戦犯

Last-modified: 2015-06-23 (火) 01:18:41
812 名前: 戦犯(1/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:02 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


   この国が負けて、戦争は終わった。
   人々が恐れていたほど、それは悪い物ではなかった。
   そして戦勝への切り札は、不幸を象徴する化け物になった。

 その研究所は、もとは小学校として使われていた建物だった。
 木造の壁はペンキで白く塗ってあるし、大きなガラス窓からは光が
たくさん入ってくるしで、ぽろろはこの研究所が大好きだった。
 戦争が終わってから磨かれていない壁は少しくすんでいたし、
窓ガラスのいくらかは割れて鎧戸が下りたままになっていたけれど。
ともかくここは、ぽろろが生まれた大事な場所なのだ。

 ぽろろはまっすぐに廊下を歩いていく。
 その突き当たりにはフサギコの研究室があった。
 がらりと戸を引いて、ぽろろは彼に声をかけた。
「博士」
「ん? どうした?」
 見ていた写真から顔を上げて、フサギコは口元に笑みを作って
こちらを向いた。
「短い針、3になったよ」
 ぽろろが時計を示すと、フサギコは「ああ」と思い出したような声を
上げ、写真立てを机の上に戻した。
 彼がしょっちゅう眺めている物が何なのか、ぽろろはちゃんと知って
いる。フサギコが妻と子供と一緒に立っている写真だ。写真立ての中の
フサギコは、ぽろろが見たことのない幸せそうな顔をしていた。
「そうそう、買い物に行くんだった」
 フサギコは白衣を脱いで椅子の背もたれにかけた。机の引き出しから
財布を取りだして、ぽろろも一緒に来るんだろうと聞いてくる。
「僕は……」
 口ごもったぽろろに、フサギコは顔を曇らせた。
「……ぽろろが嫌なら、無理にとは言わないが」
 ぽろろは首を振る。
「僕は嫌じゃないよ。でも、博士が、僕と行くのは嫌かなって」
 俯いているぽろろの頭を、フサギコが優しく撫でた。
「嫌なわけないだろう。お前の支度がよければすぐ行こう」
「うん」
 ぽろろは顔を上げて、フサギコの手につかまった。

813 名前: 戦犯(2/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:03 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 二人は、いつものように歩きで商店街を目指した。
 この町は田舎だったので、戦争中もほとんど敵機は飛んでこなかった。
首都は完全に焼け落ちてしまったと噂に聞いたが、ほとんど戦前と
変わらぬ町に暮らしていると、首都も未だに健在であるように錯覚
してしまう。
 住宅街を抜けると、次第に人通りが多くなってきた。
 ぽろろは上着のフードをしっかりと被っていた。だが、町の住人は皆、
フサギコが連れた小柄なAAの正体を知っていた。声をひそめて
――あるいは聞こえよがしに――住人達はぽろろの事を話し合う。

 良く出歩けるわね。
 迷惑になるとか考えないのか?
 しんじゃえばいいのに。

 戦争中は、ぽろろの事を悪く言う者などいなかった。彼が何のために
生まれたのかを分かった上で、人々は彼の事を祝福してくれた。
ぽろろは、望まれて生まれてきたのに。
 繋いでいたぽろろの手を、フサギコがぎゅっと握ってきた。この世に
存在する全てのAAがぽろろを呪ったとしても、フサギコだけは味方だと
いうように。
(大丈夫だよ)
 ぽろろは思いを伝えるために、フサギコの手を握り返した。

 野菜と、子供達が小遣い稼ぎに売っていた川魚を買って、二人は
雑貨屋に向かった。目当ての物は石鹸だ。
 ぽろろは、繋いだ手を後ろに引っ張られるような形で止められた。
「……博士?」
 見上げると、フサギコはじっと一点をみつめている。視線を追う。
その先には、ちょうどこちらに気付いたしぃがいた。
「しぃお姉ちゃん……」
 ぽろろが生まれたばかりの頃は、毎日のように研究所に来て遊んで
くれたAAだった。遊びに来てくれる回数はだんだん少なくなり、戦争が
終わってからはずっと会っていない。皆が化け物だと言うから、しぃも
ぽろろの事を嫌いになってしまったのかもしれない。
 しぃはこちらに向かって頭を下げると、寂しそうな微笑を浮かべた。
ぽろろが知っている限り、彼女はいつもそんな笑い方をする。
「アイスでも買いなさい」
 フサギコはぽろろに小銭を握らせて、しぃの方に歩いていった。

