第一部.定理8の追加4
そこにそいつが存在する原因は、そいつの本質や決めごとの中に最初からセットされているか、でなければ決めごとなんかとは全く関係なくそこにいるか、そのどっちかだ。
こうやって追加した前提から、「一見何てことなく当り前にそこにある一つ一つのものごとには、実はそのものごとの数だけ原因がある」ということがわかる。ここで原因の数はものごとの数ときっちり同じだということに気を付けてほしい。原因の方がものごとより多かったり、逆にものごとの方が原因よりも多くなることはないんだ。
たとえば「この宇宙に人間がたった20人しかいない」という何だかとんでもない状況を考えてみよう。ややこしくしたくないから、この20人は(時間のずれなしに)同時にそこにいるということにして、しかもそいつらに先祖がいたかどうかとか、そういうことは全く無視する。で、「こいつらはなぜここにいるの?」ということを何とかして説明したいとする。そんなときに「人間とはそもそもナントカである」とか「人間とは考える葦であってうんぬん」とか、そういう話のしかたでも悪くはないけど、はっきり言ってそれだけじゃ全然もの足りない。そこにいるのが19人でも21人でもなく、きっかり20人なのはなぜなんだろうと思うもんだ。20人いるなら、原因もきっかり20あるはずだろうし。
で・も・原因はそいつら20人の一人一人にあるのは間違いないんだけど、「人間とは何なのか」にその答えがあるわけじゃない。「人間とは何か」のどこをどうつついても、20なんて数は出てこないんだから。これを逆に考えれば(ここがトリックなんだけど)そのわけありの20人がそこにいる理由というかそいつら一人一人のわけありの「わけ」は、この場合はどうやらそいつら人間どもの中じゃなくて人間どもの外にあるらしいってことがなりゆきとして(=結果的に)わかる。そこからさらにもう一歩進めれば、「複数のものごとをそいつの中に抱え込んでいるようなものは、常にそいつの外に原因(そこにそいつらが(一つではなく)「複数」いる理由)がある」とまで言い切ってしまえる。
何かだまされたような気になるかもしれないので補うと、「宇宙に20人」状態のとき、一人一人の人間がそこにいる原因だったらそいつら一人一人にあるんだけど、「20人いる」こと自体の理由は一人一人のどこを探してもないし、「人間とは何か」みたいなことをいくら考えてもそこには見当たらないってこと。「原因が中にある場合と外にある場合がある」とぼくスピノザは言ったけど、この20人状態の理由はそいつらの「外にある」場合だってこと。
で今度は物質の話に戻ろう。ちょっと前に「物質と存在は切っても切り離せない」、言い換えれば「物質はその性分に従って、何の無理もなくそこに存在する」と説明したよね。これと今の説明を合わせれば、今度は「存在とは何かということがクッキリと決まる(定まる)と、その結果その「決まりごと」に存在そのものが含まれるようになる」、そして「その決まりごと(定義)だけで、存在しているということが十分導き出せる」んだ。
ところが、第一部.定理8の追加2と第一部.定理8の追加3で示した決めごとから考えると、どうやったって物質がいくつも存在しているなんて結論を出すことはもうできなくなってしまった。ということは「原因が中にあるか外にあるか」のどちらかというと、今度は「中にある状態」ということになる。「外」がないなら「中」で原因を探すしかないでしょ。だから、物質は外から何の助けも借りることなくたった一人で(というと人間みたいで変だけど)、しかも何の無理もなくそこに存在することができるんだ。
おしまい。