ブラウザの JavaScript がオフ(ブロックまたは許可しない)に設定されているため、このページは正常に機能しません。
艦隊これくしょん -艦これ- 攻略 Wiki*
[
ホーム
] [
一覧
|
最終更新
|
バックアップ
] [
ヘルプ
]
[
ホーム
] [
最終更新
]
一覧
最終更新
バックアップ
ヘルプ
Top
>
Bismarck
>
複製
?
ms
Bismarck をテンプレートにして作成
これらのキーワードがハイライトされています:
開始行:
|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.171|
|&attachref(./171_2nd.jpg,nolink,私はビスマルク型戦艦のネームシップ、ビスマルク。よおく覚えておくのよ。);|>|Bismarck&nobr{(ビスマルク)};|>|Bismarck級 &nobr{1番艦 戦艦};|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|90|~火力|64 / 88|
|~|~装甲|67 / 83|~雷装|0|
|~|~回避|33 / 63|~対空|18 / 48|
|~|~搭載|16|~対潜|0|
|~|~速力|高速|~索敵|16 / 42|
|~|~射程|長|~運|8 / 69|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|90|~弾薬|110|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|4|>|>|[[38cm連装砲]]|
|~|4|>|>|[[15cm連装副砲]]|
|~|4|>|>|未装備|
|~|4|>|>|未装備|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''Bismarck'' → [[Bismarck改]](Lv30) → [[Bismarck zwei]](Lv50+[[改装設計図>改造#blueprint]]) → [[Bismarck drei]](Lv75+[[改装設計図>改造#blueprint]])|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:ドイツの誇るビスマルク級超弩級戦艦のネームシップ、それが私よ。&br;ドイツらしい重厚かつ美しいデザインでしょう?いいのよ、もっと褒めても。&br;この海でも縦横無尽に活躍するわ。期待しなさい!|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:遠藤綾、イラストレーター:島田フミカネ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:遠藤綾、イラストレーター:島田フミカネ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>Bismarck/定型ボイス]])
#table_edit(Bismarck/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>Bismarck/時報ボイス]])
#table_edit(Bismarck/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>Bismarck/季節ボイス]])
#table_edit(Bismarck/季節ボイス)
~
}}
* ゲームにおいて [#game]
-2014年3月14日のアップデートと共に実装された、初の海外艦の1隻。同時実装されたのは他に、[[Z1]]と[[Z3]]。
-入手方法は海外艦([[Z1]])と邂逅後「ある条件下」における【[[大型艦/新型艦建造>大型艦建造]]】で入手可能。現在の所、他に常設での入手方法はない。
--一応正確な条件としてはZ1orZ3を秘書艦にして大型建造のみで入手可能。
なお建造時間は5時間と長門型と同様。
---[[Prinz Eugen]]・[[U-511]](呂500)・[[Graf Zeppelin]]を旗艦にして建造できるかは要検証だが建造報告自体が乏しく、期待できない模様。
またBismarck旗艦での2隻目建造も同じく期待できない模様。
--有志により、『[[捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(後篇)]]』のE-7のボスでドロップが確認された。ドロップが確認された例は初めて。
更に、かのライン演習作戦がモチーフになった『[[抜錨!連合艦隊、西へ!]]』のE-5でもドロップ報告が上がっている。
-実装直後は[[Bismarck改]]までしか改造できなかったが、「[[さらなる改装も用意しています>https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/444348326985486336]]」と言うアナウンスもされていた。
その後、2014/4/23のアップデートで[[Bismarck zwei]]、2014/9/26のアップデートで[[Bismarck drei]]が実装された。
--「zwei」(ツヴァイ)は2、「drei」(ドライ)は3を表すドイツ語であるため、それぞれを「改二」「改三」と呼ぶこともある。
&br;
-[[金剛]]型と比較すると、未改造でもスロットが4つ、耐久は二回り、装甲は一回りほど優秀だが、対空はかなり低い。その他の性能や燃費は若干劣る。
--速力:高速、入渠時間の倍率、フィットする主砲の口径などが金剛型と共通している。
---高い耐久のため、深手を負うと修理鋼材や入渠時間が嵩みやすい。
---耐久の高さにより小破判定の範囲が大きく、修理時間倍率が1.5と控えめのため[[明石]]を最も有効に活用できる艦娘のひとり。ただし耐久が多いほどカスダメも大きくなるので一長一短。
--なお、Bismarck zweiまでは金剛型と比べていろいろ劣る面があるが、唯一の改三戦艦であるBismarck dreiになると性能が大幅に向上する。&color(Silver){その代わり燃費は大幅に悪化するが…。};
&br;
-レアリティは[[大井改二]]などと同じSホロ。詳細は[[艦船/レアリティ]],[[レアリティ]]のページにて。
**キャラクター設定について [#character]
-提督たちからの愛称は色々あるが、最近は「ビス子」と呼ばれることが多い。&color(Silver){乳酸菌たっぷりのクリームサンドビスケットとは何の関係もないので注意。};
-カードイラストではあまり気にならないが、執務室での存在感は[[扶桑]]を上回るかもしれない。
-一人称は「私」、提督のことは「提督」と呼ぶ。
-性格は自信家。ナルシストの気があり、わざわざ褒められにくる。ただ構って欲しい願望もあるようで、わがままでツンデレ気味な一面も多々見られる。ただ、補給や入渠でお礼や謝罪をしていることから素直な面もある。
-小破時の「忌々しい複葉機」はSwordfishだと思われる。相当に嫌な思い出のようだ。
--Ark Royalの時報で、トラウマなのかアプローチを仕掛けてきただけの彼女から逃げている所を再びSwordfishで追撃されてしまった模様。その場に居合わせたVictoriousに援護してもらい、なんとか逃げ切っている。
-Prinz Eugenからはお姉さまと言われて、非常に慕われている。
-時報では、食事の三食を提督に用意させている。割とやりたい放題。ちなみにクリスマスでもプレゼントをねだっており、ご馳走を食べ過ぎて、U-511から突っ込まれている。
--大和や金剛、長門にも興味を示し、その能力を計ろうとしている。
--21時の「ブリッジが高いあの姉妹」は扶桑姉妹と思われる。
--恐らくだが、台詞の雰囲気からして秘書艦としての業務はちゃんとこなしている様子。
*小ネタ [#neta]
//小ネタの文章量と注釈の数が増えすぎる傾向があります。編集者諸兄に置かれましては、気持ち少なめでお願いします。
-新生ドイツ海軍が送り出した超弩級戦艦ビスマルク級1番艦。
--ヴェルサイユ条約を再軍備宣言で破棄して、[http://www.navweaps.com/index_tech/tech-089_Anglo_German_Agreement_1935.htm 英独海軍協定(Anglo-German Navy Agreement)]((詳細はリンク先を。簡単に言うとドイツはイギリスの35%の保有枠を認めて貰った。実
ドイツ第三帝国最初で、そして最後の超弩級戦艦である。
---前級のシャルンホルスト級戦艦(未実装)はもともと旧式戦艦代替の装甲艦(通称ポケット戦艦)から発展し、上記協定で大型化を事後承諾された艦なので、戦艦としては色々と不満足。本艦こそがドイツ新戦艦のスタンダードとなる、筈だった。
---協定に従えばティルピッツに加えて、あともう1隻で保有枠がいっぱいになる予定だったが、有名な「Z計画」によってこの協定もまた破棄される。
そして起工されたのが、16inch砲(約41cm)搭載のH級戦艦。後日さらに%%暴走%%発展していき、ついには20inch砲(約51cm)、14万トンの化け物戦艦H44にまで至る。これらの未成戦艦全てがビスマルクをタイプシップとしたものだった。
---設計が固まる前に終戦を迎えたため非公式プランで終わってしまったが、H45もある。80cm主砲8門、24cm副砲12門、64万トン。もはや''軍艦と呼ぶのもおこがましい非常識性能''。
---ただしこれらは起工に至ったH41を除けばほぼ全て「研究の為の研究」レベルの作業でしかなく、設計者達は世界最強戦艦を夢見る事が出来ただろうが結果として後世に何かを残す事もなく、本気で無意味な作業でしかなかった事には留意すべきだろう。
何しろドイツ海軍が根拠地とする軍港では設備や深さからH41ですら運用限界ギリギリなのである。
--本級に限らず、ドイツ戦艦は通商破壊戦に投入するための軍艦と一般に理解されているが、これは少なくとも設計・構想の観点からは誤解である。彼女らの任務はバルト海や北海の制海権獲得であり、当初の仮想敵はポーランドや北欧諸国とソ連といったところ。具
---これら仮想敵を相手にドイツ戦艦が求められた能力は、大航続力ではなく高速巡航速力だった。少ない戦力を効率よく機動させ、1対1なら劣勢が免れない敵相手に集中して戦うための能力である((例えば有名なポケット戦艦は、単艦なら海防戦艦にやや不利、弩級
---そもそもの想定戦場が本国にごく近しいバルト海や北海なのだから、効果が出るまで時間のかかる通商破壊戦の出る幕は本来ない筈だった。しかし知られる通り、ドイツ海軍は全くの準備不足で開戦を迎えた。絶対的に劣勢な海軍に取れる道は、通商破壊しかなか
#fold(設計など){{
設計など
-設計は1934年に始まり、排水量はイギリスとの合意であった35,000トンを越え42,600トンまで増加したが、公称は当初のまま。満載排水量は50,300トンである。1940年8月竣工。
--竣工時点では世界最大の戦艦で、欧州では大戦を通じて最大であったが、後述の通りその実力は巨体に見合うものとは言えなかった。
--しかし、連合国、特にイギリスの同級に対する警戒心は強く、抑止力としては有効であった。
-本級は「新しい旧式戦艦」とも揶揄されるように、設計に古くさい部分を多々持ち合わせた艦である。
--設計の下敷きになったタイプシップは帝政ドイツ最後の超弩級戦艦バイエルン。要は第一次大戦の戦艦。
列強各国が[[ワシントン海軍軍縮条約>雑学#Washington]]に基づく大改装や技術交流、軍縮の副産物である実艦実験((例えば、[[加賀]]の戦艦時代の姉妹艦土佐も実験で沈められている。))、等で設計理論を発展させていった中、一人取り残されたドイツの哀しい現実
--特に有名なのは舷側装甲の配置要領で、各国の新戦艦が舷側装甲の''上端''から水平装甲に接続しているところ、ドイツ艦は''下端''から傾斜装甲を介して水平装甲に接続している。[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/KGV_Tirpitz_armour_and
この方式は舷側→傾斜装甲の二重防御で極めて高い耐弾力を示す一方バイタルパートの容積を圧縮してしまうため、特に機関出力が激増した新世代の高速戦艦には不都合なものであった((この方式で高速を狙うなら、リソース自体を大きくするしかない。つまり性能の
加えて艦内の重要部分が主水平装甲の上に配置されてしまうという欠点を抱えており、実際に被弾によって艦内通信網が寸断されてしまっている。
---なお装甲材質は技術立国ドイツの面目躍如たる『ヴォータン鋼』中心で装甲そのものは強固だった、らしい((英国の戦後調査では英・独の装甲材質はほぼ同等で、米国が25%程度劣るとしている。日本が大和で使ったVH鋼は戦時中の改良により強化され、英国の
---ただしヴォータン鋼は他国で言う「高張力鋼」と同種の装甲鈑である。つまり名称が違うだけでドイツ以外の国も同種の装甲鈑を製造している事に注意されたい。
しかし各所に十分な厚さを張り巡らせていたわけではなく、決して防御力が高いとはいえない((舷側装甲の最大値は320mm。しかし垂直配置であり、同レベルの厚さながら傾斜させていたフランスのリシュリューや、垂直ながら381mmもの厚さを誇るイギリスのキング・
--他にもスカスカというしかない水中防御や、(これはヨーロッパ共通の傾向だが)主砲塔装甲の薄さなど、一般に信じられている「強靱な防御のドイツ艦」というイメージとは裏腹の設計構造だった。
---ただし装甲重量は艦全体の39%にも及び、決して防御を軽視しているわけではない。むしろ列強に比べて重視していると言える。あくまでもノウハウの不足が原因で、時流に合わせた適切な配分ができなかったのだ((第二次大戦でフランスを征服した後、リシュリュ
--このノウハウの不足はWWI敗戦に起因している。ドイツはWWI時には世界第二位の海軍力を誇ったが敗戦でそのほぼ全てを喪失((WWIに敗戦した時点では相当数の艦船が残っていたが、それらの艦船が戦勝国に賠償艦として分配される事を嫌い、イギリス海軍の根拠地
-主砲には、当時フランスやイタリアで建造が進められていた新型戦艦に準じて[[38cm連装砲]]が採用された。本砲の詳細については当該記事に譲る。
--光学測距儀の精度は当時世界最高。射撃計算機の性能も素晴らしく、方位盤と合わせて射撃指揮装置の計算精度は極めて高かった。
--本艦の砲塔は第一から第四まであり、それぞれ「識別名」という個別の名前が付けられている。
第一砲塔から順に「アントン (Anton)」「ブルーノ (Bruno)」(または「ベルタ (Berta)」)「カエサル (Cäsar)((厳密に言えば「ツェーザー」。日本語読みでは言いにくいので文献上は「カエサル」が普通。))」「ドーラ (Dora)」と名付けられている((要はABCD
--ちなみに38cm連装砲4基8門、[[15cm連装副砲]]6基12門、[[10.5cm連装高角砲>10.5cm連装砲]]8基16門というレイアウトは以後のドイツ戦艦に共通するものとなる。H44でさえ主砲が巨大化した以外は同じ武装配置で設計されたのだ。
-なお姉妹艦ティルピッツは砲熕兵器の他に水上魚雷発射管(駆逐艦などに積んであるアレ)も搭載していた。
-機関出力はタービンを限界まで回して150,170馬力で、全力よりかなり抑えられた[[大和]]の定格出力(153,553馬力)より低め。
その大和が本気を出すと168,000馬力を叩き出し、ビスマルクはさらに引き離される。ただし、3軸推進(後述)のため、1軸あたりの機関出力は、大和や[[翔鶴]]よりも大きい。
また、造波抵抗を抑えるアトランティック・バウとバルバス・バウを採用し、長くスマートな艦体は''速力30.1kt''を発揮する。
--これほど高速性能を求めたのは、仮想敵のイギリス巡洋戦艦フッド、フランス戦艦ダンケルク級が33kt近い高速艦である事が大きい。彼女らに対抗するには30ktは最低ラインだったのである。
--大日本帝国海軍の艦で例えると、[[長門]]型や[[大和]]型よりも速く、[[金剛]]型並みの高速戦艦になる。現代の護衛艦と比べてもまったく引けを取らない。
--ただし、最高出力で運用すると故障が頻発するため、138,000馬力/29ノット程度が現実的な最大出力である。
--ドイツ艦は長大な航続力を持っていると思われがちだが、ビスマルクについては極端に長いわけではない。以前はそのような誤解がまかり通っていたが、近年の文献では航続力に関する限り平凡であると再評価されている。
通常積載に加え追加タンクを装備した場合には燃料8,700t(7,400tとも)を積載し、16ノットで9,280海里、19ノットで8,524海里、28ノットで4,500海里を航行することができた。同世代の欧州戦艦は、12ノット/10,000海里、20ノット/7,750海里の[[リシュリュー>Riche
---%%キングジョージⅤ世級の計画航続距離は10ノットで14,000海里だったのだが、完成してみたらご覧の有様だった。%%
---基準排水量65,000トン、満載排水量72,809トンの[[某黒鐵の浮かべる城>大和]]は、6,300tの燃料、19.2ノットの速力で8,221海里航行できることは内緒だぞ?
