よりかの

Last-modified: 2024-04-25 (木) 00:04:12

「かのん,まだ起きてる?」
 小依が囁いた声は天井に向かった後で,優しい雨のように夏音へ降り注いだ。
 夜の帳の中,二人が横たわる寝室は月明かりのせいでうっすらと白んでいる。夏音はベッドの中でうん、ともううん,ともつかない声をあげた。だって、喉を響かせると絹のような静けさを裂いてしまいそうだったから。
夏音と小依が同じ部屋で寝るのは珍しいことじゃない。物心がついた頃,いやその前から寝ても覚めても夢の中でも二人は常に一緒だった。だから珍しいのはむしろ……。
夏音は無意識に伸ばしていた手をゆるゆると引っ込める。夏音の寝ているベッドには自分以外の温もりはどこにもなかった。二人とも大きくなったんだしベッドに一緒じゃ狭いでしょう,というのがお母さんの言い分だ。そんなことない,と言おうとした言葉が出てこなかったのは小依の顔を見たからだった。
大きくなったというキラーワードに気を良くした小依は口角が上がっていた。そこに水を差すなんてできないししたくない。自慢げな小依は夏音にとっても自慢だった。つまり,自分の部屋に小依が布団を敷くのを手伝うくらいしか夏音にできることはなかった。

 だけどやっぱり落ち着かない。
 夏音は掛け布団を頭まで持ち上げる。
 夜が恐ろしいわけじゃない。一人が怖いわけじゃない。
 ただ,小依が近くにいるのに触れられない。それが夏音をどうしようもなく不安にさせた。
「かの」
 声は真上からまっすぐに落ちてきた。人の気配をすぐ横に感じる。
 夏音は布団をずらして目を開けた。
「隣,いいかしら」
 こくり,と頷いた。いつだって彼女はそうなのだ。そばにいて欲しいときには絶対に来てくれる,たとえわたしがそう口にしなくても。だから,いつも甘えてしまう。
 ガサゴソと時々足を引っ掛けながら布団の中に小依が入ってきた。温度が上がったのは小依の体温が高いせいというばかりではないだろう。
「ホントだ。ちょっとキツいかもしれないわ」
「もうちょっと詰めようか?」
「いいわよ,別に。かのとくっついてる方が楽しいし」
「……よりちゃんったら」
 声を潜めて囁き合う。月明かりが小依の瞳の中で増幅されてキラキラと神秘的な光を湛えた。下ろした髪と相まって自分よりもずっと年上に見えてしまう。見とれていると不意に視界が暗転した。小依が掛け布団を頭まですっぽりと引き上げていた。
「よりちゃん,いる?」
「いるわよ。かの」
 全身で体温を感じているのに確認せずにはいられない。吐息で作られた返事を聞いてようやく安心する。
 かくれんぼみたいだねって一緒に笑う。おかしいことなんて何もないはずなのに声を押し殺してくすくすと笑った。今日のこと,明日のこと,楽しいこと,不思議なこと,毎日会っているのに話題は全然尽きなかった。ぎゅうっと抱きしめてみるとわたしの背中に回された手にも力がこもる。
 今,世界には二人だけしかいなかった。
 しあわせだった。
 この時間を切り取っていつまでも繰り返していたいくらいに。
 小依の胸に頭をうずめて,それからゆっくりと息継ぎをするように顔を上げる。
 そこに星空があった。
 背中を抱かれたまま,彼女の中の光を追いかける。肩にかかった毛布がハラリと落ちた。
「かの」
 後頭部をひと撫でされるとそれだけで背中に甘い電流が走った。お腹がじんわりと温かくなるのを感じる。
「目、閉じて」
 額に柔らかな感覚が残り,砂糖のように溶ける。その原因が小依の唇だと気づいた瞬間に頬がかあっと熱くなる。鼓動が早鐘を打ち,酸欠になった金魚のように喘ぐような呼吸をする。嬉しくて、恥ずかしくて、胸がいっぱいだった。
 彼女も照れているのか,目を逸らしてわたしの髪を梳いた。
「ねぇ、よりちゃん」
 音にならない吐息でも、彼女はきちんと反応してくれる。
「わたしからしていい?」
 そっと小依が目を閉じる。徒競走のあとみたいに胸が痛い。熱い。苦しい。喉が渇いて仕方がない。
 でも、それでも、精一杯に身体を伸ばす。
 あと1cmが永遠のようだった。
 今にも崩れ落ちそうな果実におそるおそる近づくと、既に互いの呼吸すら交換できる距離。
 彼女も緊張しているんだな、というのがわかって少しだけ安心した。
 抱き合った手が、どちらからともなく力を込める。

 月が雲に隠れた一瞬、軽く撫でるような淡いキスをした。
 それが、わたしのファーストキスだった。