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Last-modified: 2007-06-14 (木) 22:30:57

 緩やかな風が吹きすぎる。穏やかな日差しを注ぐ晴天の下、休日の町を人が行過ぎるのが目に映る。
 兄弟一家の屋根の上、そんな和やかな風景をぼんやり見下ろしながら、マルスは昼寝をしていた。
 やたらと頑丈な切妻屋根は、春の日差しを受けてちょうどよい温度に暖められており、目を瞑って
いるとかなり深く寝入ってしまいそうな予感がする。
(ま、たまにはこんなのも悪くないかな)
 マルスが欠伸をしたとき、不意に屋根の縁の辺りが軋み始めた。目をやると、誰かの太い指が力
いっぱい屋根の端をつかんでいる。黙って見ていると、下からアイクが顔を出した。
「……マルスか。こんなところで何をやってるんだ」
「アイク兄さんこそ……って、兄さんは訓練してるに決まってるか」
「ああ、ちょっと懸垂をな」
 短く答えながら、アイクもまた屋根の上に上がってくる。マルスは苦笑した。
「アイク兄さん僕よりずっと重いから、屋根が抜けそうで心配だよ」
「大丈夫だ。前に似たようなことがあって、屋根の素材を頑丈なものに変えたからな」
「アイク兄さんが?」
「そうだ。グレイル工務店から余ってる材料を借りてきてな……今ならドラゴンが乗っても耐えられ
 るはずだ」
「イナバ物置みたいだね」
 アイクは寝転がっているマルスの横に腰を下ろすと、休日の町に目を細めながら言った。
「お前がこんなところにいるのは珍しいな、マルス」
「ま、たまにはね」
「いつもの休日は町に行ってちょっとした悪事を働いてるはずだろう」
「やだなあそんな言い方。可愛い悪戯だよ、悪戯」
「本当に可愛い悪戯ならリンだってあんなには怒らんだろう。そのリンが風邪で寝込んでいるなら、
 お前にとっては好都合だと思っていたんだがな」
 アイクの静かな視線を受けて、マルスは苦笑を返す。
「全く。風邪で寝込むなんて、似合わないことするよねリン姉さんも。おかげで今日の予定がパーだよ」
「どういう意味だ?」
 わずかに眉をひそめるアイクに、マルスは少し悩んでから答えを返した。
「ま、アイク兄さんになら言ってもいいかな。リン姉さんが寝込んでるんじゃ、僕を叱りつける人が
 いないからね……まあ、そういうことだよ」
「と言われてもな……つまり、叱られたいのか?」
「まあ、そんなところかな……勘違いしないでね、別にマゾって訳じゃないんだ」
 マルスは遠くに立ち並ぶビル街に向かって手をかざした。ここからではミニチュアのように小さく
見えるビルの森が、すっぽりと手の中に収まってしまう。
「アイク兄さん。僕はね、いつもやってるような小さな悪事じゃなくて、もっとひどくてえげつない
 ことだって出来る自信はあるんだよ」
「というと、たとえばどんな?」
「まあいろいろかな。武器や麻薬の密売ルートを掌握したり、ヤクザやマフィアなんかを傘下に収め
 たり。やろうと思えば誰にも気付かれずに人を一人消す自信だってあるぐらいだよ」
 何も言わずにただじっと自分を見つめるアイクに、マルスは苦笑を返す。
「中高生にありがちな誇大妄想だって思う?」
「さあな。だが、何となくだが、お前ならやってもおかしくはないような気もする」
「ありがとう。アイク兄さんは僕の実力を高く評価してくれてるんだね」
「お前が持っている強さは、俺が目指す強さとはまた別の種類のものだ。それに、観察眼と人心掌握
 について、お前には天才的な才能がある。セネリオがそんな風に言っていたからな」
「ふーん、そうなんだ。さすがに人を見る目があるね、あの人は」
 遠いビル街を手で撫でながら、マルスは気のない返事を返す。
