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Last-modified: 2012-09-03 (月) 22:47:01

105 :アイクとエイリーク 1/3:2012/06/04(月) 15:51:38.51 ID:6QBYikyt
ぴったりと閉じられたカーテンと窓の向こう、頭上に広がるのは綺麗な星空。
時計の針が真上で重なったのは随分前、早く眠りにつかなければならないと分かってはいるのだが、意識を沈めようとしてもどうしても明日のことを考えてしまう。
精一杯練習はした、あとは自分に自信を持って明日を迎えればいい。
頭では分かっているのだが、どうしても不安が拭えなかった。
明日が大事な日だからこそ、余計なことを考えず早く眠らなければならないのに。
自分以外の家族はもうとっくに夢の世界に行っているのだろう、いつもの賑やかな景色が嘘のように、今は家中が静まり返っている。
耳に入るのは、時が進んでいることを告げる時計の針の音だけ。
朝へと向かって動く針の音、明日 への不安、焦る気持ちで頭がいっぱいになる。
このままでは一睡もできずに朝を迎えてしまいそうだ。

ぐちゃぐちゃになった思考を整理しようと、こっそりと自室を抜け出し、物音を立てないようにして向かったのは一階の縁側。
そっと窓を開くと、硝子に抑えつけられていた風が頬を撫でる。
過ごしやすい季節は終わり、昼間はすっかり暑くなってきたが、夜風はまだまだ肌寒い。
寝間着の上に羽織る上着を持ってくればよかったと後悔しながら、冷たい縁側に腰を下ろす。
見上げた先には白銀に輝く月。
わざわざ屋内の電気を点けずとも、今の自分には満月に近いそれの光だけで十分だった。
少しだけ夜風に当たったら、自分の部屋に戻って眠る努力をしよう。明日の朝は早いのだから 。

「エイリーク、何してるんだ」

透き通った深夜の空気を、聞き慣れた声が通り過ぎる。
暗闇に預けていた意識が勢いよく揺れたかと思うと、心臓が口から飛び出すかと思うほどに跳ねた。
声のしてきた方に目を向けると、そこにはたった今家の門を通ってきたであろう兄の姿があった。
家の中から出て来たわけではない、ということはこんな深夜にトレーニングでもしていたのだろうか。
兄は玄関を目指していたであろう足の方向を変え、こちらに近付いて来る。
106 :アイクとエイリーク 2/3:2012/06/04(月) 15:54:09.87 ID:6QBYikyt
「あ、兄上……こんな時間にトレーニングですか」
「いや、今仕事から帰った」

その兄の言葉に声を失った。
確かに夕飯の席に彼は居らず、今夜は遅くなると姉が言っていたのだが、 まさかまだ帰宅していなかったとは。
明日は兄も自分の晴れ舞台を見に来ると言っていたため、明日は早起きのはずだ。
今から就寝したとしても、疲れは完全にとれないだろう。
もしかしたら、明日の仕事を休むために今日は無理をしてくれたのかもしれない。
家族を背負って働く兄の姿が、深夜だというのに眩しく見えた。
黙りこんでしまった自分を気遣ってか、眠れないのかと兄が言う。
ぎこちなく頷くと、肩に温かいものが触れた。

「風邪を引くぞ。着ておけ」
「すみません……ありがとうございます」

肩に触れたのは、つい今まで兄が身につけていた上着だった。
前開きのそれをぎゅっと引き寄せ、自分には大きすぎる上着の中で身を縮める。
肌寒いと感じていた身体に は、上着に残った兄の体温が心地好い。
上着を自分に預けた兄は何を思ったのか、家に入らず自分の隣に座り込む。
朝早くに出勤してこの時間まで働いていたのだ、いくら常人離れした兄でも疲れているだろう。
早く休んだ方が良いのではないだろうか。

「懐かしいな……」
「な、何がですか」
「ここに座っていると、小さい頃のお前がよく縁側で泣いていたことを思い出す」

自分を包んでくれている上着を握りしめながら、少し離れた場所に座った兄をそっと見上げる。
月の光に照らされた横顔は、いつもより柔らかい表情に見えた。

「エイリークは昔から優しい子だった。ヘクトルとエフラムが毎日のように庭で喧嘩しているのを見て、お前はよく泣いていた」
「そんな…… 覚えてないです」
「まあ10年くらい前のことだからな、覚えていなくても仕方ない」

頭に大きな掌が乗ったかと思うと、少し乱暴にそこを撫でられた。
不器用で大きな掌。家族を守り、支えてくれている手。
107 :アイクとエイリーク 3/3:2012/06/04(月) 15:56:48.90 ID:6QBYikyt
この兄は、昔から自分とはまるで正反対だった。
自分が大好きな音楽や芸術の世界は全く理解してもらえず、自分の発表会では必ず寝てしまう。
兄が大好きなのは剣術の世界。
髪の毛の色が少し似ているだけで、身体付きも趣味も性格も年齢も違う。
他の兄弟と比べても、ここまで自分と正反対な人は居ない。
そのためか、二人で言葉を交わす機会は年齢を重ねるごとに少なくなっていった。
そんな、自分とは遠い場所に居ると思 っていた兄が、自分の昔の姿を覚えてくれている。
いくら自分とは遠い場所に居ても、兄は兄なのだ。
自分たちは、ずっと一緒に暮らしてきた兄妹なのだ。

「俺は芸術は分からん、努力はするが……明日も寝てしまうかもしれん」
「はい……」
「でも、お前が何年もずっと頑張ってきたことは知っている」

頭に乗っていた指先が、そこを軽く叩いて離れていく。
今の言葉は、行動は、いつも言葉数も表情を変えることも少ない兄なりの激励だったのだろうか。
明日は自分を信じて頑張れと、そういうことだろうか。

兄が立ち上がって、その場で靴を脱いだかと思うと家の中に足を踏み入れる。
明日は早いんだ、もう寝るぞ。
滅多に見せない優しい笑顔と共に差し出されたのは 、節くれだった、決して綺麗とは言えない掌。
自分の掌を包むように握ってくれたそれは、兄の人柄を表すようにとても温かかった。

「ありがとうございます、アイク兄上」

風呂に入ってから寝るという兄と別れ、物音を立てないように自室へと戻る。
月明かりに照らされた部屋、心臓がいつもよりうるさいのが自分でも分かった。
気がつかないフリをして部屋に持ち込んだ、兄の上着をそっと抱きしめる。
明日は最高の演奏が出来そうだと思いながら、なかなか寝付けなかったことが嘘のように眠りの世界へと落ちていった。