&color(Silver){機関出力といい航続距離といい、太平洋戦域どうなってるのよ!?};
---アメリカ戦艦は、駆逐艦などの随伴艦に給油するのが作戦運用上の前提であり、燃料タンクは最大限に大きく作られている。その代わり駆逐艦の航続距離は短い。
-エンジンは55気圧/475度のワグナー式ボイラ12基でブローム・ウント・フォス式ギヤード・タービン3基を駆動する3軸推進である。
ドイツ海軍の大型艦(戦艦、巡洋艦)は、当時世界的主流の4軸推進ではなく、3軸推進の艦が多い。操舵に気を使う狭いキール運河等を通航するのに便利だったらしい。
--[[Z1]]、[[Z3]]の項目を見ればわかるように、ワグナー缶は基本性能こそ高いが動作が不安定で、機関の信頼性はあまり高くはないと言える。
だがそれでも機関不調を頻発させた前級シャルンホルスト級に比べれば、その信頼性はずっと向上している(と言うよりシャルンホルスト級の機関が恐ろしく不安定なだけとも)。
--ちなみに、大和で28気圧、アイオワで40気圧である。
-しかし、ビスマルクの足回りには欠陥がいくつか存在した。
--一つは採用されていた3軸推進方式であり、船体の中心線上に機関部を配置するためキールが構造的に弱く、特にシャフトが外部に出る後部が脆弱となった。
--操艦特性については諸説ある。船体側面の装甲が沈降効果を発揮してローリング軸が移動し、ローリング、ピッチングも少く良好であったという説(広田厚司『ドイツ海軍入門』第7章P155より)。
両舷側のスクリューが反対向きに回転するため旋回能力が低く、舵機にも問題を生じた為さらに旋回能力は低下したという説(大久保義信『世界の軍艦コレクション』16号P4より)など意見が分かれている。
---凄まじく乱暴に補足しておくと、ローリング、ピッチングが少なかったということはヨー安定も高かった可能性があり、そうなると舵の効きは悪くなる。つまり、上2つの説は全く同じ特性の片面づつを取り上げているだけの可能性がある。
---また、計画当初は革新的技術のターボ・エレクトリック方式を採用して後進速度向上を実現しようとしたが、最終的には堅実で実績のある蒸気タービンが採用されたため、当初ほど後進速度が出せず、狭所では事故防止のため曳航が必要となった。
---特徴的なアトランティック・バウにも、欠点として艦首部の浮力低下が生じる副作用があり、荒天時では割れた波が錨鎖穴を通じて艦体前部へ降りかかるという問題が生じるなど弊害も多かった。&color(Gray){ドイツは艦首が苦手。};
-とはいうものの、当面の仮想敵であるキングジョージV世級、ダンケルク級、コロラド級、ノースカロライナ級((コロラド級、ノースカロライナ級は%%日本のせいで%%14インチ砲戦艦の計画を16インチ砲に変更したものであり、どちらも16インチ砲対応防御を満たし
--35,000トン内外に収まるこれらの艦と比較すると、ビスマルクは常備約45,000トンと重い。その原因は250メートルを超す長い艦体と、全重量の38%(資料によって異なる)に及ぶ装甲の重さにあった。
実に[[17,256トンが装甲に割り当てられている>http://www.loeffelinfo.de/modellbau/bismarck/techdata.html]]((アイオワ級は全重量の35%、17,056トンである。))。これより重い装甲が施されているのは、大和型だけである。
--水線下防御についてもビスマルクが完成した時点で本格的に対策していたのは[[長門]]型だけである。脱条約時代のキングジョージ5世級やリシュリュー級でも日本ほどは徹底していなかった。
[[長門の断面図>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6#mediaviewer/File:Nagatoarmor.svg]]。キングジョージV世でも間接防御にとどまっている艦底付近まで主装甲が伸びているのが解る。
--さらに付け加えるなら、''ビスマルクがでかくなってしまったというよりも、他国の同クラスの戦艦が無理やり小さくしていたと言った方が正しい''。つまり、ワシントン軍縮条約のためである。ドイツの戦艦にも英独海軍協定で同じ3万5千トンの制約が課せられた
この艦容は第一次世界大戦で一度海軍が壊滅しているドイツにとって、国威発揚に役立った。日本では39,000トンを超える[[長門]]型が、同じ役割を果たしている。
--また、事実海底調査で発見されたビスマルクは、詳しくは後述するが、敵の攻撃による損傷以外に自沈作業も行われた形跡があったが、実際には「何とか沈んだ」ダメージであったという。
--ビスマルクの大きさを無駄と断じることができるようになるのは1941年12月以降、つまり真珠湾攻撃とマレー沖海戦で主役が戦艦から航空機に代わってからである。
}}
~
#fold(戦歴・戦果){{
戦歴・戦果
-''【練度について】''
-ビスマルクの乗員の練度は不十分だったとされることもあるが、ライン演習作戦直前の「戦時日誌」(後述)の記述を見る限り、少なくともリンデマン艦長を満足させるだけの域には達していた。
--就役前の40年6月頃から各種の訓練が開始。40年10月半ば、訓練を視察したリンデマンは乗員の達成度を評価している。40年12月9日から艦はハンブルクで最終工事に入った。
--最終工事は41年1月24日までに終了したが、キール運河の閉塞や厳冬の影響で缶室に異常を来したことなどにより、結果的に3月6日までハンブルクを離れることが出来なかった。
---この時期、厳冬のため訓練が行えなかった、とされることがあるが誤り。外気温が-15度に達して缶室に問題を起こした当の1月27日にも訓練は行われている。
--その後、海軍司令部が当初よりも3~4週間作戦計画を早めたため、リンデマンは、新たに訓練の終了期限を4月末と定めている(「戦時日誌」3月19日)。
---この頃かなり激しく訓練が行われていたことは「間近に迫った任務のため、時間はまったくすべて艦の訓練に利用しつくされた」(「戦時日誌」41年4月1日-15日)とリンデマンが述べていることからも分かる。
--3月6日にハンブルクを出港した後、キールへの入渠を経て対艦対空射撃訓練などが集中的に行われた。ただし、本格的な洋上訓練が実施できたのは前年のテスト中(40年11月)を除けば4月からである。洋上での燃料補給、第25Uボート戦隊、プリンツ・オイゲン、リ
-これらの訓練の結果をリンデマンは次のように評している。
--「乗員の練度は、平時における主力艦の演習への準備状態と比べても遜色のない域に達している。少数の者をのぞいて乗員のほとんどに実戦の経験はないが、来るべき戦闘にむけても私には特に不安はない。彼らなら実戦を苦もなくやり遂げてくれるだろう。ここに
---一部では、1941年4月28日の戦時日誌にリンデマン艦長の手によって「ビスマルクの乗員は敵より練度で劣っている」と書かれているとされていた。
---対空射撃訓練は計90分前後しか出来ず、マニュアルも充分な数が供給されなかったという。
~
~
-''【ライン演習作戦】''
-1941年5月18日、重巡[[プリンツ・オイゲン>Prinz Eugen]]((「アドミラル・ヒッパー」級重巡の3番艦。様々な作戦を乗り越え終戦まで生き延びた幸運艦。敗戦後はビキニ諸島に移動させられるが、長門や酒匂を沈めたあの光にすら耐えて最期まで意地を見せた。))
これがビスマルクにとって最初で最後の作戦となった。
--18日夜、諜報員の情報を元に出撃した英空軍偵察機にノルウェーで停泊中を発見され位置を報告される。
--しかし姿をくらましたため、21日、スカパーフローに停泊していた英本国艦隊:巡戦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、キングジョージ5世、空母[[ヴィクトリアス>Victorious]]らが大西洋進出を阻止すべく出撃を開始。
---同年1月には、戦艦シャルンホルスト・グナイゼナウの2隻で同様の通商破壊作戦「ベルリン作戦」を行っている。
今作戦と同じリュッチェンス提督の指揮下で出撃し、それまでにもポケット戦艦による通商破壊に苦しんでいた英側も同じトーヴィー提督が本国艦隊(戦艦3隻含む22隻)を迎撃に向かわせたが、二隻はこれを躱しビスマルク達同様のルートで大西洋に進出。
二ヶ月で計約5万tを水底に叩きこみ、総計22隻11万5千tを拿捕・撃沈した。
---今作戦はシャルンホルストはまだ修理中で、グナイゼナウは参加予定だったが直前の爆撃によりドック入り、ティルピッツもまだ訓練中だった為、延期も検討されたが諸々の情勢と気候を鑑みてビスマルクとプリンツ・オイゲンの二隻での出撃となった。シャルン
---尚、道中でイギリス艦隊2隻に捕捉された際に、牽制射撃で主砲を発射した際 自身の砲撃の衝撃でレーダーを破損している。
-''【デンマーク海峡海戦】''
--23日午後7時22分、ノルウェー海を渡りグリーンランドに達し、アイスランドとの間:デンマーク海峡を通過していた両艦を張っていたイギリスの哨戒部隊重巡2隻(「ノーフォーク」、「サフォーク」,ウォーク少将指揮)が発見、追尾する。
この情報を元に、英海軍の象徴「マイティ・フッド」こと世界最大最強の巡洋戦艦フッド((ワシントン条約の例外で、ビスマルク竣工まで20年以上世界最大の軍艦であった。全長は大和と僅か1m差。当時世界一有名な戦艦であり、「マイティ(強大な)・フッド」の愛称の
--翌24日、グリーンランド沖でイギリス艦隊が先にドイツ艦隊を発見、先制攻撃を加えた。&color(Gray){英艦隊はT字戦法に持ち込む事を企図していたが、25~17km程でほぼ並走する同航戦となってしまい、巡戦の弱点を長時間さらす事となった。また、英艦隊ははじ
--ドイツ艦隊はフッドに対して集中砲火を加え、第三斉射で夾叉(射撃指揮所に命中説もある)、海戦勃発から約8分後の第五斉射がフッドの後部弾薬庫を直撃((ユトランド海戦での戦訓を顧みず、雑に積み上げてた副砲弾薬に引火・誘爆の末に轟沈した説もある。))
同日午前6時37分、同艦は艦隊司令部を道連れに''一瞬のうちに文字通り爆沈''した。((巨大な火柱を噴き上げ大爆発し船体が二つに折れ轟沈。乗組員約1,400名のうち生存者はわずか3名のみであった。)) この間僅か12分。おい、ホントに初陣かよ。
その後のドイツ艦隊の集中砲火により艦橋等に被弾し艦長以外の艦首脳部もほぼ全滅していたPoWは、主砲の故障が決め手となって撤退した。&color(Silver){就役したばかりで公試前の戦艦を引っ張りだすとか無茶だろ・・・。まぁKG5級の主砲は故障多発なのは内緒
---撤退したPoWは哨戒部隊と共に重巡のレーダーを頼りに友軍誘導の為にビスマルクを追尾、触接を保った。
---撃沈された巡戦フッドだが、全長は大和と僅か1m差で当時最大、排水量もビスマルクが偽っていた為に公称では世界最大、戦歴もメルセルケビール海戦で共同で仏戦艦3隻撃破など十分と、まさに英海軍の象徴であった。それが一瞬で喪われたと言うニュースはすぐ
---この結果ビスマルクは自身の誕生まで世界最大を誇っていた同艦種を撃沈するという先代殺しの偉業を成し遂げたわけだが、このような事例は戦艦以外も含む軍艦史上でも異例中の異例であり、少なくとも第二次世界大戦で唯一の事例である。
---プリンツ・オイゲンの撮影した撃沈の瞬間が[[こちら>https://www.youtube.com/watch?v=hU76vVM6lWY]]。
--海軍切っての砲術の権威であるビスマルクのリンデマン艦長はPoW撃沈を確信し追撃を繰り返し主張したが、リュッチェンス提督((ギュンター・リュッチェンス大将。ナチス嫌いで、総統の前でも海軍式の敬礼で通すなどしていた。特に海軍はナチスと距離を置く気
またビスマルクも損傷し、特にタンク損傷で深刻な燃料不足に陥った為、作戦を中断。僚艦プリンツ・オイゲンと分かれて大西洋を渡りドイツ占領下のフランスへ直行しようとした。((プリンツ・オイゲンはこの後無事帰還し、上記の通り戦後まで生き延びた。))
-''【ビスマルク追撃戦】''
--しかし、復讐に燃える英国海軍が''大西洋で使用可能な全ての軍艦(戦艦7隻正規空母2隻含む&color(Blue){総計47隻};)を動員して''((包囲網を敷く為、本国艦隊で船団護衛についていた戦艦3隻も船団を放置して呼び戻し、地中海艦隊からも戦艦1隻・空母1隻を呼
---あえて日本に置き換えるなら(実際の戦力は異なるが)、海軍の象徴長門と最新鋭艦武蔵で迎撃に出たら一瞬で撃沈&大破され返り討ちにされた様なものである。英国がブチ切れるのもそりゃ仕方ない。
---異様な動員数だが、海軍大国の総力戦にしては少なく感じる。これは英国が地中海艦隊・東洋艦隊など世界各地にその戦力を分散していたから。
---ちなみに正規空母2隻と言えば聞こえはいいが、ヴィクトリアスは就役してまだ1か月で艦載機は15機しかなかったりする。%%PoWに続きまたか%%((全機発艦した攻撃機に至ってはたったの9機。とは言え装甲空母故に元から軽空母並みの36機が限度だったりする。%%
--同24日の豪雨の夜、装甲空母[[ヴィクトリアス>Victorious]]航空隊が出撃。荒天の夜間に唯一攻撃可能だった%%布張りで時代遅れ感が半端ないが英国の主力であり続けた傑作複葉雷撃機、ザ・英国面%%ソードフィッシュ艦攻隊((複葉機だがレーダー搭載。布張り故