「ま、そんな天才的な才能があるせいかもね。普段、何気ない生活を送ってても、ちょっとした風景
 から次々と悪事が思い浮かぶんだよ。多分僕は、穏やかで優しい好青年の仮面を被ったまま、誰に
 も気付かれずにたくさんの人の運命を弄ぶことができる。そのぐらいの力はあるし、たまにだけど、
 本当にそうしたくなることもだってあるんだ」
 マルスは思い切り手を握った。小さなビル街が、音を立てずに自分の手の中に飲み込まれる。
「だからね、怖いんだよ。このままだと、自分が本当に悪い人間になって、もう二度とこの家に戻っ
 て来れなくなるような気がしてね。それで、他愛もない小さな悪戯をしては、リン姉さんに叱って
 もらうんだ。叱ってもらうたびに、心に言い聞かせるんだよ。『ほら、お前がどんなにうまいこと
 を悪事を重ねたつもりでも、こんな風に見抜いて、罰を与える人間がいるんだぞ』ってね。そうす
 ることによって、もっと大きな悪事を成し遂げてみたいって思ってる自分の心に、ブレーキをかけ
 てるんだ」
 言い終えて、マルスはそっと手を開く。手の中でつぶれていたはずのビル街には、当然ながら何の
変化も起きていない。
 町はいつも通りの、穏やかな顔を見せている。
「だからまあ、ね。リン姉さんが寝込んでるとなると、叱ってくれる人もいないし……それじゃ、悪
 戯なんてする意味もないなあってね」
「なるほどな。一応、分かった。だが安心しろ」
 急に力強い声で断言されて、マルスは驚いてアイクの方を見る。個人的な武力ならば兄弟でも随一
であろう兄は、力の篭った瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていた。その視線の圧倒的な引力に、目を
そらせなくなってしまう。
「マルス、今ここで約束してやる。俺は、お前がどんな風になろうと、決して見捨てはせん。俺は自
 分の力で大事な家族を守るために、少しは強くなったつもりだ。だから、お前のことも守ってやる。
 お前がどれ程遠くに行こうが、俺達のことを疎ましく思おうが、最後には殴り倒して我が家の食卓
 に引き摺り戻す。約束しよう、マルス」
 そしてアイクはたくましい右腕を伸ばし、力加減なしにぐしゃぐしゃとマルスの頭を撫で回した。
「軟弱な弟一人引き摺り戻せんほど、俺は弱くはないつもりだ」
 折角撫で付けた髪がぐしゃぐしゃにされるのを自覚しながら、しかしマルスは奇妙なほどの安心感
を覚えている自分に気がついた。何となく気恥ずかしくなって俯きながら、小さな声で短く返す。
「当てにしてますよ、アイク兄さん」
「任せておけ。じゃあな」
 それだけ言い置いて、アイクは屋根から飛び降りる。悠然とした足取りで何処かへと去っていくア
イクの背中を見つめながら、マルスは肩を竦めた。
「これだもんな。アイク兄さんには敵わないよ、ホント」
 そう呟きつつも、少し違うかもしれない、とマルスは思った。
 また、休日の町に目を戻す。いつも通りの、穏やかな町。様々な怪事件珍事件に見舞われながらも、
日々たくましく生活を営む人々が暮らす町。
 結局のところ、自分もこの町の一員で、この家族の一員なのだと、マルスは思った。自分ではどれ
ほど遠いところに行ったつもりでも、心の奥底にはいつもあの懐かしい食卓の風景が横たわっていて、
知らず知らずの内に家路を辿っているのだろう。そういうものなのだと、今は確信できる。
「敵わないな、ホント」
 ぼやくように言いながら、しかし悪くはない気分で、マルスはまた屋根の上に身を横たえる。
(リン姉さんの風邪が治ったら、今度はどんな悪戯をしてやろうかな)
 いつも変わりない町並みを見つめながら、マルスはその日一日中、そのことばかり考えていた。