概要
オランダ王国が独自に開発した装甲車

↑Pz.Sp.Wg DAF201(h)、「Seydlitz*1」号。
諸元
| 制式名称 | DAF M39 |
| 鹵獲名称 | PanzerSpähWagen 201(h) |
| 主武装 | 3.7cm Bofors*2 |
| 副武装 | 7.65mm Lewis MG(h)×3 |
| 鹵獲元 | オランダ王国 |
| 重量 | 5.8t |
| 全長 | 4.75m |
| 全高 | 2.16m |
| 全幅 | 2.08m |
解説
1936年、第一次世界大戦に参戦せず軍備の近代化が遅れていたオランダ軍は急速に発展していく周辺国、特にドイツの装甲車輌に焦りを感じ、新型の装甲車を配備することとした。その中でまず12輌が調達されたのがスウェーデンのAB・ランツヴェルク社が開発したL-180装甲車だった。性能にさしたる問題もないこの車輌は追加発注も期待されたが、国外のメーカーに依存することを問題視した軍によってこれはキャンセルされ、オランダ国内のメーカーであるDAF社が新規に開発することとなった。2輌の試作車輌が製造された後、1939年に最初のロットが量産される予定だった、だが部品の一部は調達の見込みがなく、機銃用のマウントに至っては設計も完成していなかった。
同年、オランダ軍の士官も関与していたドイツに対する諜報作戦が露見し、フェンロー事件へと発展したことで生産工場もアイントフォーフェンから内地のロッテルダムに疎開したため、生産はさらに遅延した。
製造コストの変更が重なり、部隊への配備は1940年にずれ込んだ。ドイツ軍がオランダを含めた低地諸国に電撃戦を仕掛けた際、12輌が完成していた。デルフト、ロッテルダムでそれぞれドイツ軍部隊と交戦したM39は阻止に失敗し撃破され、オーフェルスフィーでドイツ空挺部隊の掃討にあたったが大した戦果を上げることはなかった。
一方でドイツ軍に鹵獲されたM39は有力な車輌として即座に修理を受け、ドイツ軍風のダークグレーに塗装された。ドイツ軍兵器局は本車に関心を向けこそしたが、生産を再開する必要性はないとして再生産計画も破棄された。ドイツ軍への部隊配備を受けたM39は偵察車輌としてフランス戦に参加後4輌が1941年開戦した独ソ戦にも参加、北方軍集団所属の第227歩兵師団で使用されたほか、訓練用での使用も見られた。
派生型
なし。
ギャラリー

↑ドイツ軍第227歩兵師団・第227偵察大隊装甲偵察隊所属*3のM39。

↑M39。