織田信長編、豊臣秀吉編は合戦トライアルを
徳川家康編、武田信玄編、九州戦記編は合戦トライアル2を参照の事。
日本史編
後三年の役
清原清衡の過小評価や千任の極端な過大評価、亀次より統率の低い鬼武、籠城側と比較した際の鎌倉景正や参河助兼の能力の低さ、登場していない史実武将がいるにも関わらずオリジナルの武将を登場させるなど、突っ込みどころの多いステージ。
5日目から始まり20日目に義光が2千で援軍に来るがその前にクリアするぐらいの勢いでないと勝てない
まずは木割、義家以外の全部隊を初期MAPから見て左の長い直線の城側根元(一番下の坂のふもと)まで移動
木割は一番手前の街の手前に、義家は一番下の坂を上って待機
後方の部隊が義家から見て3つ前の分かれ道に差し掛かったところで木割で街を攻撃後敵が飛び出してくるのを確認して本陣へ
しっかり坂を敵が下ったのを確認後即座に門へ、槍部隊は坂を上り門破壊に参加させる、鎌倉は館攻撃の時に使いたいので温存もあり
破壊後は一斉に本陣、どうせ混乱挑発にかかるであろう木割含めて2部隊程度なら壊滅可能だが本陣へ敵が来る前に本館攻撃できるはず
千萬だけは攻撃してくることがあるが来たら金のためにもしっかり倒す
14日程度で無傷金も可能
攻撃側(PC)
武将名 統 知 特技 備考/列伝 源義光 92 86 斉射参、神速、収拾 通称「新羅三郎」。義家の弟。兄を援護するために官職を擲って参陣し、義家を喜ばせたと伝わる。弓馬の道に優れたほか、音律をよくした教養人であったという。義家死後河内源氏棟梁の座を狙い、源義忠(義家の三男)暗殺事件の黒幕として暗躍するも露見し常陸国へ逃亡した。武田氏、佐竹氏、南部氏らの著名大名の祖でもある。 懸次任 54 63 なし 陸奥国の住人。城兵の逃げる道を看破し、逃走する清原家衡を討ち取ったという。 鬼武 71 24 突撃弐 『奥州後三年記』に懸次任の郎党として「鬼武」の名で知られる人物。勇士と名高く清原武衡の提案で行われた一騎討ちに義家軍の代表を任される。家衡軍の亀次の頸を斬った。 源義家 92 64 突撃参、鼓舞、軍神 「八幡太郎」の名で有名な源氏の伝説的武将。数々の超人的な逸話が伝わる。後三年の役鎮圧の恩賞を朝廷に願うも、「私怨の戦」であるとされ恩賞は与えられなかった。義家は憤慨しながらも、功績の有った武将たちには自腹を切って恩賞を与えたため、河内源氏と義家の名声は大いに高まったという。 清原清衡 53 62 槍衾壱、収拾 奥州藤原氏の祖。父は前九年の役で安倍氏とともに源氏と戦った藤原経清。清原氏の後継者問題で義兄・真衡と対立し義弟・家衡と共に襲撃をかけるが、源義家の援軍を前に大敗し降伏する。真衡急死後は家衡と対立、義家と結んで戦い勝利を収める。戦後は藤原姓へ復姓、朝廷とも交誼を結び奥州藤原氏の基礎を築いた。 吉彦秀武 67 84 鼓舞 清原一族の長老。前九年の役でも源義家らと共に戦功を挙げた。清原氏の後継者問題で真衡と激しく対立し、後三年の役の発端を作る。要害の金沢柵を攻めあぐねた義家に兵糧攻めを献策、女子供も見逃さぬ徹底した包囲を敷いた。 鎌倉景正 80 57 槍衾参 相模の住人。武勇に優れ、16歳ながら奮戦し、右目を射られながらも敵将を討ち取った。三浦為次が矢を抜くために顔に足を掛けると、「武士であれば矢を受けて死ぬのは本望だが土足で顔を踏まれるのは屈辱である」と激怒した。多くの者は景正のような武功は前代未聞と誉めそやしたという。大庭景義・景親、梶原景時は子孫にあたる。 三浦為次 82 44 鉄壁、破壊 相模の住人。武勇の士として知られた。右目を射られた鎌倉景正から矢を抜こうと顔に足をかけるが、それを恥辱と感じた景正に斬りかかられる。景正の心意気に感じ入った為次は謝罪し丁重に矢を抜いた。 