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Last-modified: 2007-12-28 (金) 03:46:49

●まず、生年月日を教えてください。
「昭和62年の3月26日生まれです」
●生まれたのはどこだったんですか?
「福岡の古賀という町です。小さい頃はそこに住んでいましたね。緑豊かな町でした
ね。懐かしい感じもあって。そこから、正確な年齢は覚えてないんですけどまだちっ
ちゃい頃、小学校に入る前くらいに、新宮という町に引っ越しましたね」
●生まれて最初の記憶ってなにか覚えてます?
「最初の記憶ではないと思うんですけど、ちょっと大きくなって、猪の子供を獲った
っていうことは覚えてますね。古賀に住んでる頃に、虫を捕る網と虫かごを持ってで
かけたみたいで、川沿いで子犬みたいなのを見つけて、近寄ってって網でバサッと捕
って、おうちに連れて帰ったら、猪の子供だったっていう話なんですけど。うりぼう
(=猪の子)でした。結構かわいそうなことしてますよね(笑)。好奇心からなのか、ち
っちゃいからあんまりわかってなかったと思いますけどね。単純に猪の子供を捕まえ
る子ってあんまいないと思うので、貴重な体験ですよね」
●結構活発な子だったんですか?
「活発な、やんちゃな子だったと思いますね。その古賀っていうところは森とか山と
か川がすごいたくさんあったので、そういう自然に、普通に溶け込んで遊んでいたの
を覚えてますね。あとは、面白半分に初めて家出をしたことがちっちゃい時にあって。
おばあちゃんちがすごい近かったので、自分のうちからリュックサックにお菓子をい
っぱい詰めて、『いってきまーす!』って言って家出をして(笑)。三輪車に乗って、
じゃかじゃかじゃかじゃか行ってたんですけど。でも、スーパーのおばちゃんとかが
目撃してたみたいで、母親がスーパーのおばちゃんに『見なかったですか?』って訊
いたら、『見たけど、あれ危ないよ』って。ていうのは山なのにトラックとかがいっ
っぱい来てて、そのトラックに三輪車に乗って正面から向かって走ってたそうです。
道路を逆走してたんですね。そんな感じで、結構やんちゃすぎましたね(笑)。家出と
いうのが悲しいものだと知らなかったから、とりあえずやってみた、見たいな感じで
すかね(笑)」
●(笑)おばあちゃんちにはよく行ってたんですか?
「うん。おばあちゃんちに犬がいて、その犬と散歩したりとか。ゴンタっていうんで
すけど。♪タンスにゴンゴン、ゴンタっていうのが当時のCMでやってて。それでゴン
タって私がつけて。それはいまだに覚えてる」
●新宮に引っ越したのは小学校前ということは、3~5歳くらいですか?
「かな。引っ越して、新宮で小学校に通い始めました」
●家族構成は?
「母親とふたりですね。お父さんというのは、たぶん3歳くらいでいなくなった。だか
ら新宮に来た時はふたりですね」
●お父さんのことで覚えてることってなにかありますか?
「ほんとにあんまり覚えてないんです。3歳くらいだから、名前も顔も覚えてない。逆
にどんな人だったのかな?みたいな。かっこよかったのかな?って。でも、お父さん
は、歌を歌うのが好きだったみたいですけどね。お母さんも歌うのは好きなんですけ
ど、人前で歌うのは恥ずかしがってましたね。私がお父さんの歌を聴いたことがある
かはわからないけど、遺伝子的に歌を歌うのが好きっていう要素が入ったのかもしれ
ないですよね」
●YUlさんは、いつのまにか歌うのが普通になっていったんですよね?
「そうですね。気づいたら音楽聴くのが好きになってて、気づいたら歌を――。聴く
のが好きで、耳で覚えて、歌うのが好きになったっていう感じで、うん。ほんとに自
然に。たぶん、いろいろ覚えるのが楽しくなってきたんだと思います。小さい頃、歌
詞を聞いて景色とか思い浮かべたりするじゃないですか。ユーミン(松任谷由実)さん
の♪卒業~いう曲、"卒業写真"は、なんとなく教室のイメージでとか。夕焼けに、教
室に机があってとか、ちっちゃいながらにそんなイメージをなんとなーく思い浮かべ
たりして、よく聴いてたから」
●その小さい頃、お母さんとの思い出で印象に残っていることってありますか?
「父親がいないので、忙しく働いていて、あんまりうちにいなかった思い出ですね。
ごはんもひとりで適当に食べてたと思います。スパゲッティーとか、すごい安いのと
かがあるんで、そういうのを買ってきて作って食べたりとか。キャベツをまるごとバ
リバリ食べたりとかしてましたね(笑)。そういえば、ちっちゃい時にキャベツをまる
ごと食べてて、最後まで食べたときにブロッコリーみたいなのが出てきて。『あ、ブ
ロッコリーってキャベツの中にできるんだ!』って思ったんですよ(笑)。間違ってま
すよね(笑)。すごい驚いて、『あ、二度おいしい!すごい!』って、すごい発見をし
た気持ちでいたんですけど。でも今思うと、ブロッコリーとキャベツは別みたいです
ね。間違えてました。でもそういう、なんか変な思い込みをしてましたね」
●忙しくて、旅行に行ったりとかもそんなになかったですか?
「うん、なかったですね」
●たとえば、友達の話を聞いて羨ましいと思ったりしましたか?
「ああ、やっぱり子供ながらに、うん、そういう羨ましいという感情は抱いたことあ
ると思いますね。でも、言うと、なんか、ねえ、親とか悲しみますからね。なかなか
言わないと思いますね。子供ながらに考えていたんでしょうね。なんとなく、これは
言っちゃいけないなと感じたら、言わなかったと思うんですね」
●幼稚園の頃の、将来の夢はなんだったか覚えていますか?
