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Last-modified: 2007-06-23 (土) 18:46:35

さかあがり

 

 その日、アイクがグレイル工務店を出たのは夜の十二時近い時刻だった。最近はいつもこのぐらい
まで仕事をする。リフォームやら何やら、仕事の依頼が増えているらしいのだ。日中の作業が終わっ
た後も、工務店に帰ってあれこれとすることがあって、この時刻となる。アイクとしては、たとえ帰
宅が遅くなろうが仕事が増えるのは望むところである。剣にしても大工仕事にしても、未だ修行中の
身なのだから。
 いつも何かと賑やかな紋章町と言えど、夜は当然ながら真っ暗である。深夜で住人も寝静まってい
るせいか、聞こえてくるのは虫の声ぐらいのものだ。そんな風に静かなせいもあって、街灯が点々と
灯っている道は、朝通るときよりもずっと寂しく感じられた。
(今日は特に遅かったからな……皆もう寝てしまっただろうな。飯が残っているといいんだが)
 気になるのは専らその点ばかりである。仕事で空っぽになった腹を一刻でも早く満たそうと足を速
めたアイクは、少し行ったところでふと足を止めた。塀と塀の間に、見覚えのある小道が延びている
のに気がついたのだ。
(ここは、確か)
 特に、用事はない。だが、この小道を行った先にあるものに、アイクは今、ひどく心惹かれていた。
 すっかり薄れてしまった記憶を辿り、小道を歩き出す。昔は全力で走れる程度には広かったが、今
は普通に歩くだけでも狭く感じる。自分の体がずいぶん大きくなったということを改めて実感しなが
ら、アイクはしばらく歩いて小道を抜けた。
 その先にあったものは、先程歩いていたところよりも幾分か狭い道路と、その向こう側にある小さ
な公園だった。
(懐かしいな)
 周囲を取り囲む古びた家々を眺めながら、しばし感慨にふける。昔……それこそ、まだエフラムや
ヘクトルたちが産まれてもいないころ、よくここに来て遊び呆けたものである。
 最近は、用事もないし公園で遊ぼうなどとは考えもしなかったので、ここのことは思い出しもしな
かった。
(ああ、あの辺で剣の玩具を振り回したりしたな。すべり台の上から飛び降りてみたり、ブランコか
 ら大ジャンプを決めたり)
 懐かしい思いに浸りながら道路の向こうの公園を見つめていたアイクは、ふと、公園の片隅にある
ものを見つけた。
 塗装の剥げかけた電灯にぽつんと照らされて闇の中に浮かび上がっているそれは、小さな小さな鉄
棒だった。
(あんなに小さかったか?)
 アイクは首を傾げた。ひょっとしたら、遠いせいで小さく見えるだけかもしれない。そう考え、道
路を渡って
 公園に足を踏み入れる。湿った土を踏みしめて先程の鉄棒に近寄ったが、やはりそれはかなり小さ
かった。アイクの太股あたりの高さしかない。
(縮んだって訳じゃ、ないな)
 そんな馬鹿げたことを考えたのは、深い驚きと、衝撃を感じていたからだ。
 この鉄棒はこんなにも小さかったのか、と。
 アイクは無言で、横を見た。小さな鉄棒のそばには、それよりは少し高い鉄棒と、さらに高い鉄棒
が続けて置いてある。一番高い鉄棒でも、今のアイクにはかなり小さい。
 無言でそれを見つめたあと、アイクは持っていた荷物を地面に置いて、両手で逆手に鉄棒を握り締
めた。錆の浮いた鉄棒の感触がやけに懐かしい。
 今の自分には少々窮屈な高さの鉄棒を握り締めたまま、軽く地面を蹴る。視界がゆっくりと回転した。
 静まり返った公園に大きな足音を響かせながら、地面に降り立つ。逆上がり、難なく成功。
 アイクは、鉄棒を握り締めたまま、何気なく後ろを振り返った。当たり前のことだが、誰もいない。
そんな、誰もいない寂しい公園の暗闇を、アイクはしばらくの間ただじっと見つめ続けた。

 

