359 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:49:32 [ OUnojgKc ] 【雨】 被っていた新聞紙とダンボールをどけ、 ビルの谷間の僅かな空間から空を見上げれば、 ねずみ色をした雨雲が立ち込めていた。 やるべきことが増えたことを知り、 僕は僅かに天気を呪った。 いつもなら、 食堂なりハンバーガー屋なりの店の裏に回り、 残飯を漁って腹を満たせば、 あとは『やつら』に遭わないように、 適当に隠れていればよかった。 だけど、雨が降るとなると、 風邪を引かないためにも、 雨風をしのげる場所を確保しなければいけない。 それは残飯漁り以上に大変だった。 例えば、建物の中は『僕ら』が入ってはいけない場所だったため、 そこを使用することができなかった。 360 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:49:50 [ OUnojgKc ] 建物の中には『やつら』がいる。 『やつら』がいるところには決していかない。 それは、『僕ら』が知る数少ない生きる術。 『やつら』はとても大きな体をしていて当然力も強い。 それに対し『僕ら』の体は華奢でとても小さく力も弱かった。 だから、『僕ら』が『やつら』に遭うと、 『僕ら』はまるで縫いぐるみの様に扱われ、 ボロボロに引き裂かれ殺されるのだ。 そこには、 主人と従者、猟師と獲物、食う者と食われる者以上に 単純で絶対的な関係があった。 『殺す者と殺される者』。 それには、理由なんてなく、 未だ証明されていない数学の定理のように、 ただ漠然と、しかし抵抗することのできない強力な力を持っていた。 だから、建物の中やその軒下を借りるのは無理だった。 ビルの隙間から湿り気を帯びた生ぬるい風が吹き、 気だるい思考をさらに憂鬱にさせた。 そのとき、ぐぅ~と腹が間抜けな音を立てた。 その音を聞いて僕は小さくため息をついた。 雨宿りする場所よりもご飯のほうが先だった。 361 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:50:06 [ OUnojgKc ] 両腕にはまだ包装紙に包まれたままのおにぎり2つとお弁当が1つ。 これはコンビニの裏にあるゴミ箱から回収した物で、 今日のご飯だった。 賞味期限を多少過ぎているが、 それは我慢するしかない。 道路に顔を出し左右を確認する。 どちらにもやつらはいない。 それを確かめると僕は道に飛び出し、 通りの向こうの公園の敷地に入った。 ジャングルジム、滑り台、ブランコ、シーソー……、 様々な遊具の間を通り抜け目指す場所は、 敷地の片隅にある色あせた小さな建物。 2つある入り口にはそれぞれ、 赤と青い色の人の形をした絵が描いてあるプレートが取り付けられていた。 どこにでもある、公衆トイレだった。 わざわざ雨の日に公園に行く人なんていない。 ましてや、そこでトイレを利用する人なんていない。 そう踏んで、僕は雨の日には公衆トイレを利用していた。 でも、中は酷く臭うし、 お世辞にも綺麗だと言うところは少ないから、 いつもぎりぎりまで他の場所を探してのことだった。 遠くから雷鳴が聞こえ雨がもうすぐだと知り、 僕は急いで公衆トイレの中に入った。 途端、何かにぶつかった。 尻餅をつきながら腕の中のご飯が無事なのを確認すると、 何にぶつかったのか知るために視線を前に向けた。 目の前にあったのは太い脚。 視界には何とか下半身が入る程の巨体。 自分がやつらの脚にぶつかったと悟ったときには、 やつらの靴先が僕の顔面を捉えていた。 362 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:50:30 [ OUnojgKc ] 一瞬の無重力感。 すぐに僕は地面に叩きつけられた。 持っていたご飯も腕の中からこぼれ落ち、 あさっての方向へ飛んでいった。 でも、もうそんな物は関係なかった。 公衆トイレから出てきた2人組みのやつらが、 げらげらと笑いながら僕のほうへ歩いてくるのを見て、 僕は落ちたご飯を回収することなくやつらと反対方向へ駆け出した。 潰れた鼻から流れ出た血が中外両方を通って口の中へ入り込んだ。 口の中は砕けた歯の欠片が混じり、がりがりと嫌な音を出した。 顔面が熱を持ちずきずきと痛み、 頭の奥ががくがくと震えていた。 恐怖にもつれる足を何とか動かし、 つい先ほど通り抜けた公園の入り口に向かおうとする。 けれど、すぐに足は宙を切った。 背中をつかむやつらの手の感触。 逃げれなかった。 何とか背中を掴む手を解こうと、 手足を振り回した。 けれど、やつらにはそれが滑稽な姿にしか映らなかったみたいで、 やつらの笑い声に拍車をかけるだけだった。 363 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:50:48 [ OUnojgKc ] しばらくすると飽きたのか、 それともどうするか決まったのか、 僕は地面に投げ捨てられた。 手を突き、顔を上げるようとするが、 その前に脇腹に重い靴先の感覚。 途端内臓を駆け抜ける衝撃。 後者だったようだ。 苦味と酸味を含んだ液体が、 口を満たした血と共に吐き出された。 僅かに宙を待ったが、 茶色く渇いた大地へとすぐさま落下。 体が地面を滑り出したところで、 息つく間もなく背中に第二撃。 再度僕の体は地面を離れた。 まるでサッカーボールのように僕は蹴り飛ばされ、 地面に身体をこすりつけ、硬い靴底で受け止められ、また蹴り飛ばされる。 それは謝罪をすることも許しを乞うことも認められない暴力。 