「中学生くらいになって、保育園の時に描いた絵本が出てきたんです。みんなの手形
とか、誕生日のときの自分の手形がついてて。それを中学生の私が『保育園だ、懐か
しいな』なんて思いながらパラパラッとめくってて。『将来の夢は』って書いてある
ところに、他の女の子は『ケーキ屋さんになりたい』とか『お花屋さんになりたい』
とか書いてあったんですよ。でも私が書いてたのは、『たこ焼き屋のおじさんになり
たい』だったんです(笑)。車とかで焼いてる人いるじゃないですか。そういう屋台の
たこ焼き屋のおじさんになりたいって書いてて。中学生の私はそれを見て、すごい笑
ったんですよ(笑)。『どんな子だったの?』と思って、『男の子にはなれないよ』っ
て。これは余談なんですけど、ちっちゃい頃に、お母さんに『お兄ちゃんを産んで』
って言ったことがあったんですよ(笑)。まったく不可能なことを。よくわかってなか
ったんで、。そんなのとちょっと通じるものがあるなあと思いますね。べつに『たこ
焼き屋さん』でよかったのに、なんで『おじさん』だったんだろう(笑)。でも、ずっ
とひとりで焼いて出して、焼いて出して。それでおいしいたこ焼きをくれたり――ど
ういうふうに目に映ってたんでしょうね。ずーっとひとりでやってて、淋しそうだな
と思ったのかもしれない。手伝ってあげたいっていう気持ちもちょっとあったのかな
と思います。なんで書いたのか、しっかり訊いてみたいですね(笑)」
●(笑)お母さんに、「お兄ちゃんが欲しい」の他にも、なにか訊いたりしたんですか?
「テレビを観ていたら、お相撲をやっていて。私はすごいちっちゃかったので、お相
撲さんを見て、『あのおっぱいは、お乳が出るの?』って訊いたのを覚えてます(笑)。
突拍子もないことを言ってましたね。『男の人なのになんで?』みたいな感じだった
と思いますよ。そこが今思うと面白いんですけど。シュールな気がしますけどね。『い
や、あのおっぱいは出ないと思うよ』とか言ってたんですよね(笑)」
●(笑)それで新宮の小学校に通うようになって。勉強は好きでしたか?
「勉強は、そんなに得意なほうじゃなかったですね。やっぱりなんか作ってたりって
いうのが好きだったので、図工とかでなんか作ったり絵を描いたりっていうのは好き
でしたけどね。その当時は、絵描きになりたいって思ってましたね。普通に景色を見
て書いたりするのも好きですし、動物とか見て描いたりするのも好きですし。暇が、
時間があったりするとなんとなく、鉛筆を持って描いたりしてたから。小学校のクラ
ブも、なにか作るのが好きだったんで、編み物クラブに入ってました。でも、忘れ物
よくしましたね(笑)。ダメな子でしたね。結構手芸系は好きなんですよね。おばあち
ゃんが結構上手いみたいで、よく教えてもらったんですけど」
●スポーツは好きだったんですか?
「好きなほうでしたね。小学校の時は、ドッジボールとか、休み時間のフットベース
とか、楽しかったかな。あと覚えてるのが、雪が降ったからって授業が中止になって、
『じゃあ遊ぼう!』ってなって、みんなで雪合戦して遊んだのがすごい面白かったで
すけどね。福岡でもたまーに降るんで、やっぱり珍しくて。今思うと、すごい素敵な
クラスですよね」
●クラスではどんな存在だったと思います?
「結構無口というか、そんなわいわい話したりするほうではなかったので、まあ、静
かなほうだったんじゃないかなあと」
●その頃誰か好きな男の子はいたんですか?
「あんま覚えてなくて。好きな男の子はいたかもしれないけれども、でも行動に移す
とかではないですね。だから初恋って言っても、この人!っていうのはないですね。
たとえば保育園の先生だった、とかじゃなくて。ほんとに覚えてないかな。かっこい
いなっていうのがなんなのかもわかってなかったと思いますよね(笑)」
●その頃も、歌をずっと自然に歌っていたって感じですか?
「うん。ひとりでおうちにいることが多かったので、そういう時になんとなく、CDと
か、ラジオから流れてきて覚えた歌を思い出して歌ったりして、結構時間がそれで流
れていきましたね。それで淋しさを紛らわす感じだったのかなあっていう。なんの曲
を歌ってたっていうのはあんまり覚えてないんですけど。やっぱり詞を覚えて歌った
りするのが好きだったので、いっぱい覚えていたような気がしますね。のちのち中学
生になった頃には、そういう覚えた詞を思い返して書いたりとか、よくやっていたの
覚えてます」
●その頃はなにをしている時が楽しかったか覚えてますか?
「おうちに帰ってきて、近所のみんなとサッカーをしたりするのがすごい楽しかった
なあ。サッカーを習ってる子がいっぱいいたので、すごい上手い人ばっかりで、面白
かったですね。新宮の家の目の前が公園だったんですよ、サッカーをするでっかい公
園。みんながやってると音が聞こえるんです。それで『おっしゃ、行こうかな!』み
たいな感じで、参加してましたね。『やるよー』って呼んでくれたりして。おうちが
ちょっと小学校から遠くて、歩いて20分とか30分とかかかるくらいのところにあって、
近所に女の子がなかなかいなかったんです。男の子ばっかりで。だからそういうふう
に、サッカーとかして遊ぶのが普通になったのかな。――真夏に小学校から帰る時は、
歩くのが大変でしたね。30分はかなりきつくて、だらだら帰ってました(笑)。ひとり
か、数少ない近所の女の子の友達と一緒に帰ったり。あんまり暑くて、歩いても歩い
ても着かないなって時は、『ああこれ、飛べたら気持ちいいだろうなあ。きっと早く
着くんだろうなあ』とかって考えてましたね(笑)」
●(笑)新宮の海は、好きな場所としてよく名前が出てきますけど、小さい頃から遊び
に行ってたんですか?
「遊びに行ってましたね。貝殻とかを集めるのが好きで。あと、地域でのクリーン作
戦とかで、松林とか海をきれいにするっていうので、よくみんなで海に行って、ゴミ
集めたりして、ジュースを1本もらってルンルンで帰る、みたいなのをよくやってま
したね。毎年恒例の、それで夏になったなあって感じるというか」
●今ではすごく読書がお好きですけれども、小学校の時はどうだったんですか?
