を歩く』において安土城を山城として挙げている。
同様に、縄張研究者の西股総生氏は『「城取り」の軍事学』の中で比高が100メートルを超えると明らかに山城としており、「安土城も、比高が110メートルほどあるから山城だ」と述べ、鈴木眞哉氏も『戦国時代の大誤解』の中で鉄砲普及後にも建てられた比高が100メートル以上の山城のひとつとして安土城の名を挙げるなど、研究者の間でも統一見解には至っていない。
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また、安土山の北側半分は一部が埋め立てられる前の琵琶湖の内湖に直結し、三方が湖で囲まれているほか、堀には湖水からひいた水を活用していた。
城下には港も整備され、京都につながる大津、岐阜につながる佐和山にも船で高速移動が可能な水城としての側面もあった。
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なお安土城の台詞に穴太衆が登場するが、信長が石垣造りに用いたのは馬淵の石工衆だったと記録されている。また『明良洪範』には穴太衆も安土城の築城に参加したとあるが、確かな史料による裏付けはない。
そもそも「穴太衆」という言葉は江戸時代の初出であり、石垣の積み方も多様であることから、近在の馬淵衆や岩倉衆、あるいは全国から技術者集団を呼び集めたというのが実態だと推測される。
百々橋なる橋があったことから、築城の名手であり、特に石垣普請に優れたとされる百々綱家が築城に関わっていたとの説もある。
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さらに、安土城の台詞には日の本において初めて天守を構えたとあるが、近年の史料研究では松永久秀の信貴山城?で日本初の天守が築かれ、安土城の天守は同じく久秀の多聞山城を参考にしているとされるため、安土城の天守が日本初という説は否定されている。
しかしながら、信貴山城や多聞山城にあったとされる天守の遺構は発見されておらず、発掘調査の結果においては疑問が持たれるところでもある。天守台の遺構が残り、安土城よりも前に天守を構えた可能性がある城としては、織田信雄の田丸城?がある。
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天主跡は発掘調査によって全ての礎石が確認され、このことは長く不可解だった『信長公記』で「東西十七間、南北二十間」とされた天主の大きさよりも実際の天主台が小さいという疑問を解消した。
つまり礎石の上に柱を立て、天主台からはみ出した懸け造りの構造だったということである。
これは狩野永徳の『安土城之図』を模写したフィリップス・ファン・ウィンゲの絵でも裏付けられ、『信長公記』が記した「御白州」という天守前の広場を見下ろせる懸け造りの天主テラスがあったと考えられる。

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