25日午前3時2分、大回頭によりPoWらのレーダー探知圏を脱し、その速力を活かし触接を振り切る。
しかし26日午前10時30分、捜索にあたっていた飛行艇に発見されるも、追尾していた本国艦隊では追い付けない為、地中海艦隊から巡洋戦艦レナウンと共に駆け付けていた正規空母[[アークロイヤル>Ark Royal]]((ヴィクトリアス等イラストリアス級のプロトタイプ的
&color(Silver){だが、第一次攻撃隊は追尾していた[[味方の英軽巡>Sheffield]]を誤認し攻撃してしまった。};
夜になり再度準備を整えた空母アークロイヤルの第二次攻撃隊のソードフィッシュ艦攻隊がビスマルクに襲来。
---当たった魚雷は2本。うち左舷中央に命中した魚雷はわずかに浸水させたのみだが、別の魚雷が不運にも偶然ビスマルクのスクリューと舵機室を破壊。舵が固定されてしまい、速度低下・操舵不能となった。((操舵不能となる事態は恐ろしく、[[比叡]]を舵故障で喪
逃げ切れるはずだったその足を止められてしまい、''実質、この一発がビスマルクの運命を決めてしまった''
---フランスを前にして大西洋で足を止められてしまった事により、救援に向かっていたドイツ空軍・潜水艦隊の攻撃圏内にも入れなかった。
---中破時のセリフはこれが元ネタであろう。
---ソードフィッシュ迎撃の際、ビスマルクは攻撃機の進入速度に合わせて砲弾が至近距離で炸裂する当時最新式の対空砲で迎撃した。ところが、旧式な布張り複葉機ソードフィッシュの進入速度が対空砲の入力下限をさらに下回る低速だったため、ビスマルクの放っ
--26日深夜には、船団護衛の任を捨て駆けつけ、触接を保ち足止めする為に戦艦に戦いを挑んだ第4駆逐隊トライバル級駆逐艦5隻((余談だが、旗艦駆逐艦のコサックは過去に捕虜輸送中の独タンカーのラム(電)アタックを回避し接舷、乗り込んでの白兵戦により捕虜救
&color(Gray){攻撃側である英兵達は、かくも堂々たる強大な軍艦が無残に痛めつけられいく様を見ているのが辛かったと証言したほか、司令長官トーヴィでさえ、『あの船には、乗っていたくないな』と幕僚に零したという};
それでも辛うじて浮かんではいたのだが、((この段階で自沈命令が出たらしく、「ビスマルクは撃沈されたのではなく自沈したのだ」と言う主張の根拠となっている。2002年、ジェームズ・キャメロン監督のチームが実施した残骸調査では英軍の魚雷の破孔が水密区画
&color(Gray){艦長は砲撃戦を生き延びたが、沈没の際に艦首で敬礼しつつ海中に没した};
''英海軍の総力を挙げた4日間に及ぶ[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/Rheinuebung_Karte2.png 追撃戦]''は、こうして決着した。%%ロイヤルネイビーの本気を見るのです!%%
~
--ちなみにこれ''太平洋戦争開戦前''である。真珠湾攻撃はこの半年後。
---しかしここで熱くなりすぎたイギリスは、日本の参戦が迫っているというのに東洋艦隊にまわす予備兵力を失ってしまった。何とかまわしたPowだがビスマルクとの交戦の傷が癒えきっていなかったという。
結果、フィリップス提督はなんだか動きの怪しい新型戦艦と紙装甲の巡洋戦艦、それに後は捨てるだけという旧式化した巡洋艦と駆逐艦(厳密には既に第一線の用途からはずされていた)で、日本海軍に挑まされるのである。
こんな無理ゲーが攻略できるはずもなく、日本軍の航空攻撃によってPoWは僚艦1隻と提督と共に、開戦早々沈むこととなる。
&color(Silver){そして日本には「敵東洋艦隊壊滅の歌」として「開戦三日目にこの戦果ぞ」やら「奢れるイギリス」やらと好き放題歌われることになった。};
~
~
-建造にあたって国威発揚のために大宣伝を行い、また、ドイツの科学力や知識の粋を集めた戦艦だったため、沈没によってドイツ海軍は物心共に多大な損害を受けた。
--艦娘としての運は、初陣での戦没と舵機室への不運すぎる一発などで若干不運寄りとされている模様である。
だが''第二次世界大戦で最も活躍した戦艦のひとつでもある''のも事実である。
---なお、最後の海戦の被害からもっとも耐えた艦と考える人もいるが、大戦初期と後期では攻撃兵器の技術進歩が著しい為、一概にそうとは言えない(それでも凄い事には変わりないが)。
--しかしこのビスマルク一隻に全英海軍が翻弄された経験から、''「北海の孤独な女王」''こと同型艦''ティルピッツ''は大いに警戒され、実際の出撃は少ないながら現存艦隊((温存した艦隊の潜在的能力で、敵海上活動を妨害し戦力を吸収する。))として援ソ船団の障
---連合軍はソ連に援助物資輸送船団を送っていたが、ティルピッツの影とUボート・爆撃に怯え延期を繰り返し''外交問題にまで発展''している。
中でもPQ17船団は、ティルピッツや重巡洋艦を含むドイツ艦隊出撃の''『誤報』''に際し、護衛部隊(重巡5隻、駆逐10隻など)には勝ち目がなく警戒部隊(戦艦デューク・オブ・ヨーク、ワシントン、空母ヴィクトリアス、他重・軽・駆逐艦17隻)は迎撃に間に合わない
---このティルピッツに対して英国は20回以上の攻撃作戦を実行するが、対空砲火やティルピッツの堅牢な装甲の前に悉く失敗。((いずれの作戦でもまとまった戦力を投入せず、散発的な攻撃に終始したのが失敗の要因。例えば2回実行された航空攻撃で投入された戦力
-またビスマルク撃沈の功労者である空母アークロイヤルは真珠湾の直前の1941年11月13日潜水艦U-81の雷撃を受け、翌14日力尽き横転沈没した。
[[赤城]]・[[加賀]]・レキシントン・サラトガと並びビッグ5((このビッグ5の内、終戦まで生き残れたのはサラトガだけであった。そのサラトガも長門や酒匂、プリンツ・オイゲンと共にビキニ環礁で核の閃光の中に消え去る。なお追撃戦の彼女の僚艦ヴィクトリアス
}}
-''欧州最大の戦艦''であり、短いながらも''WWII有数のド派手な戦歴''から日本人にとっての大和同様に世界では知名度・人気共に非常に高い。
-その『初陣で英海軍の象徴であった当時世界第二位の巨艦を撃沈』し、『海軍大国のほぼ全兵力との大追撃戦』を演じ、『撃破に戦艦・重巡からの数百発の命中弾を要した』という頑強さを示したというその特異な戦果・戦歴と、その戦歴・イメージに反し設計には
--ディスカバリーチャンネル「軍艦トップ10」ではビスマルク級戦艦が第7位にランクインされている。
---このランキングだが、「カタログスペック」よりも「実際に役に立ったか」が明確に重視されており、カタログスペックでは戦艦としては最高傑作級であった[[大和]]などはランクインしていない。((ランキングは;1位アイオワ級戦艦、2位ニミッツ級空母、3位ク
その中にランクインしたビスマルク級の戦術的・戦略的評価が欧米の専門家の間でも高く評価されている証左と言えるだろう。
-ビスマルクは現在フランス・ブレスト沖の4,700mの海底に眠っており、1989年にロバート・バラード((タイタニック号を発見した事で有名な海洋考古学者。[[霧島]]や[[綾波]]も彼の調査で発見された。))が発見した。
なおタイタニック号の沈没地点を公表したために遺品が持ち去られたことを鑑み、発見者であるバラードは正確な場所を公表してはいない。
--だが後に映画監督ジェームズ・キャメロンによる調査・報告ドキュメンタリーが作成された。
このドキュメンタリーはソフト化されているため、興味のある提督諸氏は観てみるのも良いかも。
-艦名の由来は泣く子も黙る鉄血宰相ビスマルク侯爵。本名Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen(オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン)。
--このドイツ史上最も偉大な宰相の孫娘その人が進水式でビスマルクにその洗礼名を授けた。進水式の盛り上がりの頂点は、総統などが現れた時ではなく彼女が登場した時であった。ビスマルクの名がドイツ国民にとっていかに重要なものだったかを示すエピソードと
--日本の軍艦と違い、人名が由来となっている。これはむしろ艦名基準に人名以外から取る事、と決められた日本の基準が異例的((実際、師匠とも言える英国から「お前らは艦名でハイクでも詠むつもりか(意訳)」と呆れられた))なもので、海外に目を向ければ、人
--ニューギニア島北東に鉄血宰相ビスマルク侯爵から名前を取った「ビスマルク海」および「ビスマルク諸島」という場所がある。
この海域はかつて「ダンピールの悲劇」と呼ばれた『ビスマルク海海戦』が行われた場所である。この海戦の詳細は[[白雪]]・[[朝潮]]・[[時津風]]のページを参照するといいだろう。
--「ビスマルク」としては2代目。
初代は1877年進水・1878年竣工のコルベット、ビスマルク級のネームシップで、第一次世界大戦後の1920年に廃艦となっていた。
---似た名前で「フュルスト・ビスマルク(Fürst Bismarck)」という艦がある。フュルストは侯爵の意味で、ビスマルク候爵、すなわち同一人物(鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク)に因んだ艦名である。
こちらは軍艦としては2回(1897年進水・1900年竣工の装甲巡洋艦と、計画だけで未成に終わったマッケンゼン級巡洋戦艦4番艦)、商船として2回使われている。
---ちなみに、上記の「ビスマルク海」に因んだ軍艦も存在する。アメリカ海軍の護衛空母「ビスマーク・シー(Bismarck Sea)」である。
1944年に進水し、1945年に硫黄島沖で日本軍航空機の特攻を受けて沈没した。
-[[Prinz Eugen]]の左肩に描かれているのと同様に、ドイツ艦であるビスマルクには[[艦の紋章:http://kancolle.x0.com/image/99136.jpg]]がある。これは艦名の由来であるオットー・フォン・ビスマルクの[[ビスマルク家の紋章:http://kancolle.x0.com/image/991
--この様にドイツ海軍の艦艇はそれぞれに艦ごとの紋章があり、艦名の由来となっている人物・都市などの紋章が元になっている。他の艦の紋章も見てみたい人は[[こちらへ:http://www.shipbucket.com/forums/viewtopic.php?f=22&t=3084]]
~
-以下、ビスマルクに関する逸話。
#fold(''ビスマルクの幸運の黒猫の逸話''){{
''ビスマルクの幸運の黒猫の逸話''
-配備されたビスマルクにある日、黒猫が着任(?)する。
黒猫といっても口元から胸元までが白く、まるでマスクを被ったような猫だった。
愛嬌のある顔で乗員達には可愛がられ、当時のビスマルクの宣伝にはこの猫も紹介されており、割と知られていた。
[[この猫の肖像画>http://www.battleshipbismarck.info/images/oscar1.JPG]]
--%%%''[[最初の飼い主>Bismarck]]がこの猫に与えた名前は今日知られていない''。%%%
---当のドイツ人はこの猫を「&ruby(船猫){Schiffskatze};」とか「&ruby(ビスマルクの船端猫){Bordkatze der Bismarck};」と呼んでいる。
--ネズミ捕り水兵とかマスコットと云われているが、この猫の出自や採用の経緯はよく分かっていない。水兵であったかも定かでは無い。
---ちなみに動物を兵士に任命したり階級を与えるのは広報やジョークの一種という面もあるが、本質は自他国の法令における動物の防疫規定(を名目にした規制当局の妨害)を「人間に準ずる兵士」として回避するため(例:[[Google:兵隊クマ]])である。
-そしてビスマルクは1941年5月27日にイギリス海軍総力での猛攻で、ほとんどの乗員と共に沈没。
ビスマルク追撃戦に参加していたイギリス海軍の駆逐艦コサックが、漂うビスマルクの残骸の上に一匹の猫を発見し、救助する。
コサックの乗員は、「こいつはビスマルクのマスコット猫じゃないか!」と猫を見て驚いた。
激しい戦火の中を無傷で生き残り救助された猫の運をあやかろうと、ネズミ捕り係兼マスコットとして駆逐艦コサックは猫に「オスカー」と名付け、飼うことになる。
%%ここからオスカーの復讐が始まる。%%
-そのイギリス海軍駆逐艦コサックは、その5ヵ月後の1941年10月24日にドイツ潜水艦の雷撃を受けて2日後に沈没する。オスカーは運良く退艦出来た一団に連れ出されていて生き残った。
-その後、オスカーはジブラルタル基地にて、ビスマルクの舵を壊した空母[[アーク・ロイヤル>Ark Royal]]に着任することになる。が、3週間後の1941年11月13日に同艦もドイツ潜水艦の雷撃により沈没する。
そしてオスカーは、またしても残骸の上で漂っているところを随伴するL級駆逐艦ライトニングに救助され、L級駆逐艦リージョンに乗って基地に戻る(この二隻も後に沈むことになる)。
-オスカーを乗せた艦が全て沈むので、流石にイギリス海軍も%%何あの猫怖い%%慎重になり、ジブラルタルの基地に降ろされ地上勤務になる。