「小学生の時は、図書館とかは好きでしたけど、あんまりそんなにたくさん読んでた
とかじゃないですね。でも小学生の時って、怖い話がほんとに流行りましたよね。そ
ういうのをちらっと見たりして、『ほんとに怖いんだな』って思って、パタッて本を
とじる、みたいな(笑)。そういう小学生ライフを楽しんでる感じですかね。あんまり
表情には出さないけど、意外に怖がってるんです(笑)。そういうタイプの、ちょっと
めんどくさい子です。『キャー!』とか言わないんだけど、すっごい怖がってるんで
(笑)」
●感情を爆発させることは、そんなになかったんですか?
「ない、と思いますね。怒ったりとかもないですね」
●わーって悲しんだりもなく?
「うん、ない。あ、でも、低学年の掃除の時に、一生懸命集めたゴミを持っていかれ
て、たぶん好意で持っていってくれたんだけど、それでなんか知らないんだけど怒っ
たんですよね。怒ったっていっても、『せっかく集めたのに!自分でやり遂げたかっ
た!』みたいな感じですかね(笑)。まあ、そんな程度の。それくらいですかね」
●中学は地元の中学ですか?
「はい。共学でした。制服は普通のセーラー服で。夏はちょっと水色っぽい制服でし
たね」
●部活はやってたんですか?
「中1の時に陸上部に入って。走るのがすきで入ったんですけども。でも、人間関係
とかがあんまり得意なほうではなくて、辞めちゃったんですけど。長距離と幅跳びを
やってました。幅跳びはすごい好きで、面白かったですけどね。で、2年生になって、
学校にそういう・・・・・・やりたいものがあったりするときっと楽しいだろうなっていう
のは思ってたので、バスケ部にも入ったんですけど、2年生からというのでやっぱり
上手くいかなかったんですよね。でもそれもやっぱり人間関係があったのかな。もと
もと・・・・・・あんまこう、溶け込んだりっていうのがへたくそだったので、なかなか上
手く溶け込めなかったのかな。でも、中1の半ばぐらいから、学校の部活とは別にバ
ドミントンをやってて。それは月300円くらいなんでっていうので入ったんですけど、
そっちのほうはすごい楽しくて。それは中学を卒業するまで、いっぱいいっぱい行き
ましたね。週に2回で、水曜と土曜日とかで、3時くらいから。もっともっとバドミン
トンを知りたいなあと思ったのか、やっていくうちにどんどん、自分なりに上達もし
ていって」
●中学で好きな人はいたんですか?
「なんとなくいたと思うんですけど。この人かな、みたいなのはあるんですけど、で
も声をかけるとかっていうほど積極的ではなかったんで、なんとなく目で追ったりっ
ていうのはあったと思います」
●その頃、音楽への興味はどういうふうになっていましたか?
「やっぱり触れる時間が多かったと思いますね。歌う時間は普通によく歌っていたと
思いますし。ポエムみたいな詩を書き出したのも、中3くらいからだったので、そう
いう興味はあったと思いますね」
●最初はただ聴いてたものを描いてたのが、自分の言葉になってきたわけですよね
「そうですね。中3くらいの時、母親となんとなく話してて、母親が小学生の時に詩
を書いて、国語の先生に褒められたことがあるっていうのを聞いて、『じゃあ書いて
みようかな』っていうので書いてみたら、もともと詞を思い出して書くのが好きだっ
たので、その影響もあって、すんなり書くようになったのかな。日記的な感じで毎日
書くようになったというか。どういうものかも全然わかんなくて書き出したんで、や
っぱり最初はちょっとくさい感じの(笑)ポエムだったと思いますね、うん。書き出し
たらなんかずっと書くようになっちゃった、みたいな。そんなに違和感なく、そうい
うふうになってったのかなと思いますね」
●それは最初は、音楽とは別のものだったんですか?
「うん。最初は、歌は歌で歌ったりとかしていたし。でも、ノートはノートで書いて、
きれいに書き直したりとかしてましたね。思ったことを書き留めたりとか。福岡から
東京に来る時にも、見直すことがあるかもしれないからっていうので、そのノートを
盛ってきたら、すごい量になってて。東京に出てきてからもすごい増えましたね。東
京に来てから書いた自分の曲も含めてですけどね。見るとその時の気持ちを思い出し
たりしますね。その時はあんまり考えずに書いていましたけど、書いたりすることで
なんとなく整理がついたり、っていうのはあったと思いますね」
●初めて買ったCDって覚えてますか?
「矢井田瞳さんのCDっていうのは覚えてるんですけど。赤とオレンジっぽい色合いの、
アルバムです。知り合いのおじさんが『CD、なにか1枚買ってあげるよ』って言って
くれて。すごい迷ったんですけど、試聴をいろいろして、矢井田瞳さんのCDだったら
日本語だし、たぶんわかりやすくて、よかったのかな。それで『これ!』って言った
んでしょうね、うん。初めての自分のCDだったんで、すごい嬉しくて、よく聴きまし
たね。またすぐ覚えて」
●中学生の時の楽しみというと、他にどういうものがありましたか?
「やっぱりバドミントンでしたね。すごく楽しかったですね。試合とかやって、大会
にも何回か出たりして楽しくやってましたね。実際バドミントンやってる時もすごい
充実してるんですけど、ひとりで壁打ちとかするのもすごい楽しかったですね。真剣
に練習したりするのがすごい楽しくて。シャトルの容れ物めがけて打って、それを倒
す練習をしたりとか。夏とかは、汗かいたあとに自転車で夜帰ったりするのが気持ち
よかったですね。清々しいんですね(笑)」
●中学の後半になってくると、周りも進路や将来のことを考えるようになると思うん
ですけど、YUlさんはどうでしたか?
「私は・・・・・・どうなるのかまったく見えなかったので、かなり不安にはなってたと思
いますね。それで高校受験があって。なかなか通うのも大変だったので、通信制みた
いなところだとお金も安くてっていうのがあって、私的には通信制に決めてたんです。
でもやっぱり学校に通いたいなって思って、通信制に決まるっていう最後の最後で、
自分からそう言ったんです。親っていうのはやっぱり高校に通わせてあげたいものな
ので、お金とか関係なく行かせてあげたいって気持ちがあったみたいで。逆にそうい
うふうに私が言ったことでも、行かせてあげたいと思ったみたいですね。それはわか
ってたんで通信制にって思ってたんですけど、やっぱり行きたいなと思って。それで
私立の女子高に」
●最後の最後で学校に通いたいと思ったのは、どうしてですか?