 家にたどり着いて、驚いた。玄関先に明りが灯っている。てっきり、もう皆寝ているものと思って
いたのだが。
 不思議に思いながらドアノブに手をかける。鍵は開いていた。そっと音を立てないように押し開く
と、小さな声が出迎えてくれた。
「お帰り、アイク」
 見ると、上がり口にミカヤが立って、こちらを見上げていた。先程の公園の出来事から、ある感慨
を覚えたアイクが姉の姿をじっと見つめると、ミカヤは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの、ぼーっとしちゃって」
 アイクは首を横に振った。
「いや、なんでもない。ただいま」
「静かにね。皆、もう寝ているから」
 唇に人差し指を当てるミカヤに一つ頷いて、アイクはそっと靴を脱いで家の中に上がった。そんな
アイクの姿を見て、ミカヤが小さく苦笑する。
「ずいぶん汚れてるのね」
 言われて、改めて自分の服を見下ろしてみる。今日はいつも以上に汚れがひどい。
「仕事が多いからな、最近は」
「ご苦労様。とりあえず、お風呂入ってきて」
 そう言うからには温めてあるのだろう。連絡もしていないのに帰宅時間を知っていた、ということ
に関しては、多分ユンヌのお告げか何かのせいだろうから、特に疑問には思わない。
「分かった」
「ちゃんと髪も洗うのよ」
「何歳だと思ってるんだ」
「何歳になったって一緒でしょ。面倒くさいからって、汗でぬるぬるする髪を平気で何日も放置した
 りするんだもの。いくつになっても、そういうところはちっとも変わらないのよね」
 アイクは黙り込んだ。彼女の言葉に、小さな引っ掛かりを覚えたからだ。
 だが、ミカヤの方は、アイクが事実を指摘されて反論できなくなったと解釈したらしい。「仕方の
ない子ね」とでも言いたげに苦笑しながら、念を押してきた。
「そういう訳だから、髪も体もちゃんと洗うこと。いいわね」
「ああ」
 短く返事を返して脱衣所のドアを開ける直前、アイクはふと振り返った。そのときミカヤはちょう
ど居間へ入っていくところで、昔と全く変わらない可愛らしい少女の面立ちと、細やかな銀の髪が一
瞬だけ見えた。
 服を脱ぎ捨てて洗濯機の横の籠に放り込み、風呂場に入る。真っ先に蛇口を捻って頭からシャワー
を浴びながら、アイクは先程のミカヤの言葉を思い返した。
(そういうところはちっとも変わらないのよね)
 目蓋の裏の暗闇に、二つの姿が浮かび上がった。一つは、先程玄関先でこちらを見上げていたミカ
ヤ。もう一つ、これもまたミカヤだった。心配そうな表情でこちらを見つめている、十数年前のミカヤ。
「……変わらないのは、姉さんの方だろう」
 小さな呟きは、シャワーの水音に紛れて消えてしまった。

 