814 名前: 戦犯(3/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:03 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 ぽろろは赤いアイスキャンディを買った。
 味など分からない。兵器として生まれた彼には、味覚など必要無かった
から。ただ、赤い色をした冷菓は、ぽろろには一番魅力的に思えたのだ。
 血を舐めているみたいだと、誰かがそんな事を言いながら
行きすぎていった。ぽろろは聞こえていないふりをした。

 大事な話があると言って、フサギコとしぃは少し離れた川原に行って
しまった。ぽろろのいる場所には声は聞こえてこなかったが、二人は
大事な話をしているというよりも、ケンカしているように見えた。

 ぽろろがアイスを食べ終わっても、二人はなかなか帰ってこない。
 一人で視線に晒されているのはとても居心地悪かった。
「赤いの二つ下さい」
 フサギコの分としぃの分。小銭の残りでアイスを2本買って、
ぽろろは二人の所に行くことにした。

 二人は話に夢中で、近付くぽろろには気付かなかったらしい。
「チガイマス」
 しぃは悲しそうに、フサギコに言葉を返していた。
 心変わりをしたわけではないと。だから研究所に行くのが辛いのだと。
「違う? ならどうして? ああ、変わるも何も、最初から心などなかったか?」
 フサギコは口早にまくしたてて、一度区切って息を吸った。
「……タカラに嫁ぐのに、ぽろろは邪魔か」
 裕福な玩具商の名を挙げて、フサギコは憎らしそうにしぃを睨んだ。
 しぃは一瞬泣き出しそうな表情を見せたが、ぐっと歯を噛んで、
フサギコを見据えた。うっすらと涙をにじませながら、それでも毅然とした
態度でフサギコの言葉を否定する。
 フサギコが考えているような事はない。しぃはタカラの元に輿入れ
する気などないのだと。
「それなら」
「……やめてよ」
 しぃとフサギコはぎくりとした様子で、同時にぽろろを見下ろした。
「ケンカ、しないで」
 気まずそうに口ごもって、二人は視線をさまよわせた。
 フサギコがしぃに詰め寄っている原因は、ぽろろに違いなかった。
周囲の目の変化に気付くまで、ぽろろは何度もフサギコに質問した
のだ。「どうしてしぃお姉ちゃんは来てくれないの?」と。その度に
フサギコは困った様子で、来てくれるように頼んでおく、と答えていた。

 会いたいなんて言うんじゃなかった。
「僕は、しぃお姉ちゃんの事が」
 大好き。
「嫌いになったんだ。だからもう」
 泣かないで。
「研究所には来ないといい」

 ぽろろの嘘は、二人を騙せてはいなかった。
 しぃは苦しげに顔を歪め、フサギコは肉球に爪が食い込むほど固く
拳を握った。けれど二人は、ぽろろの嘘を咎めなかった。
「……ぽろろがそう言ってる。二度と顔を見せるな」
「ハイ・・・」
 フサギコは柳の影に置いてあった野菜と魚を取りに向かった。
ぽろろも後を追う。
「オジサマ」
 しぃに呼ばれて、フサギコは振り向いた。
「なんだ?」
 しぃ族の女は強情だと、彼女は言った。彼女が終生思い続ける
のは一人だけだと。
「ギコサン。ホカニハ イマセン」
 彼女は二度とギコには会えない。その意味において、彼は
戦死したも同然だった。
 フサギコは、一瞬何を言われたのか理解できなかったようだったが、
じきに力無く肩を落とした。
「……そうか」
 しぃは深く頭を下げて、商店街の方に歩き始めた。

「博士、帰らないの?」
 ぽろろが遠慮がちに声をかけると、フサギコは泣くように笑った。
「ご……」
 フサギコは何か言いかけたが、結局そのまま言葉を飲み込んで、
しぃと良く似た、寂しそうな笑い方をした。
「……なに?」
「いいや、なんでもない。帰ろう」
 差し出された手につかまろうとして、ぽろろは両手に持っていた
アイスの存在を思い出した。溶けて滴った赤い液体に濡れて、
ぽろろの手は血に染まっているようだった。
「博士と……」
 しぃの名前が出せなくて、ぽろろは言い直す。
「博士に、あげようと思って」
「ありがとう」
 アイスを一つ取り上げて、フサギコはぽろろの手を布で拭き始めた。
ぽろろの手は血に濡れたりなんてしていない。一度も稼働する事無く
終戦を迎えた、この生物兵器の手は清らかだった。