「中学3年生の時に、本か雑誌かなんかに、サッカー選手だったと思うんですけど、コ
メントが書いてあって。『若い時は出会いを大切にして、たくさんの人と話すことが大
事だ』って書いてあって。すごく有名な方だったので、説得力もあって。それが焼きつ
いてたんです。やっぱりたくさんの人と出会うことって大事なんだなあと思って、そう
いう、新しい出会いに対しての興味があったっていうか。通信制で人と関わることがな
くなると、やっぱりもったいないなとも思ったので。それで、『やっぱり高校通いたい』
って言った時に、条件として自分の中で、それなりに自分で学費を出すっていうのは決
めていて。通信制だと、ちょっと働けば、逆に収入として入ると思っていたんですけど、
普通の学校に通っちゃうと、払うだけでもきっと足りないってわかってたんで、大変だ
とは思ったんですけど。だから、高校に入る前ぐらいからもうアルバイトを見つけてて。
それで、うちから近い地元の中華料理屋さんで働くようになりましたね。忙しいところ
にすぐ入ったので、なにがなんだかわからないうちに、一生懸命覚えてった気がします
ね。そのあと、音楽塾に通うようになって、逆に地元から都市部のほうに通うようにな
ったので、都市部でバイトを始めて。それだと交通費ももらえるので。だから中華料理
屋さんは半年くらいだったと思うんですけど、すごいよい経験でしたね。運んだりとか、
接客が主でした。学校にはあまり働いちゃいけないっていうのがあって、バイトの届を
出さなきゃいけなかったんです。でも出したら週2回までとかって決められちゃうんで
すよね。だから言わなくって。『もう入れられるだけ入れてください、お願いします』
っていうので、結構入ってましたね」
●高校に通いながら、バイトも毎日のようにやるのって、体力的にも結構大変ですよね。
「うん。でも、自分で一生懸命働いたお金で学校に行くって、とても素晴らしいことだ
と思いますね。気持ち的にも充実しますし。なので、絶対皆勤賞取るぞ!的な意気込み
で、真面目に楽しく通ってましたね。行きたくて行った高校なので、無駄にしたくない
っていう気持ちが大きかったと思いますね」
●その中で音楽とか、将来のこととかっていうのは、どういうふうに思っていたんです
か?
「なかなか寝る時間もなくて。毎日1時間、2時間とかで。
結構もうろうと過ごしてたんですけど(笑)。だからあんまそういうことを考える時間が
なくなっていった感じでしたね。朝の5時とか6時の満員電車で、ここに布団を敷いて寝
たいなあって思ってました(笑)」
●(笑)。睡眠時間1~2時間って相当ですよね。
「結構、いい感じだと思います(笑)。でも、やっぱり目標が――学校行って、たくさん
の出会いを大切にしたいだったり、あとは、バイトをして、たくさん新しい大人の世界
を見て、刺激も多かったですし。多かったっていっても、大変なことばっかりだったん
ですけど。考えることや悩むことも、いろいろと真剣に考えた上で、新しい世界を見た
りとかもしたんで。もっとがんばらなきゃなと思ったりとか。バイトでは、厳しいこと
ももちろんたくさん言われましたけども。やっぱりいつまでも助けてもらえると思っち
ゃいけないとか、教えてもらえると思っちゃいけないっていうので、自分で責任を持っ
て行動するということをすごく、そこでは感じましたし。そういうところからひとつひ
とつ、いろいろ教えてもらいましたね。周りの人がすごいよかったので、人間的な部分
もすごく学んだような気がしていて。お茶をお客さんにこぼしちゃったりももちろんあ
って。そしたら、その時尊敬していた女性の方が、『じゃあもう先に行って違うことを
してて』って言って、お茶を下げて、『すいませんでした』っていうのをやってくれた
りして。そういう背中を見て、素敵な大人の人だなあと思ったりして。そういう刺激も
ありました。心遣いというか、思いやりというか。充実したいと思ってたんで、なにも
かもせいいっぱい、できるだけ一生懸命やっていて。それがすごく、よい時間になった
なあと思いますね」
●でも1~2時間しか寝ていないということは、自由な時間はほとんどないですよね。
「そうですね、うん」
●授業中とか休み時間とかは――。
「そこで寝るようになってしまったり・・・・・・。コミュニケーションというより、寝てし
まってました。もったいないですよね。すごくやるべきことが多くて。それで・・・・・・時
間がないっていうので歌も歌わなくなっていって。それにふと気づいてきて。『ああ、
最近、歌ったりもしてないんだなあ』って思い始めて。きっとそこで、単純に、『ああ、
歌いたいなあ』っていう感情が生まれて、そういう気持ちがどんどん蓄積されていった
というか。バイトの帰りにたんぼ道を自転車で帰っているときに、電柱に寄りかかって、
イヤホンで音楽を聴きながら片方外して歌ったりすると、心が落ち着いたりしましたね。
『ああ、やっぱり音楽が好きなんだなあ』なんて思いながら。うん、そういうのでなん
か落ち着いたりしましたね。それで、ふと自分の先を考えた時に、音楽の道がないのか
なというふうに思って。そう思ったら、心にぽっかり穴が開いたような感じになりまし
たね」
●そういう生活が続く中で高校を辞めるという決断をされるわけですけども。それはど
ういう経緯があったんですか?
