箱in小説

Last-modified: 2020-04-17 (金) 00:25:46
237 名前: 箱(1/7) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:14 [ aNZx4Qq. ]
ああ このいろいろの物のかくされた祕密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊齒 わらび 松の木の枝
なめくぢ へび とかげ の不氣味な生活。
ああ わたしの夢によくみる このひと棲まぬ空家の庭の祕密と
いつもその謎のとけやらぬ おもむき深き幽邃のなつかしさよ。

             ---萩原朔太郎「夢にみる空家の庭の祕密」

238 名前: 箱(2/7) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:16 [ aNZx4Qq. ]
私は森の中からずるずると這い出た。足に多少の傷を負っていたが、たいしたものではない。
胸にどす黒くこびり付いた血は私自身のものではなく、森の中で殺したしぃのものなのだから。
奴等のおぞましい匂いが私の体にこびりつくのにいい気持ちはしないが、
それもまた--虐殺厨としての--私自身への勲章の一つでもあると思い、自分を納得させた。

箱の中に入ったしぃは私の約12メートルほど前方にいた。
私は動じる事は無かった。ただ、私の殺したしぃの数が一匹増えるだけのことだった。
私はゆっくりとしぃに近づいて行った。マターリしているのか、気がつく様子も無い。
一匹だけ、単体の「しぃ」だった。仲間や子供の存在は確認できなかった。

私の存在に気がついたのか、しぃはその小さな頭を私のほうに向けた。
すかさず私は持っていたナイフで後ろから箱ごと奴の左胸を一突きにした。
刺されたショックからか、前方に倒れ込んだために心臓を刺す事は出来なかったが、
どの道箱の中だ、逃げる術も無い。
私のナイフは肋骨を砕き大円筋を貫き、左肺上部へ確実に到達した。
一般に、肺に穴が空くと、酸素をうまく吸入することが出来ず絶望的な呼吸困難に陥ると言われる。
助けを呼ぶことも出来ず、口をパクパクさせながら悶え苦しんで死ぬのだ………

………しかし、しぃは笑っていた。
森で殺した連中のように、醜く生にしがみつこうともせず、ただ口元に満面の笑みを浮かべていたのだ……

「……私は、死んだら蝶になるのよ」

239 名前: 箱(3/7) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:16 [ aNZx4Qq. ]
「蝶………?」
言葉の意味をつかむのに時間がかかった。
古い時代では、蝶は人の死、死者の霊魂を象徴すると考えられた時期があったという。
しかしそんなものは迷信に過ぎず、
また、しぃ殺しを生業としてきたこの私がそんな子供だましを信じる理由はなかった。
しかし私は逆にこのしぃに興味が湧いた。
当然だ。今まで殺してきたしぃはすべて白痴並みの知能しか持たぬ馬鹿だったのだから。

「……貴方は私を殺すのでしょう?今、しぃ殺しはずいぶんと流行しているらしいですからね。
貴方は流行に乗っただけのただの厨房かもしれないし、
もしかしたら何年も私の仲間を手にかけてきた虐殺者かもしれない。
でも、そんな事は私にとってはどうだっていいの。
私はもしモララーに殺されたら蝶になるように、ずっと願いつづけてきたのですから……」

……参ったな。気違いか。今まで散々動物以下の蛆虫どもをこの手にかけてきた私だったが、
気違いの取り扱いに関しては専門外だった。
仲間にでぃ殺しを専門にしてきた奴が一人いたが、
こいつはもうでぃ化することも無く死ぬだろうし、私はこの女の処置に困ってしまった。
「さあ、もっと私を刺して!!この程度では私は死にませんよ」
いっそのこと喉を一突きにして口と息の根を止めるか。
私は生まれて始めて、しぃ殺しに迷いをきたしてしまっていた。

240 名前: 箱(4/7) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:17 [ aNZx4Qq. ]
「……ああ、うっかりしていたわ。私としたことが。
蝶になる理由を説明しなければ、貴方は嫌な蟠りを残したまま私を殺すことになりますものね。
私の詰まらない話を聞いてくださるならお聞きになって。嫌なら私を一刺しにして殺して結構よ」
何故背中から血を滴らせながらこんなに冷静なのか、
私は奴の狂気に薄ら寒いものを禁じ得なかったが、
このまま奴を殺すのは確かに私の胸の奥底に暗澹としたものを残してしまうことになる。
私は奴に発言の許可を与えた。奴は小さく微笑んだ。不愉快だ。もう死ぬことには間違い無いのに---。

「……何故私たちしぃ種が箱を好むのか、モララーの貴方はご存知無いでしょうね。
自己防衛のためと思われていたかもしれませんし、
また住処のため、子を育てるためと思っていたのかもしれません。
……でも、本当は違います。私たちが箱を愛するのは、
この世の醜いものの全てを覆い隠すため、
そして、美しく輝くもの全てを愛でるためなのです」
私は軽く奴の耳にナイフで切りつけた。短い悲鳴があたりにこだました。
「醜いもの、醜いものか。そうだな。私のようなものは貴様らからすれば醜いのだろう。
そうして現実から逃げて美しいもの、マターリなものに囲まれて平穏安逸に暮らすのが
貴様らしぃ種の原初的な願望、生きる目的であると。そう言いたいのかな?ん?」
「……お話は最後までお聞きになってください」
しぃはちぎれかかった右耳を押さえながらゆっくりと言った。

「……あなたたちを醜いなどと誰が言うのでしょうか?
私が醜いと思うのは箱の中から見えない全てのものであり、
美しいのは箱の中から見えるすべてのものです」
私はちらりとしぃの箱に目をやった。
私が刺した穴以外は、何の仕掛けも変哲もないただのダンボール箱だ。
箱の中から見える世界など、自分の中のものしかないではないか。
「……おまえは自分こそが最も美しいとでも言いたいのか?
返答次第では話の終了を待たずに八つ裂きにするぞ」
「そうではありません。箱の中は---そう、喩えるなら---完成されたもう一つの世界なのです。
私はその世界から世の中のことを見ているだけなのです」

241 名前: 箱(5/7) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:17 [ aNZx4Qq. ]
「唯我主義的な世界観だな」
私はポツリとつぶやいた。何の事は無い、飛ばし読みしたディックの本を模倣しただけの台詞だったが、
妙な宗教か何かにかぶれるまでは相当なインテリ気取りだったと見えるこのしぃには
効果的な言葉だと思ったのだ。
「唯我主義とは違います。私たちしぃはすべてこの世界を共有しており、本来知性あるしぃなら
私の言葉の意味は誰よりも深く、確かに理解できるはずなのです。
……しかし、最近ではそれを共有できないしぃが増えてきたこと、
またこの世界があるがゆえにしぃが虐殺の対象にされてきたのは否定しがたい事実です」
私は森の中で殺したしぃ達を思い出し、
連中の中に一人も箱を持ったものがいなかったことに気がついた。
「昔、あなた達虐殺者は”箱こそがしぃの本体であり、その中の生き物はただの寄生虫である”というような
誹謗中傷を流しましたが、真実はそうではなく、箱と私とで一つの独立した生命体なのです。
”しぃ”は箱無しには存在せず、”箱”はしぃ無しには存在しないのです」
段々いらいらしてきた。いつまでこいつの怪しげな演説を聞かされなければならないのか。
私はゆっくりとナイフを振り上げると奴の首にかけて、「本題に入らなければ殺す」と囁いた。
「……今まで話してきたことは、実はすべて本題なんですけれどもね。いいでしょう。
何故私が蝶になりたいと思ったのか。
それは私が箱こそがしぃの蛹であると思うからです。箱無しでは生きられぬ不完全な命である私たちは、
殺されて箱に入ることによって本当の生き物に生まれ変わるのです」

私は腹の中から込み上げる笑いを押さえられなかった。
何という哀れな生き物だ。しぃよ、私たちの誹謗中傷は正しいぞ。おまえ達はただの「ごみ虫」だ!
「……やはり理解してはくれないのですね。いいでしょう。私を殺してください。
ただし、私の死体はダンボール箱に入れたままそっとしておいてください。
そうしないと生まれ変わることが出来ませんから」
私はその台詞を聞くや否やダンボール箱をめちゃめちゃに破壊しようとした。
しかしそれは出来なかった。しぃが箱をかばったのだ。
それから何度切り付けても信じがたいほどの素早い動きでしぃは箱を守り抜いた。
腕がちぎれ、足がもげ、頭蓋が裂けて脳漿が飛び散っても、しぃは箱を守るのを止めなかった。
微恙に震える幼い少女のように手足を痙攣させながら、ただひたすらに箱にしがみついていた。

「……哀れな生き物よ。何故そんなにまでして箱をかばう?」
私は純粋な好奇心から、血のりのべっとりついた箱の中を覗き込んでみた---

242 名前: 箱(6/6) 投稿日: 2003/05/20(火) 23:18 [ aNZx4Qq. ]
暖かな空気が私の頬をなでた。それはべっとりとした日本の初夏のものではなく、
高原の夏のような爽やかな涼風であった。
しぃが飛び跳ねて遊んでいた。ちびギコやぃょぅ、ギコやモナー、あろうことかモララーまで一緒だ。
しかし幻覚などではなく、この世界は確かに今まで私が見ていた世界と同じものだった。
同じ場所に森があり、その中には何匹かのしぃがいた。
彼女たちはやはり箱をつけてはいなかったが、もう以前のような憎々しげな表情はしていなかった。
この世界に醜いものなど一つも無かった。全てが陽光の恩恵を受けて、生きていた。
一心に健やかな風を受けて、彼らは草原の中を走りまわっていた。
彼らの身には自由があった。それは紛れも無く、一つの完全な世界だった。

とたんに私は我に返って箱を見つめ直した。やはり中にはしぃの死体が転がっているだけだ。
しかしそれは、血糊によって生まれたかぎりなく美しい影と、
死体によって形作られた不思議なすがたの重なりあう世界だった。
いつのまにか死体に群がってきたなめくじ、へび、とかげのたぐいの生き物が不気味に蠢いていた。
私はそれらの小動物たちを急いで跳ね除けると、このもはやひと棲まぬ空家の庭の祕密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさに思いを馳せた。

結局私は、箱を破壊する事は出来なかった。
それどころか、あの箱を人目に付かぬところに厳重に運び、中の死体もそのままに放置してしまった。
彼女が蝶になれたのか、それともよりおぞましい生き物として中からずるずると這い出してきたのか、
それは誰にもわからない。

ただ一つ言えることといえば、--私の虐殺癖自体は全く改善されていないが--
私が箱付きのしぃを狙って虐殺のターゲットにすることがなくなったということぐらいである。


おわり