八月品評会作品まとめ

Last-modified: 2009-08-29 (土) 00:40:30

投下作品

少年と銀色のライオンは月へ行く ◇LBPyCcG946

 ちぎれた雲が月を隠し、星の明かりと、一本の松明だけが、黒い世界に浮かぶアトラス達の船を照らしていた。
夜の海は寒く、どこまでも奥行きがあるように見え、世界の広さを説くようでもある。しかし無謀な旅に出た二
人、いや、一人と一匹には、その広さが頼りでもあった。どこかに弟の存在を認めてくれる場所があるはずだ、
とアトラスは心のどこかで思うからだ。
「見てみなよウィル、まるで海が全部ガソリンみたいだ」
 アトラスは右手に持った松明を揺らし、海面を照らした。名前を呼ばれたウィルは船から頭を少しだし、海面
を見つめる。銀色のたてがみが潮風に吹かれ、大きな欠伸が一つ零れる。
「アトラス、まだ戻る気は無いのかい?」
 ウィルはその真円の眼で、来た方角を見た。アトラスは逆を見ていた。
「ああ、ないね」
 松明を持っていないほうの、アトラスの左手がウィルの頭をそっと撫でた。たてがみに手を差し入れると、夜
なのに太陽の匂いがした。アトラスの短い言葉は、ウィルの何十回目かの諦めを引き出すのに十分な毅然さを持
っていた。
「そうだウィル、ならいっそ、世界を滅ぼしてみようか」
 アトラスがニヤリを笑う。松明の炎に映る横顔は、子供らしく無邪気ながら、そこはかとない本気さを感じさ
せた。
「どういう事?」ウィルが問う。
「松明を放り投げて、このガソリンの海に火をつけるのさ。あっという間に世界は炎に包まれるぞ。試しにやっ
てみようか」
「馬鹿を言わないでくれよアトラス。もう一度火をつける羽目になるだけさ」
 ウィルの言葉を聞いて、アトラスは含み笑いをした。込み上げてくる喜びを堪えているようでもあった。
「ウィルってさ、見た目はとんでもなく可笑しいのに、言う事は凄く真面目なんだね」
「生まれつきさ、どちらもね」
 わずかな静寂の後、二人が大声で笑い出した。月まで届きそうな、大きな声だった。
 アトラス少年は、ごく普通の家庭で生まれた、ごく普通の少年。寝起きが良いので朝は早く、ポストに刺さっ
た手紙や新聞を取ってくるのはいつもアトラスの役目だった。勉強は嫌いだが、学校での成績はそこそこ。特に
得意な教科はなく、特に苦手な教科も無い。父は溶接工で、母が主に家事をする。繰り返しになるが、ごく普通
の家庭の、ごく普通の少年だった。
 アトラスが小学校に上がった時、弟が出来た。しかしその弟は、アトラスとは違い、『異常』だった。


 全身毛むくじゃらで、耳は頭の横ではなく、斜め上についていた。鼻は前に突き出ていて、大きな口をこじ開
けると、生まれたばかりだというのに既に歯が生え始めている。毛の色が銀色である事以外は、どこをどう見て
もライオンにしか見えなかった。もちろん銀色だったからといって、人間に見えた訳でもない。
 ウィルが生まれた時、街は人間の腹から生まれてきたライオンの話題で持ちきりとなった。ある者は悪魔がか
けた呪いだと言い、またある者は病院もグルになって騒ぎを起こしているだけだと言った。誰かが寝ている間に
母親の腹を切って、中身を入れ替えたのだと主張した者もいたが、切開の跡は見つからなかった。医者はすぐに
さじを投げ、色々な種類の学者が入れ替わりやってきたが、ウィルを人間にする手段は見つからなかった。ウィ
ルは間違いなく銀色のライオンであり、両親は人間だった。
 しかし、しばらくは世間を騒がせたものの、すぐにウィルの話題は忘れ去られていった。めまぐるしく動く日
日、別の話題でどんどん上書きしていくのが、大衆の記憶という物だ。
 そして残された三人と一匹の家族は、やはり困った。前例の無い事だけに、どう対処すべきかなどさっぱり分
からない。病院は病院で、いつまでも猛獣を人間の病院に入れておく訳にもいかず、適当な言い訳を作って退院
させた。といって、ウィルを動物園に預けるという訳にもいかない。何せ母は自らの体を痛めて、我が子を産ん
だのだ。そこにアトラスとウィルの差は無い。
 頭を抱え、悩む両親を尻目に、アトラスは歓喜していた。待望の弟、これから何年も一緒に暮らし、暇な時は
共に遊び、ちょっとしたお使いにも行かせられる。そんな事を考えていたら、それがなんとライオンだったのだ。
好奇心旺盛で、どんな事件にも首を突っ込むアトラスの、平凡な日常に突如として現れた救世主。アトラスは
ウィルの事を、そんな風に考えていた。
「ウィル、君は紛れも無く僕の弟だ。そして僕は君の兄だ。だから逆らっちゃ駄目だぞ。噛むのも絶対禁止だ。
それから、大きくなったら野球をしよう。専用のグローブを作ってあげるよ」
 この先どうしていいか分からなくても、人間もライオンも、腹が減る。アトラスの時と違って、母はウィルに
粉ミルクを飲ませた。もちろん母乳が出なかった訳ではなく、牙が怖かったのだ。しかしそれでもウィルは日に
日に成長していく。赤ん坊ならば、ライオンも猫もそう大して変わらない。時折、ペットとして飼っているよう
な錯覚を覚えながらも、両親は懸命にウィルを育てた。
 生まれて一年が経ち、ウィルはもうミルクを飲まなくなり、肉を食べるようになった。歯は完全に生えそろい、
硬い肉でも噛み千切れる。そして驚くべき事に、ゆっくりとではあるが、簡単な英単語を言えるようになって
きた。赤、車、走る。赤い、車が、走っている。脳の成長具合は、人間の赤ん坊よりも少し早いくらいだった。


 二年が経ち、すっかりウィルは家族の一員として、両親にもアトラスにも懐いていた。しかしその一方で、ア
トラスは学校でいじめにあっていた。何せ母親が獣を産んだのだ。「お前も実はライオンなんじゃないか?」な
どとからかわれ、やがてちょっとした冗談は迫害に変わる。大人とは違い、子供は自分とは決定的に違う存在に
寛容ではない。それがおとぎばなしの向こう側の世界ならまだしも、アトラスがいるのは紛れも無く現実世界だ
った。
 いじめは日に日にエスカレートしていったが、アトラス自身は大して気にしていなかった。何せ世界中を探し
たって、弟がライオンの少年なんて自分以外にいないって事を良く知っていたからだ。アトラスが振り返るに、
その頃から、いつか自分は旅に出ると決心していたと、思うのだ。
 そんなある日、事件が起きた。休みの日の事だ。いつものように庭でアトラスとウィルがじゃれあっていると、
そこをたまたまアトラスのクラスメートが通った。クラスメートはアトラスの事を指差して笑う。「ほら見て
みろ! やっぱりあいつもライオンだった!」
 その言葉を聞いて怒ったのは、ちょうどその日で三歳になったウィルだった。もう身体は一人前のライオンに
なっており、トレードマークであるたてがみも完璧に揃っている。背はとっくにアトラスを越していた。人間と
ライオンで成長のスピードが違うのは当たり前の事だが、兄であるアトラスは複雑な気持ちになる。
 ウィルが飛び出した。突如目の前からいなくなったウィルに驚いたアトラスが、次に目を開けた瞬間、Tシャ
ツを真っ赤に染めて倒れるクラスメートの姿が視界に入った。腕を抑えて泣き叫んでいる。ウィルは同じく赤く
染まった口の周りをぺロリと舐め、視線はクラスメートから決して外さなかった。それはまさに猛獣の姿だった。
身体の成長の速さに、精神の成長が追いついていなかった為に起きた悲劇。ウィルが明確にクラスメートの言
葉の意味を理解していたとは思えない。だがおそらく、心から慕う兄が侮辱されたという事だけは、痛いほどよ
く理解していたのだろう。
 すぐにウィルの存在は街での問題になった。幸い、ウィルに噛まれたクラスメートは一命を取りとめ、腕も切
断せずに、全治三ヶ月の重傷で済んだ。だがそれは同時に、ウィルが本気で人を襲えば、簡単に殺せる事を証明
していた。
 以前から良く思っていなかった者達も、この事件をきっかけに奮起した。保健所か動物園に連れて行けと声高
に叫ぶ近隣住民に対し、両親は必死で抵抗した。噛まれたクラスメートには十分な賠償を約束し、これからはき
ちんとウィルをしつけると言った。しかしそれだけで納得する訳が無い。何せすぐ近くに人を噛むライオンが住
んでいるのだ。例えそれが人間から産まれ、しかも言葉を喋るからといって、我慢できるような問題ではない。
話し合いは何日間にも渡って続き、最終的には、家に大きな檻を用意し、決してウィルを中から出さないという
事で決着がついた。父が溶接工だったので、大きくて頑丈な檻はすぐに用意できた。