兵藤正経 79 38 斉射弐 三河の住人。後三年の役で義家軍の先手の将として戦功を挙げた。 参河助兼 54 69 槍衾弐 三河の住人。兵藤正経の婿。義家お気に入りの武士で源氏重代の名高い「薄金の兜」の着用を許されるも合戦の最中に石弓を受けて喪失し非常に悔しがったと伝わる。 末割惟弘 12 19 なし 「臆の座」に座する臆病者。源義家は自軍の士気を高めるため剛臆の座を用意し、毎日の合戦で勇敢な者には剛の座、臆病者には臆の座に座らせた。臆病者とされた惟弘は憤慨し飯と酒を多く食べて戦いに臨んだが、頸を射られて食べた飯がそのまま飛び出した。 防御側
武将名 統 知 特技 備考/列伝 清原家衡 86 69 斉射弐、混乱、鼓舞 清原真衡、清衡の義弟。清衡と共に真衡を襲撃するが源義家の援軍に返り討ちに遭い降伏。真衡急死後は義家の裁定で真衡の旧領を清衡と分割相続するがこれに不満を持ち清衡と対立、清衡の妻子を殺害する。清衡は義家に救援を仰ぎ、裁定を反故にされた義家も清衡に味方し清衡・義家連合軍の攻撃を受けるが要害・沼柵に籠城し撃退に成功する。緒戦の勝利を見て家衡方に加わった清原武衡の勧めでより堅固な金沢柵に移り抵抗を続けるが、兵糧攻めに遭い柵は陥落。最期は変装して逃走するも懸次任に見破られ討たれた。 清原武衡 74 77 斉射壱、鉄壁 清原真衡、家衡、清衡の叔父。緒戦の家衡有利を見て家衡方に付き難攻不落といわれる金沢柵での籠城戦を献策。源義家らを苦戦させるも吉彦秀武の兵糧攻めにより敗北。源義光に頼んで降伏しようとするも義家に許されず、柵の陥落後沼に潜んでいるところを発見され、斬首された。その首は木に吊るされた千任の足元に置かれ、力尽きた千任がこれを踏むのを見て喜んだというほど義家には恨まれていた。 青侍 70 82 神速、混乱 青侍とは貴族・公家の家政機関に勤仕する侍のこと。特定の個人を指す言葉ではないため、このゲームのオリジナル武将と思われる。 千任 92 95 斉射参、挑発 清原武衡の乳母の子で家衡の守り役と伝わる。姓は藤原とも平とも。兵糧攻めにより低下した柵内の士気を回復しようと櫓の上から源義家を痛烈に罵ったが、義家方の恨みを買っただけであった。合戦後義家は捕縛された千任の歯を金箸で折り舌を切った上で木の枝に吊し、足下に武衡の首を置いた。千任が疲れて首を踏むと義家は漸く溜飲を下げたという。 亀次 83 31 槍衾弐 『奥州後三年記』に「亀次」の名で知られる人物。清原武衡の提案で行われた一騎討ちに長刀の打手として家衡軍から選ばれるも、鬼武に敗れた。 千萬 50 72 なし 正体不明。このゲームのオリジナル武将と思われる。 重光 85 67 収拾、鼓舞 清原一族で清衡、家衡が真衡を攻めた際に戦死したとされる。
保元・平治の乱
保元の乱と平治の乱を合わせているため史実とは敵味方が入り乱れてかなり混沌とした状態になっているステージ。
義朝以外の全部隊は南門下の街並の下へ
源義朝(弓2000)を、西門の上(画面の一番上)へ、その後真横の寺社まで移動 寺社まで移動したら源義朝が施設攻撃後即座に下の方へ逃げれるだけ逃げる
忠通先頭に槍と弓で南門を攻める、攻落後は騎馬隊を櫓に、他は忠通先頭に次の門へ
櫓が落ちたら即座に騎馬隊は槍弓に合流、その後門を落として全軍本丸を落として8日程度で金
義朝以外が壊滅しないように気を配ること
攻撃側(PC)
