620 名前: 名前が無い程度の能力 投稿日: 2006/06/27(火) 21:53:48 [ DdbYZB9M ]
一度など、いきなり幽々子様にカステラの柔らかいところだけを食べられてしまった。
私は食欲も忘れて怒り狂った。祖父に二度取られたのを除けば、それまで誰にも横取りされたことなど
なかったし、その二度にしても、夕食を食べられなくなるという理由のことだった。あまりの理不尽さに
世界が崩れていくような気さえした。幽々子様があとで祖父に語ったところによれば、私は目にいっぱい
涙を浮かべて幽々子様の方を向き、こう言ったそうだ。
「どうして食べたの、ゆゆこさま。」
昔の三文小説から抜き出してきたようなセリフだが、これがお嬢様として生前暮らしていた幽々子様の
心にひどくこたえたにちがいない。
祖父が戻ってきた時、私はおやつを守ろうと外の納屋にこもっていた。幽々子様は両手で頭を抱え、
体を揺すりながら、無邪気な子どもから取り上げてしまったと、すっかりしょげていたそうだ。
そのうえ、もう二度とこんなことはしない、もしこの誓いを破ったら頬が腐ってもげてもいいと宣言した。
無邪気な子どももばかではないから、これぞ絶好の機会とばかりに喜んだ。次に二人きりになったとき、
幽々子様はいつもどおり無口なままだったが、妙にものわかりがよかった。その子どもはすぐに悟った。
私の機嫌をとるためなら、ゆゆこさまはなんでもしてくれるにちがいない。
正直な話、幽々子様をいじめてやろうという気はなかったし、私はそれほど意地の悪い子ではなかった。
だが、いってみれば、幽々子様のせいで私一人が地震に見舞われたようなものだったから、この調子が
いつまでも続くのかどうか、二度と地震に見舞われることがないのかどうか、確かめたかったのだと思う。
それに私は、無理だと分かっていたものの、ミスティアのまねがしたかった。ミスティアは屋台の
技術者で、私にとってはあこがれの魔術師だった。
炉がごうごうと燃えさかり、屋台をひく彼女が鳥の爪を踏みならし、炭で作った残りかすの山が
白煙をあげ、タレの匂いがたちこめる真ん中で、ミスティアが直径10センチもある八目鰻をひと反転
させれば、タレで濃く濡れた鰻がジュウジュウと音を立てる。
私は「料理人」になりたかった。真鍮と鉄の上に乗り、規則正しく焼けては香ばしい匂いを放つ、
そんな料理を作りたかったのだ。
私は幽々様に言った。
「おじいちゃんが剣術の試し切りにつかう鉄板を持ってきて。」
幽々子様は、言われるままに持ってきてくれた。私はついでに言ってみた。
「鉄板の上に食べ物を置いていってよ。最初は台所の棚にある、おじいちゃんが酒のつまみにする
さくらんぼから、こたつの上にあるプリンまで。おじいちゃんが冷蔵庫にいれたバナナもだよ。
次は農園の林檎から、山形風のラ・フランスまで。」
こうして食べ物をすっかり鉄板に並べると、今度は砂糖、バター、シナモンにチョコソースと、
よくそろった台所からあれこれ持ち出してきては、二人で鉄板の上にかけていった。 私が鉄板に
火をつけると、上の果物が全部、焼けて煮られて甘い匂いを放った。最高に気分の良い美味しい匂い。
まるで別世界に入ったようだった。
二時間後に家の者が返ってきたときも、まだ、私はうれしそうに鉄板の上に果物を置いて
ジュウジュウやっていた。幽々子様はといえば、いすにうずくまるようにして、座り込み、唇をしっかり
歯で噛み締めていた。
幽々子様は約束を守り通した。無邪気な子どもに手を上げることはなかった。どうして私を
締め殺そうとしなかったのか、今でもよく分からない。そうしたっておかしくはなかったはずだ。
張本人の私でさえ、幽々子様にとんでもないひどいことをしてしまったと気づいて、真っ青に
なったくらいだ。もっとも、それは、あとで祖父の表情を見たときのことだったが――。