1942年

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1942/4/18
対米国艦隊作戦第三法
1942年(昭和17年)4月18日「第二十三日東丸」から『空母2隻を含む機動部隊発見』という通報を受けた日本軍は警戒を厳とする。(ドーリットル空襲部隊)
しかし日本海軍は、アメリカ軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断し、米軍機の発進・空襲は早朝(4月19日)と推測した。
そこで連合艦隊は 「対米国艦隊作戦第三法」 を下令し、第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(旗艦「愛宕」)の第二艦隊に米機動部隊の捕捉・撃滅を命じる。
横須賀にいた空母「祥鳳」、高雄型重巡洋艦2隻(愛宕、高雄)、水上機母艦「瑞穂」、第4駆逐隊の陽炎型駆逐艦2隻(嵐、野分)に加え、
三河湾にいた重巡洋艦「摩耶」(第四戦隊)、瀬戸内海にいた妙高型重巡洋艦2隻(羽黒、妙高)、川内型軽巡洋艦2番艦「神通」(第二水雷戦隊旗艦)、
日本に帰投中の重巡洋艦「鳥海」が米艦隊迎撃任務にあたることになった。同時に第二六航空戦隊も戦闘準備を整えつつ、哨戒機を発進させた。
当時無敵を誇った南雲忠一中将指揮の南雲機動部隊はインド洋で行われたセイロン沖海戦から日本への帰路についており、台湾近海を航行中だった。
第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)に属する空母2隻(蒼龍、飛龍)にも迎撃命令が下ったが、関東沖合の米機動部隊を捕捉するには距離が遠すぎた。
横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、祥鳳・愛宕・高雄・嵐・野分・朝潮・荒潮・潮・漣・第二十二駆潜艇等が発砲したが、いずれも命中弾はなかった
三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した。
第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった。
エンタープライズは50 km まで接近した偵察機の存在を記録している。
午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、魚雷を装備した一式陸攻30機、
偶然内地に帰還していた空母加賀所属の零戦24機(12機とも)を米艦隊発見地点に向かわせた。
しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった

 

1942/4/18
ドーリットル空襲(ドーリットルくうしゅう、英語:Doolittle Raid)とは、
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載したアメリカ陸軍航空軍の爆撃機によって行った日本本土に対する初めての空襲である。
名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来する。
航空母艦から陸軍の中型爆撃機を無理やり発進させて東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸を爆撃する前代未聞の作戦を行う。
潜水母艦から空母へと改装中だった「大鯨(龍鳳)」に爆弾が命中した他、死者87名・重軽傷者466名・家屋262戸の被害を出した。
計16機の内15機は同盟国であった中国国内で機体を放棄し乗員は脱出、残る1機は当時日本と中立関係であるソ連に不時着している。
日本軍は空襲は艦載機によって行われると考え、そのため本土に更に接近する必要がある等の予測から機動艦隊追撃に基地航空隊や
「扶桑」「山城」等を投入するも特設監視艇に発見された米機動部隊は予定を早めて発艦させ反転していたため捕捉すらできず、
本土の防御態勢の甘さを痛感した海軍首脳部は2度目の空襲を防ぐためにミッドウェー作戦を急がせたという説もある。