古典的問い。
我思う、故に我有り…に遡る。
少し酔狂な妄想ができる余裕ができると陥る概念です。
世界に名言があろうとも、それが知覚している世界が知覚どうりにそこにあるという証明になりえない。
また、それを議論するのは無意味である。
知覚について疑問視した時点で何ひとつ検証材料が残らなくなる。
なぜならば、知覚のみが我々の情報源であるからだ。
だが現実はソコにあるものと仮定しなければ、我々は一切の意味を無くしてしまう。
意味の出発点として、現実はソコニにある。そうせざるおえない希望論である。
また、同時に我以外の存在も、知覚以外を通して確認しえない。
そしてそれらの疑問は、唯一のインターフェイスである知覚がハジョウしないかきり、表面化しない。
知覚をインターフェイスと同列に扱うならば、我々は身体に備わったセンサーによるものが、一番我に近いものだとしたい。
そしてそこから階層的に外部インターフェイスに接し、情報に接しているとする。
外部インターフェイスとは、解りやすく言えば、計器、本、窓、テレビなどの情報を提供するシステムの全てである。(情報が無いの事も情報であるから、それは目的の情報が何であるかによって変動し、インターフェイスでないものを選別できない)
そしてこれらの外部インターフェイスによる知覚が、身体によるそれに歩みよる現象が仮想化である。
そしてそれが身体知覚と区別がつかなくなるとするならば、改めて身体知覚に対しての不明確さが表面化する。
さらに我と身体間にあるインターフェイスの存在の可能性が浮上するからだ。
そして現在現実と認識しているシステムにおいて、身体がアバターにすぎないという発見があるかも知れない。