 風呂上り、タオルで頭を拭きながら居間に入ったアイクを待っていたのは、鋏を持って楽しげに笑
うミカヤだった。いつもの場所からテーブルが消え、代わりに新聞紙が何枚か敷かれている。その上
には椅子が置かれていて、ミカヤが何をするつもりなのかは一目瞭然だった。
「さ、座って。髪切ってあげるから」
「……せめて風呂に入る前に言ってくれ。切ったあとまた髪を洗わなくちゃならん」
「汗でぬるぬるした髪なんか触りたくないでしょ。さ、座って座って」
「早く寝たいんだが」
「最近忙しいでしょ、アイク。今の内に切っておかないと、機会がなくなりそうだもの。それに、明
日はお休みなんだから、ちょっと遅くなったって大丈夫でしょうに」
 それ以上反論しても無駄だということは分かっていたので、アイクは大人しく椅子に座った。ミカ
ヤは手早くアイクの体に布をかけ、彼の髪に鋏を入れ始める。
 床屋代節約のため、ということもあって、主人公家一同は皆家で散髪する。切るのは大抵、昔から
弟や妹達の髪を弄っているために、手馴れているミカヤだった。家事全般はエリンシアやリンが担当
しているため、これは割と珍しいことである。
「相変わらずの剛毛ね……鋏の方が欠けそうだわ」
 言葉の割に、口調は楽しそうである。基本的に外見に無頓着な弟達の髪を、そこそこお洒落に切り
揃えてやるのが、ミカヤにとっては非常に楽しいことらしかった。兄弟たちもミカヤに任せておけば
とりあえずは安心だ、あるいは面倒がないと信用しているので、特に注文をつけることもなく彼女に
一任する。
 アイクもそこのところは同じである。彼自身は別に坊主でも構わないのだが、「似合わないわよ」
と一蹴されて、大抵中途半端な長さに切り揃えられる。
「手入れもせずに伸ばし放題なんだから」
「別に、どうでもいいけどな」
「またそんなこと言って。アイクだって結構美男子さんなんだから、身だしなみをきちんとすれば
 もっと女の子にも人気が出るのに」
「別に、どうでもいいけどな」
「もう。そんなだからマルスたちにフラグクラッシャーなんて言われるのよ」
「別に、どうでもいいけどな」
「あのねアイク」
 背後で、ミカヤが小さく苦笑した。その間も鋏は休まず器用に操っているらしく、アイクの青い髪
は次々と切られて床に落ちていく。
「本当に、そういうところは昔とちっとも変わらないのね。女の子とお喋りするよりも、遊んでる方
 が楽しい……それが、女の子とお喋りするよりも、仕事したり修行してる方が楽しい、に変わっただけか」
「たまに冒険とかもするぞ」
「そういう問題じゃないでしょ。本当に無頓着なんだから……はい、おしまい」
 ミカヤがテーブルの上に鋏を置いて、アイクにかけていた布を取り去った。それから、少し大きな
鏡を持ってきて、正面からアイクの顔を映して見せた。
「どう?」
 と聞かれても、元来自分の外見にはあまり興味がないアイクだから、特に感想などない。ただ、短
くなったなあ、と感じるだけである。
「別に、どうでも」
「アイク」
「いや、すまん、ミカヤ姉さん。なかなかいい感じだ、と思う」
「本当にどうでもいいのね……それと、そういうときは、すまんじゃなくてありがとうって言うものよ」
「ありがとう、ミカヤ姉さん」
「よろしい」
 鏡の中、アイクの背後に映りこんだミカヤが、満足げに笑った。
 ふと、その笑顔を、懐かしげな、あるいは寂しげな影が過ぎった。
「それにしても」
「なんだ」
「ううん。大きくなったなあ、と思って」
「何が?」
「アイクが。ちょっと前までは、あんなに小さかったのに」
 それはそうだろう、とアイクは思う。ミカヤの「ちょっと前」というのがどのぐらい前なのかは知
らないが、アイクとていつまでも子供ではないのだ。いや、子供ではないどころか、今や彼は立派な
社会人で、一家の財政を支える一人なのである。
 だが、今アイクを見つめているミカヤの瞳には、昔と少しも変わらない、手のかかるやんちゃ坊主
を見るような色しか浮かんでいない。