武将名 統 知 特技 備考/列伝 藤原信頼 16 81 混乱 藤原通憲(信西)排斥を狙って源義朝とともにに挙兵するも、掌中の玉である二条天皇をむざむざと奪われ、義朝に「日本一の不覚人」と罵られた。 源義平 89 62 破壊、突撃弐 源義朝の長男。通称「悪源太義平」。叔父・義賢(源義仲の父)を討つなど絶倫の武勇の持ち主として名高いが、平治の乱では中立の源頼政の陣へ攻めかかり頼政を敵方に追いやるなど敗戦の原因を作った。『平治物語』によると、平治の乱後、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったが、難波経房に捕えられた。経房に斬られる際「下手な斬り方をすれば後に雷神となってお前を蹴殺す」と言い残した。8年後に経房は滝見物の最中に雷に打たれて死んでしまったという。 源頼朝 77 97 破壊、突撃壱 源義朝の三男。早世した清盛の弟、家盛に風貌が良く似ていたため池禅尼によって助命されたと伝わる。後に平氏を滅ぼし、鎌倉に幕府を起こす。 藤原忠通 53 62 破壊、挑発 関白。弟、頼長と対立し、保元の乱のきっかけを作る。詩歌に長じ、書法にも一家をなして法性寺様といわれた。 源義朝 96 43 斉射参、鼓舞 源為義の長男。義平、頼朝、範頼、義経らの父。保元の乱では夜討ちを献策し戦功を挙げるも、恩賞への不満から藤原信頼と組んで平治の乱を起こす。しかし敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で長田忠致に裏切られ謀殺された。 源頼政 75 79 鉄壁、鼓舞 清和源氏嫡流(摂津源氏)。鳥羽法皇の寵妃・美福門院に近く、保元の乱では後白河天皇方に付く。平治の乱では中立を保つが源義平に攻撃されたため平清盛に味方する。清盛政権下で出世を続け、清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから「源三位」と呼ばれた。後に以仁王を奉じて平家打倒を画策するが計画が漏れたため追討を受け、平等院で自害。数々の鬼退治伝説で知られる祖先・源頼光から受け継いだ弓「雷上動」を手に、妖怪鵺を退治したという伝説が残る。 大庭景義 78 57 突撃弐 鎌倉景正の曾孫にあたるという。大庭景親の兄。源為朝に膝を射られ重傷を負うも、景親に助けられた。後の源平合戦では景親と袂を分かち、頼朝方につく。 大庭景親 82 24 突撃弐 鎌倉景正の曾孫にあたるという。大庭景義の弟。重傷を負った景義を救った。後の源平合戦では景義と袂を分かち、平家方につく。 源義康 62 55 槍衾壱 源義家の孫に当たり、足利氏の祖先。鳥羽法皇の信任厚く保元の乱では後白河天皇が他の主力として活躍、平家弘らを斬る。乱の翌年病により31歳で急死した。 平基盛 53 58 収拾 平清盛の次男。父に従い保元の乱、平治の乱に参戦し活躍、平家一門の有力者として昇進するも24歳の若さで急死した。 平信兼 42 63 挑発 桓武平氏庶流。保元の乱では平清盛らとともに後白河天皇方に付く。平家一門として昇進するが木曽義仲の攻勢を受けて一門が都落ちする際には同行せず伊勢国に潜伏、源義経の軍と合流し義仲追討に参戦する。しかし義仲没落後反源氏の兵を糾合して三日平氏の乱を起こし源氏方の佐々木秀義を討ったがその後行方を眩ました。 防御側
武将名 統 知 特技 備考/列伝 平清盛 71 96 槍衾壱、鼓舞 武士として初の太政大臣となり栄華を築くも、これまでの藤原摂関家を踏襲した政治を行ったために地方の武士の不満が高まり、家の滅亡を招いた。 平重盛 79 71 槍衾壱、神速 平清盛の長男。『平家物語』には温厚篤実な常識人で、父、清盛の乱行を諌めたと伝わるが、冷徹な政治家としての一面も兼ね備えていた。 藤原通憲 26 79 混乱 通称、信西。もとは身分の低い役人であったが、のちに出家した。博学であったという。後白河天皇の院近臣として勢力を振るったが、藤原信頼らの嫉妬を買い、三条殿で夜討ちを受け、自害した。これをきっかけに、平治の乱が勃発する。 藤原頼長 38 32 なし 左大臣。