815 名前: 戦犯(4/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:04 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 橋の欄干に寄りかかって、ギコは釣り糸を垂らしている。初夏と
いっても昼の日射しは強くて、ギコの背はすっかり熱くなっていた。
 川で冷やされた涼しい空気が、風になってギコに届けられた。
 ギコは気持ちよさそうに目を細めた。

 麦わら帽子の耳穴から飛び出したギコの耳が、はたりと動く。
「アイス」
「お、悪いな」
 戻ってきた許嫁が差し出す冷菓を、ギコは感謝を示して受け取った。
 子供のような仕草でアイスを頬張るギコに、未来の妻は
くっすぐったそうな笑い声をあげる。
「……なんだよ」
「ギコサン ゼッタイ イチゴアジ ナンダモノ」
 そういう彼女だって、選ぶのはいつもミルク味なのだが。
 苺と表現するより、イチゴ味と呼んだ方がしっくりくるチープな冷菓を
口だけでくわえて、ギコは餌の状態を確認するために竿を引いた。
……とられている。
 餌をつけ直して川に投げ込み、ギコはアイスを口から離した。
棒つきの赤い冷菓を振ってみせる。
「これが一番美味いんだよ」
「ソウ?」
 笑みの残る顔で、しぃはギコを真似するように欄干にもたれかかった。
「ツレソウ?」
「……聞くな」
 ある種明確な返答を返すと、彼女はまたくすくすと笑った。

 風が強くなった。
 草の葉や木立の葉が揺れ、ざわざわと心地よい音を立てる。
 しぃは目を閉じて、木々の声を聞いているようだった。
「……しぃ」
「・・・ハイ?」
 呼ぶと、彼女は穏やかな表情で顔を上げた。
 そんな彼女を正視できなくて、ギコは、水面の浮きに目を向けた。
「軍に入ろうと思う」
 流れに、浮きはくるくるとダンスを踊っていた。上流から流れて来た
緑の葉が、誘うように浮きにまとわりついて流れ過ぎて行った。
しぃが今どんな顔をしているのか、下を向いているギコには分からない。
 沈黙の後、彼女は一言「そう」と呟いて、ギコの言葉を許諾した。
「止めないのか?」
 止めれば諦めるのかと質問で返され、ギコは返答に詰まる。
「ムカシカラ ソウ」
 ギコは強情だからと、彼女が苦笑する。
「……そうか?」
「ウン」
 一度決めた事は譲らない、そんなところがあると。
「……そうか」
「ソウヨ」
 風が止んだ。

 しぃが風上を向いた。どうして吹くのを止めてしまうのかと、風に
問うような目をしている。
「デモ ドウシテ、イマ?」
 海の向こうから聞こえてくる話は、どれも暗い物だった。この国は、
きっともうすぐ戦争を始める。
「今だから、だ」
 しぃは寂しそうに笑って、「そう」とギコに寄り添った。

816 名前: 戦犯(5/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:04 [ tMx9C5r6 ]
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 ぽろろは概ね早起きだったし、夜更かしするフサギコは大抵昼まで
寝ていた。
 だから朝の世話は、ぽろろがする事になっていた。

 数枚重ねたカーテンと鎧戸に守られて、その部屋は完全に太陽から
遮断されていた。
「おはよう」
 薄暗い人工照明に、験体1号の粘膜はぬらぬらと光っている。
その姿は、ちょうど生の挽肉をこねて、とろみのあるソースをかけた
ようだった。二つきりの眼球が、ぼんやりと、どことも知れない虚空を
眺めている。
 験体1号は、ぽろろになり損ねた……言ってみれば失敗作だった。
ぽろろがぽろろとして存在していられるのは、その犠牲があっての事だ。
「今日も夢を見たよ」
 ぽろろはいつものように験体の体に水をかけて、昨日の夜に
張り付けた魚肉の残物をガーゼでぬぐい取った。こまめに世話して
清潔にしてやらないと、汚れた箇所から、これは生きたまま腐ってしまう。
 兵器どころか、この失敗作は普通のAAよりも弱かった。
「どんな夢だったのかは、思い出せないんだけど」
 おそよ知性など感じられない肉の塊に、ぽろろは親しげに話しかける。
「……ごめんね。覚えておいて教えてあげるって約束したのに」
 験体の体を拭き終えたぽろろは、最後にもう一度水をかけてから、
椅子に腰かけた。
「多分、楽しい夢だよ。朝起きると、いつもいい気分がするから」
 そう言って、ぽろろは笑顔を作った。