基地ではネズミ捕りの名人として活躍し、三度生還するほどの幸運を持っているという事も含めて、(改名されたオスカーの名前がサムなので)”不沈のサム”と言われ可愛がられていた。
戦後、「不沈と呼ばれるくらいだから大丈夫」と寄港していた輸送船とともにベルファスト海軍基地に移動する事になる。何事もなく船は無事に到着し、預けられた基地で穏やかに余生を過ごした。
そして1955年に、黒猫オスカー水兵は共に戦った戦友達の所へ旅立った。
-不沈猫と呼ばれているが、不沈なのはオスカー君本人だけで、オスカー君が乗った軍艦は全て沈んでいるのである。(オスカー君を乗せて沈まなかったのは非軍籍の貨物船だけだった)。
-アークロイヤルが雷撃された11月13日は、第二次世界大戦の各国海軍においては変なジンクスの残る日となった。
--翌1942年11月13日。あの[[ソロモンの悪夢>夕立]]のワンマンショー開催。
--1944年11月13日。[[木曾]]マニラ湾で大破着底。しかし物理的な撃沈には至らず、のちに戦没判定を受けるも戦後浮揚され解体された。
-
~つまり連合軍にとってケチのつく日だったのである。
当日の夕立乗員の異常なハイテンションと言い、とうとう沈められなかった木曾と言い、オスカー君からなんか授かっていたのかもしれない。
-但し、「不沈猫オスカー」の伝説は作り話?とも言われている。
--関係する各艦の乗組員は誰もその存在を知らない。
--確実にそうだ、とされる写真が一枚もない(現在伝わっている猫の絵は全て別の猫が元)
-
~以上が理由となっている。
-ちなみに太平洋戦争でオスカーと言えば、陸軍の中島一式戦闘機『隼』の連合軍コードネームである。零戦に比べて火力では劣るものの、硬いわ高速でも機動性に優れるわ、イヤな相手だったといわれる。
--また英軍がオスカー君につけたサムは[[烈風>試製烈風 後期型]]の連合軍コードネームであるが……%%まったくロイヤルネイビーってのはやることなすこと、なんかひとつ間が抜けてんだよな。%%
}}
#fold(''忠誠を誓った騎士U-556の話''){{
''忠誠を誓った騎士U-556の話''
-ビスマルクが公試の後に改修と調整のため、ハンブルクに戻った時、並んで繋留されていたのが同じ造船所で生まれたVIIC型((7C型、[[U-511]]の該当するIX型より小型の艦。))潜水艦U-556であった。
U-556はその艤装作業の間中ビスマルクの軍楽隊の練習を聴かされ、就役式をあの軍楽隊に演奏して貰って祝えたら、と誰もが思うようになっていた。
しかし断られては困るので、艦長達が知恵を絞り腕をふるってつくり上げたのが、中世の騎士の特定のレディに対する誓いにならって、壮麗なるビスマルクに身命を賭して尽くすという宣誓状だ。
それは自らもパーツィファル(アーサー王伝説に登場する騎士、パーシヴァル)とあだ名されたヴォールファールト艦長((極めて余談だが、彼の出身地はなんと日本の石川県金沢市。))が、騎士の姿でビスマルクに襲いかかる魚雷や航空機を防ぎ、あまつさえ小さなU-
「我らU556(500トン)一同はここに大洋、海、湖、河、小川、池および細流の支配者たるネプチューンに、我らの兄、戦艦ビスマルク(42,000トン)を水上、水中、陸上および空中でどのような状況下でも助けようと望むことを宣言する。ハンブルク、1941年1月28日
ビスマルク艦長は大笑いしてこれを受け取り、[[これ>http://en.wikipedia.org/wiki/File:Patenschafts.png]]を士官室に総統とビスマルクの写真と並んで掲げさせた。
こうして巨大戦艦と小さなUボートの艦長同士の友情が育まれる事となった。
U-556の就役式が、ビスマルク軍楽隊の演奏のおかげで華やかなものになったのは勿論の事である。
-ある日、ビスマルクの副砲訓練の際、U-556が先に2,3発射たせてもらえないかと頼んで来た。すぐに許可が出たが、なんとU-556はその初弾で曳航された標的の''ど真ん中を貫いて''しまった。
U-556は気まずい思いをしたが、ビスマルク艦長は「見事ナリ。願ハクハ大西洋上ニテモソノ手練ヲ発揮サレンコトヲ…騎士十字勲章ヲ期待ス」と信号を送り、騎士精神溢れたU-556艦長も「ワレラ両艦一体トナリテ敵ニアタリ、共ニ騎士十字勲章ヲ授ケラルルコトヲ切
-1941年5月1日。はじめての任務をおびたU-556は「貴艦ノ旅立チノ日メグリキタルトモ、ゴ安心アレ。ワレラ誓ツテ御身ノ安泰ヲハカラン」と送り出撃していった。それまでにも他の潜水艦で戦果を挙げていたU-556艦長はこの出撃中の5月6日・10日・20日に合わせて6
大戦果を挙げてフランスに凱旋しようとしていたまさにその時、事件は起きた。
-5月26日、U-556に誓いを果たす機会が舞い降りた。「英国海軍に追撃されているビスマルクを支援せよ」との命令が全Uボートに下されたのだ。
自らもフランスに向かっていたU-556は、偶然にも潜望鏡でビスマルクを追撃する空母アークロイヤルと巡洋戦艦レナウンを視認。2隻とも護衛の駆逐艦も連れていなければ、ジグザグ運動もしておらず、潜水艦乗りにとっての夢の様な状況で、騎士十字勲章も授かった
U-556は一ヶ月に及ぶ船団襲撃任務を終えてまさにその帰投中。艦船6隻を撃沈したばかりの同艦には魚雷が一本も残っておらず、最後の一本も「もっと大物の為に残しておくべきだ」と言う部下の意見を退けはぐれ者の小船に使ってしまっていた。
発射管のすぐ先を通り過ぎて行く特大の獲物が、自らの忠誠を誓ったレディを攻撃しに行くのを、U-556はただ眺めやる事しか出来なかった。
そして、ここで取り逃した空母アークロイヤルの攻撃隊が、貴婦人の運命を決める魚雷を放つ事となってしまった。
-それでもU-556はビスマルクに追いすがり、その第4駆逐隊との戦いを目撃。艦長は日誌に「照明弾の発射も、ビスマルクの砲火も見える。こんなに近くにいるのに何の手助けも出来ない、酷い気分だ」と記している。
せめて出来るだけのことはしようと、ひたすら触接を続行。味方の誘導のために位置情報を報告し続けたが、帰投分の燃料すら尽きかけたため、友軍潜水艦(U-74)に後を託して泣く泣く海域を離脱。
これが貴婦人と忠誠を誓った騎士の永遠の別れとなってしまった。
-5月27日早朝、カタパルト故障のため戦闘日誌を運ぶ艦載機を射出できなくなったビスマルクは、西部管区司令部に対し潜水艦を派遣するよう依頼している。
これを受けて27日午前7時から午前8時にかけてU-556に「ビスマルクの戦闘日誌を受領せよ」という命令が出された…のだが。
この時U-556は海域を既に離脱した後。しかも燃料節約の為に水中航行中で、正午に再浮上するまでその命令を受信できなかった。命令受信後、U-556は即座に「その任務、U-74に移譲してくれ!」と主張したが、時既に遅し。
ビスマルクは10時39分に沈んだ後。U-74の合流は間に合わず、同艦が回収できていたのはビスマルクの沈没音とその生存者3名だけだった。
-ビスマルク艦長に授与されるはずだった騎士十字章は未亡人に渡された。U-556艦長は友人であったビスマルク艦長と共にそれを授かるという願いと、貴婦人を守ると言うU-556の誓いを果たす機会の両方を失った。
--余談だが、艦隊司令官リュッチェンス提督の無電による推挙により、5月27日未明にフッド撃沈の功労者、ビスマルク砲術長アーダルベルト・シュナイダー中佐に騎士十字章が授与されている。シュナイダー中佐が艦と運命をともにする直前のことである。
}}
#fold(''日本海軍の所有していたドイツ製巡洋艦''){{
''日本海軍の所有していたドイツ製巡洋艦''
-ドイツのフルカン・シュテッティン社製の装甲巡洋艦「八雲」。
六六艦隊計画の主力艦として日本海軍がドイツに発注した唯一の軍艦であり、明治33年(1900年)に竣工した。
艦娘たちの大先輩であり、%%おばさま?%%金剛とは11歳違い。
--ドイツに発注されたのはイギリスに艦艇発注を集中させないための政治的な配慮から。同様に六六艦隊計画で建造された装甲巡洋艦「吾妻」もフランス製。
-20センチ砲4門速力20ノットを誇る戦艦に次ぐ攻撃力と高速で航続力を持つ装甲巡洋艦である。
-日露戦争では第2艦隊に所属し黄海海戦、日本海海戦に参加。
第1次大戦では青島攻略戦に参加しインドネシア方面の通商保護・警備任務を行う。
その後は長期遠洋航海の実習船となる。
太平洋戦争では高角砲や機銃を設置した浮き砲台として使われ、終戦まで生き延びている。
戦後は特別輸送船として復員輸送に従事。昭和22年(1947年)に舞鶴港にて解体される。
-なお、解体の際に取り外されたドイツ製の調度品は、拿捕艦である雑役船「阿多田」(元中華民国砲艦逸仙)の中華民国返還にあたっての軍艦への復旧工事の際の内装として再利用されている。
--竣工当時の色は白だったが明治34年より黒色に。
--兵装はイギリス・アームストロングのエルジック製。規格統一と効率化のため。
-太平洋戦争を生き延びた日露戦争参加艦は「浅間」や「敷島」などが存在したが、いずれも航行は不能であり、「八雲」は唯一航行可能状態にあった艦であった。
-この他日本海軍のドイツ製の軍艦では、日清戦争の戦利艦として接収された戦艦「鎮遠(同じくフルカン・シュテッティン製)」や、シーヒャウ社で製造された蒸気水雷艇などがある。
}}
*この艦娘についてのコメント [#k33a32a9]
#fold(過去ログ){{
#ls(Bismarck)
}}
//&color(Red){''過去ログ化作業中''};
#pcomment(./コメント7,reply,15)
終了行:
|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.171|
|&attachref(./171_2nd.jpg,nolink,私はビスマルク型戦艦のネームシップ、ビスマルク。よおく覚えておくのよ。);|>|Bismarck&nobr{(ビスマルク)};|>|Bismarck級 &nobr{1番艦 戦艦};|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|90|~火力|64 / 88|
|~|~装甲|67 / 83|~雷装|0|
|~|~回避|33 / 63|~対空|18 / 48|
|~|~搭載|16|~対潜|0|
|~|~速力|高速|~索敵|16 / 42|
|~|~射程|長|~運|8 / 69|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|90|~弾薬|110|
|~|~搭載|>|>|~装備|
|~|4|>|>|[[38cm連装砲]]|
|~|4|>|>|[[15cm連装副砲]]|
|~|4|>|>|未装備|
|~|4|>|>|未装備|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''Bismarck'' → [[Bismarck改]](Lv30) → [[Bismarck zwei]](Lv50+[[改装設計図>改造#blueprint]]) → [[Bismarck drei]](Lv75+[[改装設計図>改造#blueprint]])|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:ドイツの誇るビスマルク級超弩級戦艦のネームシップ、それが私よ。&br;ドイツらしい重厚かつ美しいデザインでしょう?いいのよ、もっと褒めても。&br;この海でも縦横無尽に活躍するわ。期待しなさい!|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:遠藤綾、イラストレーター:島田フミカネ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:遠藤綾、イラストレーター:島田フミカネ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>Bismarck/定型ボイス]])
#table_edit(Bismarck/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>Bismarck/時報ボイス]])
#table_edit(Bismarck/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>Bismarck/季節ボイス]])
#table_edit(Bismarck/季節ボイス)
~
}}
* ゲームにおいて [#game]
-2014年3月14日のアップデートと共に実装された、初の海外艦の1隻。同時実装されたのは他に、[[Z1]]と[[Z3]]。
-入手方法は海外艦([[Z1]])と邂逅後「ある条件下」における【[[大型艦/新型艦建造>大型艦建造]]】で入手可能。現在の所、他に常設での入手方法はない。
--一応正確な条件としてはZ1orZ3を秘書艦にして大型建造のみで入手可能。
なお建造時間は5時間と長門型と同様。
---[[Prinz Eugen]]・[[U-511]](呂500)・[[Graf Zeppelin]]を旗艦にして建造できるかは要検証だが建造報告自体が乏しく、期待できない模様。
