第二部.定理13のおまけ
ぼくたちの身体の中には「こころ」があって、この二つは一つになっているんだ、ってことはわかったよね。しかもそれだけじゃなくって、「こころ」と身体がぼくたちの中でどんなふうに一つになっているのか、このこともすっかりわかってもらえたと思う。「こころ」についてのでっかい悩みが、これで一つ消えたわけだ。
でもあったりまえのことなんだけど、こうやって「こころ」と身体が一つになっているってことをまともにくっきりと理解するには、まずぼくたちは自分たちの身体の正体についてきっちりとまともに理解しておかなきゃダメなんだ。身体を知らずに「こころ」を知ることもできないし、ましてや身体のことに無知なまんまで身体と「こころ」が一つになっていることに【気付く】ことだってできやしないんだから。「こころ」を研究するのに「こころ」ばっかりムキになって調べたって無駄なんだよね(笑)。あ、また昔ながらの精神分析を否定しちゃった(爆)。
東洋の偉大な思想家の一人である大山倍達は、少なくともこのことにはっきり気付いていたはずだ。武道を極めた倍達は、へなちょこな同業者なんかよりよっぽど自分の身体を知りつくしていたんだし、「ただ強いだけじゃだめだ、心も鍛えなければいけない」ということにも明らかに気付いていたんだから。倍達が牛を殺したかどうかなんて、そんなことは大事なことでも何でもないんだ。たとえ「牛はさすがに殺せない」とわかったとしても、倍達の「こころ」には喜びがあったはずだよ。自分の身体の限界というものを自分で確かめられたんだから。倍達は間違いなく偉大な思想家だ。ぼくスピノザが言う思想家ってのは「人を救う」ってのが条件なんだけどね(笑)、倍達は確かに多くの人を空手の道によって活かしたんだ、それを誰が否定できる?人を救わない思想家なんかクソして寝てろ(笑)。ブルース・リーだって間違いなく偉大な思想家だ。冗談でこの本に登場させたんじゃないよ。もちろん自分の身体について知る手段は格闘技以外にもいろいろあるんだけどね。演劇だっていいし、スポーツだって舞踏(バレエ)だってダンスだっていいし物理学だって医学だってハリキュウだってかまやしない。どの道であろうと、それを極めた人は自分の身体について確個たる思いができあがっているはずだし、自分の身体の限界というものを喜びを持って知っているはずだ(スポーツの場合勝ち負けがつきまとうからそう簡単じゃないんだけど)。
倍達だけじゃない。ぼくスピノザが今まで説明したことは、どんな格闘家だろうと、いやどんなひよわな人間だろうと、いやどんなものごとだろうと物体だろうと、いや宇宙のどこに逃げ出そうと、このことは間違いなく通用するんだ。決して寝言でもなければ絵空ごとでもない。
そう、今まで何度も言っているからあんまり有難みがないかもしれないけど(笑)、ぼくたち人間の身体どころか、この世のどんな物体にでも一つ残らず「魂が宿っている」(animated)んだ。魂って言葉がいやなら「生き生きとしている」と言ってもいいよ。ぼくスピノザとしては大山館長にならって「根性が入っている」と言いたいところだけどね。もちろん根性だけに、根性の入り方には多少差はあるんだけど(笑)、でも根性がひとっかけらも入っていないってことはありえないんだ。だって神がどんなものにも一つ残らず根性、つまり魂を入れてくれている、つまり宿ってくれているんだから。いや、神はあらゆるものに魂を、根性を入れずにはいられないんだし、宿らずにはいられないんだ。
繰り返しになっちゃうけど、その理由をもういちど復習しよう。どんなものごと(物体も含めてね)であろうと、そいつの中にある思いは、必ず神の中にあるし、神のおかげでそいつの中に思いが宿るんだってことだ。人間の身体だってやっぱり物体の仲間なんだから、当然人間にも同じ要領で思いが(神のおかげで)宿ってしまう、だからこそなんだ。だったら、人間の身体に宿った思いについてぼくスピノザが説明したこととまったくおなじように、ありとあらゆるものごとに宿る思いについてもおんなじことが言えなきゃおかしい。
もちろん、ものごとに宿る思いはそれぞれ違って当然だ。しかもかなり違う。ぼくスピノザは、どんな思いも平等だなんてそんな無茶は言わないよ。ある思いの相手というものを考えたときに、その相手がより素晴らしくてリアルで現実感があるものであればあるほど、それを相手にしている思いの方だってそれに比例して素晴らしくなり、リアルで現実感が出てくるんだ。だからぼくたちの身体についての正体がはっきりすればするほど、その身体についての思いだってどんどんはっきりしてくるはずだ。逆に、自分の身体の性質も限界も知らないようなたわけた状態なら、それについての思いだってピンぼけになって当然でしょ。そのままじゃ、いつまでたっても「こころ」の研究なんてできっこない。自分の身体について何にも知らないくせに「自分探し」(爆)なんかやってる場合じゃないよ、ホント。
だから、どうしても「人間様」の「こころ」が、ほかのケダモノや石コロに宿る「こころ」なんかと違っていてご立派なしろものだってことにしておきたくてしょうがない(笑)んだったら、そのためには人間の「こころ」をかたちづくっている身体の正体をつきとめるしかない。人間の身体を研究し尽くさなきゃ、どうして人間の「こころ」がケダモノの「こころ」より立派に見えるのか、なんてことはわかりっこない。別にその正体が何なのか、そんなことはどうでもいい(笑)。とまではいかないけど、ぼくスピノザには説明できないし、たとえ説明できたところでこの先を登るためには関係ないんだ(!)。どうしてもって言うんならちょっとだけ説明しとくよ、人間だろうと動物だろうと石コロだろうと関係なくね。