 験体とぽろろは、今この国が一番処分に困っている武器だった。
 これが戦闘機や爆弾なら、バラバラに分解して使えなくして
しまえばいい。けれど、ぽろろ達は生き物だ。記憶も姿も、もう
改造前の姿は留めていなかったけれど、それでも二人は未だ
人権を持つAAだった。
 平和を与えられたこの国の人々は、手の平を返すようにぽろろ達を
捨てた。戦争を肯定していた自分自身を憎しむように、彼らは、
戦争のためだけに存在するぽろろを嫌悪した。
 ぽろろやフサギコが現在も無事なのは、皮肉なことに、戦勝国の
軍隊が保護を主張したからだった。責任の所在は国にあり、
ぽろろ達は被害者だ、と宣言したのだ。そうでなければ、研究所の
ガラスを数枚割られただけで終わったはずはなかった。

817 名前: 戦犯(6/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:05 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


「君はどうして志願したのか、覚えてる?」
 ぽろろは肉塊に質問した。
 返事が返ってくることはありえない。フサギコを含めた研究員たち
――その頃は研究所には職員がたくさんいた――が調べた結果、
あらゆるデータが、自我と記憶が失われている事を裏付けているのだ。
「僕は、なんとなく覚えてるよ。はっきりとは思い出せないけど」
 ぽろろがぽろろになったとき、それまでの記憶のほとんど全てが
とんでしまった。フサギコや他の研究員に聞いても教えてもらえ
なかったので、ぽろろは、かつての自分の性別すら分からない。
「皆を守りたい、って思ったんだ。皆がだれだったのかは、
分からないけど。……君も、何か守りたい物があったの?」
 験体が「ぃぇぁ」と声をあげた。験体は時々そんな声を出す。
それはただ、気管の名残を空気が通る時の音にすぎず、意志がある
反応ではあり得なかった。けれど、あまりにタイミングが良かったので、
ぽろろは返事をしてもらったような気がした。
「そう。君が大事にしたかったものが、今、守られてるといいね」
 言ってしまってから、ぽろろはしばらく黙り込んだ。

「……僕が僕になる前に守りたかった物が、今どうなってるのかは
分からないけど、今、僕には守らなきゃいけない物がある」
 一瞬ためらって、結局ぽろろは言葉を続けた。
「君も博士は好きだよね。僕たちがいると、博士は皆から悪く言われるんだ」
 ぽろろは右手を験体に伸ばした。比喩ではなく、2メートル近く伸びた
触手のような腕が、験体に触れる。
「僕は、僕と君から博士を守らなくちゃならない」
 行為を許してくれとは言えなかった。許されてはいけないと、ぽろろは
思ったから。謝罪を口にする事すら罪に思えて、ぽろろは黙って
右腕を突き立てた。
 しっかりとした骨格のない験体に、ぽろろの腕はあっけなく貫通した。
験体の体液は、人の血液と同じ色をしていた。ぬめりのある赤い液体が
ぽろろの腕を濡らす。ぐにぐにとした、内蔵とも筋肉ともつかない肉の
感触が気持ち悪い。
 験体は普段は少しも動かなかったが、傷に怯えたのか、今は塩を
かけられたナメクジのように体をねじっていた。串刺しにしてくる
ぽろろの腕から逃れようともがいている。二つの眼球がばらばらに動き回り、
まるで攻撃者の姿を探しているようだった。
 見えているはずはない。その目は神経がついておらず、ただの
飾りに過ぎないのだ。……けれどあるいは、かつて見えていた頃の
記憶を、眼球だけは覚えていたのかもしれない。
 ぽろろは腕を験体の中に突っ込んだまま、その表面に、ウニの
ようにびっしりとトゲを生えさせた。生体兵器のなり損ねには、
その攻撃は充分過ぎる致命傷だった。

 挽肉をこねたような姿をしていた験体は、本物の肉塊になり果てた。
 ぽろろは腕を引いた。植物が根を張る様を逆回しで映したように、
彼の腕はきちんと元の姿に戻る。下ろした指先から験体の体液が滴った。
 験体の表面にはぽろろのトゲが貫通した跡が無数に残っていた。
毛穴のようなそれは、ぶつぶつと赤く液体を滲ませてていて、何か
悪い病気でも患っているようだった。
「……ごめんね」
 ぽろろは泣きじゃくって、届かなくなった謝罪の言葉を口にした。