またBismarck旗艦での2隻目建造も同じく期待できない模様。
--有志により、『[[捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(後篇)]]』のE-7のボスでドロップが確認された。ドロップが確認された例は初めて。
更に、かのライン演習作戦がモチーフになった『[[抜錨!連合艦隊、西へ!]]』のE-5でもドロップ報告が上がっている。
-実装直後は[[Bismarck改]]までしか改造できなかったが、「[[さらなる改装も用意しています>https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/444348326985486336]]」と言うアナウンスもされていた。
その後、2014/4/23のアップデートで[[Bismarck zwei]]、2014/9/26のアップデートで[[Bismarck drei]]が実装された。
--「zwei」(ツヴァイ)は2、「drei」(ドライ)は3を表すドイツ語であるため、それぞれを「改二」「改三」と呼ぶこともある。
&br;
-[[金剛]]型と比較すると、未改造でもスロットが4つ、耐久は二回り、装甲は一回りほど優秀だが、対空はかなり低い。その他の性能や燃費は若干劣る。
--速力:高速、入渠時間の倍率、フィットする主砲の口径などが金剛型と共通している。
---高い耐久のため、深手を負うと修理鋼材や入渠時間が嵩みやすい。
---耐久の高さにより小破判定の範囲が大きく、修理時間倍率が1.5と控えめのため[[明石]]を最も有効に活用できる艦娘のひとり。ただし耐久が多いほどカスダメも大きくなるので一長一短。
--なお、Bismarck zweiまでは金剛型と比べていろいろ劣る面があるが、唯一の改三戦艦であるBismarck dreiになると性能が大幅に向上する。&color(Silver){その代わり燃費は大幅に悪化するが…。};
&br;
-レアリティは[[大井改二]]などと同じSホロ。詳細は[[艦船/レアリティ]],[[レアリティ]]のページにて。
**キャラクター設定について [#character]
-提督たちからの愛称は色々あるが、最近は「ビス子」と呼ばれることが多い。&color(Silver){乳酸菌たっぷりのクリームサンドビスケットとは何の関係もないので注意。};
-カードイラストではあまり気にならないが、執務室での存在感は[[扶桑]]を上回るかもしれない。
-一人称は「私」、提督のことは「提督」と呼ぶ。
-性格は自信家。ナルシストの気があり、わざわざ褒められにくる。ただ構って欲しい願望もあるようで、わがままでツンデレ気味な一面も多々見られる。ただ、補給や入渠でお礼や謝罪をしていることから素直な面もある。
-小破時の「忌々しい複葉機」はSwordfishだと思われる。相当に嫌な思い出のようだ。
--Ark Royalの時報で、トラウマなのかアプローチを仕掛けてきただけの彼女から逃げている所を再びSwordfishで追撃されてしまった模様。その場に居合わせたVictoriousに援護してもらい、なんとか逃げ切っている。
-Prinz Eugenからはお姉さまと言われて、非常に慕われている。
-時報では、食事の三食を提督に用意させている。割とやりたい放題。ちなみにクリスマスでもプレゼントをねだっており、ご馳走を食べ過ぎて、U-511から突っ込まれている。
--大和や金剛、長門にも興味を示し、その能力を計ろうとしている。
--21時の「ブリッジが高いあの姉妹」は扶桑姉妹と思われる。
--恐らくだが、台詞の雰囲気からして秘書艦としての業務はちゃんとこなしている様子。
*小ネタ [#neta]
//小ネタの文章量と注釈の数が増えすぎる傾向があります。編集者諸兄に置かれましては、気持ち少なめでお願いします。
-新生ドイツ海軍が送り出した超弩級戦艦ビスマルク級1番艦。
--ヴェルサイユ条約を再軍備宣言で破棄して、[http://www.navweaps.com/index_tech/tech-089_Anglo_German_Agreement_1935.htm 英独海軍協定(Anglo-German Navy Agreement)]((詳細はリンク先を。簡単に言うとドイツはイギリスの35%の保有枠を認めて貰った。実
ドイツ第三帝国最初で、そして最後の超弩級戦艦である。
---前級のシャルンホルスト級戦艦(未実装)はもともと旧式戦艦代替の装甲艦(通称ポケット戦艦)から発展し、上記協定で大型化を事後承諾された艦なので、戦艦としては色々と不満足。本艦こそがドイツ新戦艦のスタンダードとなる、筈だった。
---協定に従えばティルピッツに加えて、あともう1隻で保有枠がいっぱいになる予定だったが、有名な「Z計画」によってこの協定もまた破棄される。
そして起工されたのが、16inch砲(約41cm)搭載のH級戦艦。後日さらに%%暴走%%発展していき、ついには20inch砲(約51cm)、14万トンの化け物戦艦H44にまで至る。これらの未成戦艦全てがビスマルクをタイプシップとしたものだった。
---設計が固まる前に終戦を迎えたため非公式プランで終わってしまったが、H45もある。80cm主砲8門、24cm副砲12門、64万トン。もはや''軍艦と呼ぶのもおこがましい非常識性能''。
---ただしこれらは起工に至ったH41を除けばほぼ全て「研究の為の研究」レベルの作業でしかなく、設計者達は世界最強戦艦を夢見る事が出来ただろうが結果として後世に何かを残す事もなく、本気で無意味な作業でしかなかった事には留意すべきだろう。
何しろドイツ海軍が根拠地とする軍港では設備や深さからH41ですら運用限界ギリギリなのである。
--本級に限らず、ドイツ戦艦は通商破壊戦に投入するための軍艦と一般に理解されているが、これは少なくとも設計・構想の観点からは誤解である。彼女らの任務はバルト海や北海の制海権獲得であり、当初の仮想敵はポーランドや北欧諸国とソ連といったところ。具
---これら仮想敵を相手にドイツ戦艦が求められた能力は、大航続力ではなく高速巡航速力だった。少ない戦力を効率よく機動させ、1対1なら劣勢が免れない敵相手に集中して戦うための能力である((例えば有名なポケット戦艦は、単艦なら海防戦艦にやや不利、弩級
---そもそもの想定戦場が本国にごく近しいバルト海や北海なのだから、効果が出るまで時間のかかる通商破壊戦の出る幕は本来ない筈だった。しかし知られる通り、ドイツ海軍は全くの準備不足で開戦を迎えた。絶対的に劣勢な海軍に取れる道は、通商破壊しかなか
#fold(設計など){{
設計など
-設計は1934年に始まり、排水量はイギリスとの合意であった35,000トンを越え42,600トンまで増加したが、公称は当初のまま。満載排水量は50,300トンである。1940年8月竣工。
--竣工時点では世界最大の戦艦で、欧州では大戦を通じて最大であったが、後述の通りその実力は巨体に見合うものとは言えなかった。
--しかし、連合国、特にイギリスの同級に対する警戒心は強く、抑止力としては有効であった。
-本級は「新しい旧式戦艦」とも揶揄されるように、設計に古くさい部分を多々持ち合わせた艦である。
--設計の下敷きになったタイプシップは帝政ドイツ最後の超弩級戦艦バイエルン。要は第一次大戦の戦艦。
列強各国が[[ワシントン海軍軍縮条約>雑学#Washington]]に基づく大改装や技術交流、軍縮の副産物である実艦実験((例えば、[[加賀]]の戦艦時代の姉妹艦土佐も実験で沈められている。))、等で設計理論を発展させていった中、一人取り残されたドイツの哀しい現実
--特に有名なのは舷側装甲の配置要領で、各国の新戦艦が舷側装甲の''上端''から水平装甲に接続しているところ、ドイツ艦は''下端''から傾斜装甲を介して水平装甲に接続している。[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/KGV_Tirpitz_armour_and
この方式は舷側→傾斜装甲の二重防御で極めて高い耐弾力を示す一方バイタルパートの容積を圧縮してしまうため、特に機関出力が激増した新世代の高速戦艦には不都合なものであった((この方式で高速を狙うなら、リソース自体を大きくするしかない。つまり性能の
加えて艦内の重要部分が主水平装甲の上に配置されてしまうという欠点を抱えており、実際に被弾によって艦内通信網が寸断されてしまっている。
---なお装甲材質は技術立国ドイツの面目躍如たる『ヴォータン鋼』中心で装甲そのものは強固だった、らしい((英国の戦後調査では英・独の装甲材質はほぼ同等で、米国が25%程度劣るとしている。日本が大和で使ったVH鋼は戦時中の改良により強化され、英国の
---ただしヴォータン鋼は他国で言う「高張力鋼」と同種の装甲鈑である。つまり名称が違うだけでドイツ以外の国も同種の装甲鈑を製造している事に注意されたい。
しかし各所に十分な厚さを張り巡らせていたわけではなく、決して防御力が高いとはいえない((舷側装甲の最大値は320mm。しかし垂直配置であり、同レベルの厚さながら傾斜させていたフランスのリシュリューや、垂直ながら381mmもの厚さを誇るイギリスのキング・
--他にもスカスカというしかない水中防御や、(これはヨーロッパ共通の傾向だが)主砲塔装甲の薄さなど、一般に信じられている「強靱な防御のドイツ艦」というイメージとは裏腹の設計構造だった。
---ただし装甲重量は艦全体の39%にも及び、決して防御を軽視しているわけではない。むしろ列強に比べて重視していると言える。あくまでもノウハウの不足が原因で、時流に合わせた適切な配分ができなかったのだ((第二次大戦でフランスを征服した後、リシュリュ
--このノウハウの不足はWWI敗戦に起因している。ドイツはWWI時には世界第二位の海軍力を誇ったが敗戦でそのほぼ全てを喪失((WWIに敗戦した時点では相当数の艦船が残っていたが、それらの艦船が戦勝国に賠償艦として分配される事を嫌い、イギリス海軍の根拠地
-主砲には、当時フランスやイタリアで建造が進められていた新型戦艦に準じて[[38cm連装砲]]が採用された。本砲の詳細については当該記事に譲る。
--光学測距儀の精度は当時世界最高。射撃計算機の性能も素晴らしく、方位盤と合わせて射撃指揮装置の計算精度は極めて高かった。
--本艦の砲塔は第一から第四まであり、それぞれ「識別名」という個別の名前が付けられている。
第一砲塔から順に「アントン (Anton)」「ブルーノ (Bruno)」(または「ベルタ (Berta)」)「カエサル (Cäsar)((厳密に言えば「ツェーザー」。日本語読みでは言いにくいので文献上は「カエサル」が普通。))」「ドーラ (Dora)」と名付けられている((要はABCD
--ちなみに38cm連装砲4基8門、[[15cm連装副砲]]6基12門、[[10.5cm連装高角砲>10.5cm連装砲]]8基16門というレイアウトは以後のドイツ戦艦に共通するものとなる。H44でさえ主砲が巨大化した以外は同じ武装配置で設計されたのだ。
-なお姉妹艦ティルピッツは砲熕兵器の他に水上魚雷発射管(駆逐艦などに積んであるアレ)も搭載していた。
-機関出力はタービンを限界まで回して150,170馬力で、全力よりかなり抑えられた[[大和]]の定格出力(153,553馬力)より低め。
その大和が本気を出すと168,000馬力を叩き出し、ビスマルクはさらに引き離される。ただし、3軸推進(後述)のため、1軸あたりの機関出力は、大和や[[翔鶴]]よりも大きい。
また、造波抵抗を抑えるアトランティック・バウとバルバス・バウを採用し、長くスマートな艦体は''速力30.1kt''を発揮する。
--これほど高速性能を求めたのは、仮想敵のイギリス巡洋戦艦フッド、フランス戦艦ダンケルク級が33kt近い高速艦である事が大きい。彼女らに対抗するには30ktは最低ラインだったのである。
--大日本帝国海軍の艦で例えると、[[長門]]型や[[大和]]型よりも速く、[[金剛]]型並みの高速戦艦になる。現代の護衛艦と比べてもまったく引けを取らない。
--ただし、最高出力で運用すると故障が頻発するため、138,000馬力/29ノット程度が現実的な最大出力である。
--ドイツ艦は長大な航続力を持っていると思われがちだが、ビスマルクについては極端に長いわけではない。以前はそのような誤解がまかり通っていたが、近年の文献では航続力に関する限り平凡であると再評価されている。
通常積載に加え追加タンクを装備した場合には燃料8,700t(7,400tとも)を積載し、16ノットで9,280海里、19ノットで8,524海里、28ノットで4,500海里を航行することができた。同世代の欧州戦艦は、12ノット/10,000海里、20ノット/7,750海里の[[リシュリュー>Riche
---%%キングジョージⅤ世級の計画航続距離は10ノットで14,000海里だったのだが、完成してみたらご覧の有様だった。%%
---基準排水量65,000トン、満載排水量72,809トンの[[某黒鐵の浮かべる城>大和]]は、6,300tの燃料、19.2ノットの速力で8,221海里航行できることは内緒だぞ?