 その瞳を見ていると、何故かアイクの胸に不満と焦燥が湧き上がってきた。
(俺は変わったはずだぞ、姉さん。あのころより体だって大きくなったし、強くもなったはずだ。変
 わらないのは)
 突然、頭の中で一つの光景が閃いた。
 目の前には小さな鉄棒。後ろを振り返ると姉がいる。今と全く変わらぬ姿で、心配そうに自分を見
つめている。
「だが」
 気づくと、アイクはそう口走っていた。
「姉さんは、変わらないな」
「え?」
 戸惑うようなミカヤの声を聞きながら、アイクは椅子に座ったまま振り返り、直接姉の瞳を見上げた。
「ずっと、昔の姿のままだ。俺がまだ本物の子供だった頃と、ちっとも変わってない」
 ミカヤの瞳が揺らぐ。彼女はすぐに視線をそらした。
「あ、えっと」
 そして、誤魔化すような笑いを浮かべる。
「そうよね。自分でも不思議なんだけど、ずっと子供みたいだし……ふふ、この間なんて中学生に間
 違えられて」
「ミカヤ姉さん」
 話をそらそうとしているようにしか聞こえないミカヤの言葉を、アイクは強く遮った。
「本当は、ずっと聞きたかった」
「……何を?」
「姉さん、俺たちに何か隠しているんじゃないか?」
 ミカヤの瞳が大きく見開かれる。内心で誰かが「やめろ」と止めるのを自覚しつつも、アイクは言
葉を止めることができなかった。
「世の中には、見た目よりも老けてる奴や、逆にずいぶん若く見える奴がいるってことぐらいは、俺
 にも分かる」
「そうね、わたしもきっとそういう」
「だが、姉さんは違うだろう。化粧で誤魔化してるとか、そういう訳でもない。まるで、あのころか
 ら体の成長が止まってしまったみたいだ」
 兄弟の誰もが、常日頃から感じていた疑問ではあっただろう。だが、それを口に出して言う者は今
までいなかった。ミカヤが自分で話さない以上、何か複雑な事情があるのだろうし、外見上年を取ら
なくても、ミカヤが自分たちの姉であることに変わりはないと思っていたからだ。
 だというのに、その触れてはいけない部分に、今のアイクは躊躇いなく踏み込んでしまっている。
自分でも、馬鹿げたことだとは自覚している。だが、心の中で渦を巻く不満と焦燥が、この馬鹿げた
行為をどうしてもやめさせてくれない。
「姉さんは何故、昔と少しも変わらないんだ?」
「それは、あのね」
「エイリークたちに比べれば学なんてないに等しい俺にだって、これがおかしいってことぐらいは」
 そこまで言ったとき、不意にミカヤの表情が歪んだ。眉が下がり、ぎゅっと細められた瞳の奥から、
涙がせり上がってくる。アイクがはっとしたときには、ミカヤはもう顔をぐしゃぐしゃにして泣きだ
していた。
「そうよね、おかしいわよね、こんなの。ごめんね、変なお姉ちゃんで、ごめんね」
 ここまで激しく泣きじゃくるミカヤを見るのは、ほとんど初めてである。しかも、原因は間違いな
く自分だ。ちょっとやそっとのことでは動じないと自覚すらしているアイクだが、このときばかりは
顔から血の気が引いた。慌てて立ち上がり、ミカヤをなだめにかかる。
「いや、すまん姉さん、俺はそんなつもりじゃ」
「いいの、いいのよアイク」
「違う、そうじゃなくてな」
「そうよね、こんなお姉ちゃん嫌よね、気持ち悪いわよね」
 もちろん、アイクはそんな風に考えたことすらないが、ミカヤはそう思い込んでいるらしく、嗚咽
混じりに「ごめんね、ごめんね」と謝るばかりだ。明らかに自分を責めている様子である。魔物だろ
うが狂戦士だろうが斬り伏せる自信があるアイクだが、こういう状況はほとんど未知だった。それで
も姉を泣かせた責任は取らなければと、必死でなだめ続ける。
「そんなことは思ってない。頼むから落ち着いてくれ、姉さん」
「でも、今おかしいって」
「それはその、すまん、言い方が悪かった」
「言い方が悪いってことは、おかしいっていうのに近い感情は抱いてたんでしょう。やっぱり気持ち
 悪いのね」
「頼むから悪い方向に捉えないでくれ……!」
 結局、ミカヤが完全に泣き止むまでニ十分ほどかかった。