 フサギコを起こさないように声を殺して泣いた後、
ぽろろは研究所を抜け出した。

818 名前: 戦犯(7/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:05 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 モナーがその町に配置されていたのは、いってみれば左遷だった。
 彼の妹のガナーには恋人がいたのに、上官はそれを知った上で、
自分と結婚させろと迫って来たのだ。これが戦争中ならモナーは
前線に送られていた所だが、幸い、縁談話が出たのは戦争が
終わってからだった。
 たった一人の妹は、今はめでたく恋人の元に嫁ぎ、その腹には
モナーの甥だか姪だかがいるらしい。
 戦争が終わって本当に良かったと、モナーはそう思う。

 廊下を走る軍靴の音がする。
 敵襲でもあるまいに、と、モナーはわずかに眉を寄せる。
「失礼します!」
 しかし、入ってきた部下の顔はひどく険しい物だった。
「どうかしたモナ?」
「……ぽろろが、来ました」
 怯えを見せてはならない。モナーは軍人なのだから。

 部下達は軍舎の前に勢揃いしていた。
 町の規模から考えれば軍人の数は多すぎたが、怪物を相手にする
には、戦力は絶対的に不足していた。
「何の用モナ?」
 頼りなげに立っている生体兵器は、まるで幼く内気なAAのように
見えた。少なくともモナーは、さっきまでそう思っていた。共生できる
かもしれないと、軍人らしからぬ甘い考えを抱いていた。
 今、ぽろろの右腕は赤茶色に汚れていた。それは固まりかけた
血液に違いない。
(誰の血モナ?)
 ぽろろ自身の――あるいはぽろろの処分を拒んだフサギコの――
血ならいいと、モナーは思った。何の罪もない町の人を手にかけたの
なら、モナーは絶対にこの化け物を許さない。
「僕を、殺して下さい」
 化け物が口にしたのは、この場にいる軍人全てが望んでいる事だった。
 答えはもちろんイエス。そのために、モナー達はここにいる。

 ぽろろを連れて、モナー達は裏庭に移動した。穴の開いた的が
たくさんある、そこは射撃の練習場だった。
 ぽろろは大人しく縛られて、射撃場の真ん中にうずくまった。
銃撃班は照準をぽろろに合わせている。
「ガソリン、用意できました」
 ポリタンクを持ってきた部下達に、モナーは頷いた。ぽろろが
動かなくなったら火をかけるのだ。跡形も残らないように、しっかりと
焼き尽くさなければならない。
 噂には、ぽろろは肉の一片からでも再生するとの事だった。
 撃て。そう合図を出そうとしたとき、表の方から言い争う声が
聞こえてきた。

 見張りに残しておいた部下達に制止されながら、白衣のフサギコが
裏庭に侵入してきた。
「ぽろろ!」
 無事な姿に、彼は安堵したように笑った。
「博士……」
 ぽろろは、フサギコの視線を避けるように顔を伏せた。
「ぽろろがこんな所に来る必要はない、一緒に帰ろう」
 フサギコが、射撃班とぽろろとの間に立ち入ろうとする。
モナーの合図に、部下達がフサギコを地面に押さえつけた。
「離せ! あの子が何をした?」
 無様に引き倒されたフサギコが、モナーを睨み上げてくる。
「あの手は、何で汚れているモナ?」
 モナーの質問に、フサギコは腹立たしげに吠えた。
「あの血は、お前達が殺したがっていた者の血だ。お前ら皆が
追いつめて、あの子に殺させたんじゃないか」
「……ああ、あれはまだ死んでなかったモナ?」
 ぽろろを作る実験の過程で生み出された失敗作。赴任にあたって
説明は受けていたが、長く保たないはずだとも聞いていたのに。
「貴様ら、よくそんな事が……」
 モナーにとって、フサギコは罪人だった。その彼から
咎めるような目で見られて、モナーは少し気分が悪かった。

819 名前: 戦犯(8/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:06 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 言い争う声に、ぽろろは恐る恐る顔を上げた。
 フサギコは地面にうつぶせになり、軍服を着たAAが数人がかりで
彼を押さえていた。
「止めてよ……」
 ぽろろは呟いたが、その声は誰にも届かなかった。
 フサギコが一生懸命に訴えているのは、ぽろろは悪くないという事だ。
だから連れて帰るのだと、そう言っている。
 けれど、ぽろろはもう研究所には帰れなかった。ぽろろの手は
汚れている。彼を連れて帰れば、フサギコはますます孤立するだろう。
「博士を、放してあげて」
 未だぽろろに狙いを定めていた射撃班の幾人かが、
ぽろろの様子が変わった事に気付いたらしかった。
 モナーとフサギコの会話を遮ってでも報告するべきなのか、
悩んでいる風に互いに顔を見合わせている。

 狂っていると、モナーはフサギコの事をそう評した。
(どうしてそんな事、言うの? 博士は立派な軍人じゃなかったの? 
妻と息子をお国に捧げた、博士は立派な研究者じゃなかったの?)
「博士をいじめないで」
 ぽろろの体が長く伸び上がった。拘束していた縄が千切れ、
こちらを見ていた軍服の一人が情けない悲鳴をあげた。
全ての目線が、ぽろろに向かう。
 ぽろろの脇腹から、対になった触手が幾本も生えてきた。
そんなぽろろの姿は、少しムカデと似ていたかもしれない。
「博士を……」
 銃声が響いた。ぽろろの右の7番目の触手が、付け根で
吹き飛ばされる。
 モナーは命令していなかったが、軍人の一人がぽろろの異形に
怯えたらしい。
(痛い。痛いよ)
 兵器として生まれたぽろろには、痛みは必要な感覚だった。
 肉体的な苦痛は、何より反撃の衝動を駆り立てる。
「いっ、た……」
 反射的に、攻撃者に向かって触手が伸びる。
 ぽろろを撃った軍服は、恐怖に叫びながら銃を連射した。
 弾丸を受けて触手の肉が飛び散る。
 他の軍服達も、慌てた様子でぽろろに銃を向けてきた。

 フサギコが止めろと叫んだ。どうしてこんなひどい事ができるのだと。
(痛い、痛い、痛い)
 ぽろろの体は、一斉射撃にぐちゃぐちゃに撃ち潰されていく。
 彼が地面に倒れ込んでもなお、鉛の雨は降り続いた。

820 名前: 戦犯(9/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:06 [ tMx9C5r6 ]
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 銃声は止み、フサギコを押さえていた手が離れた。
 軍人達は、きっとぽろろが死んだと思ったのだ。そして、
手遅れになったフサギコは、抵抗を止めるものと考えたに違いない。

 フサギコはのろのろと立ち上がって、毛皮や白衣の土埃を
叩き払った。彼は確かに、もう軍人達を止めようとはしなかった。
全ては手送れだ。
「火を」
 モナーの命令で、ポリタンクを抱いた軍服達が動き始めた。
 フサギコは感情のない目で、彼らの背中を追った。警告する気など、
あるわけがなかった。
 もとはぽろろだった血だまりに、軍人達がガソリンを注ぐ。
 フサギコも含めたその場にいる全てのAAが、
その作業に注目していた。

 ぽろろの「死体」は、爆発するように膨れ上がった。

 犠牲者は、ぽろろの血だまりを足で踏んでいた男だった。
 アメーバのように流動する赤い体が、犠牲者の足を押し倒す。
「あ、ああ!」
 第三形態。
 こうなったぽろろに、もう理性はない。自己防衛の本能と食欲だけで、
周囲の動物に遅いかかる。
 消化液を兼ねた強酸性の保護粘液が、犠牲者の足を溶かしていく。
 犠牲者は頭を左右に振って、なんとか逃れようと、両手でぽろろの体を
押し返した。
「うあっ」
 彼はのけぞって両手を引いた。
 当然だ。
 酸に侵された両手の平から、蒸気とも煙ともつかない白い気体が
あがっている。
「撃て」
 モナーの号令に、ぽろろの近くにいた軍服達が退避した。
 射撃が始まった。取り込まれそうになっている被害者を避けて、弾丸が
飛んでいく。銃弾に傷ついても、ぽろろには怯む気配はなかった。
(無理だ)
 フサギコは冷静に判断を下した。そんな半端な攻撃ではぽろろは
殺せない。ぽろろは、この場にいる全てのAAを食らいつくすまで
暴走を続けるだろう。
「あ、あっ、あぁ……」
 両目をかっと見開いたまま、犠牲者は動かなくなった。
 死んだわけではない。彼はまだ膝上あたりまでしか溶かされて
いない。粘液に含まれる神経毒がまわったのだ。
 ぽろろはそのまま、全身で犠牲者を包み込んだ。もしもぽろろの体が
透明だったら、生きたまま表面から溶けていくAAの姿が見えていた所だ。
「……火を」
 モナーが決断を下した。
 判断自体は悪くなかった。ぽろろに取り込まれた彼は、もう助からない。
 ただ、火力はちっとも足りていなかったけれど。