&color(Silver){機関出力といい航続距離といい、太平洋戦域どうなってるのよ!?};
---アメリカ戦艦は、駆逐艦などの随伴艦に給油するのが作戦運用上の前提であり、燃料タンクは最大限に大きく作られている。その代わり駆逐艦の航続距離は短い。
-エンジンは55気圧/475度のワグナー式ボイラ12基でブローム・ウント・フォス式ギヤード・タービン3基を駆動する3軸推進である。
ドイツ海軍の大型艦(戦艦、巡洋艦)は、当時世界的主流の4軸推進ではなく、3軸推進の艦が多い。操舵に気を使う狭いキール運河等を通航するのに便利だったらしい。
--[[Z1]]、[[Z3]]の項目を見ればわかるように、ワグナー缶は基本性能こそ高いが動作が不安定で、機関の信頼性はあまり高くはないと言える。
だがそれでも機関不調を頻発させた前級シャルンホルスト級に比べれば、その信頼性はずっと向上している(と言うよりシャルンホルスト級の機関が恐ろしく不安定なだけとも)。
--ちなみに、大和で28気圧、アイオワで40気圧である。
-しかし、ビスマルクの足回りには欠陥がいくつか存在した。
--一つは採用されていた3軸推進方式であり、船体の中心線上に機関部を配置するためキールが構造的に弱く、特にシャフトが外部に出る後部が脆弱となった。
--操艦特性については諸説ある。船体側面の装甲が沈降効果を発揮してローリング軸が移動し、ローリング、ピッチングも少く良好であったという説(広田厚司『ドイツ海軍入門』第7章P155より)。
両舷側のスクリューが反対向きに回転するため旋回能力が低く、舵機にも問題を生じた為さらに旋回能力は低下したという説(大久保義信『世界の軍艦コレクション』16号P4より)など意見が分かれている。
---凄まじく乱暴に補足しておくと、ローリング、ピッチングが少なかったということはヨー安定も高かった可能性があり、そうなると舵の効きは悪くなる。つまり、上2つの説は全く同じ特性の片面づつを取り上げているだけの可能性がある。
---また、計画当初は革新的技術のターボ・エレクトリック方式を採用して後進速度向上を実現しようとしたが、最終的には堅実で実績のある蒸気タービンが採用されたため、当初ほど後進速度が出せず、狭所では事故防止のため曳航が必要となった。
---特徴的なアトランティック・バウにも、欠点として艦首部の浮力低下が生じる副作用があり、荒天時では割れた波が錨鎖穴を通じて艦体前部へ降りかかるという問題が生じるなど弊害も多かった。&color(Gray){ドイツは艦首が苦手。};
-とはいうものの、当面の仮想敵であるキングジョージV世級、ダンケルク級、コロラド級、ノースカロライナ級((コロラド級、ノースカロライナ級は%%日本のせいで%%14インチ砲戦艦の計画を16インチ砲に変更したものであり、どちらも16インチ砲対応防御を満たし
--35,000トン内外に収まるこれらの艦と比較すると、ビスマルクは常備約45,000トンと重い。その原因は250メートルを超す長い艦体と、全重量の38%(資料によって異なる)に及ぶ装甲の重さにあった。
実に[[17,256トンが装甲に割り当てられている>http://www.loeffelinfo.de/modellbau/bismarck/techdata.html]]((アイオワ級は全重量の35%、17,056トンである。))。これより重い装甲が施されているのは、大和型だけである。
--水線下防御についてもビスマルクが完成した時点で本格的に対策していたのは[[長門]]型だけである。脱条約時代のキングジョージ5世級やリシュリュー級でも日本ほどは徹底していなかった。
[[長門の断面図>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6#mediaviewer/File:Nagatoarmor.svg]]。キングジョージV世でも間接防御にとどまっている艦底付近まで主装甲が伸びているのが解る。
--さらに付け加えるなら、''ビスマルクがでかくなってしまったというよりも、他国の同クラスの戦艦が無理やり小さくしていたと言った方が正しい''。つまり、ワシントン軍縮条約のためである。ドイツの戦艦にも英独海軍協定で同じ3万5千トンの制約が課せられた
この艦容は第一次世界大戦で一度海軍が壊滅しているドイツにとって、国威発揚に役立った。日本では39,000トンを超える[[長門]]型が、同じ役割を果たしている。
--また、事実海底調査で発見されたビスマルクは、詳しくは後述するが、敵の攻撃による損傷以外に自沈作業も行われた形跡があったが、実際には「何とか沈んだ」ダメージであったという。
--ビスマルクの大きさを無駄と断じることができるようになるのは1941年12月以降、つまり真珠湾攻撃とマレー沖海戦で主役が戦艦から航空機に代わってからである。
}}
~
#fold(戦歴・戦果){{
戦歴・戦果
-''【練度について】''
-ビスマルクの乗員の練度は不十分だったとされることもあるが、ライン演習作戦直前の「戦時日誌」(後述)の記述を見る限り、少なくともリンデマン艦長を満足させるだけの域には達していた。
--就役前の40年6月頃から各種の訓練が開始。40年10月半ば、訓練を視察したリンデマンは乗員の達成度を評価している。40年12月9日から艦はハンブルクで最終工事に入った。
--最終工事は41年1月24日までに終了したが、キール運河の閉塞や厳冬の影響で缶室に異常を来したことなどにより、結果的に3月6日までハンブルクを離れることが出来なかった。
---この時期、厳冬のため訓練が行えなかった、とされることがあるが誤り。外気温が-15度に達して缶室に問題を起こした当の1月27日にも訓練は行われている。
--その後、海軍司令部が当初よりも3~4週間作戦計画を早めたため、リンデマンは、新たに訓練の終了期限を4月末と定めている(「戦時日誌」3月19日)。
---この頃かなり激しく訓練が行われていたことは「間近に迫った任務のため、時間はまったくすべて艦の訓練に利用しつくされた」(「戦時日誌」41年4月1日-15日)とリンデマンが述べていることからも分かる。
--3月6日にハンブルクを出港した後、キールへの入渠を経て対艦対空射撃訓練などが集中的に行われた。ただし、本格的な洋上訓練が実施できたのは前年のテスト中(40年11月)を除けば4月からである。洋上での燃料補給、第25Uボート戦隊、プリンツ・オイゲン、リ
-これらの訓練の結果をリンデマンは次のように評している。
--「乗員の練度は、平時における主力艦の演習への準備状態と比べても遜色のない域に達している。少数の者をのぞいて乗員のほとんどに実戦の経験はないが、来るべき戦闘にむけても私には特に不安はない。彼らなら実戦を苦もなくやり遂げてくれるだろう。ここに
---一部では、1941年4月28日の戦時日誌にリンデマン艦長の手によって「ビスマルクの乗員は敵より練度で劣っている」と書かれているとされていた。
---対空射撃訓練は計90分前後しか出来ず、マニュアルも充分な数が供給されなかったという。
~
~
-''【ライン演習作戦】''
-1941年5月18日、重巡[[プリンツ・オイゲン>Prinz Eugen]]((「アドミラル・ヒッパー」級重巡の3番艦。様々な作戦を乗り越え終戦まで生き延びた幸運艦。敗戦後はビキニ諸島に移動させられるが、長門や酒匂を沈めたあの光にすら耐えて最期まで意地を見せた。))
これがビスマルクにとって最初で最後の作戦となった。
--18日夜、諜報員の情報を元に出撃した英空軍偵察機にノルウェーで停泊中を発見され位置を報告される。
--しかし姿をくらましたため、21日、スカパーフローに停泊していた英本国艦隊:巡戦フッド、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、キングジョージ5世、空母[[ヴィクトリアス>Victorious]]らが大西洋進出を阻止すべく出撃を開始。
---同年1月には、戦艦シャルンホルスト・グナイゼナウの2隻で同様の通商破壊作戦「ベルリン作戦」を行っている。
今作戦と同じリュッチェンス提督の指揮下で出撃し、それまでにもポケット戦艦による通商破壊に苦しんでいた英側も同じトーヴィー提督が本国艦隊(戦艦3隻含む22隻)を迎撃に向かわせたが、二隻はこれを躱しビスマルク達同様のルートで大西洋に進出。
二ヶ月で計約5万tを水底に叩きこみ、総計22隻11万5千tを拿捕・撃沈した。
---今作戦はシャルンホルストはまだ修理中で、グナイゼナウは参加予定だったが直前の爆撃によりドック入り、ティルピッツもまだ訓練中だった為、延期も検討されたが諸々の情勢と気候を鑑みてビスマルクとプリンツ・オイゲンの二隻での出撃となった。シャルン
---尚、道中でイギリス艦隊2隻に捕捉された際に、牽制射撃で主砲を発射した際 自身の砲撃の衝撃でレーダーを破損している。
-''【デンマーク海峡海戦】''
--23日午後7時22分、ノルウェー海を渡りグリーンランドに達し、アイスランドとの間:デンマーク海峡を通過していた両艦を張っていたイギリスの哨戒部隊重巡2隻(「ノーフォーク」、「サフォーク」,ウォーク少将指揮)が発見、追尾する。
この情報を元に、英海軍の象徴「マイティ・フッド」こと世界最大最強の巡洋戦艦フッド((ワシントン条約の例外で、ビスマルク竣工まで20年以上世界最大の軍艦であった。全長は大和と僅か1m差。当時世界一有名な戦艦であり、「マイティ(強大な)・フッド」の愛称の
--翌24日、グリーンランド沖でイギリス艦隊が先にドイツ艦隊を発見、先制攻撃を加えた。&color(Gray){英艦隊はT字戦法に持ち込む事を企図していたが、25~17km程でほぼ並走する同航戦となってしまい、巡戦の弱点を長時間さらす事となった。また、英艦隊ははじ
--ドイツ艦隊はフッドに対して集中砲火を加え、第三斉射で夾叉(射撃指揮所に命中説もある)、海戦勃発から約8分後の第五斉射がフッドの後部弾薬庫を直撃((ユトランド海戦での戦訓を顧みず、雑に積み上げてた副砲弾薬に引火・誘爆の末に轟沈した説もある。))
同日午前6時37分、同艦は艦隊司令部を道連れに''一瞬のうちに文字通り爆沈''した。((巨大な火柱を噴き上げ大爆発し船体が二つに折れ轟沈。乗組員約1,400名のうち生存者はわずか3名のみであった。)) この間僅か12分。おい、ホントに初陣かよ。
その後のドイツ艦隊の集中砲火により艦橋等に被弾し艦長以外の艦首脳部もほぼ全滅していたPoWは、主砲の故障が決め手となって撤退した。&color(Silver){就役したばかりで公試前の戦艦を引っ張りだすとか無茶だろ・・・。まぁKG5級の主砲は故障多発なのは内緒
---撤退したPoWは哨戒部隊と共に重巡のレーダーを頼りに友軍誘導の為にビスマルクを追尾、触接を保った。
---撃沈された巡戦フッドだが、全長は大和と僅か1m差で当時最大、排水量もビスマルクが偽っていた為に公称では世界最大、戦歴もメルセルケビール海戦で共同で仏戦艦3隻撃破など十分と、まさに英海軍の象徴であった。それが一瞬で喪われたと言うニュースはすぐ
---この結果ビスマルクは自身の誕生まで世界最大を誇っていた同艦種を撃沈するという先代殺しの偉業を成し遂げたわけだが、このような事例は戦艦以外も含む軍艦史上でも異例中の異例であり、少なくとも第二次世界大戦で唯一の事例である。
---プリンツ・オイゲンの撮影した撃沈の瞬間が[[こちら>https://www.youtube.com/watch?v=hU76vVM6lWY]]。
--海軍切っての砲術の権威であるビスマルクのリンデマン艦長はPoW撃沈を確信し追撃を繰り返し主張したが、リュッチェンス提督((ギュンター・リュッチェンス大将。ナチス嫌いで、総統の前でも海軍式の敬礼で通すなどしていた。特に海軍はナチスと距離を置く気
またビスマルクも損傷し、特にタンク損傷で深刻な燃料不足に陥った為、作戦を中断。僚艦プリンツ・オイゲンと分かれて大西洋を渡りドイツ占領下のフランスへ直行しようとした。((プリンツ・オイゲンはこの後無事帰還し、上記の通り戦後まで生き延びた。))