「まあそういう感じでかなり身体に負担をかける感じで生活していたからか、高校1年
生の最後くらいに、風邪が悪化して、ある日入院することになって。病名は肺炎なんで
すけども。入院していきなり時間ができたので、考える時間もたくさんあったんです。
2ヵ月くらいですかね。その時に、『ああ、やっぱり音楽やりたいな』っていう気持ち
が大きくなって。――高校の帰り道、毎日のように楽器屋さんに寄って、バンドのメン
バー募集みたいなのを見て、やりたいなあと思ってて。ギター見たりとかするのもすご
い好きで。メンバー募集に自分で連絡したこともありましたね。実際に会って話を聞い
たりしたのは2回くらいですんえ。でも年齢的にもかなり若いんで、やっぱり難しいと
思ったりして、話が進んだことはなかったですけども。その入院した時の音楽やりたい
なって気持ちは、そういうのの蓄積もあって、強くなったというか。それで、学校を辞
めようって思ったのかな。金銭的な面もありましたし。学費は払っても払っても足りて
はなくて、どんどん増えていくばかりで。そういう不安もあって。どうせ一生懸命やる
んだったら、音楽だけやりたいという気持ちが強くなっていて。だったら両立するのは
絶対難しいことだから、じゃあどっちかを本気でやりたいっていう時に、やっぱり音楽
をやりたいなっていう気持ちが強かったんですね。これ初めて話すんですけど・・・・・・ひ
とつ、ちっちゃいオーディションみたいなのを受けていて。それはCMとかで見たのか、
規模は全然わからないんですけど、ちっちゃい、みつけてきた感じの奴で。入院する前
にそれにちゃんと通っていたんですね。それで入院中に最後までいったっていうのを聞
いていて、もうだいぶ落ち着いた頃だったので、ちゃんと病院の外出許可を取って、そ
の最終オーディションに行ったんです。その時は音楽やるかやらないかっていうのをす
ごい考えていたので、そのオーディションで駄目だったらきっぱり諦めようって思って
たんですね。才能がなければやっても意味ないじゃないですけど、大変なことだからっ
て思ってて。それで病み上がりだったんですけど、オーディションに行って歌ったら、
優勝したんですよ。それで親を説得できる材料ができたっていうのもありましたし、ち
ょっとがんばってみていいかなっていう気持ちにもなって、かなり背中を押してくれた
きっかけだったというか。もしそれがなかったら、そこで諦めてたかもしれないですし。
それで退院後、音楽の道をがんばろうって思って。もちろん才能があるって言われたわ
けではないけれども、音楽をほんとにやりたい思いが強いって言って、音楽の道に進み
たいっていうことになったんです」
●その時はまだオリジナルは作ってないですよね。
「オリジナルは作ってないですね。ギターも持ってなくて。邦楽の曲を歌いました」
●それは大きな自信になりますよね。可能性はゼロじゃないんだというか。
「そうですね。なんか、ゼロではないって思えるきっかけですね。それが高校1年が終
わる頃だったので、ちょうどいい時期でもありますので。だから、じゃあここでってい
うので先生も説得して。先生もいろいろ言ってくれましたよね、やっぱり心配してくれ
て。『私は普通の道しか進んだことないからわからないけども、そういう道でデビュー
したとか聞いたことないよ』っていうのはよく言われましたね」
●お母さんはなんておっしゃってましたか?
「こうと決めたら自分の中でかなり覚悟ができてしまうほうなので、それくらい思いが
強いんだな、と思っている感じでした。それまでそういうふうにあんまり強く言うこと
はなかったので。反対するというよりも、『そんなに思いが強いんなら、自分の選んだ
道に進みなさい』っていう感じが、言葉で言わずとも感じられましたね」
●音楽の道に進むという覚悟ができても、具体的になにをすればいいんだろうってなっ
たと思うんですけど。それはどうでしたか?
「もちろんそういうふうに悩んでいる時期はありまして。進む道がまったくわからない
んで、目の前真っ暗みたいな。で、そのあとストリート(ライヴ)を見る機会があって。
それで出会ったのが、ビアンコネロさんのライヴだったんですね。それまで都市部に行
くことがあんまりなくて、ストリートも観たことがなかったんです。ビアンコネロさん
のライヴをよく観に行くっていう女の子の友達がいて、私が『なんかあったら教えてね』
って言っていたら、今日ライヴがあるからって教えてくれて、初めて博多駅からバスに
乗って、どこで降りたらいいんだろうとかって言いながら降りて。その女の子がこっち
こっちって教えてくれて。そこで、初めてストリートに立ってるミュージシャンを見て、
至近距離で生のギターと歌声を聴いて、すごく感動したんですよね。よく言ってるエピ
ソードで、ライヴ終わったあとビアンコネロさんに声かけて。やっぱりライヴに感動し
たっていうのももちろんあったでしょうし。あとは私の好奇心だったり、『今しかない!』
っていう思いだったり。ほんとに他に道が見あたらなかったっていうので、ここでたく
さん訊いてみたいっていうのがあったんでしょうね。それで、普通に『こんばんは』っ
てなんとなく話しかけてみて、『音楽を本気でやりたいと思ってるんですけども、どう
したらいいんですか?』みたいな感じで、訊いた記憶がありますね。それまでは、やっ
ぱりそういう専門学校かなあって思ってたんですけど、高校にちゃんと行ってないので、
やっぱり通えないのかなあと思っていて。そしたら、『専門学校じゃないけど、音楽塾
だったらあるよ』って教えてくれたんですね。それからちょっと時間があって、でもビ
アンコネロさんのライヴにも足を運ぶようになって、音楽塾にいる人に関わるきっかけ
があって。そしたらその人が覚えててくれて、『じゃああの子連れておいでよ』って言
ってくれたみたいで、それが行くきっかけになって。やっと、進む方向性みたいなもの
が見えたというか、やるべきことが見えたって言うか。でも、こんなにお世話になると
は思ってませんでしたよね。その出会いはすごい大切でしたよね。音楽の道に足を踏み
入れるきっかけとなったかなと、うん。それで、その音楽塾に通うようになって、都市
部に行くようになったっていうので、バイトも替わりましたね。最初は確か、和民のラ
ンチをやってました。ランチだったら時間的にも出来るかなあと思って。こうやってマ
イクみたいなのを耳のあたりにつけて、ピッてやるのあるじゃないですか、あれがすご
い面白かったです。無闇やたらにピピピッて(笑)。そこで交通費をいただきながら、音
楽塾に通う生活になりましたね」
●週にどれくらい通ってたんですか?