どんなにボールとして扱われることに屈辱感を募らせても、 どんなに生あるものとして扱われていないことに憤っても、 それを訴える権利すら認められない。 残るのはただ1つ。 耐えること。 終わりが早いことを願って。 ただひたすらに。 364 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:51:28 [ OUnojgKc ] 一際強い衝撃が、 僕の身体を遠くへ飛ばした。 流石にこれはもう1人も取れなかったらしく、 激しい金属音と共に僕を受け止めたのは、 公園の外周を囲む金網のフェンスだった。 そのまま頭から地面に落ちる。 草刈を免れた僅かな雑草達が、 靴底よりも好意的に受け止めてくれた。 やつらがこぼれたボールを取りにこっちにやってくるのが見えた。 逃げなければいけない。 なのに腹はまるで中で蛇がのた打ち回っているようで、 激しい吐き気と悪寒を感じた。 それに従い口から物を吐いても、 出てくるのは生臭い血と胃液、幾ばくかの白い欠片、 欠けた僕の歯が出てくるばかりで、 嫌悪感は身体の奥に居座ったままだった。 頭は未だに大きく振るえ、 スクリーンに映った映画を見ているように、 現実感を剥離させた。 気力はさっきの反吐と一緒に吐き出されたようで、 力がまったく入らなかった。 だから、立ち上がることも出来ず、 弱々しく、来るな、と呟くしか出来なかった。 365 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:52:25 [ OUnojgKc ] 突然、やつらの片方が上を向いて立ち止まった。 もう1人もそれに気づき手のひらを上にして空を見上げる。 僕もつられて視線を空に向ける。 何かが頬を軽く叩いた。 それはなぞる様に僕の頬を滑り落ちていった。 雨。 降り出した雨は今度は脚、腕と叩き、 水滴となって流れ落ちる。 やつらの声が聞こえ視線を戻した。 そのときにはやつらはそこには居らず、 遠くの車止めの脇を抜けて、 公園の外へ駆けていく後姿だけが見えた。 本当だったら僕が駆け抜けていくはずだった場所。 追いかけてくるやつらから逃れるために、 恐怖に顔を歪ませた僕が通るべきだった場所を走り抜けて。 雨は強くなってきた。 身体を叩く雨粒は次第に多くなり、 身体を伝い流れる水滴も多くなり、 やがて、無骨な包帯のように、 僕の身体の上をくるんでいく。 熱く腫れ上がった僕の身体には、 それが冷たくて心地よかった。 力を振り絞り上体を起こし空を見上げた。 重く暗い雨雲から降り注ぐ水滴は、 更に量を増していた。 この雲が、この雨が、やつらを追い払ってくれた。 それがとてもうれしくて、 だから、僕は口を開いた。 ありがとう、と。 366 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:53:03 [ OUnojgKc ] ──下卑た笑い声が聞こえなくなったのを確認し僕はまぶたを開いた。 目の前に広がるのは、あの日と同じ灰色の雨雲。 あの日と違って目が霞み、 様々な模様を楽しませてくれる雲の陰影を確かめることはできない。 どろどろと頭の中で蠢く闇へ流れ落ちそうな記憶をつなぎとめ、 ごうごうと頭の中に響く音に連れて行かれそうな思考をつなぎとめ、 僕は思い返す。 今日はあの日と同じ、 雨が降りそうなどんよりとした天気で、 ここはあの雨とであった公園で、 あの日のように僕はやつらに出会って、 逃げようとしても逃げられなくて、 そして、 雨は降らなくて…… 367 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:53:20 [ OUnojgKc ] あの日助けてくれた雨。 それからいつも助けてくれた雨。 やつらに襲われたとき追い払ってくれた雨。 道からやつらを一掃してくれた雨。 雨音と言うとても綺麗な歌を歌ってくれた雨。 やつらに殴られたところを優しく撫でてくれた雨。 僕の体を優しく抱いてくれた雨。 でも、今日は助けてくれなかった。 腕を切られる痛みに泣いても、 腹を裂かれる痛みに叫んでも、 雲はずっと傍観するように空に漂い、 雨となって駆けつけてくれることはなかった。 色彩が崩れるように欠落していく。 陰影が泡のように掻き消えていく。 白が黒が視界を覆いつくしていく。 曇り空が次々と侵食されていくなかで、 ただ、もう一度見たくて、 もう一度、雨が降る姿を見たくて、 無い腕を、空へ伸ばす。 368 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:53:35 [ OUnojgKc ] 頬を軽く叩かれる。 あらゆる刺激に鈍感になった現在の僕でも、 その衝撃だけは感じることができた。 あの日と同じ衝撃。 雨。 降り出したその雨は急激に勢いを増し、 ざあざあと雨音を大きくしていく。 まるで、ごめんね、ごめんねと謝るように。 謝らなくていいのに。 謝るのは僕のほうなのに。 それなのに、雨は弱まるそぶりを見せず、 ただひたすら謝罪の言葉をつづける。 ごめんね、と。 だから、僕は精一杯の笑顔を作った。 口を開けば中にたまっていた血が、 僅かにあふれ出した。 息を吐くとたまっていた血がごぼごぼと音を立てた。 それでも、なんとか言葉をつむぎだす。 ありがとう、と。 あの日と同じ感謝の言葉。 だって雨は間に合ったのだから。 でも、やっぱり今日はあの日と違う。 だって、僕を包むその身体が、 あの日は冷たかったその身体が、 今日はなんだかとても、 369 名前:鍵 (gxeI9vq.) 投稿日:2005/04/17(日) 05:53:56 [ OUnojgKc ] 暖かい── 【終】