-''【ビスマルク追撃戦】''
--しかし、復讐に燃える英国海軍が''大西洋で使用可能な全ての軍艦(戦艦7隻正規空母2隻含む&color(Blue){総計47隻};)を動員して''((包囲網を敷く為、本国艦隊で船団護衛についていた戦艦3隻も船団を放置して呼び戻し、地中海艦隊からも戦艦1隻・空母1隻を呼
---あえて日本に置き換えるなら(実際の戦力は異なるが)、海軍の象徴長門と最新鋭艦武蔵で迎撃に出たら一瞬で撃沈&大破され返り討ちにされた様なものである。英国がブチ切れるのもそりゃ仕方ない。
---異様な動員数だが、海軍大国の総力戦にしては少なく感じる。これは英国が地中海艦隊・東洋艦隊など世界各地にその戦力を分散していたから。
---ちなみに正規空母2隻と言えば聞こえはいいが、ヴィクトリアスは就役してまだ1か月で艦載機は15機しかなかったりする。%%PoWに続きまたか%%((全機発艦した攻撃機に至ってはたったの9機。とは言え装甲空母故に元から軽空母並みの36機が限度だったりする。%%
--同24日の豪雨の夜、装甲空母[[ヴィクトリアス>Victorious]]航空隊が出撃。荒天の夜間に唯一攻撃可能だった%%布張りで時代遅れ感が半端ないが英国の主力であり続けた傑作複葉雷撃機、ザ・英国面%%ソードフィッシュ艦攻隊((複葉機だがレーダー搭載。布張り故
25日午前3時2分、大回頭によりPoWらのレーダー探知圏を脱し、その速力を活かし触接を振り切る。
しかし26日午前10時30分、捜索にあたっていた飛行艇に発見されるも、追尾していた本国艦隊では追い付けない為、地中海艦隊から巡洋戦艦レナウンと共に駆け付けていた正規空母[[アークロイヤル>Ark Royal]]((ヴィクトリアス等イラストリアス級のプロトタイプ的
&color(Silver){だが、第一次攻撃隊は追尾していた[[味方の英軽巡>Sheffield]]を誤認し攻撃してしまった。};
夜になり再度準備を整えた空母アークロイヤルの第二次攻撃隊のソードフィッシュ艦攻隊がビスマルクに襲来。
---当たった魚雷は2本。うち左舷中央に命中した魚雷はわずかに浸水させたのみだが、別の魚雷が不運にも偶然ビスマルクのスクリューと舵機室を破壊。舵が固定されてしまい、速度低下・操舵不能となった。((操舵不能となる事態は恐ろしく、[[比叡]]を舵故障で喪
逃げ切れるはずだったその足を止められてしまい、''実質、この一発がビスマルクの運命を決めてしまった''
---フランスを前にして大西洋で足を止められてしまった事により、救援に向かっていたドイツ空軍・潜水艦隊の攻撃圏内にも入れなかった。
---中破時のセリフはこれが元ネタであろう。
---ソードフィッシュ迎撃の際、ビスマルクは攻撃機の進入速度に合わせて砲弾が至近距離で炸裂する当時最新式の対空砲で迎撃した。ところが、旧式な布張り複葉機ソードフィッシュの進入速度が対空砲の入力下限をさらに下回る低速だったため、ビスマルクの放っ
--26日深夜には、船団護衛の任を捨て駆けつけ、触接を保ち足止めする為に戦艦に戦いを挑んだ第4駆逐隊トライバル級駆逐艦5隻((余談だが、旗艦駆逐艦のコサックは過去に捕虜輸送中の独タンカーのラム(電)アタックを回避し接舷、乗り込んでの白兵戦により捕虜救
&color(Gray){攻撃側である英兵達は、かくも堂々たる強大な軍艦が無残に痛めつけられいく様を見ているのが辛かったと証言したほか、司令長官トーヴィでさえ、『あの船には、乗っていたくないな』と幕僚に零したという};
それでも辛うじて浮かんではいたのだが、((この段階で自沈命令が出たらしく、「ビスマルクは撃沈されたのではなく自沈したのだ」と言う主張の根拠となっている。2002年、ジェームズ・キャメロン監督のチームが実施した残骸調査では英軍の魚雷の破孔が水密区画
&color(Gray){艦長は砲撃戦を生き延びたが、沈没の際に艦首で敬礼しつつ海中に没した};
''英海軍の総力を挙げた4日間に及ぶ[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0a/Rheinuebung_Karte2.png 追撃戦]''は、こうして決着した。%%ロイヤルネイビーの本気を見るのです!%%
~
--ちなみにこれ''太平洋戦争開戦前''である。真珠湾攻撃はこの半年後。
---しかしここで熱くなりすぎたイギリスは、日本の参戦が迫っているというのに東洋艦隊にまわす予備兵力を失ってしまった。何とかまわしたPowだがビスマルクとの交戦の傷が癒えきっていなかったという。
結果、フィリップス提督はなんだか動きの怪しい新型戦艦と紙装甲の巡洋戦艦、それに後は捨てるだけという旧式化した巡洋艦と駆逐艦(厳密には既に第一線の用途からはずされていた)で、日本海軍に挑まされるのである。
こんな無理ゲーが攻略できるはずもなく、日本軍の航空攻撃によってPoWは僚艦1隻と提督と共に、開戦早々沈むこととなる。
&color(Silver){そして日本には「敵東洋艦隊壊滅の歌」として「開戦三日目にこの戦果ぞ」やら「奢れるイギリス」やらと好き放題歌われることになった。};
~
~
-建造にあたって国威発揚のために大宣伝を行い、また、ドイツの科学力や知識の粋を集めた戦艦だったため、沈没によってドイツ海軍は物心共に多大な損害を受けた。
--艦娘としての運は、初陣での戦没と舵機室への不運すぎる一発などで若干不運寄りとされている模様である。
だが''第二次世界大戦で最も活躍した戦艦のひとつでもある''のも事実である。
---なお、最後の海戦の被害からもっとも耐えた艦と考える人もいるが、大戦初期と後期では攻撃兵器の技術進歩が著しい為、一概にそうとは言えない(それでも凄い事には変わりないが)。
--しかしこのビスマルク一隻に全英海軍が翻弄された経験から、''「北海の孤独な女王」''こと同型艦''ティルピッツ''は大いに警戒され、実際の出撃は少ないながら現存艦隊((温存した艦隊の潜在的能力で、敵海上活動を妨害し戦力を吸収する。))として援ソ船団の障
---連合軍はソ連に援助物資輸送船団を送っていたが、ティルピッツの影とUボート・爆撃に怯え延期を繰り返し''外交問題にまで発展''している。
中でもPQ17船団は、ティルピッツや重巡洋艦を含むドイツ艦隊出撃の''『誤報』''に際し、護衛部隊(重巡5隻、駆逐10隻など)には勝ち目がなく警戒部隊(戦艦デューク・オブ・ヨーク、ワシントン、空母ヴィクトリアス、他重・軽・駆逐艦17隻)は迎撃に間に合わない
---このティルピッツに対して英国は20回以上の攻撃作戦を実行するが、対空砲火やティルピッツの堅牢な装甲の前に悉く失敗。((いずれの作戦でもまとまった戦力を投入せず、散発的な攻撃に終始したのが失敗の要因。例えば2回実行された航空攻撃で投入された戦力
-またビスマルク撃沈の功労者である空母アークロイヤルは真珠湾の直前の1941年11月13日潜水艦U-81の雷撃を受け、翌14日力尽き横転沈没した。
[[赤城]]・[[加賀]]・レキシントン・サラトガと並びビッグ5((このビッグ5の内、終戦まで生き残れたのはサラトガだけであった。そのサラトガも長門や酒匂、プリンツ・オイゲンと共にビキニ環礁で核の閃光の中に消え去る。なお追撃戦の彼女の僚艦ヴィクトリアス
}}
-''欧州最大の戦艦''であり、短いながらも''WWII有数のド派手な戦歴''から日本人にとっての大和同様に世界では知名度・人気共に非常に高い。
-その『初陣で英海軍の象徴であった当時世界第二位の巨艦を撃沈』し、『海軍大国のほぼ全兵力との大追撃戦』を演じ、『撃破に戦艦・重巡からの数百発の命中弾を要した』という頑強さを示したというその特異な戦果・戦歴と、その戦歴・イメージに反し設計には
--ディスカバリーチャンネル「軍艦トップ10」ではビスマルク級戦艦が第7位にランクインされている。
---このランキングだが、「カタログスペック」よりも「実際に役に立ったか」が明確に重視されており、カタログスペックでは戦艦としては最高傑作級であった[[大和]]などはランクインしていない。((ランキングは;1位アイオワ級戦艦、2位ニミッツ級空母、3位ク
その中にランクインしたビスマルク級の戦術的・戦略的評価が欧米の専門家の間でも高く評価されている証左と言えるだろう。
-ビスマルクは現在フランス・ブレスト沖の4,700mの海底に眠っており、1989年にロバート・バラード((タイタニック号を発見した事で有名な海洋考古学者。[[霧島]]や[[綾波]]も彼の調査で発見された。))が発見した。
なおタイタニック号の沈没地点を公表したために遺品が持ち去られたことを鑑み、発見者であるバラードは正確な場所を公表してはいない。
--だが後に映画監督ジェームズ・キャメロンによる調査・報告ドキュメンタリーが作成された。
このドキュメンタリーはソフト化されているため、興味のある提督諸氏は観てみるのも良いかも。
-艦名の由来は泣く子も黙る鉄血宰相ビスマルク侯爵。本名Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen(オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン)。
--このドイツ史上最も偉大な宰相の孫娘その人が進水式でビスマルクにその洗礼名を授けた。進水式の盛り上がりの頂点は、総統などが現れた時ではなく彼女が登場した時であった。ビスマルクの名がドイツ国民にとっていかに重要なものだったかを示すエピソードと
--日本の軍艦と違い、人名が由来となっている。これはむしろ艦名基準に人名以外から取る事、と決められた日本の基準が異例的((実際、師匠とも言える英国から「お前らは艦名でハイクでも詠むつもりか(意訳)」と呆れられた))なもので、海外に目を向ければ、人
--ニューギニア島北東に鉄血宰相ビスマルク侯爵から名前を取った「ビスマルク海」および「ビスマルク諸島」という場所がある。
この海域はかつて「ダンピールの悲劇」と呼ばれた『ビスマルク海海戦』が行われた場所である。この海戦の詳細は[[白雪]]・[[朝潮]]・[[時津風]]のページを参照するといいだろう。
--「ビスマルク」としては2代目。
初代は1877年進水・1878年竣工のコルベット、ビスマルク級のネームシップで、第一次世界大戦後の1920年に廃艦となっていた。
---似た名前で「フュルスト・ビスマルク(Fürst Bismarck)」という艦がある。フュルストは侯爵の意味で、ビスマルク候爵、すなわち同一人物(鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク)に因んだ艦名である。
こちらは軍艦としては2回(1897年進水・1900年竣工の装甲巡洋艦と、計画だけで未成に終わったマッケンゼン級巡洋戦艦4番艦)、商船として2回使われている。
---ちなみに、上記の「ビスマルク海」に因んだ軍艦も存在する。アメリカ海軍の護衛空母「ビスマーク・シー(Bismarck Sea)」である。
1944年に進水し、1945年に硫黄島沖で日本軍航空機の特攻を受けて沈没した。
-[[Prinz Eugen]]の左肩に描かれているのと同様に、ドイツ艦であるビスマルクには[[艦の紋章:http://kancolle.x0.com/image/99136.jpg]]がある。これは艦名の由来であるオットー・フォン・ビスマルクの[[ビスマルク家の紋章:http://kancolle.x0.com/image/991
--この様にドイツ海軍の艦艇はそれぞれに艦ごとの紋章があり、艦名の由来となっている人物・都市などの紋章が元になっている。他の艦の紋章も見てみたい人は[[こちらへ:http://www.shipbucket.com/forums/viewtopic.php?f=22&t=3084]]
~
-以下、ビスマルクに関する逸話。
#fold(''ビスマルクの幸運の黒猫の逸話''){{
''ビスマルクの幸運の黒猫の逸話''
-配備されたビスマルクにある日、黒猫が着任(?)する。
