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Last-modified: 2008-03-18 (火) 22:35:06

455 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/24(日) 20:46:00 ID:UBb533tO
 昼間、自室の姿見に向かい始めてから一時間ほど。鏡の中の無表情は相変わらず無表情のままで、
何ら変化が起きていない。
「君も、もう少し感情を表に出すべきだ。ミルラたちのためにも」
 兄弟さん家のエフラムにそう言われて以来、イドゥンはずっと悩み続けていた。
(感情を表に……つまり表情を変えるということ)
 鏡の中の自分の顔をじっと見つめながら、無理矢理唇の両端を上げてみる。なんともぎこちない笑
顔だ。それならばと手で両頬をつまんでぐにぐにと持ち上げてみたが、今度はなんだかすごく不気味
な顔になった。
(難しいわ)
 そっと息をつき、手を下ろす。この一週間ほど自分なりに努力をしてはみたが、どうも表情を作る
のが上手くいかない。
(やはりわたし一人では無理なのね)
 独力で感情豊かになることを諦めて、イドゥンは部屋を出た。向かった先はヤアンの部屋だ。和室
である。引き戸を開けて中に入ると、広い背中が目の前にあった。畳に座ったヤアンが、低い卓に向
かっている。
「ヤアンお兄様」
 声をかけると、ヤアンは眉をひそめながら振り返った。その表情が、すぐにいつもの尊大で思わせ
ぶりな笑顔に変わる。
「クククッ、イドゥンか。どうした、お前から声をかけてくるとは珍しい」
「表情を豊かにしたいのだけれど、どうすればいいのですか」
 頬を指で引っ張りながらそう言うと、ヤアンはぴくりと眉を動かした。
「順を追って説明してもらおうか」
 言われたとおり、先週兄弟家であった出来事を話す。黙って聞いたあと、ヤアンは面白がるように
こちらの顔を覗き込んできた。
「なるほど、つまりそのエフラムとやらに言われたので、感情を表に出してみたいと」
「ええ」
「その前に、一つ確認しておきたいのだが」
 ヤアンは懐から紙束と筆ペンを取り出し、探るような目でこちらを見る。
「そもそもイドゥン、お前の心に感情の動きはあるのだろうな」
「感情の動き?」
「そう。喜ぶとか怒るとか悲しむとか、そういうものだ。最近のことでいいから、思い返してみろ」
 そう言われて真っ先に思い浮かぶのは、やはり先週の出来事だ。妹達が遊んでくれなくなってさみ
しいとか、エフラムに料理を喜んでもらってよかったとか。そういうことを話すと、ヤアンはいちい
ち頷きながら、興味深げ筆ペンを走らせていた。
「ふむ……なるほど、いい兆候だ」
「なにがですか?」
「いや、こちらの話だ。さて、イドゥン」
 紙束と筆ペンを懐にしまいながら、ヤアンが改まった口調で言った。
456 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/24(日) 20:46:41 ID:UBb533tO
「表情豊かになりたいということだが、お前の場合は表情を作るところから始めるべきではないな」
「つまり、やり方が間違っていたと?」
「そう」
「ではどうすれば?」
「これは私の推測だが、おそらくそうして寂しがったり喜んだりしていたときのお前は、少しなりと
も感情の変化を表情に表していたのではないか。その辺りを意識して、もう一度思い出してみろ」
 イドゥンは目を閉じて、もう一度記憶を手繰り寄せる。確かに、あのときは多少表情を変えられて
いたような気がする。
「でも、今はあのときのようにできません」
「それはそうだ。今は喜んだり怒ったりしていないのだからな。思い出すだけでは感情が強くは動か
ないのだろう」
「ではつまり、もう一度エフラムさんに料理を食べてもらえばいいのですね。わかりました」
 善は急げと身を翻そうとすると、「待て」と止められた。
「そんな風に意識してはかえって感情が動かなくなる。自然な反応に身を任せるのが重要なのだ。大
体、前のように『お礼をする』という名目もないのにそういうことをするのは不自然というものだ」
「……そうかもしれません」
「要は心に刺激を与えればいいのだ。そうだな、まずは」
 ヤアンは少し考えてから、小さく頷いた。
「散歩でもしてきたらどうだ」
「散歩、ですか」
「そうだ。お前はあまり外に出ないだろう。最近は例の兄弟絡みで何度か外出しているようだが、目
的地を目指して歩いているときに、周囲をじっくり見回す余裕はあるまい」
「周囲をじっくり……それが重要なことなのですか」
「うむ。四季折々の変化を全身で楽しみながら、目的もなくこの紋章町をぶらついてくるといい。な
んならチビどもと共に行くといいだろう。子守にもなって、ユリアも喜ぶ。一石二鳥だ」
「わかりました。では行ってまいります」
「ああ。気をつけていくがいい。クククッ」
 いつものように愉快そうなヤアンの含み笑いを背に、イドゥンは和室を出て洋風の居間に向かう。
本を読むユリアの横で、ミルラとチキとファが、件の騒ぎのときに生み出した幼女戦闘竜たちと共に、
ごっこ遊びらしきものに興じている。
「がおー」
「がうー」
「ひゃー、周りを囲まれちゃったー。弓兵だから攻撃できないよー」
「助けてエイリーク!」
「……あの、この遊びは本当に面白いのですか……?」
 賑やかに遊んでいる妹達に、そっと声をかける。
「みんな」
「あ、イドゥンお姉ちゃまだ!」
「お姉ちゃんも『実はいい人。ごっこ』やろーっ!」
「……マルスさんに教えてもらったのですが、わたしにはこの遊びの面白さがよく分かりません……」
 口々に騒ぎ立てる妹達を前に、イドゥンは戸惑う。
457 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/24(日) 20:47:15 ID:UBb533tO
(みんな、楽しく遊んでいるようだわ。散歩に行こうと言ってもいいものなのかしら)
 返事もできずに立ち尽くしていると、ユリアが後ろから助け舟を出してくれた。
「イドゥン姉さま、ミルラたちに何か用があったのでは?」
「わたしたちにですか?」
「なにー?」
「なになにー?」
 妹たちが興味津々にこちらを見上げてきたので、イドゥンは少し安心して言った。
「わたしと一緒にお散歩に行きましょう」
 妹たちはびっくりしたように目を丸くして、互いに顔を見合わせた。
「イドゥンお姉ちゃまと?」
「おさんぽー?」
「……びっくりです」
「……いやなのね」
 拒否されたと思ってイドゥンが呟くと、妹たちはぶんぶん首を振った。
「ううん、違うよー」
「びっくりしただけー」
「……行きましょう、お姉ちゃん」
 ミルラが手を取りチキが足にまとわりつき、ファが背中に乗っかってくる。隣に立ったユリアが嬉
しそうに微笑みながら言った。
「よかった、今日はいつもお散歩に連れていってくださるエフラムさんがお出かけしているそうで、
ミルラたちも残念がっていたんです。ああそうですわ、お姉さま、これで」
 ユリアが財布から小銭を取り出して、イドゥンの手に握らせた。
「なにか、この子たちにおやつでも買ってあげてください」
「わーい」
「おやつ、おやつー! しっこく堂でカレーパンかおーっ!」
「……豆腐屋ボーレさんのいちごどうふがいいです……」
 興奮してはしゃぎ出す妹たちを前に、イドゥンは少し戸惑って手の中の小銭を見た。
「いいの? これはユリアのお小遣いでは」
「いいえ、気にしないで下さい。これは元々ユリウス兄さまから没収したお金ですから」
「ユリウスから?」
「はい、本屋でいやらしい本を購入しようとしていたので……しかもまた微妙にセリス様と似た表紙
の……本当に、油断も隙もない……」
「……なんだか顔が怖いわ、ユリア」
「ああ、ごめんなさい」
 ユリアは慌てて笑顔を取り繕う。自然な表情に見えた。自分もこんな風に自然に振舞えるようにな
りたい、と思いながら、イドゥンは妹たちを連れて歩き出す。
「行ってきます」
「はい、お気をつけて。行ってらっしゃいませ」
「がおー」
 ユリアと八人の幼女戦闘竜が、手を振って見送ってくれた。
458 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/24(日) 20:47:48 ID:UBb533tO
 正面玄関の扉を開けると、まず竜王家の前庭に出る。紋章町一巨大な邸宅という評判に違わず、非
常に広い庭である。
 正門に向かって右側には鬱蒼と茂る雑木林があり、左側には春の花々が咲き乱れる美しい花畑が広
がっている。左右で景観がやたらと違うことが、様々な種類の竜族が一所に集まる竜王家の特徴をよ
く表している。それぞれ肌にあった環境というものがあり、竜王家の敷地内にはちょっとした砂漠か
ら溶岩流れる火山まで、実に極端な環境の庭園が共存している。右を向けば火山左を向けば氷河とい
う絶景に、最初竜王家を訪れた者は唖然とするのを通りこして呆れるのが常だそうだ。
 ちなみに、雑木林の方は家の者たちからは「樹海」と呼ばれている。
「ムルヴァ兄様は、また『樹海』の方にいらっしゃるのかしら」
「はい。奥の庵で静かにお茶を飲むって言ってました」
 イドゥンと手を繋いだミルラが、雑木林の方を見ながら頷く。あそこはムルヴァとミルラのお気に
入りなのだ。
 と、花畑の方に目を転じると、ほっそりした少女がホースで水を撒いているところだった。通りす
がりに声をかけてみる。
「ニニアン」
「あ……イドゥンお姉さま、それにミルラたちも……どこかへお出かけですか……?」
 か細い声で言いながら、ニニアンが不思議そうに目をしばたたく。対照的に、ファが元気に手を振
り回しながら答えた。
「うん、おさんぽーっ!」
「おやつも買うんだよー! しっこく堂のカレーパン!」
「……あの、わたしはいちごどうふが……」
「まあ、そうなの……」
「ニニアンは、お花に水をあげているのね」
 穏やかな日差しを受けて一杯に花弁を広げている花々を見ながら呟くと、ニニアンは微笑んで頷いた。
「はい。わたしたちは氷竜ですから、こうやって温かい土と戯れるのが新鮮で……それに」
 ニニアンは空いている左手を頬に添え、恥ずかしそうに顔を赤くしながら首を振った。
「エリウッドさまが、『ニニアンみたいな綺麗な人が花の中にいると、凄く絵になるね』と言ってく
ださったので……」
「ニニアンニニアン、ホース握りつぶしてるよ」
 花畑の向こうからやってきたニルスが呆れた声で言う。はっとしたニニアンが慌てて手の力を緩め
る。ホースの中に溜まっていた水が一気に解放されて先端から飛び出した。雨のような勢いで水が降
り注ぎ、ファとチキが歓声を上げる。
「きゃー!」
「つめたーい!」
「……風邪ひきます」
 自身もぬれねずみのようになりながら、イドゥンは吸い寄せられるように宙を見つめていた。薄霧
のような無数の水滴の向こうに、小さな虹が見える。
 きれいだ、と思った。

470 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:02:03 ID:a8rYlVl2
 近くで日向ぼっこしていたバヌトゥに服と髪を乾かしてもらい、必死に謝るニニアンと呆れ顔のニ
ルスの見送りを受けつつ、道路に出る。こちら側には竜王家の塀がずっと向こうまで続き、向かい側
には竜王家に縁の深い者たちが暮らす住宅街が広がっている。空は相変わらず快晴で、雲ひとつない
空から春らしい暖かな日差しが降り注いでいた。
 穏やかな陽気の中を、イドゥンは黙って歩き出す。ファとチキも「しゅっぱーつ!」とはしゃぎな
がらついてきた。ミルラも「……出発です」とぼそりと呟いて、他の二人に比べるとずいぶんゆっく
りとしたペースでついてくる。
 緩やかな風が頬を撫でながら吹きすぎる。空の青さが少し目に眩しい。ファとチキが地面を行進す
る蟻の行列や面白い張り紙などを見つけてはいちいち歓声を上げて立ち止まり、ミルラも二人の後ろ
から、おそるおそるそれらを覗き込む。
(かわいい)
 無邪気な妹たちを見て、イドゥンは微笑む。その直後に自分が今微笑んでいたのだと気付き、もう
一度その表情を作ろうとする。しかし、意識して笑おうとすると、自分でも分かるぐらいにぎこちな
い笑いになってしまう。
(ヤアンお兄様の仰ったとおりだわ)
 イドゥンはそっと息をつく。チキとファは、また追いかけっこするように駆け出していた。その後
を追おうとしたミルラが一度立ち止まり、こちらに戻ってきた。
「大丈夫ですか、イドゥンお姉ちゃん」
「なにが?」
「なんだかお顔が悲しそうです」
 心配そうに見上げるミルラの頭を、イドゥンはそっと撫でてやる。
「ありがとう。大丈夫よ」
「そうですか」
「おーい!」
 道の向こうでファとチキが飛び跳ねながら叫んだ。
「お姉ちゃまたち、早く、早くー!」
「置いてっちゃうよー!」
「いきましょう」
 ミルラの手を引いて、イドゥンはまたゆっくりと歩き出した。
 四人は竜王家からは大分離れた、高級住宅街の中に入っていた。主に紋章町の上流階級……いわゆ
る貴族という地位の人々が暮らしている区画である。普通の民家に比べればかなり大きな家や洋風の
邸宅がたくさん立ち並んでいる。広い道路はきちんと清掃されていてゴミ一つ汚れ一つなく、綺麗な
石が敷き詰められた歩道は、脇に様々な種類の像が立ち並んでいて歩く者の目を楽しませる。
「ねーねチキお姉ちゃん、これなにー?」
「これはねー、聖女エリミーヌの像ー」
「じゃあこれはー?」
「これはねー、女神ユンヌの像ー」
「これはー?」
「これはねー、敵兵に取り囲まれた実はいい人。の像ー」
 チキがお姉ちゃんぶった口ぶりでファに像のことを教えてやっている。イドゥンは感心した。
「すごいわ。チキは物知りなのね」
 隣で手を繋いでいたミルラが答える。
「マルスさんに教えてもらったみたいです。わたしもエフラムからいろんなことを教えてもらいました」
「そうなの」
 それに比べて自分はどうだろう、とイドゥンはふと思う。昔からなんとなく外に出るのを怖がって
家の中に閉じこもりきりだった。本などで学ぶこともしなかった。
(もしかしたら、わたしはチキやファよりも物事を知らないのかもしれない)
 そんなことを考えたときだった。
471 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:02:33 ID:a8rYlVl2
「あーっ!」
「げっ」
 歓声とくぐもった悲鳴。二つの対照的な声が前方から聞こえてくる。見ると、歩道の真ん中で見覚
えのあるラグズの女性が立ち止まっており、それを目掛けてファとチキが駆け出していくところだった。
「ねこまくらーっ!」
「まくらーっ!」
「イヤーッ! お腹を枕にされるのはもうイヤーッ!」
 ラグズの女性が大きな猫に身を変えて、脱兎のごとく逃げていく。ファとチキが竜に変化してそれ
を追う。ミルラも「……今日こそ猫枕一級検定に合格してみせます」と呟きながら、つないだ手をす
るりと解き、竜に身を変えて空に飛び立った。三人とも夢中だったようで、止める暇すらなかった。
一人取り残されたイドゥンは、困ってしまった。
(追うべきか待つべきか……すれ違いになるのもまずいし、待ったほうがいいのかしら)
 あれだけ目立つ姿なら、多分さらわれるということもあるまい。そう判断して、イドゥンはこの場
で待つことにした。歩道の真ん中にいては邪魔だろうと思い、そこに建っている貴族の邸宅を囲む柵
に身を寄せる。竜王家に比べればさすがに小さいが、それでも十分に豪華な邸宅だ。
 ふと、背中を預けた柵のすぐ内側に、小さな花壇があるのに気がついた。日当たりのいい場所を選
んで作られたらしい。包みこむような日差しに抱かれて、小さな花々が風に揺れている。細い茎の先
にいくつも花がついていて、花弁は淡いピンク色だ。なんとはなしに、その花々をじっと眺める。
(これは、なんて名前のお花だったかしら)
 ふとそんなことを考えたとき、花壇に大きな影が落ちた。顔を上げると、見覚えのある男性が柵の
内側からこちらを見下ろしている。
「あんたは……」
 青い髪の大柄な男性だ。何かを思い出すように眉をひそめてから、少し首を傾げる。
「確か、イドゥンだったか。竜王家の」
「はい。あなたは、アイクさんですね」
「ああ。何をしているんだ、こんなところで」
「妹たちを待っているところです」
 事情を説明すると、アイクは空を見上げて「なるほどな」と呟いた。
「俺の弟……ああ、エフラムやヘクトルだが、あいつらも昔はそんな風に無軌道に走り回って、たび
たび行方をくらましてはミカヤ姉さんに怒られていた。なんだか懐かしいな」
「そうなのですか」
 イドゥンは少し意外に思う。彼女の認識では、エフラムは真面目で落ち着いた感じのする青年であ
る。昔はそんな風だったと言われても、少しぴんと来ない。
(ファやチキも、将来はおしとやかな女性になるのかしら)
 想像しようとしたが像が浮かばないので、イドゥンは早々に諦めた。
「ところで、アイクさんはこちらでなにを?」
「仕事中だ」
「仕事……」
 言われて初めて、アイクの格好に目がいく。薄汚れた、上下一体の服を着ていた。
(ツナギ、だったかしら)
 前に竜王家に出入りしていた工事業者の者たちも、こんな服を着ていたことを思い出す。
「では、こちらのお屋敷で工事をしているのですか」
「ああ。古くなった部分の修繕だな。この辺りはそういうのが多いから、よく来る」
「そうですか」
 呟き、少し視線を落とした拍子にあの花が目に入る。イドゥンは顔を上げて訊ねた。
472 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:03:12 ID:a8rYlVl2
「あの、このお花」
「ん? 花?」
 アイクは下を見て、「ああ」と一つ頷いた。
「ゼラニウムがどうかしたのか」
 こちらから聞くまでもなく花の名前が分かり、イドゥンは少し驚きつつも呟いてみる。
「ゼラニウム、ですか」
「ああ、確か、そうだったと思う」
 アイクは眉をひそめて頭を掻いた。
「ミカヤ姉さんやエリンシアが家に飾る花を持ってきたり、セリカとアルムが庭に花を植えたりする
たび、俺にあれこれと講義するんだ。花の名前ぐらい覚えていれば、何かを折る回数が減るとかなん
とか、よく分からないことを言って」
 アイクはうんざりしたように、小さく息をついた。
「おかげで、今ではある程度なら花の名前も分かるようになった。花は食っても腹がふくれんのが多
いから、あまり興味がないんだがな」
 面白い感想だ、と思って、イドゥンは少し笑った。アイクがぴくりと眉を動かす。
「驚いたな」
「なにがですか?」
「いや。あんた、無表情な印象があったんでな。今の反応は少し意外だった」
「そうですか」
 やはりそういう風に見られているのだな、と思うと少し胸が痛む。また、今の表情をもう一度作っ
てみようと頑張ってみたが、やはりぎこちなくしかできず、さらに気持ちが沈んだ。
「……すまん」
 唐突に謝られて、イドゥンは顔を上げた。アイクが申し訳なさそうな表情でこちらを見ている。
「何故謝るのですか?」
「いや、なんだか傷ついた表情をしていたんでな。気を悪くさせてしまったのなら、謝る」
「いえ、そんなことはありません」
 イドゥンは首を振る。むしろ、相手に自分の内面が伝わったのが少し嬉しかった。「そうか」とア
イクが安堵の息をつき、小さく首を傾げた。
「ところで、ゼラニウムがどうしたんだ?」
 元々そういう会話の流れだったことを思い出し、イドゥンは花壇を見ながら答えた。
「このお花の名前を聞きたかったのです」
「なるほどな。そういうことか」
 納得したようにアイクが頷いたとき、歩道の向こうから「あ、ここだーっ!」という声が聞こえて
きた。振り向くと、妹たちが三人で連れ立って走ってくるところだった。
「猫さん逃げちゃったー」
「逃げちゃったー」
「……今日も不合格です……」
 三人が残念そうに肩を落とす。屈みこんで「残念だったわね」とそれぞれの頭を撫でながら、イ
ドゥンは柵の向こうのアイクを振り仰いだ。
「みんなも戻ってきたことですし、そろそろ失礼します」
「そうか」
「あ、アイクおじちゃんだーっ!」
 柵の向こうのアイクに気がついたチキたちが、声を揃えて叫ぶ。
『ごつっ!』
「……なんだそれは」
 眉をひそめるアイクに、チキが笑って言った。
「あのね、マルスのお兄ちゃんが教えてくれたの。アイクのおじちゃんにご挨拶するときは『ご
つっ!』って言えばいいって」
「……よく分からんな。まあどうでもいいか」
 そのとき、屋敷の方からアイクを呼ぶ声が聞こえてきた。振り返って「今行く!」と返事をしたア
イクが、こちらに向かって片手を上げる。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
「ああ、アイクさん」
 呼び止めると、アイクは肩越しに振り返った。その背に向けて、小さく頭を下げる。
「ありがとうございました。お花の名前、教えてくださって」
「ああ。別に、いい。気にするな。しかし」
 アイクは戸惑ったように、軽く頭を掻く。
473 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:03:55 ID:a8rYlVl2
「そんなことで礼を言われる日が来るとは、思ってもいなかった。俺の方こそ貴重な体験をさせても
らったようだな」
「そうですか。お花の名前……覚えておきます」
「好きにするといい。じゃあな」
 素っ気なく言って、アイクが立ち去っていく。その背を見送り、眼下の花壇で揺れる花をちらりと
見やったあと、イドゥンは妹たちに声をかけた。
「さあ、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
「帰ろーっ!」
「……いちごどうふ……」
「……少し遠回りをして買っていきましょうか……」

 その日以来、散歩はイドゥンの日課になった。妹たちが一緒の日もあるし、そうでない日もある。
一人で歩くときは、必ずあの邸宅の前を通って、柵の向こうにある花壇に咲くゼラニウムを眺めた。
「ゼラニウム、ゼラニウム」
 繰り返し呟き、見つめながら、あの日のことやアイクの言葉を思い出す。表情を上手く作ることは、
まだ出来ない。そのことで少し気分が落ち込むこともあるが、あの日自分の内面にアイクが気付いて
くれたことを思い出すと、また頑張れる気分になれた。
 そんな風に過ごし始めて、二週間ほど経った日。
 いつものように一人散歩に出かけたイドゥンは、これまたいつもどおり、あの邸宅の柵の前に立っ
て、風にそよぐゼラニウムを眺めていた。
 そのとき不意に、花壇に細長い影が落ちた。既視感を覚えて顔を上げたが、そこに立っていたのは
アイクではなく、線の細い女性だった。おっとりした美貌の持ち主で、長い金髪を緩く三つ編みにし
て束ねている。
「こんにちは」
 挨拶しながらこちらに微笑みかける仕草はとても柔らかで、上品だった。
「こんにちは」
 イドゥンも小さく頭を下げて、挨拶を返す。女性は目を細めて、眼下の花壇を見下ろした。
「ごめんなさいね、最近あなたをよくお見かけするものだから、我慢できなくなって声をかけてしま
いましたの。ご迷惑でした?」
「いえ」
 イドゥンは困惑した。元々口下手な上に、目の前の女性がどんな立場の人物か分からないから、何
をどう話していいものかも分からない。
 そんな困惑を汲み取ってくれたのか、女性は何も聞かず、微笑んだまま問いかけてくる。
「ゼラニウム、お好きなんですね」
「……はい」
「このゼラニウム、ローズゼラニウムという品種で、バラの香りがいたしますのよ。普通のゼラニウ
ムは少し葉の香りがきついのですけれど」
 女性は楽しそうに語る。イドゥンは今まで柵越しに眺めていただけで香りを嗅いだことなどなかっ
たので、どう返答していいものか分からなかった。またもその困惑を見て取ってくれたのか、女性は
微笑み、ゼラニウムを手で示した。
「よろしければ、いくらか差し上げましょうか」
「いいのですか?」
「ええ。あなたなら、大切に育ててくださると思いますし」
 女性の申し出を、イドゥンは有難く受け入れることにした。花を育てた経験はもちろんないので少
し不安だが、小さなゼラニウムが自室の窓先や庭の片隅で風に揺れているところを想像すると、なん
だか胸が高鳴った。悪い気分ではない。
「では、鉢に移しますので、少しお待ちになってくださいましね」
「はい。あ、あの」
「はい?」
 花壇のそばに屈みこんだ女性が、きょとんとした表情で顔を上げる。イドゥンはこんなお願いをし
ては不躾ではないだろうかと少し迷いながら言った。
474 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:04:16 ID:a8rYlVl2
「もしよろしければ、二つ、いただきたいのですが」
「ええ、もちろん構いませんけれど」
 女性は少し悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「どなたか、プレゼントしたい方がいらっしゃいますのね」
「はい。お世話になった方へ」
「まあ素敵。では私も、心を込めて植え替えいたしますわね」
 女性は繊細で丁寧ながらも素早く作業を行い、イドゥンは三十分ほど経つころにはもう屋敷の正面
口で、籐の籠に入った鉢入りのゼラニウムを二株受け取っていた。籠を抱いて花に顔を近づけてみる
と、確かにいい香りが漂ってきた。イドゥンはよく知らないが、多分これがバラの香りなのだろう。
「ありがとうございます」
「いえいえ。大切に育ててあげてくださいね」
「はい。それでは」
 頭を下げて立ち去り、少し歩いたところで女性の名前すら聞いていなかったことに気付く。踵を返
そうとすると、屋敷の方から声が聞こえてきた。
「まあルイーズ様、お手が土で汚れておりますわ」
「ええ、お庭のお花を、お友だちに分けて差し上げましたので」
「そんな、私を呼んでくだされば……」
「ごめんなさいね、お友だちへの贈り物だから、どうしても自分の手でやりたくて」
 イドゥンは再び背を向けて歩き去った。お礼は今度にした方が何かと問題がないような気がする。
「ルイーズさん、ルイーズさん」
 自分のことをお友だちと呼んでくれた人のことを忘れないように、何度も何度も繰り返し声に出し
ながら、イドゥンは目指す場所へと足を進めた。

 そうして歩き続けて、目的地……兄弟さん家に着くころには、もう日が暮れかけていた。彼は在宅
だろうかと少し心配しながら、門柱のインターホンを押す。すぐに「はい、どちら様ですか」と答え
る声があった。
「こんばんは、竜王家のイドゥンです」
「あら、イドゥンさん!? すぐに出ますから、待っててくださいね」
 嬉しそうな声からほとんど間を置かず、飛び石の向こうに見える玄関の扉が開く。銀髪の可愛らし
い女性が顔を出し、笑顔を浮かべながら軽い足取りでこちらに駆けてきた。確か、この家の長女で、
ミカヤという名前だったはずだ。
「ようこそいらっしゃいました! エフラムでしたら中にいますから、どうぞお上がりになってください」
 早口に喋るミカヤに、イドゥンは首を横に振った。
「いえ、今日用事があるのはエフラムさんではなくて」
 そう言うと、ミカヤはきょとんとした顔で首を傾げた。
「え? それじゃ、誰に?」
「アイクさんはいらっしゃいますか?」
「アイク!?」
 ミカヤはぎょっとしたように言ったかと思うと、イドゥンが持っている籠の中身を見て、さらに大
きく目を見開いた。イドゥンは感心した。
(これが驚きの表情。わたしも、このぐらいやれるようになれれば)
 そんなことをこちらが考えていることに気付いているのかいないのか、ミカヤは引きつった笑いを
浮かべて額を手で押さえながら、「え、でも、待って、ちょっと、あれ?」だのと混乱した呟きを垂
れ流している。イドゥンは目をしばたたいた。
「アイクさん、いらっしゃらないのですか?」
「え!? あ、ああいえ、いますいます、いますから、ちょーっと玄関で待っててもらえますか?」
「はい、分かりました」
 何やら非常に焦っているミカヤを怪訝に思いながらも、彼女の後について玄関に入る。ミカヤは急
いで靴を脱ぐと、廊下を走って居間に飛び込んでいった。
475 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:04:46 ID:a8rYlVl2
「ちょっと、大変よ!」
「なんだどうしたミカヤ姉さん」
「イドゥンさんが来てるんだけど」
「ああ、またご使命ですよエフラム兄さん」
「やれやれ参ったな」
「クソッ、余裕見せ付けてぇ……!」
「落ち着きなよリーフ」
「いや、違うのよ、エフラムじゃなくて、アイクに用があるって」
「ん、俺か?」
「えぇ!? な、なんでアイク兄さん?」
「なんですって、わたしのアイクに!? あのトカゲ女め、無表情な仮面の下に淫乱な雌の欲望を隠
し持っていやがったのかぁ!」
「ユンヌさん自重してください」
「ちくしょう、アイク兄さんまで僕を裏切るのか! 誰か僕にもおねいさんプリーズ!」
「リーフ兄さんも自重してよ!」
「しかもね、花まで持ってきてるのよ!」
「うわー、じゃ、またアイク兄さんがフラグ立てたのか」
「……前から思ってたんだが、そのフラグっていうのは一体」
「いいから早く出なさいアイク、いつまでも待たせちゃ失礼よ」
「分かった」
 などと、騒がしい話し声のあとで、唐突に静かになる。居間からゆっくりとした足取りで、アイク
が歩いてきた。イドゥンはゼラニウムの鉢が入った籠を胸に抱き、小さく頭を下げる。
「こんばんは、アイクさん」
「ああ。俺に用があるそうだが」
「はい。これを一つ、受け取っていただきたいのです」
 言って、籠を差し出す。アイクが片眉を上げた。
「ゼラニウムか?」
「はい。今日、あのお屋敷の方からいただいたので。ご迷惑ですか?」
「いや、迷惑ってわけじゃないが」
 アイクは怪訝そうに眉をひそめた。
「どうして俺に?」
「アイクさんにこのお花の名前を教えていただかなければ、多分わたし、毎日あの屋敷に通ってこれ
を眺めることはなかったと思います。ゼラニウムという名前を知らなければ、これほど強く心にとど
めなかったでしょうから。そうなると今日ルイーズさんとも知り合えなかったでしょうし、この花も
分けてはもらえなかった。ですから、これはわたしに出会いをもたらしてくれたアイクさんへのお礼
です。どうぞ、受け取ってください」
 頭の中を整理しながらゆっくり喋り終えると、黙って聞いていたアイクが頷いた。
「分かった。そういうことなら受け取ろう」
 その途端、家の中からざわめきが聞こえてきた。
476 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:05:36 ID:a8rYlVl2
「頷いた、頷いたよ!」
「うっそー。じゃ、ついにフラグ成立!?」
「ふられましたねー、エフラム兄さん」
「いや、そもそも俺はそういうのでは」
「キーッ、あのトカゲ女ぁ! こうなったら神と竜の全面戦争よ!」
「そんな個人的な感情で紋章町を危機に晒すのはやめてくださいよ!」
「まあ落ち着いてくださいよ皆さん。アイク兄さんのことですから、この段階から予想もつかないア
クロバティックなフラグ折りを披露してくれるに違いありません」
「あー、確かにそれがいつものパターンだね」
「そうよそうよ、そんなフラグ、いつものように豪快に折っちゃえばいいのよ! ほらいきなさいア
イク、ボキッと、バキッと、メキメキッと!」
「ユンヌさんいい加減にしないとメダリオン取ってきますよ」
「押入れはいやーっ!」
 アイクがかすかに眉根を寄せた。
「また俺が何かを折る話をしているな」
「フラグ、と聞こえましたけど」
「ああそうだ、それだ。俺はよくそのフラグというのを折っているらしい。身に覚えはないんだが」
「そうですか。フラグというのはなんですか」
「よく分からん」
 二人は玄関で見詰め合ったまま、そろって首を傾げた。
「フラグ、フラグ……」
 イドゥンは会話の流れから「フラグ」とやらの正体を推測する。
「お花の話をしていてフラグという単語が出てきたのですから、やはり花の一種なのでは」
「そうか。確かに合点がいくな」
 納得しかけてから、アイクはまたも首を捻る。
「いや、やはりおかしいぞ。俺は自分から望んで花を折ったことなど一度もないはずだ、多分」
「ええ、そうでしょうね。なにか、誤解があるんだと思います。だって」
 イドゥンは胸の中の鉢をちらりと見下ろしたあと、アイクを見上げて言った。
「アイクさん、こんなに物静かで穏やかな方ですから。お花を折るような人には思えません」
 その瞬間、今話していた間も家の中から聞こえてきていたざわめきが、ぴたりと止まった。アイク
も黙り込み、面食らったような顔でまじまじとこちらを見つめている。間近でその視線を受けて、イ
ドゥンは不安になった。
「あの、なにか……?」
 自分は何かおかしなことを言ってしまったらしい。顔が少し熱くなってきた。どうしようかと苦悩
していると、不意にアイクが吹きだした。驚いて目をしばたたくイドゥンに、おかしそうに笑いかけ
てくる。
「あんた、やぱり面白い奴だな。俺をそんな風に評価した奴は、多分あんたが初めてだ」
「そうなのですか」
 イドゥンは困惑した。
「不思議ですね、アイクさんはこんなに優しくて、穏やかな方なのに」
 アイクの笑みがまた深くなる。
「本当に変わってるな、あんた」
「ごめんなさい。わたし、家の中に閉じこもってばかりで、外のことがあまり分からなくて」
「いや、別に気を悪くしたわけじゃない。気にしないでくれ。さて」
 言って、アイクは籠の中の鉢を一つ手に取った。イドゥンでは両手で持つしかなかった鉢も、彼に
かかれば片手に収まってしまう。
「これはありがたくもらっておくことにしよう。いいんだな?」
「はい。わたしの気持ちですから」
「そうか。花なんぞ育てたことはないから、枯らさなければいいんだが」
「そうなのですか」
 その言葉を聞いたら、イドゥンの口元に自然と笑みが浮かんできた。
477 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:07:32 ID:a8rYlVl2
「わたしも、お花を育てるのは初めてです」
「そうなのか。なら、俺たちは仲間ということだな」
「そうですね」
「お互い、枯らさないように努力するとしよう」
「はい。それでは、失礼します。お休みなさい」
「ああ。気をつけて帰ってくれ」
 アイクの見送りを背に、イドゥンは家の外へ出た。鉢が一つになって軽くなった籠を抱きしめ、胸
はいつになく軽い。その気持ちと共に、笑みはしばらくの間、消えずに口元に残っていた。

「ただいま」
「おかえりなさいお姉さま。今日は遅かったですね」
 帰宅したイドゥンを出迎えたのは、ユリアだった。イドゥンの手の中にあるゼラニウムの鉢を見て、
驚いたように「まあ」と声を漏らす。
「どうなさったのですか、それ」
「お友だちにもらったの」
 説明していると、ファとチキとミルラがやって来た。三人はめざとくイドゥンが持っている籠を見
つけ、きゃあきゃあ騒ぎ出す。
「イドゥンお姉ちゃま!」
「なにそれなにそれ!」
「お土産ですか。いちごどうふがいいです」
 だが、それが花だということに気付いて、少しがっかりした顔をする。その三人の顔をみて、イ
ドゥンの頭に閃きが走った。
(そうだわ。ミルラたちにも、この花のことを教えてあげましょう)
 ほぼ初めて妹たちにものを教えられることにわくわくしながら、イドゥンは厳かに口を開く。
「みんな」
「なにー?」
「なになにー?」
「なんですか?」
「このお花はね、ゼラニウムという名前なのよ」
 言った。「そうなんだー」「すごーい」「お姉ちゃん、物知りです」といった答えが帰ってくるの
を期待していたら、三人はきょとんとして顔を見合わせた。
「知ってるよー」
「ニニアンお姉ちゃんに教えてもらったー」
「お花なら他にも知ってます。サクラ、ハコベ、ボタン」
「スミレ、カキツバタ、カスミソウ!」
「チューリップ、シネラリア、キンセンカ! あとね、あとねー」
 楽しそうに花の名前を言い合う妹たちを見ながら、イドゥンはちょっぴりがっかりして、肩を落と
したのだった。

 一方そのころ、兄弟家の居間でも、女性陣による喧々諤々の大論争が巻き起こっていた。
「ついにあの朴念仁で最強のフラグクラッシャーでもあるアイクに、フラグ成立のチャンスが訪れた
のよ! グレイル工務店での成績も良好、生活基盤も安定! その上相手は名家の令嬢! ここは一
気に結婚まで持っていくべきだわ!」
「いえ、待ってください! いかにアイクがフラグクラッシャーといえど、彼はその気になればちゃ
んとした女性とお付き合いすることが出来ます! しかしその点エフラムちゃんは、これを逃したら
間違いなく後がありません! ここはやはりエフラムちゃんに」
「いえ、兄上の嗜好については誤解があるだけです。それよりもアイク兄上が特定の女性との仲をこ
こまで進展させられたことの方が奇跡的なのですから、やはりアイク兄上に」
「エイリーク姉さんは双子の兄への愛着で目が曇っているのよ。エフラム兄さんは間違いなく、極め
て年下の女の子としか懇意になれない星の下に生まれたのよ。そこへ来て今回のチャンスなんだから、
やっぱりエフラム兄さんに」
「そんなことよりあのトカゲ女をどう丸焼きにするか相談しましょう」
「変態女神は黙ってなさいよ!」
「なんですってこの宗教狂い!」
「一応神様のくせにその言い草はなによ!?」
 議論は白熱し、今にも血みどろの戦いが始まりそうな勢いである。さすがにその中に入っていく気
にはなれず、ロイは部屋の隅で他の兄弟たちと共に小さくなっていた。
478 名前: イドゥンとお花とアイク兄さん [sage] 投稿日: 2008/02/25(月) 01:08:17 ID:a8rYlVl2
「姉さんたちの勢い凄いね」
「そうだねー」
 左隣であぐらをかき、膝の上に乗せたノートパソコンを弄りながら、リーフが頷く。右を見ると、
マルスも同じようなことをやっていた。不思議に思いつつ、ロイはふと部屋の中を見回して首を傾げた。
「あれ、当のエフラム兄さんとアイク兄さんはどこ行ったの?」
「エフラム兄さんはこの議論を聞いてるのが嫌になったらしくて部屋に閉じこもってるし、アイク兄
さんはミカヤ姉さんから園芸関係の本借りて、珍しく読書の最中らしいよ」
「アイク兄さんは相変わらずマイペースだなあ」
 マルスの右隣に座ったセリスがのんびりと呟く。
 こんな風に会話している間も、女性陣の議論は白熱していくばかりで収まる気配すら見せない。そ
のあまりの必死さに、さすがのロイも呆れてしまった。
「いくらなんでも興奮しすぎだよ姉さんたち。そりゃ、イドゥンさんが花を持ってきたのにはびっく
りしたけど、そこまで騒ぐようなことかなあ」
「あれ、なんだ、ロイは知らないのかい」
 マルスがノートパソコンの画面を見つめたまま、意外そうに言った。
「知らないのって、なにが?」
「ゼラニウムの花言葉だよ」
「え、花言葉」
「ゼラニウムの花言葉っていうと、ええと……」
 首を傾げて考え込んだセリスが、不意に手を打った。
「確か、『愛情』だよね!」
「うわ、直球だね」
 ロイは頬がひきつるのを感じた。
「なるほど、それでこんな騒ぎになってるんだ……でも、多分イドゥンさん本人は知らないはずだよね?」
「多分ね。ついでに、アイク兄さんも知らないと思う。まあ、僕らにはあんまり関係ないことだけどっと」
 リーフが何かの仕上げとばかりにノートパソコンのエンターキーを押し込み、満足げに頷いた。
「これでよし、と。ばっちりだよマルス兄さん」
「ああ、こっちもOKだ。さて、計画スタートといこうか」
 二人はロイを挟んでいやらしい笑みを浮かべあう。その表情に、何か不吉なものを感じずにはいられない。
「あのさ、一応聞いておきたいんだけど……二人とも、なに考えてるの?」
「ふふ……これを見たまえ、ロイ」
「なに……うわぁ」
 マルスのノートパソコンには、例の紋章町BBSが表示されている。そのスレッドの一つのタイト
ルが、こんな風になっている。

 【ゼラニウム】フラグクラッシャー、ついにフラグ成立か?【『愛情』の花】

「ははは、見たまえロイ、物凄い速度で書き込みが増えていくよ! アイク兄さんの嫁候補の皆さん
が必死になってキーを叩いている様が目に浮かぶわ!」
「なにせ、『一緒に花を育てる』なんて愛の共同作業的段階にはまだ誰も達したことがないはずだし、
隠し撮りした写真もそれっぽく加工してうpしたからね……今頃パニックになっているはずさ。特に
ベグニオン財閥辺りが」
「隠し撮りって……いつの間に」
 げんなりするロイを尻目に、マルスとリーフは意気込んで立ち上がった。
「さあやろうかリーフ、多分サナキ社長はこれに対抗してアイク兄さんに百万本のバラを送るとか安
直なこと考えるはずだから、園芸関係の株は要チェックだよ?」
「マルス兄さんこそ、これにつけ込んで人脈広げるのを怠っちゃあいけないよ? 姉さんたちは議論
に夢中でこっちに目が向いてないから、やりたい放題だもんね! ふふふ、おねいさんとのフラグを
目の前で立てられた悔しさ、これで晴らしてやるぞ……!」
「よし、では行こうか弟よ!」
「OK兄さん!」
 二人が高笑いしながら出て行くのを、ロイは呆然と見送るしかなかった。その隣では、セリスがに
こにこしながら「いってらっしゃーい、気をつけてねー」とのん気に手を振っている。多分状況がよ
く分かっていないに違いない。
(これでいて、間違いなく当の本人達は無自覚なんだから、もうホントやってらんないなあ)
 心の中でぼやきながら、ロイはいつ果てるとも知れない女性陣の論争を、ぼんやりと眺め続けるのだった。