学識に優れ綱紀粛正のため弛緩した政治の刷新に取り組んだが、苛烈で妥協を知らない性格により周囲との軋轢を生み孤立、「悪左府」と呼ばれた。保元の乱では崇徳上皇方の軍議を主導、源為朝の夜襲策を却下し興福寺の援軍を待つ策をとったが後白河天皇方の夜襲を受け敗北。源重貞に頸を射られ重傷を負いながらも逃亡を続け、父・忠実の元へ落ち延びるが対面を拒絶され失意のうちに没した。 源為朝 90 53 斉射参、軍神、挑発 源為義の八男。「鎮西八郎」の名で知られる剛勇無双の猛将。保元の乱では夜討ちを献策するも藤原頼長に容れられず、敵方の兄・義朝の夜討ちを予見し口惜しがった。合戦では白河北殿西門を守り、五人張りの強弓を持って清盛、義朝の郎党を次々と討ち取り敗走させたが、義朝の火攻めにより白河北殿は炎上、東国を目指して落ちる途中近江で源重貞に捕縛され、伊豆大島に流される。しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したため追討を受け自害した。最期に一矢報いるべく自慢の強弓を使って追討軍の軍船に矢を放つと、あやまたず矢は船底に大穴を開け、乗っていた300の兵とともに船は沈んでしまったという。 源為義 75 79 斉射弐、鼓舞 源義家の孫。通称六条判官。乱行が目立ち昇進ができなかった。保元の乱では頼賢、為朝、為仲ら一族を率いて崇徳上皇方につくが敗北、義朝のもとに降伏する。義朝は自らの戦功に代えて助命を嘆願するが許されず、義朝の手によって斬首された。 源頼賢 62 59 突撃壱 源為義の四男。保元の乱では崇徳上皇方として奮戦したが敗北し捕らえられ、義朝の手によって斬首された。 源為仲 57 57 突撃壱 源為義の九男。保元の乱では父と共に崇徳上皇方に付くが敗北。降伏するも許されず義朝の手によって斬首された。 平忠正 77 63 斉射弐、鉄壁 平忠盛の弟で清盛の叔父。長く官職には就けず、藤原頼長の家人として活動しており、忠盛・清盛とは不和であったと伝わる。 平家弘 69 71 斉射壱 崇徳上皇に近侍し、保元の乱では一族を率いて崇徳上皇方に付く。味方の敗戦が濃厚になると上皇を警護しながら戦場を脱出、上皇の後を追って出家しようとするが上皇の反対により思いとどまったという。最期は源義康によって斬首された。 平康弘 58 31 槍衾壱 平家弘の三男。保元の乱では父と共に崇徳上皇方として戦うが敗北、源義康に斬首された。 平時盛 70 56 鼓舞
源平合戦
和田や今井を筆頭に自軍(源氏方)の武将は軒並み能力の過小評価が目立つ。
部隊を本隊と囮に分ける。囮は鼓舞持ちかつ高統率の義仲がお奨め。
まず本隊を右の川を越えたところへ義仲は左へ、
囮は軽く交戦して敵部隊の殆どを手前の砦に出す。
次にその隙間を縫って本隊で敵本陣を攻撃。この時本隊は敵から距離を取っておく。
敵が囮に殺到する間に本陣占拠。
鼓舞、戦法発動。、頼朝は一番前で本陣攻撃できるように配慮
上手くいけば潰走中の義仲が放置されて無傷10日金
鼓舞、戦法発動。
攻撃側(PC)
武将名 統 知 特技 備考/列伝 源義経 110 99 破壊、突撃参、神速 ご存知「九郎判官」。平家追討に功績を挙げるも、三種の神器の奪還の失敗、独断専行な性格や勝手に官位の授与を受けるなど政治面の弱さから兄、頼朝の怒りを買い、奥州平泉へ逃れるも、藤原泰衡の裏切りに遭い、衣川で自刃する。その最期から後世の同情を買い、数々の伝説が唱えられる。 源範頼 87 66 突撃弐、鼓舞 義経と共に源氏の主力を率いた。後に頼朝に粛清される。 武蔵坊弁慶 96 21 破壊、鉄壁、槍衾弐 五条大橋の話で有名な義経の家臣。奥州に逃れた義経を守り、衣川で壮烈な立ち往生を遂げた。 那須与一 70 24 斉射参 屋島の戦いでの、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした逸話で有名。 源頼朝 77 97 破壊、突撃壱 鎌倉幕府の創始者。弟の範頼、義経らを使役し、平家を滅亡に追い込む。武家政権の樹立を目指し、後白河上皇や義経、奥州藤原氏とも争い、遂に幕府を打ち立てる。しかし1199年、謎の死を遂げた。 北条時政 38 91 混乱、鼓舞 梶原景季 71 74 突撃弐 梶原景時の息子。佐々木四郎高綱と宇治川の先陣争いをした。 熊谷直実 85 42 なし 一の谷の戦いでの敦盛との話はあまりにも有名。後に武士の無常さを感じ出家した。 和田義盛 71 54 突撃参 初代侍所別当。 土肥実平 64 83 鉄壁 木曽義仲 97 33 鼓舞、破壊、突撃弐 言わずと知れた「朝日将軍」。倶利伽羅峠で平家の大軍を破り、都落ちに追い込むも、経済基盤の無さや寄せ集めの軍勢による京都での乱行により威信を失墜、粟津で今井兼平と共に最期を遂げる。 今井兼平 68 65 槍衾壱 義仲四天王の一人。義仲の乳兄弟で巴御前の兄。義仲に従い数々の軍功を立てる。義仲とともに粟津で壮烈な最期を遂げた。 防御側
武将名 統 知 特技 備考/列伝 平清盛 71 96 槍衾壱、鼓舞 平重盛 79 71 槍衾壱、神速 平清盛の長男。 平宗盛 33 47 鼓舞、収拾 平清盛の三男。清盛、重盛死後の名目的な棟梁。 平敦盛 60 68 鼓舞、突撃壱 平経盛の子。一の谷で熊谷直実に討ち取られた。 平知盛 76 76 斉射弐、挑発 平清盛の四男。壇ノ浦で碇を担いで入水した。 平重衡 84 82 槍衾参、破壊 平清盛の五男。東大寺の僧兵を鎮圧するため大仏殿を焼いた。 平教経 98 73 斉射参、鉄壁、挑発 平家随一の猛将。壇ノ浦の戦いでは源義経の八艘飛びを追うが取り逃がし、源氏の兵を両脇に抱えて入水した。 斎藤実盛 85 78 混乱、鼓舞 元は源氏の郎党。白髪を染めて戦に参加したため、首実検で実盛本人だと分からなかったという。 平忠度 80 62 槍衾参、鉄壁、破壊 平清盛の弟。 瀬尾兼康 87 88 斉射参、混乱 倶利伽羅峠の戦いで義仲に捕らえられるも、脱出して最後まで抵抗した。 大庭景親 82 24 突撃弐 石橋山の戦いで源頼朝を破るものちに敗北、斬首される。兄景義は一切の助命嘆願を行わず 足利忠綱 75 73 突撃弐、混乱 源三位頼政との宇治川の戦いでは頼政の計略で自軍の攻撃が遅れる中、川を強行にわたり、勝利のきっかけを作った。
南北朝の戦い
北朝の武将と比較して南朝の武将の過大評価、知略偏重の尊氏の能力、名和長年や千種忠顕のような有名武将より足助や大館を登場させる謎の選出基準等、これまた突っ込みどころの多いステージ。
まずは正成を門から出し、門前の通路に門正面に隙間が出来るように配置する。9割がたに尊氏が先陣を切って突っ込んでくるので門前までひきつける(まだ混乱は使用しないように)。尊氏が門に攻撃をし出したら混乱を加えて門の中の部隊と門の向かい側の正成の部隊で挟み撃ち。非常に簡単なので適当にやっててもクリアできるかも。
混乱か潰走しないor尊氏が先頭でなければリセットとなる
攻撃側
武将名 統 知 特技 備考/列伝 少弐頼尚 40 68 鼓舞 佐々木道誉 87 90 破壊、挑発、突撃弐 文武両道の名将であったがその型破りな振る舞いから「バサラ大名」と呼ばれた。 足利尊氏 63 98 突撃壱、鼓舞 室町幕府の創始者。温厚篤実である一方、優柔不断であったとも伝わる。 足利直義 69 88 鼓舞、挑発 尊氏の弟。優柔な兄尊氏をよく補佐し、幕府成立に大いに貢献した。後に横暴な高兄弟と対立し観応の擾乱を引き起こし、兄弟を暗殺したが、自身も尊氏によって暗殺されたと伝わる。 高師直 58 92 鼓舞、挑発 尊氏の執事。武勇知略に秀で幕府成立に貢献した一方で乱暴狼藉が目立ち、後に観応の擾乱を引き起こし、弟の師泰と共に直義に暗殺された。 高師泰 81 73 斉射弐 師直の弟。 斯波高経 74 72 槍衾弐 細川定禅 56 48 収拾 赤松則村 70 73 「円心」の名で有名な武将。 防御側(PC)