黒猫といっても口元から胸元までが白く、まるでマスクを被ったような猫だった。
愛嬌のある顔で乗員達には可愛がられ、当時のビスマルクの宣伝にはこの猫も紹介されており、割と知られていた。
[[この猫の肖像画>http://www.battleshipbismarck.info/images/oscar1.JPG]]
--%%%''[[最初の飼い主>Bismarck]]がこの猫に与えた名前は今日知られていない''。%%%
---当のドイツ人はこの猫を「&ruby(船猫){Schiffskatze};」とか「&ruby(ビスマルクの船端猫){Bordkatze der Bismarck};」と呼んでいる。
--ネズミ捕り水兵とかマスコットと云われているが、この猫の出自や採用の経緯はよく分かっていない。水兵であったかも定かでは無い。
---ちなみに動物を兵士に任命したり階級を与えるのは広報やジョークの一種という面もあるが、本質は自他国の法令における動物の防疫規定(を名目にした規制当局の妨害)を「人間に準ずる兵士」として回避するため(例:[[Google:兵隊クマ]])である。
-そしてビスマルクは1941年5月27日にイギリス海軍総力での猛攻で、ほとんどの乗員と共に沈没。
ビスマルク追撃戦に参加していたイギリス海軍の駆逐艦コサックが、漂うビスマルクの残骸の上に一匹の猫を発見し、救助する。
コサックの乗員は、「こいつはビスマルクのマスコット猫じゃないか!」と猫を見て驚いた。
激しい戦火の中を無傷で生き残り救助された猫の運をあやかろうと、ネズミ捕り係兼マスコットとして駆逐艦コサックは猫に「オスカー」と名付け、飼うことになる。
%%ここからオスカーの復讐が始まる。%%
-そのイギリス海軍駆逐艦コサックは、その5ヵ月後の1941年10月24日にドイツ潜水艦の雷撃を受けて2日後に沈没する。オスカーは運良く退艦出来た一団に連れ出されていて生き残った。
-その後、オスカーはジブラルタル基地にて、ビスマルクの舵を壊した空母[[アーク・ロイヤル>Ark Royal]]に着任することになる。が、3週間後の1941年11月13日に同艦もドイツ潜水艦の雷撃により沈没する。
そしてオスカーは、またしても残骸の上で漂っているところを随伴するL級駆逐艦ライトニングに救助され、L級駆逐艦リージョンに乗って基地に戻る(この二隻も後に沈むことになる)。
-オスカーを乗せた艦が全て沈むので、流石にイギリス海軍も%%何あの猫怖い%%慎重になり、ジブラルタルの基地に降ろされ地上勤務になる。
基地ではネズミ捕りの名人として活躍し、三度生還するほどの幸運を持っているという事も含めて、(改名されたオスカーの名前がサムなので)”不沈のサム”と言われ可愛がられていた。
戦後、「不沈と呼ばれるくらいだから大丈夫」と寄港していた輸送船とともにベルファスト海軍基地に移動する事になる。何事もなく船は無事に到着し、預けられた基地で穏やかに余生を過ごした。
そして1955年に、黒猫オスカー水兵は共に戦った戦友達の所へ旅立った。
-不沈猫と呼ばれているが、不沈なのはオスカー君本人だけで、オスカー君が乗った軍艦は全て沈んでいるのである。(オスカー君を乗せて沈まなかったのは非軍籍の貨物船だけだった)。
-アークロイヤルが雷撃された11月13日は、第二次世界大戦の各国海軍においては変なジンクスの残る日となった。
--翌1942年11月13日。あの[[ソロモンの悪夢>夕立]]のワンマンショー開催。
--1944年11月13日。[[木曾]]マニラ湾で大破着底。しかし物理的な撃沈には至らず、のちに戦没判定を受けるも戦後浮揚され解体された。
-
~つまり連合軍にとってケチのつく日だったのである。
当日の夕立乗員の異常なハイテンションと言い、とうとう沈められなかった木曾と言い、オスカー君からなんか授かっていたのかもしれない。
-但し、「不沈猫オスカー」の伝説は作り話?とも言われている。
--関係する各艦の乗組員は誰もその存在を知らない。
--確実にそうだ、とされる写真が一枚もない(現在伝わっている猫の絵は全て別の猫が元)
-
~以上が理由となっている。
-ちなみに太平洋戦争でオスカーと言えば、陸軍の中島一式戦闘機『隼』の連合軍コードネームである。零戦に比べて火力では劣るものの、硬いわ高速でも機動性に優れるわ、イヤな相手だったといわれる。
--また英軍がオスカー君につけたサムは[[烈風>試製烈風 後期型]]の連合軍コードネームであるが……%%まったくロイヤルネイビーってのはやることなすこと、なんかひとつ間が抜けてんだよな。%%
}}
#fold(''忠誠を誓った騎士U-556の話''){{
''忠誠を誓った騎士U-556の話''
-ビスマルクが公試の後に改修と調整のため、ハンブルクに戻った時、並んで繋留されていたのが同じ造船所で生まれたVIIC型((7C型、[[U-511]]の該当するIX型より小型の艦。))潜水艦U-556であった。
U-556はその艤装作業の間中ビスマルクの軍楽隊の練習を聴かされ、就役式をあの軍楽隊に演奏して貰って祝えたら、と誰もが思うようになっていた。
しかし断られては困るので、艦長達が知恵を絞り腕をふるってつくり上げたのが、中世の騎士の特定のレディに対する誓いにならって、壮麗なるビスマルクに身命を賭して尽くすという宣誓状だ。
それは自らもパーツィファル(アーサー王伝説に登場する騎士、パーシヴァル)とあだ名されたヴォールファールト艦長((極めて余談だが、彼の出身地はなんと日本の石川県金沢市。))が、騎士の姿でビスマルクに襲いかかる魚雷や航空機を防ぎ、あまつさえ小さなU-
「我らU556(500トン)一同はここに大洋、海、湖、河、小川、池および細流の支配者たるネプチューンに、我らの兄、戦艦ビスマルク(42,000トン)を水上、水中、陸上および空中でどのような状況下でも助けようと望むことを宣言する。ハンブルク、1941年1月28日
ビスマルク艦長は大笑いしてこれを受け取り、[[これ>http://en.wikipedia.org/wiki/File:Patenschafts.png]]を士官室に総統とビスマルクの写真と並んで掲げさせた。
こうして巨大戦艦と小さなUボートの艦長同士の友情が育まれる事となった。
U-556の就役式が、ビスマルク軍楽隊の演奏のおかげで華やかなものになったのは勿論の事である。
-ある日、ビスマルクの副砲訓練の際、U-556が先に2,3発射たせてもらえないかと頼んで来た。すぐに許可が出たが、なんとU-556はその初弾で曳航された標的の''ど真ん中を貫いて''しまった。
U-556は気まずい思いをしたが、ビスマルク艦長は「見事ナリ。願ハクハ大西洋上ニテモソノ手練ヲ発揮サレンコトヲ…騎士十字勲章ヲ期待ス」と信号を送り、騎士精神溢れたU-556艦長も「ワレラ両艦一体トナリテ敵ニアタリ、共ニ騎士十字勲章ヲ授ケラルルコトヲ切
-1941年5月1日。はじめての任務をおびたU-556は「貴艦ノ旅立チノ日メグリキタルトモ、ゴ安心アレ。ワレラ誓ツテ御身ノ安泰ヲハカラン」と送り出撃していった。それまでにも他の潜水艦で戦果を挙げていたU-556艦長はこの出撃中の5月6日・10日・20日に合わせて6
大戦果を挙げてフランスに凱旋しようとしていたまさにその時、事件は起きた。
-5月26日、U-556に誓いを果たす機会が舞い降りた。「英国海軍に追撃されているビスマルクを支援せよ」との命令が全Uボートに下されたのだ。
自らもフランスに向かっていたU-556は、偶然にも潜望鏡でビスマルクを追撃する空母アークロイヤルと巡洋戦艦レナウンを視認。2隻とも護衛の駆逐艦も連れていなければ、ジグザグ運動もしておらず、潜水艦乗りにとっての夢の様な状況で、騎士十字勲章も授かった
U-556は一ヶ月に及ぶ船団襲撃任務を終えてまさにその帰投中。艦船6隻を撃沈したばかりの同艦には魚雷が一本も残っておらず、最後の一本も「もっと大物の為に残しておくべきだ」と言う部下の意見を退けはぐれ者の小船に使ってしまっていた。
発射管のすぐ先を通り過ぎて行く特大の獲物が、自らの忠誠を誓ったレディを攻撃しに行くのを、U-556はただ眺めやる事しか出来なかった。
そして、ここで取り逃した空母アークロイヤルの攻撃隊が、貴婦人の運命を決める魚雷を放つ事となってしまった。
-それでもU-556はビスマルクに追いすがり、その第4駆逐隊との戦いを目撃。艦長は日誌に「照明弾の発射も、ビスマルクの砲火も見える。こんなに近くにいるのに何の手助けも出来ない、酷い気分だ」と記している。
せめて出来るだけのことはしようと、ひたすら触接を続行。味方の誘導のために位置情報を報告し続けたが、帰投分の燃料すら尽きかけたため、友軍潜水艦(U-74)に後を託して泣く泣く海域を離脱。
これが貴婦人と忠誠を誓った騎士の永遠の別れとなってしまった。
-5月27日早朝、カタパルト故障のため戦闘日誌を運ぶ艦載機を射出できなくなったビスマルクは、西部管区司令部に対し潜水艦を派遣するよう依頼している。
これを受けて27日午前7時から午前8時にかけてU-556に「ビスマルクの戦闘日誌を受領せよ」という命令が出された…のだが。
この時U-556は海域を既に離脱した後。しかも燃料節約の為に水中航行中で、正午に再浮上するまでその命令を受信できなかった。命令受信後、U-556は即座に「その任務、U-74に移譲してくれ!」と主張したが、時既に遅し。
ビスマルクは10時39分に沈んだ後。U-74の合流は間に合わず、同艦が回収できていたのはビスマルクの沈没音とその生存者3名だけだった。
-ビスマルク艦長に授与されるはずだった騎士十字章は未亡人に渡された。U-556艦長は友人であったビスマルク艦長と共にそれを授かるという願いと、貴婦人を守ると言うU-556の誓いを果たす機会の両方を失った。
--余談だが、艦隊司令官リュッチェンス提督の無電による推挙により、5月27日未明にフッド撃沈の功労者、ビスマルク砲術長アーダルベルト・シュナイダー中佐に騎士十字章が授与されている。シュナイダー中佐が艦と運命をともにする直前のことである。
}}
#fold(''日本海軍の所有していたドイツ製巡洋艦''){{
''日本海軍の所有していたドイツ製巡洋艦''
-ドイツのフルカン・シュテッティン社製の装甲巡洋艦「八雲」。
六六艦隊計画の主力艦として日本海軍がドイツに発注した唯一の軍艦であり、明治33年(1900年)に竣工した。
艦娘たちの大先輩であり、%%おばさま?%%金剛とは11歳違い。
--ドイツに発注されたのはイギリスに艦艇発注を集中させないための政治的な配慮から。同様に六六艦隊計画で建造された装甲巡洋艦「吾妻」もフランス製。
-20センチ砲4門速力20ノットを誇る戦艦に次ぐ攻撃力と高速で航続力を持つ装甲巡洋艦である。
-日露戦争では第2艦隊に所属し黄海海戦、日本海海戦に参加。
第1次大戦では青島攻略戦に参加しインドネシア方面の通商保護・警備任務を行う。
その後は長期遠洋航海の実習船となる。
太平洋戦争では高角砲や機銃を設置した浮き砲台として使われ、終戦まで生き延びている。
戦後は特別輸送船として復員輸送に従事。昭和22年(1947年)に舞鶴港にて解体される。
-なお、解体の際に取り外されたドイツ製の調度品は、拿捕艦である雑役船「阿多田」(元中華民国砲艦逸仙)の中華民国返還にあたっての軍艦への復旧工事の際の内装として再利用されている。
--竣工当時の色は白だったが明治34年より黒色に。
--兵装はイギリス・アームストロングのエルジック製。規格統一と効率化のため。
-太平洋戦争を生き延びた日露戦争参加艦は「浅間」や「敷島」などが存在したが、いずれも航行は不能であり、「八雲」は唯一航行可能状態にあった艦であった。
-この他日本海軍のドイツ製の軍艦では、日清戦争の戦利艦として接収された戦艦「鎮遠(同じくフルカン・シュテッティン製)」や、シーヒャウ社で製造された蒸気水雷艇などがある。
}}
*この艦娘についてのコメント [#k33a32a9]
#fold(過去ログ){{
#ls(Bismarck)
}}
//&color(Red){''過去ログ化作業中''};
#pcomment(./コメント7,reply,15)
ページ名: