其の壱-3

Last-modified: 2008-04-20 (日) 21:48:04

立ち込める靄。
冬の寒さの中、ようやく太陽が顔を出したというところ。
「まったく寒いのにこの朝から…」
黒と茶髪の混じったような頭に、モスグリーンのコートと青いジーパン。宇都宮総慈が、丸めた手に息を吹きかけた。
電信柱に寄りかかって愚痴りながらも、彼の目線はある一点のみを見つめている。
「寒いのは君だけじゃないんだ。やめてくれ。」
その電信柱の裏側。背中まである漆黒の髪をポニーテールにして、黒のタートルネックに黒のロングコート、黒のズボンを身に付けた少年。藍沢功が総慈と同じ方向を見つめて言った。
「寒いのは寒いじゃん。」
「まあ…な。」
コートの襟を立てる功。
港区の住宅街。ちらほらと明かりのついている家はあるものの、まだ人気はない。
その中にある、先ほどから功と総慈が注視している小さなワンルームマンション。二階建て、部屋数はせいぜい五、六個といったところか。一見、なんの変哲もない建物だ。
[よう、宇都宮、藍沢。調子どうだ?]
その時、二人の耳についていたイヤホンに、通信が入る。
「如月さん、寒空の下にいる人間にラーメン屋から通信入れるのやめてくれません?」
如月の声の後ろから聞こえてくる『はいニンニクラーメン叉焼抜きお待ちぃ!』という威勢のいい声に、総慈が顔をしかめる。
[おお。悪い悪い。でも夜中ずっと何も食ってなかったんだぜ?]
「そりゃあ、そうですけど…」
拗ねたように口をとがらせる総慈。
[『はい、フカヒレラーメン大盛り!』 あ、おっちゃん、ありがと。]
無線の向こうで嬉々とラーメン屋の主人からうつわを受け取っているであろう、声と物音がする。
総慈の額に青筋が入った。
「如月さん、それってまさかとは思うけど経費?」
ブツッ!
「……経費か。」
「経費だね。」
二人揃ってため息をつく。
ワンルームマンションのカーテンの閉まった一室を見、功は時計を見た。
「午前六時五十分、容疑者の帰宅は確認できず……か。」

 
 



「……ん…」
遠山里紗は、窓からブラインド越しに差し込んでくる光で目を覚ました。
……朝?
のそのそとベットの上で起き上がり、時計を見る。
七時ジャスト。
「ひちじ…」
朦朧とした頭が違和感を感じ取る。
「…ほえ?」
だが、その違和感は何なのか。
「ひちじ……いつも起きてるのは……」
……確か、三十分前だったような。
「…えと…」
……つまり、ということは。
「遅れる!」
転がるようにベットから出て、青高学園指定の制服に着替える。
ブラウスのボタンを留めるのももどかしく、居間へ。
トーストにスクランブルエッグという朝食は、すでにテーブルの上に載っていた。
「お母さん!起こしてくれても!」
「あんたが起きなかっただけでしょ!」
うるんだ瞳で訴える里紗を、台所の母親は一蹴する。
「あううう……」
必死の思いで食事を詰め込む里紗。
それでも、普段小食である彼女の食事は遅い。
最後に口の中に残ったパンを牛乳で流し込むと、洗面所へ。
歯を磨き、顔を洗う。
と、そこまで来て自分の髪のありさまに気づいた。
「……あ……」
もともとくせ毛の髪が、寝癖も手伝ってあちこちがハネている。
残り時間、あと五分。
「どうしよう……」
半泣きで、里紗は呟いた。

 
 


日も完全に地平線から顔を出し、ごみ出しの主婦や朝練の学生などが住宅街の道を行き来する。
「なあ、功…」
電信柱にもたれた総慈が、口を開いた。
「なんだ。」
反対側にいた功が振り向く。
「もしかして、すげえ俺たち浮いてねえ?」
「もしかしてと言うまでもなく、な。」
道行く人々の好奇の目を受けつつ、功は肩をすくめた。
「この時間に高校生が二人並んでずっと同じ所見つめてんだもんなあ……」
総慈が例のアパートの方を見る。
「相変わらず犯人の部屋に人気はなし、か。」
「人一人殺して、どこほっつき歩いてんだか。」
ため息をつく功に、うんざりした表情の総慈。
「如月さんか小田さん、来てくれないかな……」
大きく伸びをしながら総慈が言う。
「あの二人に限ってそんなためしがあったか?」
功が馬鹿にしたように笑う。
伸びをした姿勢で固まる総慈。
「小さな希望を踏みにじるようなこと言わないでくれる?」
大きくため息をつきながら腕を下ろし、電信柱に寄りかかって座り込んだ。
「……捨て子みたいだぞ?」
振り返って功が言う。
「うるさいな!」
拗ねたように怒鳴る総慈。
二人の前を五人が通り過ぎ、うち三人が興味しんしんと言った様子で二人を見て、鳥が六匹ほど編隊をなして二人の上をさえずりながら飛んで行った。
「功はさあ……」
「何だ?」
「その髪はなんで伸ばしてるの?」
沈黙。功の表情は変わらない。
「個人の自由だ。」
マンションの方を見たまま、ボソッと言った。
相変わらず犯人の部屋の窓は閉め切られ、カーテンがかかっている。
鳥が数匹二人の上の電線にとまり、六人が二人には一瞥もくれずに前を通り過ぎ、上にいた鳥が飛び去った。さらに、冷たい一月の風が吹き抜ける。
「犯人、帰ってこないね……」
大きく欠伸をする総慈。
「そうだな……」
功も、暇そうな顔で髪をかき上げる。
「白昼堂々ともっていた十徳ナイフで腹を一突き。当たり所が悪いとあんなものか。」
「口論になっただけで人って人を殺せるもんかね?」
あきれ顔で総慈は言った。
「殺せるん……だろうな。実際に起こっている。」
ため息をつく功。
三毛猫が、二人の前を横切る。
「そーいやさ、功に兄弟っているの?」
ずっとしゃがみこんでいた総慈が、後ろを仰ぎつつ言った。
が、返事がない。ずっと犯人のマンションの方を見ている。
「ただのしかば…」
「……兄弟は、いない。」
総慈の方を向かず、功は言った。
「あ、じゃあ一人っ子なんだ。」
「そうなるな。……君は?」
功は、相変わらず総慈の方を向かない。
「僕はお兄ちゃんがいる。うち、剣道場やっててさ。」
総慈が立ち上がって、大きく伸びをする。
「ほう。その兄さんも君のような化け物じみた頭をしているのか?」
功が振り返った。
「……十五歳で修士号をとった人に言われたくないね……」
苦笑いする総慈。そしてマンションの方に目をやると、
「兄さんは剣道場の跡取りだよ。いつも剣道やってた。」
肩をすくめて言う。
「……君はできないのか?」
「できないことはないけど……だいぶ我流が入ってるからちゃんとした剣道やってる人にはたぶん勝てない。」
刀を正眼に構え、振る真似をする総慈。
「そうか。」
それを一瞥して、功は再びマンションに視線を向けた。
冬にしては暖かい日の光が、気温をどんどんと上げていく。
総慈は上着の前を外すと、
「ちょっちコーヒーでも買ってくるわ。」
と言って歩きだした。

 
 


「バカ。」
ニット帽をかぶった里紗を見て、玲美は言った。
「うう……」
黒い毛糸のニット帽を引っ張る里紗。
通勤通学で混み合っている『ゆりかもめ』の車内。
「そんなん電車一本遅らせてでもどーにかすりゃよかったじゃない。」
「電車遅らせたら学校に間に合わないもん……」
半泣きで里紗が言う。
「少々遅れても走れば……って、そうだったわね。運動音痴だったわね。」
大きくため息をつく玲美。
「ちょっと取ってみなさいよ。」
無造作に、里紗のニット帽に手を伸ばす。
「うひゃあぅ!」
必死で阻止する里紗。
と、玲美が手を離した。
里紗も不思議がって玲美の顔を見上げる。
「ほれ。」
次の瞬間、玲美のデコピンが里紗を襲った。
「はう。」
額を抑える里紗。
隙をついて、玲美は里紗のニット帽を取り去った。
「ほええええ!」
慌てて頭を押さえる里紗。
そして、髪型が分からなくなるように大きく首を振る。
「なんだ、大したことないじゃん。」
玲美がポンポンと里紗の頭をたたいた。
「ホントに……?」
「大丈夫大丈夫。ニット帽かぶってたらなおったんじゃない?」
鞄から鏡を取り出し、里紗に渡す。
「あ、本当だ……」
鏡を見、頭を触りながら里紗が言った。
「あんた気小さすぎ。もっとしゃきっとしてなさいよ。」
そう言って、里紗の頭をはたく玲美。
「うん……」
頭を押さえながら、里紗は言った。

 
 
 
 

其の弐-3