 

「ごめんね、取り乱しちゃって」
「いや、こっちこそ変なこと言って、悪かった。許してくれ」
 まだ赤い目のまま恥ずかしげに謝るミカヤに対し、アイクはほとんど土下座せんばかりに頭を下げた。
 基本的に自分の価値観に従って行動するアイクだが、一時の感情に任せて行動するのを良しとして
いる訳ではない。今回のことは、明らかな失態であった。
(俺もまだまだだ。成長した、なんて驕っていた矢先にこれか)
 珍しく、顔から火が出る思いのアイクである。これでは、それこそ感情の赴くままに行動していた
子供の頃と、何も変わっていないではないか。
 そんな風に頭を下げたまま自制していると、不意に頭上から優しい声がかかった。
「でも、本当にごめんね、アイク」
 はっとして顔を上げると、ミカヤが寂しげに微笑んでいる。
「わたし、多分ずっとこんなだと思うけど、皆にはなるべく迷惑をかけないようにするつもりだから」
「いや、だから誤解なんだ、姉さん」
 アイクは必死に否定した。
「俺は……いや、俺だけじゃない。他の皆だって、姉さんのことを迷惑だとか、気持ち悪いとか思っ
 たことなんて一度もない」
「でも、さっきおかしいって」
「いや、あれはそういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう……?」
 理解できない、と言うように、ミカヤは首を傾げる。
 アイクは大きく息を吐いた。彼自身、自制を失ってしまったことに愕然とし、混乱しきっているの
だ。ゆっくりと、落ち着いて話をする必要があると思った。
「姉さんの体が成長しないことに、何か複雑な事情があるってことぐらい、皆分かってる。姉さんが
 説明しないのだって、きっと俺たちのことを考えてるからなんだろうってことも。姉さんはいつ
 だって自分のことより俺たちのことを優先するからな」
「そんな立派なものじゃないわ」
「いや、立派だ。少なくとも俺にとっては自慢できる姉だ。間違いなく」
 そこまで聞くと、ミカヤはまた泣き出してしまった。また何かまずいことを言ってしまったか、と
アイクは慌てたが、
「ご、ごめんね、これは違うのよ。そんな風に言ってくれたのが、嬉しくて」
「そ、そうか」
「うん……ありがとう、アイク」
「いや、感謝するのは俺のほうだ」
 微笑むミカヤの瞳から、アイクは目をそらした。こんな夜中に大の大人が二人揃って何をやってい
るのか。気恥ずかしさに逃げ出したくなる。だが、ちゃんと事情を説明するまでは、逃げ出す訳には
いかないのだった。
「さっき、あんな風に言ってしまったのは……多分、焦っていたからだ」
「焦るって、どういうこと?」
 不思議そうに言うミカヤに、アイクは若干の気まずさを感じながら問うた。
「姉さん。鉄棒、覚えてるか」
「鉄棒って……あの、公園とかにある?」
「そう。この近くの……昔よく俺が遊びに行ってた公園にあったやつだ」
「ああ、あれね」
 ミカヤは懐かしげに頷いた。アイク本人ですら今日まで忘れていたことにすぐ思い至るとは、凄ま
じい記憶力である。
「確か、アイクがまだ小学校に上がる前よね。懐かしいわ。何故か、あの小さな鉄棒で躍起になって
 逆上がりしようとしてて」
 再び、アイクの脳裏にあの光景が蘇ってきた。

 

 日の落ちかけた公園。もう何度目になるかも分からない挑戦。目の前の高い鉄棒を必死で握り締め、
一生懸命に地を蹴る自分。だが、回る前に、足が地面に落ちてしまう。
「ちくしょう、どうして出来ないんだ!」
 アイク自身はそんな風に癇癪を起こしながらも再び鉄棒に挑戦するのだが、後ろからの声はそんな
彼を必死で止めようとしている。
「ねえアイク、もうやめましょう。明日またきましょうよ、ね」
 不満を感じて振り返ると、そこにミカヤが立っている。
 今と全く変わらぬ姿で、心配そうにこちらを見つめて立っている。
「アイクはまだ小さいんだし、逆上がりなんてできなくてもいいのよ」
 弟を止めようとする言葉は、逆に彼の闘志に火をつける結果となる。
「嫌だ、絶対やるんだ、やれるんだ!」
 小さなアイクはそう叫び返して、また鉄棒に飛びつく。ミカヤは困り果て、しかし止めることも出
来ずに心配そうに弟を見つめ続ける。

 

「それでも、毎日夜になるまで練習して、結局三日ぐらいで逆上がりマスターしちゃったのよね。あ
 れ、幼稚園の年少ぐらいじゃなかった? やっぱり、あのころから凄い運動能力が」
「俺はな」
 懐かしげに語り続けるミカヤの言葉を、アイクはやんわりと遮った。
「悔しかったんだ」
「悔しいって……逆上がりが出来なかったことが?」
「それもそうだが、それ以上にミカヤ姉さんの視線が気に入らなかったんだ」
 アイクは思い出す。そもそも、逆上がりをしようとしたのは、自分よりももう少し年上の少年が、
軽々と逆上がりをこなしているのを見たからだった。あいつに出来るなら俺にだって出来る、などと、
子供心に考えたのかもしれない。
 だが、それ以上に悔しかったのは、後ろでミカヤが心配そうに自分を見つめていることだった。
「姉さんが心配そうに俺を見るたびに、情けなくなった。姉さんは、そんなに俺のことが心配なのか。
 そんなに心配しなくちゃならないぐらい、俺は弱いのか……そんな風に考えたんだ。だから、俺は
 姉さんが心配する必要なんて全然ないぐらい強い男だって、証明したかったんだ……と、思う。多分」
 頑張り屋の小さな弟を心配する姉の視線は、本人の幼い自尊心を大きく傷つけていたのである。逆
上がりが出来るようになったときも、姉の反応は「そんな難しいことができちゃうなんて、凄いわ」
と驚くよりは、「ああ、これでやっと危ないことをやめてくれる」と安心するような感じだったので、
なおさら悔しさが募った。
「そんな風に考えていたの……少しも気づいてなかったわ」
 ミカヤは感心するように、あるいは納得するように頷いた。
「でも、そうよね。あのころはまだ全然ちっちゃかったけど、男の子だもんね。プライドもあれば、
 悔しかったりもするわよね」
「ああ。だから、さっき……姉さんが、手のかかる子供を見るような目で俺を見るから……姉さんが
 昔とちっとも変わっていないように、俺も昔と変わらず、弱くて情けない、心配ばかりかけている
 子供のままなのかと……」
「ああ、そっか……またアイクのプライドを傷つけちゃったのね、わたし」
 ミカヤは苦笑した。
「そうよね、そんな風に扱われたら、怒って当たり前よね。アイクはもう立派な大人なのに」
 そんな風に言われても、自責の念は消えなかった。
(やはり、まだまだ道は遠いな)
 自戒の念を新たにしながら、アイクはふと、穏やかに微笑んでいる姉に問いかけた。
「ミカヤ姉さん」
「なに?」
「正直に言ってくれ。姉さんは、まだ俺のことが心配か? 俺は、まだ姉さんに心配をかけるような、
 弱い子供のままなのか?」
 姉が否定してくれることを、半ば期待するような問いかけだった。しかし、ミカヤは穏やかに微笑
んだままそっと目を閉じ、深く頷いた。
「ええ、心配だわ」
「そうか」
 冷静に返しつつ、アイクは内心がっくりと肩を落とした。
(やはり、俺はまだ姉さんに心配ばかりかけている情けない男なのか……いや、だが今日の体たらく
 を見る限り仕方が無いとも)
「だけど、誤解しないでほしいの」
 反省を再開するアイクに、ミカヤは静かに語りかけてきた。
「アイク。あなたは確実に強く、大きくなっているわ。体だけじゃない、心も。本当に……あの小さ
 な男の子が、よくここまでたくましく育ってくれたって思うもの。今のあなたなら、その剣の腕で
 たくさんの人を救えるし、意思の強さでたくさんの人を励まし、導いていけると思う。本当よ。わ
 たしは姉として、あなたのような弟がいることを誇りに思ってる。あなたは自慢の弟よ、アイク。
 自信を持っていいわ」
 ミカヤの言葉には全く淀みがない。不出来な弟を元気付けるために嘘を言っているという訳ではな
さそうだった。
 だからこそ、アイクは理解に苦しむ。
「だが、今俺のことがまだ心配だと」
「ええ、心配よ」
 ミカヤはおかしそうに笑った。
「でもね、それはアイクだけじゃないの。皆のことが、同じように心配なのよ」
「そうなのか?」
「ええ」
 ミカヤは、誰かの顔を思い出すように、そっと目を閉じた。
「シグルドが、家族のためだって張り切りすぎて、過労で倒れてしまわないか心配。
 エリンシアが、周りに気を遣ってストレスを溜め込んでいないか心配。
 ヘクトルが、あの乱暴な言動で周囲の人たちに悪い男だって誤解されていないか心配。
 エフラムが、成長しようと頑張るあまり無鉄砲なことをしてしまわないか心配。
 エリウッドが、何か大きな病気にかかったり、深刻に考えすぎて心を病んでしまわないか心配。
 エイリークが、誰かに騙されて傷ついてしまわないか心配。
 リンが、他人の期待に答えようとするあまり、自分の気持ちを押し殺してしまわないか心配。
 マルスが、自分の大切なものを見失ってしまわないか心配。
 リーフが、自信のなさから自分を見限ってしまわないか心配。
 アルムとセリカが、これからもずっと仲良くやっていけるか心配。
 セリスが、本人の実力以上の期待を背負わされないか心配。
 ロイが、自分の力を過小評価してしまわないか心配。
 そしてアイク。あなたが、未知の世界を追い求めるあまり、どこかへ遠いところへ行ってしまわないか心配」
 言い終えて一息吐いたあと、ミカヤは困ったように首を傾げた。
「ね。こんな風に、いつも皆が心配なのよ、わたしは」
「そうなのか。だが」
 アイクは困惑した。ミカヤが並べ立てた「心配」というのは、少し過剰な気がしないでもない。
 この家の兄弟は、なんだかんだで皆上手く自分と折り合いをつけて生きているように思える。
 すると、ミカヤは笑って首を振った。
「もちろん、皆がしっかりしているのは分かっているつもりよ」
「だが」
「そう。それでも、皆のことが心配なの」
「どうしてだ?」
「うーん、そうね……」
 ミカヤは少し考えたあと、小さく息を吐いて、苦笑した。
「多分、それがお姉ちゃんっていう生き物なのよ、きっと」
 正直、その言葉だけではミカヤの複雑な気持ちは分かりかねた。
 だが、アイクが弱い男だから心配、という訳ではない、ということだけは、何となく分かった。
 だから、アイクもただ、頷き返すことができた。
「そうなのか」
「そうなのよ」
 ミカヤも満足げに頷いたあと、「さて」と言いながら、立ち上がった。
「そういうことだから。アイクは、自分の強さにもっと自信を持ってもいいと思うわ。
 わたしは多分、これからもずっとこのままで、アイクのことを心配し続けると思うけど」
「ああ、分かった」
「さ、そろそろ寝ましょうか。今日は本当に、取り乱しちゃってごめんね」
「いや、俺のほうも、つまらんことを気にして悪かった。それと、一つだけ言っておきたいんだが」
「なに?」
 ミカヤは首を傾げる。アイクは髪が短くなった分、ずいぶんさっぱりとした頭をかきながら、言った。
「姉さんがずっと変わらないままでいてくれるというのは、正直、助かる」
 その言葉は予想外だったらしく、ミカヤは目を瞬いた。
「どうして?」
「ずっと変わらないままだってのは、つまり、ずっとこの家にいてくれるってことだろう? なら、
 俺にはこの先ずっと、帰る場所があるってことだ。それなら、安心して遠いところにも出かけられ
 るからな」
 ミカヤの瞳がわずかに細められ、潤み始めた。だが、もう涙は流さない。
 彼女は嬉しそうに、一言だけ、言った。
「そう」
「ああ」
「じゃあ、これからも、ずっとこのままでいるわ、わたし」
「ああ、そうしてくれ。そうしてくれてもいいんだ、姉さんは」
「うん、ありがとう」
 しばし気持ちを噛み締めるように目を閉じたあと、ふと、ミカヤは悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「だけど、お姉ちゃんとしては、アイクが素敵なお嫁さんをもらって、新しく帰る場所を作ってくれ
 た方が嬉しいんだけど」
 姉がそんなことを言い出したので、アイクは
「じゃ、お休みミカヤ姉さん」
 逃げることにした。

 

 次の週もグレイル工務店は大繁盛で、当然ながらアイクの帰りはまた連日深夜となった。
 そうやって闇に沈んだ寂しい家路を辿る途中、アイクはふと、あの小道のそばで足を止めることがある。
 あの公園に続いている小道。小さな鉄棒と、背後から自分を心配そうに見つめる姉の姿へと続く道。
 そのことを思い返すたびに、アイクは苦笑し、また家路を辿り始める。
 もう、あの小道を抜けて公園へ行き、小さな鉄棒をじっと眺める機会はないだろう。
 逆上がりの練習をする必要は、もうなくなったのだから。

 

 おしまい