 それから二年の月日が流れた。すっかり立派な雄のライオンとなったウィルは、檻の中で退屈な日常を過ごし
ていた。アトラスが学校から帰ってきて、檻の中に入ってきて、一緒に本を読むのが唯一の楽しみだった。アト
ラスは心躍るような大冒険の話が大好きで、常に視線は外へと向けられていた。だが外の世界は、ウィルの為に
出来ている訳ではない。もちろん、誰かの為に出来ている訳でもないが、少なくともウィルは、人間達の生活の
中に居てはならない存在だ。それはウィルもよく分かっていたから、アトラスがたまにわざと、檻を開けっ放し
にしても、外に出ようとはしなかった。むしろ自ら鍵を閉め、アトラスが両親に怒られるのを未然に防いだりし
た。
 ある日、一通の手紙が届いた。
 朝、いつもの癖のおかげもあって、アトラスがその手紙に一番最初に気づいた。手紙にはたったのニ行でこう
書かれていた。
『四一二七回目の今夜、道に雲が無くなる頃、私が預けた使い魔を迎えに行きます。
                                          月の魔女より』
 差出人の住所はおろか、宛名すら書かれていない手紙。もちろん、月の魔女なんて始めて聞いた言葉だった。
だが、アトラスにはそれが、誰かのいたずらとも思えなかった。むしろ、これまでずっと謎だったウィルの存在
が、かえって『らしさ』を帯びてきたのを感じた。それから文字が達筆だったのと、高級なインクで書かれてい
た事が、アトラスの心を強く動かした。
 アトラスは咄嗟にその手紙を隠した。両親に信頼が無かった訳ではないが、手紙の内容からして、疑わざるを
えなかった。そして何よりはっきりとアトラスが認識していたのは、もしもウィルがどこかに連れて行かれてし
まったら、二度と会えないだろうという事だけだった。アトラスは朝食を速やかに済ませ、学校へと急いだ。そ
の道中で練りあげた計画は、学校につく頃にはもう、心臓から溢れそうなありったけの好奇心に変化していた。
 夜になり、両親が寝静まったのを確認して、アトラスはウィルの檻を開けた。
「これから冒険を始めよう。ウィル、君のそのまん丸の眼で、直接世界を見て回るんだ」
 声を押し殺しながら興奮するアトラスに対し、ウィルは呆れ気味に返す。
「行くなら君だけで行きなよ。僕はここから出ない」
「ふーん、そうか。それじゃ少しだけ計画を聞かせてあげるよ。それで気が変わったらついてきてくれればいい」
ウィルの意志は固かったが、アトラスはそれも想定していた。「僕はこれから船で旅に出るんだ。なんと言っ
ても旅は船さ。ここから港まで三十分歩いて、前からずっと留っている小さなボートを盗むんだ。誰のかは分か
らないけど、あんなボロならきっと構わないはずさ。そしてひたすら漕いで東に行く。知ってるかい? 東の海
には魔法を使う忍者って生き物がいるんだぜ」


 アトラスの話を聞いてる内に、ウィルの顔はどんどん強張っていった。元々がライオンだけに、凛とした顔立
ちだったが、迫力の差は歴然だった。だがそれにもアトラスは怯まず続ける。
「何日か分の食料と、コンパス、地図帳、それから父さんの万能ナイフはもうリュックの中に用意してあるんだ。
どれくらいかかるかは分からないけど、きっと新しい世界を見つけてやるぞ」
 爛々と瞳を輝かせ、大いに語るアトラスを説得する手段などこの世には存在しなかった。例えそれが弟のウィ
ルであっても、ライオンのウィルであっても。だからウィルは、「どうせすぐ嫌になって戻るはずさ」と、アト
ラスに聞こえないように呟いて、実に二年ぶりに檻の外へと一歩を踏み出した。
 こうなる事は、アトラスには予想がついていた。ウィルは、年齢こそアトラスよりも下だったが、過去の経験
から、アトラスを自分が守ってやらねばならないような気負いを背負っていた。どちらかというと兄のような存
在だと、ウィル自身が思っていた。態度は常にアトラスに対し従順でいて、でしゃばるような事はしない。だが、
今回ばかりはそうもいかないようだと腹を括らざるを得ない。それをアトラスは分かっていた。
「僕もついていくよ、アトラス」「それでこそ僕の弟だ!」
 この時、ウィルは大きな声で吠え、両親を起こす事も出来たがそうはしなかった。アトラスの恨みを買うのが
嫌だったのと、どうせ今止めても、アトラスはまたいつか冒険に出ると言い出すだろう。ライオンとは違って、
何も悪い事をしていない人間を檻の中に閉じ込めておく事は出来ない。それにもしも『次』が来れば、アトラス
はウィルに何も言わないで出て行くかもしれない。何よりもそれが、ウィルは怖かった。
 かくして、アトラスとウィルは浜辺にやってきて、鋭い牙でロープを噛み千切り、夜の海へと出航したのだっ
た。
 誰かが追ってきている様子は無い。今のところはとりあえず、順調な航海だった。
「ねえアトラス、一つ聞きたい事があるんだけど」
「なんだよウィル、改まって」
「どうしてわざわざ今日を出発の日に選んだんだい? そんなに天気も良い訳じゃないし、何かの記念日でもな
い」
 尋ねられ、アトラスは少し困った。正直に手紙の事を打ち明けても良いが、はっきり言って自分でも状況はよ
く分からない。ただなんとなく、というのが最も近い答えのような気がしたが、その言葉の近くには『月の魔女』
の存在があった。挙句、出した答えはこうだった。
「う~ん、今日が四ニ一七回目だからだよ。あ、いや四一ニ七回目、だったかな」
「一体何が?」
「さあね。僕だって知らない」


 アトラスはオールを漕ぐ手を放し、ぶらぶらとさせた。疲れたから代わってくれ、という意味のジェスチャー
だった。ウィルはオールをその大きな口に咥え、器用に回して漕ぎ始めた。そうしている間は、とりあえず質問
をかわせる。
「ウィル、漕ぎながらで良いから聞いてくれないか」
 いつになく真剣なアトラスの言葉に、ウィルは黙って頷く。
「僕は昔から、そう、ウィルが生まれる前からかな。なんとなく、この世界にいちゃいけない人間なんじゃない
かって思ってたんだ。だからなんていうか、凄く言葉にしづらいんだけど、ウィルが生まれて僕はどこかで安心
したんだ。僕がもしもこの世界からはみ出た人間だとしても、ウィルはきっとすぐ側にいてくれる。僕の心を理
解してくれるって。なぜだろう、本当に、心からそう思えたんだ」
 ウィルは漕ぎ続けた。そうしていないと、アトラスがどこか遠くへ行ってしまうような気がしたから。
 それからしばらくの間、夜の海の静寂だけが船の上を支配していた。血が繋がった異種の兄弟を結ぶ強い絆は、
決してほどけないから、体にまとわりついて離れないような不安さえ許せた。
 その時、東の方角から何かが見えた。それは海面にゆらゆらと揺れ、おぼろげな輝きを放っている。アトラス
がまず最初に気づき、ウィルに伝えた。
「ウィル、あれは何だろう」
「……あれは……炎だ!」
 遥か彼方水平線の上に見えたそれは、数秒後にははっきりと分かる形でアトラス達の方に向かって迫ってきて
いた。まるで海が燃え始めてしまったかのように見える。世界の終わり、先程言った冗談を思い出す。
「伏せろアトラス!」
 ウィルがそう叫んだ。アトラスは身を屈め、炎の様子を伺う。ウィルはそんなアトラスの身体を上から覆い、
同じく海上の炎を見つめた。炎は大きな津波のようにうねり、轟々と空気を焼く音がはっきりと聞こえた。近づ
くにつれ、炎は赤から青へとその色を変えていった。
 すぐ近くまで炎が迫った時、炎は真っ白になっていた。アトラスはボートの底に身体をぴったりと密着させ、
ウィルはアトラスを背中から抱きしめた。アトラスが震えているのに気づくと、ますます力を込めた。
 炎はついにボートに辿りついた。しかし不思議な事に、アトラスもウィルもそれが炎である事に、すぐには気
がつかなかった。なぜならば、熱くなかったからだ。真っ白い炎が身体に点火していたというのに、服も焦げず、
肌に痛みも感じない。アトラスが顔をあげると、ウィルも同じく面食らっていた。熱くない炎、見た事も無け
れば聞いた事も無い。


「ウィル、僕達は何か不思議な事に巻き込まれたみたいだぞ」
「……そうみたいだね」
 見上げると、いつの間にか雲が晴れていた。はっきりと見える満月は、全てを知っているような顔をしていた。
 ゆっくりと、だけれど確実に、船が浮き上がっていた。周りを白い炎に囲まれていて、隙間から見えた水平線
が、段々と下がっていく奇妙な景色。
「アトラス、まだ不思議な事は続くみたいだよ」
「……そうみたいだ」
 アトラスとウィルを乗せた船は、段々と速度をあげて上昇していく。高度が高くなるにつれ空気が薄くなって
きたが、アトラスもウィルも苦しさは感じなかった。それが白い炎のおかげである事にはどちらも気づかなかっ
た。白い炎は焼くのではなく、守る為に燃えているのだ。更に船は加速する。
 やがて宇宙に飛び出した。アトラスもウィルも、これが現実世界に起きている出来事だとは信じられなかった。
船は月を目掛けて一直線に進み、白い炎の隙間から見えた地球は、やっぱり青かった。
 言葉を失った二人が顔を見合わせている内に、船は月の裏側に辿りついた。夜のように暗かったけれど、星々
は地球よりも良く見えた。松明はいつの間にか消えてしまっていたが、身体を纏う白い炎で、あたりの景色が分
かった。ごつごつとした岩肌が一面に広がり、とにかく殺風景で、少なくとも海はなさそうだから、アトラスが
しっかりと握ったオールは、きっと役にたたないだろう。
「どうなってるんだ。これは夢なのかな」アトラスが呟く。
「僕は夢を見ないよ。だから夢だとしたら、君の夢だ」
 ウィルはアトラスよりもいくらか冷静だった。『変』なのは前からだ。
 その時、アトラスの背後で声がした。
「ようこそ月へ! 待ってたわ」
 振り向くと、そこには少女が立っていた。黒のローブにとんがり帽子、装飾を施された杖。魔女としか言い様
が無い格好。年齢は、アトラスよりも少し上くらいに見えたが、自信たっぷりでミステリアスな顔立ちは、アト
ラスよりも遥かに大人びていた。
「つ、月の魔女って、もしかして君の事?」
「ええ、そうよ」少女は答え、空を見上げた「でも詳しい話は私の家でしましょう。もうすぐ衛星がすぐ近くを
通るから」
 魔女の家はすぐ近くにあった。洞窟のような場所に木製のドアが一つ。家と呼べる代物であるかどうかは分か
らなかったが、アトラスとウィルはとにかく魔女に誘われるがまま、中に入った。


 魔女の家の中はきちんと整理整頓されていた。というのは魔女側の主張で、初めて訪れたアトラスにはただご
ちゃごちゃと物が置かれているだけのように見えた。ただそれでも、魔女はどこに何を置いたかきちんと覚えて
いたため、『整理整頓』は言いすぎでも、散らかってはいなかったのかもしれない。怪しげな瓶の中に入る怪し
げな液体。何の鳥の物かは分からないが大きな羽根。ふわふわと浮かぶ虹色の球。とにかくそこは非現実だった。
いや、ここが月の上である事を考えれば、まだいくらか現実的だったかもしれない。
「沢山聞きたい事があるでしょう。何から聞きたい?」
 ひたすら圧倒されっぱなしのアトラスに、魔女がそう促した。いつの間にか手にはコーヒーカップを持ってお
り、それをアトラスに渡す。「砂糖は一つで良かったかしら?」
 アトラスはとりあえず頷き、努めて冷静に振舞う。例え相手が魔女とはいえ、女の子の前で格好悪い事はした
く無かったからだ。
「まずはこの炎……と呼んでいいのかも分からないけど、この白いのは一体何なんだ」
「それは私の魔法よ。じきに消えるわ。昨日、君の家のポストに手紙を入れたのもこれね」
 魔女の言う通り、炎は段々とその威力を弱めていった。
「そうだ、手紙だ」アトラスは思い出す。「確か手紙には、『私が預けた使い魔を迎えに』と書かれてあったけ
ど、あれはどういう意味なんだ? それと、四一ニ七回ってどういう意味?」
「いっぺんに質問されても困るわ」魔女は手でとぼけたジェスチャーをしてアトラスをいなす「でも、それに関
してはちゃんと説明しておかないといけないわね。まあコーヒーを飲みなさいよ。毒は入っていないから」
 それまでずっと黙っていたウィルが、アトラスに向かって軽く吠えた。「信用するな」という意味の警告だっ
た。
「……まあいいわ。それじゃ話すわね。
 四一ニ七というのは、月が地球の周りを回った回数ね。ここにはカレンダーが無いから、そうやって暦を数え
ているの。そして私は四一ニ七回前、あなたのお母さんに使い魔の出産を頼んだの。といっても夢の中に入って
頼んだ事だから、あなたのお母さんははっきりと覚えていないかもしれないけどね。
 あなたのお母さんと私の関係に関しては、まあ、昔ちょっとした知り合いだったの。簡単に言うと、あなたの
お母さんが子供の頃、川に落ちて死にかけた時、たまたま通りかかった私が助けてあげたのよ。多分それも覚え
てないだろうけど」
 魔女は自嘲気味に微笑んで、コーヒーを一口飲んだ。
「それで恩返ししてもらいたくて、私の代わりに使い魔を産んでもらおうと思った訳。私ってほら、痛いの嫌い
だから」


「そんな勝手な!」
 アトラスが叫んだ。ウィルも同調するように吠えた。
「あら、魔女って元々そういう物よ?」
 アトラスは軽い眩暈を覚えていた。ずっと一緒に暮らしていた自分の弟が、魔女が作った使い魔だったなんて。
だけどこの魔女は嘘はついていない。それは確信していた。なぜならば、これでようやく人間がライオンを産ん
だ理由がはっきりしたからだ。
「それから、なんで私が使い魔を欲しがってるかについても話しておくわね。
 私は今から一〇八ニ三回前からここに住んでいるのだけど……」
「ちょっと待ってくれ! さっきも僕のお母さんを助けたって言ってたけど、あんた一体何歳なんだ? 一万っ
て、三十年以上前じゃないか」
「失礼な子ね! 女の子に年齢を尋ねるなんて! それから、『あんた』は無いでしょう『あんた』は!」
 物凄い勢いで怒られたので、アトラスは思わず後ずさりしてしまった。
「とにかく話を聞きなさい。
 まず私がここに住み始めた理由はね、単純に地球が住みにくくなってしまったからなのよ。人間は気づいたら
科学を信仰していて、魔法なんて興味無くなっちゃったみたいだし、大体の観光名所は見尽くしちゃったしね。
しばらく月に住んでみようと思ったらこれが大当たり。何より静かで、身体が軽くって、裏側だから常に夜なの
も良いわね。星が良く見えるから。
 でも最近、近くを衛星が良く通るようになっちゃって、オチオチ星光浴もしていられなくなっちゃったわ。見
つかっちゃったら騒がれるだろうしね。私、あんまり目立つの好きじゃないのよ。
 それで、そろそろ月はやめてもっと遠くへ行こうと思った訳。具体的には、アルファケンタウリのあたりまで
行こうかなと思ってるんだけど、星全体を魔女が住めるように改造するにはいろいろと手間がかかるって訳。今
度は地球から随分遠いしね。そんなにちょくちょく行き来できなそうだから。
 そういう訳で、使い魔を作ろうと思ったの。あなたのお母さんの身体を借りてね」
 なんとも勝手な、魔女の言い分を借りれば、『魔女らしい』理由だった。
 それを聞いたアトラスは、呆れ半分、怒り半分に、魔女の屈託の無い笑顔を見つめていた。
「アトラス、」ウィルが月にきて始めて言葉を口にした「この人の言ってる事に嘘は無いよ。それから、きっと
僕達では逆らえないと思う。くやしいけど、従うしかない。僕達が今生身で外に出たらきっと死ぬだろうし」
「あら、あなた喋れるの。それに結構賢いわね」
 ふいをついて出た魔女の言葉。どこまで無責任なんだろうと、アトラスは思う。


「けれど僕は」アトラスは唇をかみ締め、魔女を睨む「僕はウィルと離れたくない。僕達は、兄弟だから」
 ウィルはアトラスの言葉が嬉しかった。アトラスと兄弟であった事が、ウィルにとって最大の幸運だと思えた。
「う~ん、でもそれは困るわね。使い魔は二人もいらないし、それに両方ともいなくなったら、あなた達の両親
が悲しむわよ。それに私、あなたには失礼かもしれないけど、ライオンってあんまり好きじゃないのよね」
 魔女の言った台詞に、アトラスは疑問符を投げかけた。ライオンを好きじゃない? ならどうして使い魔をラ
イオンにしたんだろう。しかし今はとにかく、魔女に出来る限り反抗するしかないと、アトラスは決意する。
「嫌だ! 僕はウィルと離れたくないんだ。ウィルはどこへもやらないぞ!」
「何言ってるの? そのウィルって名前のライオンは、すぐに地球に帰してあげるわ」
 ここでようやく、話が食い違っているのに気づく二人と一匹。
「……どうやら、何か勘違いしてるみたいね。私の使い魔っていうのはあなた、アトラスの事よ?」
 驚きのあまり、口をポカンと開けたまま、お互いに何と言うべきか分からず固まるアトラスとウィル。
「だ、だって、ウィルは銀色のライオンだぞ! 普通そっちが使い魔だろう」
「普通って何かしら? 残念ながら、あんまり興味無いわね」
 ウィルは会って間も無い魔女に、大事な事を気づかされてしまった。ずっと一緒にいたウィルの本当の願いす
ら、自分は分かっていなかったのだと、悔しく思った。その様子を察して、魔女はこう持ちかける。
「そうだ! それじゃ取引しましょうか。アトラスが大人しく私の使い魔となってくれるなら、ウィルを人間の
姿に変えてあげる。きっと私があなた達のお母さんの子宮にかけた魔法のせいで、ライオンが生まれちゃったん
だと思うしね。私は確かに無責任だけど、責任はちゃんととるタイプよ」
 胸を張って言う魔女。そのとんちんかんな台詞に、思わずアトラスは笑ってしまう。
「アトラス……」
 ウィルは何かを言いたげに、だけど言い出せずに、アトラスをじっと見つめた。
「分かった。僕があんた、いや、魔女様の使い魔になるよ。だからウィルを、人間にしてやってくれ」

 

 ウィルが次に目覚めたのはベッドの上だった。手にはもう鋭い爪はないし、口の中も何だかすかすかとしてい
る。ライオンの面影を残していたのは、せいぜい癖の強い、銀色の髪の毛くらいの物だった。
 月を見上げ、ウィルは力一杯に叫んだ。
「人間になんてなれなくても、僕は君といたかった!」

 

ヤッピーって言ってよ ◇pxtUOeh2oI

 いろいろ回ってきたけれど、やはり最後は決まっている。今、僕に残された唯一の物は、
握りこぶしで出番を待ってる。
 たとえようの無い音がする。そこかしこで轟いている。
 勝たなくてはならない。負ければ、そこで終わってしまう。勝ちさえすれば取り戻せるんだ。手に入るんだ。
奪い取られた物も、これからの未来というべき時間も。きっと、きっと。
 僕はゆっくりと前に進んだ。僕はしっかりと奴を見据えた。
 もうあいつは見えている。何度も何度も殴りつけたくなった、あいつが見える。
 これが最後だ、とどこからか怒声が聞こえた。
 そんなことはない、と僕は内心で首を振った。
 やさしかったお婆ちゃんの顔を思い出そうとする。
 それはほんの少し前のことだった。たった二時間前のことだった。
 だけど、今は、浮かばない。赤く膨れた鬼の顔しか、今は全く浮かばない。
 耳を塞ぎたくなるような奇声が響く。場の喧噪を切り裂くような甲高い鬼の声。
 右手を捕まえられそうになった。
 僕は慌ててあいつの前へ跳ぶ。
 捉えられてはいけない。聞くこといけない。続けるためには、勝つためには、言葉も無視せねばならないのだ。
 僕は、全てを振り切って、右のコブシを振り上げた。汗が帽子と合わさって、地面の底へ落ちてった。
 最後のコイン、奴にぶち込む。
 それが僕の、すべきこと!
「じゃん、けん……ぽんっ! ズコッ……」                        <了>

スカイ ◇zS3MCsRvy2

 夕暮れ。
 橙に薄く染まった大気の下を、一組の親子が手を繋ぎ、ゆるゆると帰路を辿っていた。
「なんかある」
 少年は何かを見つけた様子で、進行方向から九〇度外れた地点を指をさす。父がその方向に視線をやると、雑草の中に長方体の石碑が立てられていた。
「どれどれ。へぇ、カムイコタンだって」
「かむいこたん」
「神様の住む場所って意味なんだ。ここはその跡地か」
「神さまいない?」
「わからない。いたらお願い事でもしたかったのかい?」
「あい」
 何故かピースである。
「じゃあそうだね。充が毎日いい子でいたら、帰ってきた神様が小さな奇跡を起こしてくれるかもしれないよ」
「三五年ローンでな」
「ローンないよ。なにその充の神様像。なんでそんなに世知辛い設定なの。子供らしくもっと夢や希望もとうよ」
「ある。夢ある」
「え、なんだい」
「えーとね」

 

§

 

 声がした。
 振り向く。鬱蒼と雑草が生い茂った空き地から、それは聞こえてきた。
「あのもし、よろしければコレに水をお恵みいただけませんか」
 そこにいたのは一匹の黒い猫。
「えぇー……」
 俺はとても切なげな声をあげた。

 

§

 

「ありがとうございます。生き返った気分です」
「あ、そ」
 今、俺の目の前で猫がうやうやしく謝辞を述べている。
 奇妙な一日だ。
 八月一五日早朝。里帰りのため出向いた駅で、手始めに財布をスラれた。これが佐藤充クン一七歳の、ステキすぎるピタゴラスイッチの始まりである。
 その後、スリを捕まえ、駅長室で事情を訊かれ、そのせいで列車に乗り遅れ、電話をすれば勘違いしたお袋に泣かれ、満タンだった携帯の電池が見る見るなくなり、
ようやく解放され列車に乗り、財布をスラれ(二回目)、最寄り駅に着いたのはいいが一文無しのため迎えも呼べず、仕方なく歩いて実家に向かっていた道中にて猫が喋った。
「もう勘弁してください」
 泣きたくなる気持ちを抑え、前足で顔を掻いている黒猫を眺める。
 つうかこの畜生、どこかで見覚えがあるような。
「っておまえ、テラスじゃねぇか」
 真っ黒い全体の中で、左前足だけが白い。九分九厘、七年前にウチから逃げ出したメス猫だ。
「テラスですか?」
「おまえだよ。団欒を明るく照らす存在になれますようにって願いを込めて名前つけてやったろう。斜向かいん家の吉岡さんが」
 ちなみに俺の提案したネーミング“非常食”は、民主主義の名の下にニ対一で惜しくも敗れ去った。
「あの、コレには生前の記憶がないのです、んにんに」
 喉をかいてやると、目を細める。
「てことは化け猫なわけか」
「あい、そです」
「触れるんだが」
「そういう日もあります」
 ……盆だからか?
 盆というキーワードで思い出し、腕時計に視線を落とす。正午。そろそろ実家にいるお袋が交番に駆け込むかもしれない。
「じゃあ俺はもう行く。達者でな」
「あい」


 別れる。
 さらばテラス。おまえの第二の人生に幸あれ。
「でもあれですね。記憶がないとはいえ、いざ訪ねるとなると緊張しますね」
「ついてきちゃったよ」
 立ち止まる。
「え、本気?」
 思わず素に戻って訊いてしまう。
「だって、あなたがコレの飼い主さまなのですよね?」
「かつては」
「お名前はなんと仰るのですか?」
「充」
「ミツルさまミツルさま」
「あアッ? ミツルさまだあ?」
 フンッ、さては様付けでご機嫌を取ろうって魂胆だな。見え見えなんだよ。
「はい、ミツルさまはミツルさまです」
 やれやれ、一度ビシッと言っとかないとわからねぇみたいだな。
「玄関までだかんな!」
 ちょっと気分良くなっちまったじゃねぇか。

 

§

 

 嫌な予感がしたのは、玄関の引き戸の鍵がかけられていたためだ。
 財布の小銭入れから合鍵を取り出して中に入ると、やはりというか誰もおらず、居間のテーブルに壱万円札とお袋の字で書置きがあった。
 ――充へ。父さんが倒れました。厚生病院にいってます。これを見たらあなたもすぐに来て。
 字はところどころ歪んでいた。
「おや、誰もいませんね」
 ちゃっかり上がりこんでやがるド畜生を無視して、携帯の充電プラグをコンセントに差し込む。赤いランプが点くとすぐさま電源を入れ、お袋宛に書置きを確認したという旨のメールを打ちこむ。
 それからタクシーを呼んだ。


 ついでにテラスを摘み出す。
 あとは馬鹿みたいに青く、遠い空を眺めるだけだった。

 

§

 

 まともに親父と話をしなくなって早五年が経つ。
 誰もが通る思春期による親への嫌悪。それが俺の場合、特に重かったように思う。
 口うるさい親父から、いつも逃れたくてたまらなかった。
 地元の高校を受験しなかったのも、親父への反抗心が根底にあった。
 とにかく距離が欲しかった。
 そんな行き当たりばったりを繰り返した結果、やりたいことも見つけられず高校生活も残り一年となり、苦肉の策として進学希望先に適当な大学名を記入する有様だ。
 これから俺は、いったい何をしたらいいんだろう。
「……」
 現在、俺の視線の先には手術中の赤ランプがともっている。
 お袋の話によると、頭の血管の病気らしい。いまだ混乱しているらしく、それ以上の情報は得られなかった。
 親父、死ぬんだろうか。
 死。
 漠然としか知らない概念が頭をよぎり、心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。
 ……外の空気を吸おう。
 長いすにかけていたお袋に声をかけ、俺は病院の出入り口を目指す。
 自動ドアから一歩踏み出すと襲いかかってくる、密度の高い熱気に顔をしかめる。陽射しから逃げるように俯くと、そこにテラス。
「不吉すぎる……」
 病院に黒猫の幽霊。考えうる限りで最悪のタッグである。
「あの、お父さま、ご無事でしたか」
 恐る恐ると言った感じで訊いてくる。
「死ぬかもしれない」
 極めて冷静を装って答え、自販機で買ったミネラルウォーターに口をつける。
 顎先を持ち上げれば、ウスノロな雲。


 また俺はこうして、何もせずただひたすら時が流れるのを、待ち続けるのだろうか。
 また――。
「……」
 それは本当に何の前触れもなく零れ落ちた。
「助けれないかな」
 おそらく、ここ数年で発した言葉の中で、最も純粋な音色。
 残響が虚空に消え去るころ、今まで隣で一緒に天を見上げていたテラスが俺の前に回りこんできて訊ねる。
「そうしたいのですか」
 どうしてだろう。
 根拠があるわけでもないのに、容赦なく気づかされる。
 おそらく彼女は、その方法を知っている。
「そうしたいのですか。そのせいで一生分のつらいことに見舞われても、そうしたいのですか」
「……ああ」
 俺は短く頷く。
「そうしたい」

 

§

 

 そして俺たちは二人、再会を遂げたあの空き地にいる。
 数時間前、一匹の黒猫から告げられた指令。そこから始まった、覚悟と忍耐を問われる試練。
 ……腕が重い。地面に根が張ったかのように脚を動かせない。
 茹だるような真夏の熱気とは対照的に、シャツに吸収しきれなかった冷たい汗の玉が、幾多の線となって伝い落ちてゆく。
 俺は立ち上がり、すでにぬるくなったペットボトルの中身をあおった。
「んー」
 しばらく中腰だったため、背中を反るとなんとも言えない痛みと心地よさが襲ってくる。
 足元には鎌と刈られた雑草。手には軍手。少し離れた場所に置かれている半透明の袋には、四〇リットルいっぱいにゴミが詰まっていた。


 よし、ここらで一旦状況を整理しておこう。
 Q.俺は今何をしてるか。
 A.父親が生きるか死ぬかの瀬戸際に母を一人にして草むしり。
 頭おかしいだろコイツ。
「なあ」
「あい」
「間違いないんだな」
「あい」
 そうか、これが俺のすべきことなのか……。
「まさか、騙しやすそうなカモがいたから、しめしめ縄張りのベッドメイクでもさせてやれってなハラじゃないよな」
「…………あい?」
 聞こえてないわけないだろ。
 もういちいちツッコむのも億劫なので、黙って草いじりを再開する。
 しかし空き地はそれなりの広さがあり、すべての雑草を刈り取るころには、空が赤く染まりつつあった。
「えーと、あとは」
 見渡す。
「あの石碑だけと」
 石柱が斜めに倒れ、石碑が乗っかっていた台アンド地面とで美しい直角三角形を描いている。骨が折れる作業になりそうだ。
「ひっひっふー! ひひひっ! ふー!」
 今にも何かを生み落としそうな勢いで、命からがら立て直す。
 よーし、最終チェックだ。
 長さの切りそろえられた芝、飛行機の玩具、立ち直った石碑。
「あん?」
 変なのが混じってたぞ。
 視線は自然と違和感のもとへ。
 さっきまで石碑と地面の間に隠れ、死角だった場所に、ひっそりとそれは置かれていた。まるであらかじめ、持ち主が取りに来ることを知っていたかのように、守られて。
「これは……」
 拾い上げる。古ぼけた機体。思い出より、一回り小さい。


「どうしてここに」
「……覚えてらっしゃるのですか?」
 いつの間にかテラスが背後まで近づいていた。
「ああ、何年も前になくなって、どこにやったのかなって思ってて」
 俺は興奮気味に語る。
「えーと、これなんで買ってもらったんだっけな。俺が確か……ああ、そうだっ、親父が――」
 瞬間、強烈なフラッシュバック。
 蘇る光景は薄暮。
 遠い昔、将来の夢を語ったあのカムイコタン。
 今まさに、俺はそこに立っていた。
「……少し昔話、聞いてくれるか」
「どうぞ、かまいません」
 とつとつと喋りだす。
「俺な、ガキんときここで親父と話したんだよ。夢の話だ。パイロットになった俺がジャンボ飛行機で親父とお袋乗せて世界一周旅行する、そんな呆れた夢だ。くだらないだろ。でも親父、この玩具、買ってきてくれて」
 記憶が頭に浮かぶたび、自然と涙が溢れた。
「あんなに大切にしてたのに、いつから失くしちまってたんだろうなぁ……?」
「……」
 思い出した。
 ああ、そうだったそうだった。
 昔の俺は、平気でそんな絵空事を夢見ていたのだ。
「うわははは」
 笑えた。
 笑えすぎて頭おかしくなった。
 石碑の前にはいつくばり、頭を地面にこすりつける。
「俺に償いのチャンスをください!」
 俺と親父にもう少し時間をくれ!
「ミツルさま……」


 何度も繰り返し拝む。そうしないと、こみ上げてくる後悔に押しつぶされそうだった。
 神様でも悪魔でも、誰でもいい。頼む。一度きりで充分だ。俺にチャンスをくれ。
「与えます」
 凛とした声。
「ミツルさまに与えます」
「テラス……?」
 目が合う。
「コレに宿るささやかな奇跡、ミツルさまに」
 そして、彼女は微笑んだ。
「今日はありがとうございます。コレは、何年かぶりにミツルさまに付き纏えて、本当にもう楽しくてしかたありませんでした」
「え……おま、記憶……なんで」
「嘘です」
 今度ははっきりとした笑顔。悪戯を成功させた少女みたいに。
「ここでさよならです」
 冷や水を浴びせられたかのようだ。
 咄嗟に手を伸ばす。しかし指先は小さな体に触れることなく、その向こうに置かれたペットボトルに追突した。
「おまえ」
 横倒しになったペットボトルの口が、水が吐き出してゆく。
「ミツルさまミツルさま。どうか、もう俯かないで。零した水は元に戻せません、けれど空を見ていれば、いずれ雨が通ります」
 彼女の金色の瞳が、揺らぐことなく一人の男を映し続ける。確固たる意思を持って。
「ですからミツルさま、笑っていてください」
「……ッ」
 喉から溢れそうになった弱さの塊を、心の奥底に沈殿させる。そんな言葉は無意味だとわかっていた。
 せめて、彼女の気高き矜持に報いようと思った。
「テラス」


 奇跡的に声は震えない。
「なんでしょう」
「生まれ変わっても俺の下だ。いいな」
「あい」
 風が吹いた。ざわざわと草木をしならせる、強かな突風。
 そんな中で、一陣のあたたかい風が、そっと頬を舐めた。
 風が止むころに、俺は一人になった。

 

§

 

 そのあとは当然、お袋から死ぬほど叱られた。
 親父だが、九死に一生を得たものの、リハビリに長い時間を要するかもしれないということだった。
 俺は待った。
 冬になり、右腕を自由に動かせるまでに復調した親父に、とうとう大学に行くのを一年遅らせたいということを伝えた。
 ぶん殴られるのも覚悟していたが、俺を見て親父は短く一言、好きにしろ、とペンを走らせた。

 

§

 

 季節はめぐり、夏。
 一浪した俺は実家に戻り、新しい志望校を目指し机にかじりつく日々を送ることに。
 親父とは、ちょいとぎこちないが、三〇秒程度筆談を交えた会話ができるようになる。
 んで、休憩がてらに始めた空き地の手入れで半日が消し飛んだ。コナクソ。

 

§

 

 また次の夏。
 晴れて大学生となった俺は、昼講義、夜バイトの生活スタイルを確立することに成功。
 さらに親父が完全復活を遂げる。
 やはり空き地の手入れで休みが消し飛ぶ。

 

§

 

 そして、四度目の夏。
「ん?」
 声がした……気がした。
 軍手を丸めて振り向く。雑草の生い茂る空き地はもうなく、手入れの終えたばかりの草原が広がる。
 どうやって上ったのか、見ると、石碑の上にちょこんと子猫が乗っていた。
 黒い。一部を除いて。
「いや、間違ってるから」
 左ではなく右前足が白く染まっていた。
 神様痛恨のケアレスミス。
「ま、いいか」
 腕を伸ばしてもそいつは逃げない。優しく抱きとめる。
「熱!」
 すぐ捨てる。
 だがさすがは猫の端くれ。何事もなかったように着地。足元に頭をすり寄せてくる。
 うむ、やはりこの配置だな。
「目指せあそこ」
 俺は天高く引かれた一筋の飛行機雲を、ビシッと指さす。
「さあいくぞ、ミシシッピ丸。果てなき夢を追いかけて」
 今日もまた風が吹く。

 

§

 

 P.S.
 ミシシッピ丸という名称についてですが、民主主義の名の下に本件はめでたく否決となりました。

 

おわり

幻想的な緑 ◇DSM7XB0fYQIy

 その日僕が突然訪れると、彼女は優しく向かえ入れ、お茶を出してくれた。よく冷えたアイスティーだった。そしてその後に、特別に彼女の緑色の瞳を見せてくれた。
 それはまるで深い森林がそのまま結晶化したかの様な、透き通った緑の瞳だった。
 見ているだけで現実感が薄れ、やがて緩やかに崩れていく、不思議な眼差し。
「そんなに変かな?」
 照れくさそうに視線を下に落とし、呟くように聞いてくる彼女のその声をきっかけに、周りの音が戻ってきた。
「いや、違う。別におかしいとかじゃないんだよ。ちょっと気になったんだ」
 すると彼女はほんの束の間、まるで本に栞を挿むかの様に、今まで続いていた会話にそっと沈黙を挟み込んだ。
 そのままおもむろにバッグの中からプラスチック製のケースを取り出し、先ほどまで掛けていたサングラスをしまった。
 また出した時とほとんど同じ動作でバッグの中にケースを入れる一連の動作が、間断なく緩やかに行われた。その中で会話は停止したまま、先送りされている。
 確か、彼女の掛けていたサングラスは琥珀色の大きなティアドロップだったと思う。これはどちらかと言えば派手な装飾品の部類だろう。
 だが、緑色の瞳は明らかに違っていた。その存在感の決定的な違いに、周りの装飾品とは逸脱していた。
 彼女は午後の西日に眩しそうに目を細めている。その瞳の中では緑色が煌めき、角度を変え幾重にも反射している。
 その横顔にはどこか悩んでいる様な、わずかばかりの迷いが見えた。
「この眼なんだけど……、全部話すとなると、ちょっと長い話になるんだよね。いや、ちょっとじゃないな、かなりだね」
「ふーん、だったらなるべく短く省略すればいいんだ。そうじゃないかな?」
「いやだからねー……説明するのは苦手でさ。もちろん努力はします。まあ、何も聞かないって選択肢もあるのかな。どうする?」
 緑色の瞳を持つ彼女の話は、大体の所こんな風に、ひどくもったいぶった始まり方をした。

 

 彼女は子供の頃から、非常におとなしい性格だった。
 実際に遡れる限りの幼い記憶の中で、彼女は自身が泣き喚いたり怒鳴ったりする、いわば感情を激化させた経験という物が片手で数える程度しかなかった。
 でもだからといって、彼女が揺るがない打たれ強さを持っていたという訳ではなかった。むしろ彼女の危うさが故に、であった。感情の針がどこかに振り切れていたのだ。
 特に緊迫した段階に至ると、そのストレスから逃避する為に、スイッチを切るように彼女の意識はすぐに遠い場所を彷徨い始める。
 ぼんやりとした映像が浮かぶ。記憶の中には無い、いやもし見たとしたら忘れないだろう、その光景のイメージが鮮明に浮かぶのだ。
 それは透明度の高い緑色に染まった光であり、いくつもの光を発光させていた。とても柔らかそうな、触れると溶けてしまいそうな、淡い雪の様な発光体だった。
 周囲は明るくもなく、暗くもない、どこか遠い場所だ。隔離された様な、ひとけの一切ない遠野の様な場所。
 その光体は雪の様に下には降り注がない。その逆だった。上に向かって振り挙がっていく、そんな雪だった。
 まるで逆回転に再生されたテープ画像を、立体的に見ているかの様だった。
 絶え間なく流れる様に上へ上へ登り昇る。むしろ彼女が下に下がっているのかもしれない。流れる様にゆっくり下へ。
 景色は見渡す限り薄く淡く緑色に染まり、その静けさは息が詰まる程だった。
 その光景がひどく奇妙ではあるが不思議と落ち着く、彼女の中にしかない唯一の安らぎの場所だった。彼女は誰にも話した事がなかった。


 彼女は単純な性格をしていた。その緑の光が意味する物が何なのか、真剣に考え追究した事がなかった。
 それは多分いつか見た夢の中での映像であるのかもしれない、そのぐらいの想像しかしていなかった。大切ではあるが単なるイメージなのだ。
 眼を閉じずに白昼夢の様に見るイメージ。目の前には映らない、でも確かに見えている緑の粒、それが何時でも光っているというだけの事だ。
 彼女は空想さえしてなかった。それは偶然の様にすべてが一つに重なったただそれだけの事だ、といいきれない何かだった。

 

 夏の短い休暇に訪れた、森林の深い涼やかな避暑地。その場所で彼女が求めた物はささやかな息抜きだった。
 彼女は大手銀行の事務の仕事に就職し、また大学の頃に知り合った同い年の男と同棲生活をしていた。
 この避暑旅行は彼氏がアウトドアにはまりだした為に、突如言い出したひどく気まぐれな代物で彼女はあまり乗り気ではなかった。
 彼女は、森の奥に惹かれると嬉しそうにいう彼が不思議で仕方なかった。アウトドアというと森林浴や焚き火等や釣り、映画『スタンド・バイ・ミー』の様な凡庸なイメージしか湧いてこない。
 とはいえ大体あってるだろう。そしてアウトドアそれ自体は、要は恐ろしく不便な場所に身を置き、する事が特に何もないという不毛な行為の事を指すのではないだろうかと思うのだ。
 もちろん彼女はこの考えを楽しみにしてる彼の前では少し柔らかい表現に押さえるようにしていた。だが、やはりどちらかと言えばそこまで乗り気ではなかった。
 なので、彼が意気揚々と『寝床はテントを組み立てよう』と提案した時も、やんわりとではあるが完全に否定し、コテージをとって欲しいと撥ねつけたのも仕方ない事だったろう。
 そんな彼女に比べてどこまでも前向きな彼は、コテージも悪くないねと、バンガロー風の本格的な小屋を探してきた。彼女は少し呆れていた。
 ランプの灯りを点した小屋の中にある、ごつごつした木造りのテーブルで食事をとると、彼女は一息付いたように改めて小屋を見回す。
「しかし本当にいかにもって感じの小屋だなー。ふーん、涼しいっちゃ涼しいか」
 彼は薪で沸かした鍋にインスタントコーヒーを入れていた。その様子はどこか満足したように鼻歌混じりだった。
「お疲れ。でも悪くない、だろ?」
「まさかテレビもなんにもないとはね、恐れ入りました」
「またお前はそんな興醒めな事を。テレビなぁ、欲しけりゃ車についてるけどさ」
 この大自然を満喫しろよ、彼は機嫌を損ねたのか、頬づえを付いてぶつくさ言っている。
「まあまあ、確かに悪くない、だよね。それに丸太小屋って木の匂いが凄いんだね」
 ……その丸太小屋って言い方がもうだな、と彼がごねているのを尻目に、彼女は小屋の中を見て回る。
 壁に飾ってある写真が気になった。自然の雄大さを四角く切り取った、綺麗な風景写真だ。ただ何か引っ掛かる。
 目を逸らしてしまいたいのに何かが邪魔をする。
「綺麗な風景だよな」
「ここら辺の写真かな?」
「ああ、ここのご主人が写真が趣味らしい。いい写真が撮れるんだって言ってたな」
 彼女はその一枚の写真から眼を離せずにいながら、ぼんやりと頷いた。
 次の日、二人は遅めの朝食を軽く食べた後、彼の提案で周りの森を歩いて散策に出ることにした。
 彼の目論見ではその散策ついでに、薪用の木切れも集める算段だった。彼女からすぐに不満の声が上がる。


「えー、そんなの車で行けばいいんじゃん。薪も拾って積んでいける、アイツは実に楽々でご機嫌な文明の利器なんだよ。知ってる?」
「あのなぁ……。だいたい少しは体を動かした方が飯だって旨くなるんだよ。ほれリュック、薪入れ用な」
 身体を動かすという意味合いにおいて、彼女はアウトドアという概念は大反対だった。むしろ憎んでいると言っても過言ではく、すでに薪は拾うつもりなど一切なかった。
 一足遅れで小屋を出ると、彼はまだ近くにいた。地面に目配りをしながら、ゆっくりとぶらついてる。あれだけ大手を振っておいて全くの手ぶらだった。
「ぜんぜん拾ってないじゃん」
「うーん、意外とめぼしい木って落ちて無いもんなんだな」
「山男なら与作よろしく小屋の近くの木を切り倒して作ればいいのに。アウトドアが聴いて呆れるね、はんっ」
 その彼女の無茶な言葉に彼が驚いたような顔をした。
「お前それ本気か? 生木なんかじゃ水分があってそのままじゃ薪にならないんだけどな。それに勝手に切っていいわけないだろ。
確かそこら辺にある木だってその土地の所有者の物だった気がするぞ」
「……ジャングルのターザンがそんな事を一々細かく気にしたりするかねぇ。まったく大自然が聴いて呆れちゃうっての」
「いちゃもん付けてないで、お前もさっさと探せよ」
「はゅーび」
「何て言った? それに口でなく足を動かせ、足を」
「そんなにたくさんの事は一度に出来ません」
「……さては拾わないつもりだろ。図星だ、どうにかこのまま誤魔化して拾わない気だな」
「うるさいなぁもう、このアウトドアかぶれ! 万年パタゴニア症候群!」
「はいはい」
「やーい、アウトドアかぶれ、アウトドア湿疹、アウトドアかゆみー!」
「なんじゃそりゃ」
「いっそ山に帰れ!」
「俺は獣の類いかと」
「じゃあ……街に、ただいま?」
「いや待て、『じゃあ』てなんだ。不安げな表情で見るな、こっちが聴きたいわ」
「やっぱ山に……帰れ?」
「いやあれだよ、別にクイズとか今やってないからね、正解とかないんだよ?」
「あ、ツンデレ? ここでツンデレ?」
 もうアウトドアは関係なくなって、単なるアホキャラになっていた。今回の旅行で一番楽しそうだった。
「……もうっ、まだ分かんないのこのバカぁ、べ、別にアンタの為に考えてきたんじゃないからねっ!ってなんだこれ。しかも男のツンデレなんぞ気持ち悪いわ」
 そして意外とノリノリな彼も、どうやらいじられキャラとして異様なほど輝いていた。


「ん? なに?」
「自分で言っておいて聞いてないとか凄いな、だいたいこの会話はどこに向かってるんだ」
「ここどこ?」
「知るか」
「いや、本当に」
 その広々とした空間は、林の切れ間に突如として現れた。木々に周りを区切る様に囲まれていた。頭上には空が開けて見える。まるで巨大な天窓を思わせた。
 日の光が辺りを明るく照らし、背の短い草木や花が生えている。真ん中には巨大なブナの大木が生えている。ただその木の枝に葉はついていなかった。もうほとんど枯れているのかもしれない。
 枝の方も先の細い物は枯れ落ち、太い幹から伸びた何本かしか残っていない。そのためだろうか、虚ろな大木は空き地にそびえ立つモニュメントの様に見えた。
 二人はその場で立ち尽くし、大木を黙って眺めていた。
「……この木なんの木、さてなんでしょう?」
「言わないぞ。まったくもって気にならないからな、見たこともあるし、名前だって知ってる。確かこれはブナの木だ」
「ふーん、つまんない。アウトドア、かぶれるヤツは、つまらない。せっかく五七五で言ったってのに全然つまんない」
「自分の俳句の無さまで人の所為にするな。しかしまだ続けんのかよ、この流れ」
 すると彼女は急に彼に抱きついた。彼が驚く間もなく、強く体を密着させる。
「じゃあ、イチャイチャしようか」
「はい? えー、それどういう思考回路なんだ?」
「どうもこうもない、ムラっとしたんだよ」
 二人は若かった。木々の草生きれのむっとする匂いが胸一杯に広がる。
 お互いの息遣いと衣の擦れるだけが聞こえる。それ以外はひどく静かだった。
 ふと、彼女が仰向けのまま上を見上げた。
 落ちてきた。木々の枝に生えていた青々とした木の葉が、一斉に音もなく抜け落ちてきた。
 彼女は瞬間的に潰されると思い、身を堅く緊張させた。彼の方はうつ伏せのため気づいていない。
 葉の緑が落ちてきて、音もなくぶつかった。避ける事は不可能だった。視界は周りに落ちて来た緑に覆われた。
 しばらく驚きのあまり動けなかった彼女は、それでもその場の状況を把握するために眼を動かしていた。
 緑色が、かすかに動いていた。周りを覆うようにした濃厚な葉の緑が、揺れる様に流れていた。
 風は無かった。そんな事は関係ないとでも言うように、ゆっくり揺れ動いている。
 そして一瞬だった。彼女が手を伸ばして掴もうとした、一瞬だった。先程落ちて来た時と同じ様に、それは一斉に音もなく上昇していた。
 しばらくして、まるで何事もなかったかの様に完全に、すべてが元通りに戻っていた。木々には当たり前の様に葉が生い茂っている。
 そして気付く。彼女は一人だった。空き地の端に一人で寝転がっていた。


 彼女は混乱していた。四、五分はそこで放心したように、辺りを見回していた。
 彼は、どこに行ったのだろう。見渡した限りでは近くにいないのが分かった。
 木が重なって、少し離れた彼の姿が見えなくなったのだろうか。しかし彼女を置いて一人でどこかに行くとは、ずいぶん薄情な物だと思った。
 待て、そこで彼女の思考は急速に醒めていった。全然違う、何か異様な事態が起こっていたはずなのだ。
 落ち着け、落ちてきた?
 そうだ、確かに先ほど、何かが頭上から落ちてきたのだ。葉っぱだ。大量の木の葉が溶けだした様に塊になって落ちてきたのだ。
 そしてすべてが嘘みたいに元通りに戻った。唯一つ、彼だけが消えていた。まさか、本当に消えた?
 そんなバカな話があるだろうか。でも一瞬だ、一瞬の内に目の前から消えて居なくなった。
 とにかく危険だ。この場所は危険だと思った。といってまだ離れるわけにもいかなかった。先ほどまで、彼は確かに此処に居たのだ。
 誰かとはぐれた場合は冷静に対処し、その場からあまり離れず、見える位置から周りを探す必要がある。
 しかし彼女はあまり冷静とは言えなかった。先ほどから、何時もの緑の光体が自身の周りを上へと浮いて行くのを、ぼんやりと眺めていた。
 今は現実逃避している場合ではないという事は一目瞭然だった。彼女は戒める様に、顔を振りイメージとしての光景を振り払う。
 彼の姿をはっきりと探す為に、目を凝らし周りを巡らす。だけど彼の姿は見当たらなかった。緑の光体だけが彼女の視界にくっきり写り込んでいた。
 緑の発光体だ。ああ。子供の頃から知っている、その彼女の中にしか存在しえなかった場所。その光体が、いま目の前に存在していた。
 それは意識が現実から解離してどこか遠くなっていく、夢にも似た不思議な体験だった。
 その後、彼女は完全にパニック状態に陥った。

 

 ――半狂乱が去り、気が付いた時には小屋に戻っていた。ベッドに駆け込み、朝が来るまでシーツの中に包まっていたようだ。
 朝になっても彼は小屋に戻って来なかった。彼女もあまり期待はしていなかった。
 車でこの場を離れる事も一応考えてみた。でもそれでは彼が決して戻らない様な気がした。この選択肢は無い。
 他にも警察に通報しようと考えた。だが警察を呼び状況を説明するにしても今のここは、一体どういった状況なのか。
 『神隠し』のそれだろうか。そういう状況だと言うのだろか。まるで笑えないジョークだった。
 とはいえあの瞬間、彼女は何かの枠というか異変に取り込まれる確かな感覚を覚えていた。
 従うのが当然の様な、それが厳然たるルールであるかのように、動かざる力場を感じていた。
 彼女の生きてる領域とはまったく違う別の生態系の倫理観を、概念としてのそれを直接ぶつけられている様だった。あれは、もしかしたら睨まれていたのだろうか。
 でも、なぜか自分だけが戻ってきたようだ。どうして自分だけ連れていかれなかったんだろう。いっそ一緒にいってしまえば良かったのに、彼女は思っていた。
 ただ、一つ言える事があるとすれば、むしろ取り込まれた方が良かったのかもしれない。どちらであれ戻る事の出来ない流れに乗ってしまっていた。
 この先に何が起こるのか、まるで予想がつかない。だが不安と同時に何処か懐かしい、昔からよく知ってる安心感があった。


 そろそろ彼が居なくなってから丸一日が経とうとしていた。彼女は決心を固めると、小屋から様子を伺うように外に出た。
 森の木々は風に吹かれ、さらさらと音を発てている。鳥の鳴き声も聞こえる。木漏れ日があたり一面に揺れている。
 どこにもおかしな兆候は見当たらない様子だった。それでも彼女は出来るだけゆっくりと恐る恐る歩を進めていく。
 迷った末に小屋の中にあったバタフライナイフを武器として持ち出したが、あまり効用があるとは思えなかった。
 とにかくあの大木のある空き地に行ってみなければならなかった。何らかの手掛かりが残っているかもしれない。
 あの大木についてもよく調べてみなければならなかった。中の空洞や周りに何があったか。
 彼については消えた、もしくは連れ去られたと考えてほぼ間違いないと思われた。
 あれほど一瞬の間にどこか遠くに、しかも何も言わずにその場を離れるだなんて、どんな場面でもまずあり得ない話だからだ。
 何より、あの時二人の体は密着していた。性行為の真っ最中なのだ、これはどう考えてもおかしかった。
 それではあの場所で一体何が起きたというのだろうか。神隠しだろうか。
 いいだろう、これは神隠し、もしくはそれに準ずる理解不能な現象なのだ。さてどうする。
 何よりあの緑の溶けだした大量の葉は一体なんなのだろう。二人とも同時に覆われたあの揺れてうごめくあの葉は。
 もし彼の体がそれに溶け込んだのだとしたら、元通りになった木々に捕食された様な物なのだろうか。とんでもない話だ。
 そう考えると彼女の頭の中にはまた昨日の恐怖が甦り、周りの木々が恐ろしく見上げてしまう。
 森が古代から畏怖の対象として崇め奉られているのは分かっているが、そのすべてを遮る荘厳さに改めて気圧される心持ちがした。
 眼の前に広がる鬱蒼と茂る森はほぼ切れ目がなくどこまでも続き、ますます深く濃密になっていく。
 その時彼女は違和感を感じた。昨日はこのぐらい歩いたらあの空き地についたはずだった。
 確かにこの方向であっていたはずだ、彼女はその場所を何度も確認する。間違いない、太陽が正面に見えるのも昨日と変わらない。
 実際のところ、昨日彼女は彼ほどに薪拾いに集中してはいなかったのだ。
 だからどちらに行けばいいか分かっていた。あの時あの木立の切れ間が見えたからこそ、空き地の方に向かっていったのだ。
 それに彼女が小屋に帰ってこれたのも、空き地の方角や小屋の位置が把握できていたからなのである。
 だが、果たして。何処を探してもあの空き地は見当たらなかった。今度こそ八方塞がりだった。
 気分が悪くなるほど適当で、まるで取り留めがない出来損ないの悪夢の様に、肝心な所で不必要に支離滅裂だった。
「はは……。ひらけ胡麻、ってね」
 独り言も虚しく、現状は一切の余地がない程に手詰まりになってしまった。

 

 彼女は取り敢えず小屋に戻った。しばらく茫然として過ごしていた。地に足が着かない。一体どこに着地すればいいのだろう。
 彼女にとって目的の場所ではなかったが、そこまでにたどり着くための重要な手段の意味合いを持つ空き地が、丸ごと消えて無くなったのだ。
 もしこれがゲームならリセットボタンを連打したい気分だった。ゲーム機自体を投げつけていたかもしれない。
 何だろう、向こうとしては連れさった上に、あくまでも返す気など更々ない、そういう事なのだろうか?


 そう考えると気持ちが一気に急いてきて、心の中に焦りが湧いてきた。思考回路がそのまま焼き切れて不能になりそうなほど頭が熱っぽく、壊滅的に危うい兆候だった。
 もちろんパニックなどになってる場合ではなかった。今は落ち着いて次の善後策を練らないといけない、そんな時だった。でも無理だった。
 彼女が完全にパニック状態に陥ってしばらく経った時、緑の光体が徐々に増え、流れが早くなっていった。それは視界が塞がってなくなるほどの増大だった。
 彼女はやがてしばらく身動きを取る事をやめ、椅子に座りこんだ。数分後には視界と共に普段の落ち着きを取り戻していた。
 テーブルの上には昨日の朝から放置しっぱなしになっていた、彼のマグカップが見えた。
 こう言ってはなんだが、趣味が悪い。自分の可愛がってるペットがプリントされている。
 その事実だけでも十分なのに、プリントがまた写真ではなく、自筆のいかんともしがたいイラストなのだ。もう一体どうしろと言うのだろう。
 まったく本当に。直接文句の一つも言わなくては、こちらの気が済まない。
 待ってろ、彼女は勢いそのまるで可愛くないイラストとにらめっこしてみた。少しだけ気分が落ち着いた。
 そうだ、まずは気持ちを落ち着つかせる必要がある。どんな状況でも何らかの取っ掛かりは必ずあるはずなのだ。
 そこで彼女はふと思い出し、一昨日の夜にも惹き付けられた、壁に飾られた一枚の風景写真に目を移した。
 そこには、昨日はまだ分からなかった、あの件の空き地が写っていたのだ。それは間違いない。間違いないのだが。
 違和感。あり得ないほどの違和感が彼女を襲う。写真には昨日は見なかったはずのある被写体が写り込んでいる。
 そこには探しているはずの彼が確かに写り込んでいた。
「はぁ?」
 彼女は思わず声をあげていた。もちろん誰からも返事は帰ってこなかった。
 彼女は仕方なくその怪しすぎる写真を壁からはずし、テーブルの上に置くと、何度目かの先の見えない具体策を講じることにした。
 ここの主人に聴けば、この空き地について何か分かるだろうか。しかしどう考えても、この空き地は偶然に写真に写り込んだとしか思えない。
 それより何より、今はこの写真に写っている彼の方が遥かに問題なのだ。一昨日の時点では、この写真には写っていなかったのだ。
 力なく再びテーブルの写真を見ると、彼が消えていた。いや、彼が消えて彼女はどこかほっと安心した。
 やっぱりだ気のせいか、また幻でも見たのだ。深く考えても仕方ない。その方がまだ現実的に思えたから。
 写真をそっと壁に戻そうとした。また彼が写っていた。先ほどとは別の位置に別の姿勢で、しゃがみ込んで哀れなほど途方に暮れていた。
 『単なる感熱紙である写真の景色の中に、実際に生きて動いている人間が入り込んでいる』そういう事なのだろう、とにかく此処に手掛かりがある。
 そこで彼女はようやく思考を切り替える事に成功した。頭の中身を丸ごと取り替える必要はない。とにかく常識に捕われなければ良いのだ。
 しばらく写真を観察し、どうやら彼女が見ている時には彼の像は動かないという事に気づいた。それが最低限のルールなのだろうか。
 とにかく一端目を写真から離してる間のタイミングで、シャッターが切られている。ならば写真の中では時が流れているという事だ。
 もしかしたら、現実のこの世界のどこかにあるあの空き地に、この写真のレンズがフォーカスされたまま繋がっていて、彼はそこに居るのかもしれない。
 そこはどこだろう。もし空き地が移動する(場所が移動する!)性質があるのだとして、あまり遠くには行かないだろう。
 あの空き地は木々の切れ間なのだ。必然的に位置してるのは周りが木々に囲まれた、この森林地帯のどこかである事は間違いない。理屈で言えば多分、そのはずだ。
 この見えない世界にも彼女には分からない規則性があり、なんらかの秩序の様な物があるのだろう。


 しかし、それにしても森林地帯はあまりに広大だった。隈なく探すだけでも一ヶ月はかかるだろう。しかも移動するかもしれないのだ。
 ならば空き地をこの小屋の近くに誘き寄せる事はできないだろうか。多分できるかもしれない。
 ただ誘き寄せるにしても、何を材料にすればいいのだろう。彼女自身はすでに拒絶されてしまっている。
 ならば新しい人身御供をなんて、まったく悪い冗談みたいな考えしか浮かばない。
 しばらく考えていると、緑の光体が消えかけていた。この光、もしかしたら単に彼女のバロメーターなのだろうか。それぐらい精神に左右されている気がする。
 首を捻り、柔軟する動きで首を回していると、壁にかかっている空き地以外の写真が目に入った。
 ある考えが彼女の頭の中に降って湧いた。そんなに一ヶ月も時間を掛けてはいられない。選択肢はそれしか残ってないとそう思えた。
 それは壁に飾ってあった、なんて事のないこの小屋の内装写真を見ている時に浮かんだ、馬鹿げたアイデアだった。
 空き地を探しにいくのでもなく、誘き寄せるのでもないそんな方法だ。要は彼の居場所を取り替えるのだ。ただし写真で。
 写真に写っていた彼を輪郭で切り取り、この小屋の内部を写した内装写真に張りつけて壁に飾るのだ。
 そう、世間一般でいうところのアイコラである。正気の沙汰ではないがやってみるしかなかった。
 しばらくして出来上がった写真は、上からのりで貼りつけたのがすぐ分かるような、子供騙しのいかにもな合成写真であった。とにかく壁に飾ってみる。
 あり得ない、自分でも何をやっているのかと正気を疑った。だがまた実際これしかないという確かな確信があった。
 そして写真を壁に飾ってから数秒後の事、背後でどさりという音が聞こえた。彼女が振り向くと、小屋の床にぐったりと倒れこんだ姿の彼が現れた。
 彼は消え失せていた間にも何の異変もなく、無事な様子だった。よかった、あまりの安堵に足に入っていた力が弛んでよろけていた。
 一方の写真、小屋の内装写真に張りつけたはずの彼の切れ端の写真は、跡形もなく消え失せていた。それが当然だという様に消滅していた。
 深く考える気力はもう無かった。とにかく帰ってきた、それだけで良しとしようと決めた。
 しかも無事に帰ってきたのだ。まったく五体満足だっただけでも御の字だろう。これ以上何が望めるというのだろうか。
 『そうなんです、写真を切ったり張りつけたりしてたら、なんと彼氏が出てきたんですよ!』いいではないか。さあ、さっさとハッピーエンドだ。
 彼女としてはこんなシュールな場所には、もう一秒たりとも居たくなかった。まだ意識の戻らないままの彼を肩に担ぎ、急いで小屋を出ようとした。
 小屋の扉を開き外にでると、その前にはあの空き地が一面に広がっていた。逃げようにも完全に正面を塞がれていたのだ。
 空き地は不吉に歪んで膨れていた。景色として形を保てなくなるほどに、動き溶けて揺れていた。それは危険性の高い破滅を孕んだ揺れ方だった。
 まさかこんなに早く、移動し追ってきたというのか。それにしては早すぎだ。彼は今帰ってきたばかりだというのに。
 一体なんなのだ。彼女はその時になって、途方もなくうんざりしてきた。なんで追って来るのだ。まさか返せという事なのか。
 やり方は少しばかりルール違反だったのかもしれないが、とはいえ奪ったのはそちらだ。あり得ないのはお前の方だろう。
 この男はお前のじゃない、私の男だ。そこだけははっきり主張しようと思った。向こうとしては男女の性別など関係ないかもしれないが仕方ない。
 そこで急に、彼女はごく些細な事が気になり、それどころでは無くなってしまった。
 もしかして。今この瞬間だが、こいつがモテモテな構図というのが出来上がってはいないだろか。向こうと彼女との取り合いと言えばいいのか。
 まったく気のせいだったかもしれないが、それが非常にムカついた。危険性の高い危うい揺れが近づいて来ていようがどうだろうが、そういうのは大変良くない。
 もういっそのこと空き地の真ん中に放り投げてやろうかと言う所まで来ていた。それぐらいムカついていた。


 だが、また何処かにワープの様な事をされても困るとも思った。面倒な話だった。込み入っていて、何だかすべてが面倒になってきた。
 いや、でもあれだな、まぁいいか。ワープだろうがなんだろうがされてしまえばいいのだ。多分大丈夫だろう。
 景色全体を緑色の発光体が覆い、せわしなく上に上がっていた。空き地の大木にぶつかって横にずれていた。
 空き地は相変わらず咆哮を挙げるように、地鳴りのような低いでろでろでろといった音を響かせている。
 何だというのだ。空き地が移動しても構わないじゃないないか。いいよいいよ。好きなだけワープでもなんでもすればいいんだ。どうとでもなる。
 なにせ、先ほどあれだけ唐突に簡単に帰ってきたのだ。連れ去ろうがなんだろうが、またすぐに取り戻せる。そうだろう。
 それに、何だか理屈がおかしいのだ。まず何より向こうの目的が見えなかった。一体全体、何がしたいのだろう。
 一つ目の候補、捕食の意味合いがあるなら、これだけ時間が経っているというのは意味が分からない。とっとと栄養源にしてしまえば良かったのに。
 とはいえ、向こうにとって彼女は食い合わせが悪い性質なのかもしれない。だからこそ拒否されたのだろう。
 二つ目の候補、生殖の意味合い。あの時の二人の状況からして、もしかしたら催したのだろうかとも思っていたのだ。
 だが、戻ってきた彼にそのような痕跡も見えない。性の匂いがしないのだ。
 それか快楽を感応できない事に対する嫉妬のような物だろうか。嫉妬して嫌がらせ、まるで嫁姑の様だ。
 三つ目の候補、縄張り争い。何より移動しているのでおかしい。
 四つ目の候補、恐怖を寄越せ。まるで昔からの絵に描いたお化けのようで、逆に微笑ましくなってしまう。あまりに逆効果。
 斯く下の如く、何処かどれも筋がおかしいのだ。もしかしたら八方塞がりなのは向こうの方なのかもしれなかった。
 間違って貧乏人相手に誘拐身代金事件を起こしてしまった、しかも地底人といった趣きだろうか。
 向こうとしてはこの後は一体どうするつもりなのだろうか。彼女には想像つかなかった。
 その間にも視界はギシギシと歪み、それは拡がり放射状の不安定な揺らぎを空間にもたれ掛ける。ゼリーの様に柔らかい内容物が軋んでいる。
 だけど、その目の前に広がる怪奇現象はどちらかと言えばお化け屋敷のそれだった。恐がらせようという演出じみた恐怖。
 というわけで、彼女はあっさりと彼を空き地に放り出した。支えの無くなった彼の体が、やおら地面に崩れ落ちる。
 そうして自分は一休みするように小屋の入り口にゆったりと座り込んだ。
 その態度は一応、相手の出方でも拝見してやろうかといった憮然とした物であった。
「さあ、次はどうすんの。いっそ殴り合いのケンカでもする?」
 返事はない。一斉に静かになった周りに彼女の声だけ響いている。
 一時間後、彼が目を覚ましたが、一方の空き地は二度と動きださなかった。

 

「これで、緑色の目を持った美女の大冒険はおしまい。本当に長くてごめんね。どうだった?」
「美女……。」
「それで感想は?」


「大体あってるんじゃない? 最初の方の、昔からおとなしい子だったってのは首を捻ったけどさ」
 こっちもそろそろ時間がなくなってきたので話を切り上げようと思った。彼女は名残惜しそうにしている。でも仕方ない。
「それにしても、そんな姿だったんだね」
 改めて凝視されるとなんだかこそばゆい気がした。ずっと見られてはいたんだけど。
「いや、実際は違うよ。今きみが見ている姿がどんな姿かは僕にはよく分からないけど、君自身の想像していたイメージの外見がそのまま見えているんだと思う」
 そういった事は彼女に対してあまり言っていい事ではない気がした。きっと混乱してしまうだろうから。でも今はすべてを曝け出してしまいたい気分だった。
「元からそういったエネルギーの様な物が大気中を循環していて、それが緑色の眼を通す事により見える様になっているってだけかもよ」
 その時彼女が堰を切ったように、喋り掛けてきた。
「やあ、こんにちは。はじめまして。どうだった? ずっと前から知ってるような気がするよ。いつも、今回もありがとう。さようなら、また合う日まで」
 小屋の外から徐々に近づいてくるエンジン音が聞こえる。小屋の持主との解約の話し合いに出掛けていた彼が帰ってきたのだろう。
 彼は何も覚えてないらしい。彼女も特に言うつもりはないのだろう。
「やっぱ見ているだけで良かったかもね」
 少しだけ後悔していた。出すぎた真似は良くないと相場が決まっている。誰にとってもそうだろう。
「んー、見ているだけか。ねぇ……でもそれだけでも充分だったよ。ここは私にしか無い閉じた世界だったはずなのに」
 そして瞳の緑が消えれば、また不可視の頭の中に戻っていく。それは彼女の、彼女だけの世界。
 その静謐な緑色は。少しだけ名残惜しい気がした。
「寂しくなるよ」
「そうだね、じゃあ」
 そこで彼女の緑の世界が閉じて、同時に音が消えた。

 

《終わり》