武将名 統 知 特技 備考/列伝 北畠親房 57 84 鼓舞、収拾 南朝の中心的人物。 北畠顕家 89 87 挑発、鼓舞 親房の嫡男。鎮守府将軍。貴族でありながら驚異的な速度で奥州より上洛し尊氏を京より追い落とし北朝方を震撼させた猛将。 新田義貞 95 77 槍衾弐、挑発 結城宗広 76 44 槍衾壱 楠木正成 99 100 破壊、混乱、突撃弐 兵法に通暁し、建武の中興では北条氏を幾度も破り、南北朝の動乱期には北朝方を苦しめ、「大楠公」と呼ばれた。元は河内周辺の「悪党」だったと伝わる。その忠節ぶりは後世の人間からも高く評価されている。 楠木正行 82 73 鼓舞、収拾 正成の子。「小楠公」と呼ばれた名将で斜陽の南朝で幾度も北朝の軍勢を破った。 楠木正季 84 80 混乱、斉射弐 正成の弟。兄に勝るとも劣らぬ名将であった。 脇屋義助 66 37 槍衾壱 新田義貞の弟。義貞の戦死後南朝方の中心武将となる。 大館氏明 72 65 斉射壱、鉄壁 足助重範 64 41 斉射弐
応仁の乱
敵の援軍の朝倉と大内が来るとかなり厳しいので早く決着をつけること。
開幕と同時に義政を二の丸の敵本陣に近い方の櫓に籠め、向かってくる敵の攻撃を受け止める。残りの全部隊は裏側の門から敵本陣を目指す。弓隊は攻撃力が低いので全部隊が敵本陣に"隣接"するまではどれだけ敵の攻撃を受けようと絶対に攻撃はしないこと。全部隊が揃ったら攻撃を開始し、引き返して来る敵は混乱で動きを止める。
7日程度で金、1部隊程度は壊滅するかも
戦法もしっかり使うこと
攻撃側
武将名 統 知 特技 備考/列伝 朝倉孝景 79 82 破壊、斉射弐 他の追随を許さぬ精強な兵を率い、和歌、連歌に優れ宗祇や正徹との交流を持つ文武両道の名将であったが、数々の裏切りや騙し討ちから「日本一の大悪人」として知られた。「孝景条々17か条」を定め、家中の風紀を律するなど、非常に合理的な人物であった。 大内政弘 75 77 槍衾壱、収拾 足利義視 57 53 突撃壱、鼓舞 義尋。還俗して兄・義政の養子になる。 山名宗全 49 89 混乱、破壊 細川勝元との権力争いを行った応仁の乱の大立者の一人。乱後すぐに死去した。 畠山義就 69 62 突撃壱 三管領の畠山家の当主候補。 斯波義廉 58 67 神速 三管領の斯波家の当主候補。 山名教之 41 58 破壊 一色義直 56 57 鼓舞 土岐成頼 62 65 鼓舞 六角高頼 50 37 なし 防御側(PC)
武将名 統 知 特技 備考/列伝 畠山政長 39 76 混乱 三管領の畠山家の当主候補。 京極持清 71 66 破壊、突撃壱 武田信賢 63 71 槍衾壱 赤松政則 73 70 槍衾弐、鼓舞 足利義政 29 49 収拾 銀閣を建てるなど文人としては優れる一方で、次期将軍の座について曖昧な態度をとり続け、応仁の乱の発端を作る。 日野富子 34 98 混乱 義政の正室。 足利義尚 57 64 鼓舞 義政の息子。 斯波義敏 68 75 斉射壱 三管領の斯波家の当主候補 細川勝元 47 88 収拾、破壊 山名宗全との権力争いを行った応仁の乱の大立者の一人。乱後すぐの宗全の死の後を追うように死去した。 細川政元 53 72 混乱 勝元の息子。応仁の乱後権力を掌握し「半将軍」と呼ばれた。後に修験道に没頭し、養子の家督争いの末に暗殺された。 細川成之 55 51 なし