「もう、毎日のようにバイト終わって行って。自分のギターがなかったんで、友達のギ
ターを借りて触らしてもらって、っていう感じでした。それでなんとなくいろいろカバ
ーしてみたりとかしてましたね。開放弦鳴らしただけで『すごい!』って言ってました
ね。『これはすごい!きれいな音だ!』って、すごく感動したの覚えてますね。あと周
りの人たちがギターを楽しそうに、幸せそうに弾く姿を見て、すごく感動しましたね。
教えるっていうのよりは、誰かに『F弾けるようになりました。どうですか?』って言
って、ビビビビッって弾いて、『ひどいな』みたいな、そんな他愛のない感じの会話を
してましたね。そういう中で、もっともっと音楽のことが知りたいとか、もっともっと
ギターを弾けるようになりたいという気持ちが生まれてきて、すごい楽しかったですね。
それで、ある日ギターをくれるって音楽塾の人が言ってくれて、自分のギターっていう
のが、すごい嬉しくて。それでその人に『音楽をないがしろにしたら返してもらうぞ』
って言われてもらったんです。そのギターを持って帰って、おうちで練習しようと思っ
たら、音が大きいので、弾けるとこないかなっていうので、田んぼのあぜ道とか海とか
に行って、弾いてましたね。ギターのボディって、ちょっとひやっとするというか、冷
たいじゃないですか。冬に弾いてたからかわかんないんですけど。でも、きっとこの冷
たさに慣れていくんだろうなって思えて。そういうのも落ち着くようになりましたね。
安心できたというか。それで、ギターを弾くようになったり、周りに作る人がいっぱい
いたので、自然に自分も曲を作ろうと思ったんでしょうね。それでなんとなく、メロディ
をコードに乗せていくところから始まりましたね。それまでは曲がコードで作られてい
るっていうことも知らなかったので、そういうことを知った時っていうのは、すごい衝
撃がありましたね。ほんとに、知れるっていうことがありがたかったですね。最初はコ
ードを鳴らして、そのコードになんとなく自分の好きな感じの音を乗せていく感じだっ
たんですけど、それがどんどん自分なりのメロディが出てくるようになってきたりして。
そこから具体的に曲になっていきましたね」
●最初に出来た曲が"Why me"でしたよね?
「はい」
●あの曲ができていく過程はどういう感じだったんですか?
「詞をメロディにのせるのは初めてだったので、やっぱりそこはかなり試行錯誤があり
ましたね。すごい難しかったですね。誰かに聞いてもらったりとかはあったと思うんで
すけど、なんとなく自分なりにのせてみたりとかはしてましたね。最初は英詞だったん
ですよ、"Why me"って全部。でも、途中で日本語の詞に変えて歌いましたね。できた時
はやっぱり、自分の曲っていう、特別感というのがすごい不思議で、単純に嬉しかった
ですね。その後おうちとか、音楽塾のお部屋あいてるとこで曲作りをどんどんやってま
したね。毎日、音楽やってましたね、うん。で、2曲、3曲って感じでできてったんです
けれども。なにかを掴んでこういう方向性でっていうのがわかったのではなくて、好き
な感じのコード進行だったりっていう感じで曲を作っていったら、どんどん曲ができて
いったみたいな」
●今でも、たとえばファッションとか、女の子っぽいことには疎いっておっしゃいます
けど、他のものに目移りしたりはしなかったんですか?
「なかったと思います。本とかは読んだりしてましたけども、それ以外ではあんまりな
かったと思いますね。音楽がすごい楽しかったので、ほんとに、いい意味で没頭してた
んでしょうね。形になっていくっていうのが嬉しかったと思いますね」
●ストリートライヴは、いつぐらいから始めたんですか?
「"Why me"を作ったあと――ですかね。度胸づけっていうので、出ることになって。ビ
アンコさんとかはよくライヴもやってて、ファンの方もちゃんといたので、その前座と
してストリートをやらせてもらえることになって。もう、まさに度胸付けでしたね。そ
ういうのが初めてだったんで、どういうものかもわかってないですし、もう頭が真っ白
になって、コードとかも上手く弾けなかったんですけど。でも、その横でビアンコの人
が一緒にギター弾いてくれたりとか、コーラスを歌ってくれたんで、なんとか1回目を
終えることができましたけども」
●お客さんは何人ぐらいいたんですか?
「結構、20人以上とかいたと思うんです。わーっていて。だからすごい緊張しましたね。
でも、ビアンコネロさんのファンの方なんで、すごいやさしい空気感だったんで、間違
えたりしたけども、安心できる部分もありましたね。それからは、ビアンコネロさんが
夏祭りみたいなので、お寺とかで歌ったりするのについていって、そこでまた前座で1
曲歌わせてもらったりとかして。歌ったら、夏祭りに来てるおじさんが、『サインを書
いちゃって』みたいな感じにで言ったりするんで、その時はフルネームで、普通に漢字
で自分の名前をおじさんの背中に書いたのを覚えてますね(笑)。Tシャツがもったいな
い、大丈夫かなあと思いましたけどね(笑)。いい思い出です、はい。それで最初にひと
りでストリートをやるようになったのが、私が最初にビアンコネロさんを見た場所で。
その時ビアンコネロさんは4人であぐらかいてギター弾いてたんですけど、今度は私が
そこであぐらかいて弾いて。そこから始まったんですね。その時キラキラして見えたビ
アンコネロさんたちが、どういうものをもいて、どういう気持ちで歌ってたのかなって
いうのをずっと考えていたので、そこでストリートをやるっていうのはすごく、自分に
とって特別な思いがあったというか。最初は、お客さんが止まる止まらない以前に、緊
張して、なにがなんだかわかんなかったんですけど、でも途中から自分もとても落ち着
いて、歌ったりできるようになってきて。ストリートやってる人が緊張してたら、止ま
ってくれる人も止まってくれないんで、そういうリラックスというか、気さくな空間を
作れたらいいなと思いながらやっていたら、なんとなく落ち着いてできるようになって
きて。そしたらそこでひとり止まってくれて、ちょっと聴いてくれていって、またひと
り、みたいな。そんな感じでやってましたね。なんとなく聴いてくれる人がいたり、時
には、ストリートをやっている人が帰りに立ち止まってくれて、『あ、今日はストリー
トやるんですか』なんて話をしたりして」
●それを続けていれば、自分の中にずっとあった音楽への夢に近づく感じがあったんで
すか?