ある物体や身体が、一度にいろんなことができて、しかもいろんなものから影響を受けることができるような能力が高い(=まともな)ものだとしようか。そういう能力の高い物体(身体)の中にある「こころ」だって、それに比例してそのことを感じとることができるんだ。つまり物体の能力が高いほど、その物体に宿る「こころ」も能力が高くなる。つまり「こころ」はそれだけまともになるんだ。
それだけじゃない。ある身体(物体)が、ほかの身体(物体)になるべく頼らずに、しっかりとひとり立ちして動いたりはたらきかけたり感じとったりすればするほど、その物体に宿る「こころ」の、ものごとをくっきりと理解する能力がそれだけ高まるんだ。つまり、ひとり立ちに近い物体ほど、まともにものごとを理解できるようになるってこと。
そう考えれば、「こころ」に立派なものもあれば下司(げす)なものがあるのも不思議じゃなくなるし、人間の「こころ」と動物の「こころ」と石コロの「こころ」と水の「こころ」と火の「こころ」が、どれもこれも相当どころか一見まるっきり違うとしか思えないのも納得できるよね。まあ火は「現象」であって単純な物体ではないんだけど、これも「ものごと」のひとつには違いないんだから。そしてぼくたちが、誰のものでもないはずの自分の身体というものについてどうしてこれだけひどい勘違いを繰り返せるのかということもわかるし、これから説明するたくさんの悩みの原因もはっきりするはずだ。
ぼくスピノザが今説明したことを、もっともっときっちりと厳密に説明する意味はきっとあると思うし、そうしなければいけないんだ。だからここで、物体の性質と正体について、もう少しいくつかの定理を(これまた唐突に)ここで追加させてもらう。これもここから先に進むのに欠かせないからね。
ちょっと申し訳なくもあるんだけど、この辺はさすがに17世紀っぽくなってしまう。ぼくスピノザの時代にはまだ現代のような「科学」に相当する言葉も概念も存在していなかったんだし、なにしろぼくは、あの偉大なニュートンよりちょっと早く生まれたぐらいの時代の人間なんだ。だからここで説明することは21世紀のみんなが見ていろいろあいまいな点があると思う。とはいうものの、なまじ数式を使っていない分、そう大きく間違ったことは言っていないはずだし、ここから先を登るにも特に不自由するわけでもないから、そのまま読んでくれて構わない。気に入らないと思うなら、これを読んでいるあなたにこそ、この本を厳密に書き直してもらいたい。ぼくは本気で言っている。教科書は永遠に書き直されなければならないんだから、いつまでたっても後生大事にカビ臭い図書館にしまいこんでいたんじゃだめなんだ。悩みをかかえているみんなに読んでもらえなければ、本当に何の意味もないし、ほかの人がこういう本を書いてくれるんだったら、ぼくが書かなくたってよかったんだから。誰もやってくれていなかったから、ぼくスピノザは仕方なく書いたんだよ。目立ちたい気持ち、ほめられたい気持ちはさすがにちょっとはあったりもしたんだけど、お金が欲しくてこんな本を書いたんじゃない。だいたいこの本、ぼくが生きている間には出版できなかったんだし(笑)。
ぼくスピノザにとって嫌なのは、この本をあがめたてまつるばっかりで、ちっとも読んでもらえないことなんだ。確かにちょっと量が多くなっちゃったけど、「悩みを一つ残らず解決する」んだったら、そこらで800円ぐらいで売っているような、あってもなくてもいいような本みたいに薄っぺらなサイズになるはずがない。それからぼくにとってもっと嫌なのは、この本を悪用されることだ。そんなことしたら化けて出てやるよ(笑)。今のは冗談だけど、でも絶対許さないからね。この本を最後まで読めば、ぼくがとっくに死んでいると思って(笑)強がりを言っているんじゃないってことがわかるよ。この本を悪用するような野郎は、必ずおなじ技にこてんぱんにやられる。これは呪って(爆)いるんじゃなくて、ぼくなんかと無関係に、どうしたってそうなっちゃうんだから。もう今からその姿が目に浮かぶよ(笑)。
それからぼくにとって嫌なのは、読みたくもない人にこの本をむりやり読ませることだ。この本は、「悩みを一つ残らず解決する」ために、ある意味ものすごく残酷なことをしているんだ。ぼくたちがぼんやりと、何となく当てにしているものごと、それを一回粉々に打ち砕いてしまう作業をしているんだ。それは悩みを解決するためにどうしても欠かせない作業なんだけど、誰でもかれでも、面白半分に相手の信じているものを打ち砕いていいはずがない。ましてや、年を取れば取るほど、自分の信じているものを手放すのは難しくなるし、それをやってしまったら生きていけなく危険だってあるんだ。そのことを忘れないように。この本を読まずにいられないほどせっぱつまっているみんなには、とっくにその覚悟はできていると思うし、でなかったらここまで登ってくるはずなんかないんだけど、その必要もない人たちを巻そえにするようなことは断じてあってはならないんだ。もしこの本を、読みたくもない人にむりやり読ませたり、相手の人生を破壊する目的でだまして読ませるような大馬鹿野郎がいたら、やっぱり化けて出てやるからね。ぼくはしつこいんだ。たとえ善意でも、これは絶対にやってはならないことだ。