 火炎瓶の火がガソリンに引火した。
 ぽろろの体は燈火と黒煙に包み込まれた。軍人達の間に、期待と
不安の気配が広がる。
 火の中から、血色の触手が突き出してきた。
 腹を貫かれたフサギコは、反射的にそれを掴んだ。

 もちろんフサギコは、自分が死なずにすむとは思っていなかった。
研究者として、今のぽろろがどんな状態なのかを熟知している。
 今のぽろろに理性はなく、ただ、傷ついた肉体を再生するための
餌を求めているだけなのだ。
 火の中から這い出してきたぽろろは、ゼリーのようなどろりとした体には
似つかわしくない速さで、フサギコの腰にのしかかってきた。ぽろろが
触れた箇所の全てが、火傷したようにズキズキと痛む。
 周囲の軍人達が、信じられないと言いたげな目で二人を見ていた。
あるいは彼らは、ぽろろは絶対にフサギコを襲わないとでも考えて
いたのだろう。
 完全にフサギコの下半身を捕らえたぽろろは、腹から触手を引き抜いた。
「ぐっ……」
 長い体毛が消化を阻んだのは、ほんの一瞬の事だった。消化液は
すぐに皮膚まで達し、フサギコの体を溶かしていく。彼の肉と血が
どろどろに溶けたそれは、ぽろろのための赤いスープだ。
 痛みを和らげるために脳内物質が分泌されたためか、もしくは
ぽろろの粘液の神経毒がまわりかけているのか、フサギコの意識は
紗がかかったようにぼんやりとしてきた。
 かすむ視界の中で、ぽろろの触手がゆらゆらと揺れていた。それは
フサギコの腹を貫いた物だ。粘液で吸収しきれなかったフサギコの血が
触手の先から滴った。
 フサギコは、触手の表面に小さなひっかき傷があるのに気付いた。
彼がさっき掴んだときに、うっかり爪を立ててしまったらしい。
再生能力の強いぽろろなら、ものの数分も経てば、跡も残さず消えて
しまうであろう小さな傷だった。しかし、傷を受けた瞬間、ぽろろは
痛かったはずだった。
「……ごめんな」
 フサギコは触手に手を触れた。肉球が溶かされて、白い煙を上げる。
 長らく口にできなかった言葉に、彼は笑うように泣いた。
「本当にごめんな、ギコ」
 フサギコは触手の傷を撫でた。
 謝罪の言葉を繰り返しながら、彼は神経毒に動けなくなるまで、
ぽろろの傷をさすり続けた。

821 名前: 戦犯(10/10) 投稿日: 2004/05/07(金) 21:07 [ tMx9C5r6 ]
NG博愛主義03


 軍舎の裏庭には真っ赤な水たまりができていた。まるでイチゴ味の
アイスを溶かしたようだと、ぽろろは思った。
「……博士」
 状況が把握できなくて、ぽろろはフサギコを呼んだ。
 理由の分からない不安感がこみ上げてくる。
「博士、どこ?」
 気付かなければ幸せでいられたのに。
「はか……せ?」
 ライフルの銃身に、白衣の切れ端がひっかかっていた。降伏を
象徴する白い旗のように、それは風にはためいていた。
 瞬間、ぽろろは何が起きたかを理解した。少しも記憶にはなかった
けれど、他に理由は考えられない。
 ぽろろは、フサギコを守れなかったのだ。

 ぽろろは口を開けて下を向いた。
「うえっ……あっ、えっ」
 取り込んでしまったであろう物を体外に出そうと、彼は必死に
嘔吐を試みる。けれど、それはもう完全にぽろろの体の再生に
消費されていて、吐き戻す事は叶わなかった。
 唾液しか出てこない口に指をつっこんで、ぽろろは吐けない
苦しさに泣いた。

   戦争に負けて、この国は平和になった。
   罪の記憶は癒えないまま、今年もまた夏は来る。


(終了)