「もう単純に・・・・・・目の前のことを見ていたので、ギターをもっと弾けるようになった
らいいなとかって、そういうことを感じてましたね」
●じゃあ、具体的にデビューしたいという気持ちがあったわけではなく。
「そうですね。そういうのをまだ考えてない、まだ始まったばっかりの時に、音楽塾の
人が勧めてくれたオーディションに行って、話がどんどん進んだんで。わりとまだ目の
前のことで、やってみたいことをいろいろやっている時にそういうお話になったんで、
すごいびっくりしましたね」
●そのオーディションが、ソニーのSDオーディションですよね。
「そうですね、はい」
●たくさんのミュージシャンがデビューしているオーディションなわけですけど、そう
いうことは考えたりしましたか?
「最初の頃は全然。そこまで、デビューするとかっていうのがあったわけじゃなくて、
なんかオーディションがあるっていうので、音楽塾の括りで出させてもらって。そこで
普通に楽しく歌ったって感じだったと思うんですけど。お話が進んでいくにつれてとい
うか、最後のほうになってくると実感が沸いてきたっていう感じでしたね。いろいろと
考えるようになりましたよね。そんな中で初めて飛行機に乗って、初めて東京に行って。
音楽塾の人が心配だっていうので一緒についてきてくれたんですけど。やっぱり人がい
っぱいいるんだなとか、ビルは高いんだな、なんて上を見ながら歩いてたりとか。荷物
いっぱい持ってきたら、スカウトの人が近寄ってきたりとかして、『東京ってこういう
街なんだ!』じゃないけど、最初そういうイメージがありましたね。やっぱり、全然知
らないところに行ったり、知らない人に会ったりするっていうことで、不安も大きかっ
たと思いますね。それで、ホールみたいなところに行って。そこにはレコード会社の人
がいっぱいいて、そんな中での最終審査でしたね。そこでは、いつも通りの感じでって
いうので、あぐらで弾かせてもらって。2曲って言われてたんですけど、3曲目をちょっ
とだけ歌ったりして。いつも通り、ストリートライヴをやっているような感覚で歌いま
したね。だからあんまり、手ごたえを感じるとかっていうより、普通に立ち止まって聴
いてくれてる人、みたいに。すごく緊張したから、ストリートのことを思い出して、ス
トリートでやってるように歌おうときっと思ったんでしょうね。最初ビアンコを見たよ
うに、キラキラしていたああいう感じを思い浮かべて、歌ってみようって思って。で、
2曲ではなく2曲半歌ったっていうのも、その少し前に作ってた"I know"がすごく希望の
ある曲だったので、聴いてもらいたいなと思って、すごい短めに歌ったんです。でも、
2曲半歌っちゃったんで怒られると思って、何か言われる前にそそくさ帰ったんですけ
れど(笑)。誰とも目を合わさずに帰ったような気がしますね」
●デビューするという話は、いつ、どういう形で来たんですか?
「具体的にそういう通知とかがあったわけではないんですけど、でもレコード会社の人
と話し合いながら、たくさん曲を作り始めてたんですよ。なので、なんかそういう予感
がするなあ、みたいな。結構長い間、福岡にいてたくさん曲を作ったりっていう期間が
あって、そういう中で、そういうことになるのかなっていう感じで思い始めて。それで、
東京に行くっていうのを聞いた時は、やっぱりわからないことも多いので、きっと不安
や期待が混じったような感情があったと思いますね。それでいろいろと長い間、考えた
りしましたね」
●それで、月に何度か東京に行って、デビューの準備をするわけですよね。
「はい。どんどん準備が進んでいきましたね。飛行機に乗って東京に着いて、そこから
モノレールに載って東京を見ている時に、なんか、すごい不思議な感覚でしたね。モノ
レールから見た東京の景色がかなり印象に残ってますね。で、またすぐ曲作りを始めて。
・・・・・・でも、無心で曲を作ってたかな。いっぱい気持ちがあるというよりはもうほんと、
無心な感じで曲を作っていたというか」
●それで飼っていた亀と金魚と一緒に東京に引っ越して。
「そうですね。上京する1年とか2年前とかから――もっと経ってたかな?自分で買って。
すっごい長生きですよね。亀とか、わけわかんないぐらいでかくなって(笑)。どれくら
いでかくなるんだろうっていまだに思ってるんですけど。東京に制作とかで月に何回か
着てて、もう東京に引っ越すって決まったって聞いた時に自然と考えていたことが、亀
と金魚、どうやって連れて行こうってことだったんですよ(笑)。どうやらそういうこと
を相談してたみたいですね。あとで聞いた話なんですけど。自然に勝手に連れて行くっ
て決められてる亀と金魚はかわいそうでしたね(笑)。まあ、福岡でも最後のほうは、音
楽にもう集中するっていうので実家ではなく、ひとり暮らししていたんです。その空間
で曲作りに集中していて。だから、その自分ちにいたんで、きっとそのまま連れて行こ
うって思ってたんですね」
●東京に来て、今のレーベルの人やいろんな人とやり取りをしていくのは、どうでした
か?
「最初はきっと緊張もしてたと思うので、なかなか無口だったりして、上手くしゃべれ
なかったと思いますね。でもそのあとすぐデビュー曲の"feel my soul"が月9の主題歌
になることが決まって、ドラマのプロデューサーの方との格闘の日々が始まったんです。
月9が決まったのはもちろんデビューする前なんですけど、いい意味ですごい大変な時
期で。プロデューサーの方とのやりとりで、一日にAメロをいくつか作ったりっていう
日々で。それで、プロデューサーの方と最終的にお会いして、私もギターを持っていっ
て、会議室みたいな広いところで4時間もお話させてもらって。その話を自分の中で理
解した上でできたメロディというのが、最終的にあの形になったんですけど。でも、そ
ういうふうに曲を作ったのも初めてだったし、源からすごい怒涛というか、無我夢中で
したね。最初はやっぱりいろんなことが難しかったですよね。理解できてないこともた
くさんあったので。葛藤とか模索とか試行錯誤っていうのが、まさに当てはまると思い
ますね。いきなりそういう大きな規模でデビューっていうこともあったりして。まあデ
ビューしてからもしばらくは、ストリートやってたりもしたんですけど、いろんなこと
がすごく大きな出来事過ぎて、理解するまでにかなり時間がかかったと思いますね」
●本当に、そこまであっという間ですもんね。
「あっという間ですね、うん。きっと怖さとかもあったと思いますね。まあいい意味で
の怖さだと思うんですけども。やっぱり、現状がどうなのかまったく把握してない状態
なので、どういうふうになるのかなっていう不安は、きっと漠然とあったと思いますね」
●月9主題歌の"feel my soul"は、YUlさんが上京する時の心境を書いた曲で、暗闇の中
から、一筋の光を求めているような楽曲ですけど、メジャー・デビュー曲を《泣き疲れて
たんだ》というフレーズから始めた気持ちというのは、どういうものだったんですか?
「たくさん、いろんなことを感じたり、っていう気持ちがこもってるんですけれども。
まさにそういう気持ちだったと思いますね。いろんな要素があると思うんですけど、で
もやっぱり、高校1年生の時、音楽が自分のこの先の人生にない、って思った時は悲し
かったですね。なんにもない気がして」
●東京に行ってメジャー・デビューすると決断した、一番大きな要因はなんだったんで
すか?
「・・・・・・まず最初に、親孝行したいっていう気持ちもありましたね。その気持ちはきっ
と、生まれてたと思うんですけどね。たとえば、まあ現実的な話をすると、高校に入学
するお金とかもわりと溜まっていたりしたので。そういうことがあったり。親孝行とい
うか、なんかそういう気持ちは漠然とありましたね。忙しそうなのをずっと見ていたか
らですかね。あとは、やっぱり単純に音楽が好きだっていう気持ちもあって。ビアンコ
ネロさんとかもみんな応援してくれてたので、がんばろうって思った。で、ビアンコネ
ロさんは私よりも1年くらい前にもう上京されてたんで、『ビアンコも東京にいること
だし、がんばろう!』みたいな気持ちで、心強いなって思ってましたね。心を許せる人
がいるっていうのは、すごく心強かったですね。最初は、期待と不安が入り混じった感
じだったんですけども、上京するときにはかなり、覚悟になっていたというんですかね。
決意というか。なのでもう、体が前に進もうとしているというか、そういうふうになっ
たと思いますね」
●YUlさんの曲は、大きな暗闇とか孤独とか悲しみから、必ず希望に向かって進んでい
く曲だと思うんですけど、ご自分のどういうところがそういう曲を生むんだと思います
か?
「その状況に飲み込まれないように。飲み込まれそうになる時に、やっぱり気持ちを強
く持っていないと飲み込まれてしまう。そういう気持ちがもしかしたら、大きく言えば
光だったりしたのかなって思うんです。単純に、状況に飲み込まれてしまわないように、
そういう強い気持ちを持たないといけなかったんだと思いますね。それがなかったら、
いろいろなことにきっと飲み込まれてたと思いますね。デビューしてたくさんの人に聴
いてもらえたけど、売れてなんとかですっていうのは到達点ではなくて。目標があって
も、そこに到達したら出発点になるという気持ちで進んでいってたんだと思います。で
もやっぱり、音楽に助けられたりすることが多かったですね。デビューする前に私が言
っていたことだけども、音楽はないと生きていけないものっていうのは、今でもそのま
んま当てはまると思うんです。やっぱり迷ったりしても、音楽がいろいろ教えてくれた
り、救ってくれたり、そういうところでずっと、見失わずに済んだのかなと思ったりし
ますね」
●いよいよ明日はたちになられるわけですけど、19年間のことを話してみて、どうでし
たか?
「・・・・・・でもやっぱり音楽がかなり、活躍されてますね、YUlさんの人生は、はい(笑)。
かなり影響を受けてると思います」
●そのものですよね、ほんとに。
「そうかもしれないですね。不思議なくらいまでに、かなり音楽に執着してるわけなん
ですけども。もちろん苦しいことや大変なこともいっぱいあると思うんですけど。でも、
それはやっぱり、好きだからこそ乗り越えて、ここまで来たんだと思いますので。今ま
でも自分の手で切り拓いてこれたので、またこれからも、たくさんの人や出会いに支え
てもらいながら、切り拓いていけたらなという、いい意味での強い気持ちを持って、晴
れ晴れと行きたいですよね」
●アルバム『CAN'T BUY MY LOVE』は、すごく豊かになった音楽性と歌と、その大変な
こともあった10代に感謝する晴れ晴れとしたムードもあって。YUlさんは、これからも
何十年も、このまま音楽や大切なものを信じてやっていくんだろうなということが伝わ
る作品になってると思います。
「うん。今、音楽ができてるのはすごい幸せだと思っているので。これから先も音楽を
長くやっていきたいなと思っていて、そのために努力して、お客さんの前で素でがんば
れたらなと思ってます。あとはやっぱり、皆さんにわくわくしてもらえたりとか、笑顔
になってもらえたりとか、『なんか面白いね』とか、そういうふうに言ってもらいたい
と思っているので。いろんなことに挑戦していくっていうことも自分なりに取り入れて、
20代を楽しんでいきたいなと思ってますね」
●その気持ちが揺らぐことはなさそうですか?
「揺らいだ時は言います。励ましてもらいます、はい。でも、やっぱり、いっぱいライ
ヴを観に行ったりして、ライヴを初めて観た時の感動を思い出したり、新しい刺激をも
らったりするんで。いい意味で変わりたくないっていう気持ちだったり。単純に、たと
えばライヴハウスに行くことをお仕事にはしたくないし。やっぱり音楽をずっと好きで、
初めて見たライヴが、輝いていて感動した気持ちをずっと持ってやっていきたいなと思
います。あとは、またたくさんの人にいろんなことを学んだりもしたいですね」
●わかりました。今日は本当にどうもありがとうございました。
「ありがとうございました!」