concept

Last-modified: 2007-01-14 (日) 18:23:57

qudlicとは>




都市・メディア・アカデミズムの領域を通して、「public」な場のあり方について実践的に問うて、考察を深めるために設立された集団です。



活動の始動は、2006年の秋。
紅きカエデ舞う季節、秋風に誘われるように、大阪大学、大阪市立大学、大阪外国語大学の学生達が集結。「qudlic」結成。


<初期の活動目標・内容>



学生と一言で申しましても、我々はそれぞれに専門分野の全く異なる研究分野の学生の集まりです。文化・メディア・文学・社会学・機械・医学・建築・都市計画・工学など。



自分の問題意識や専門知識を、内部で高めるのでなく、自分を外部に曝すことで脱領域的に魅惑的な知に仕立て上げて粋たいということ。そして、それを様々な人にも伝えて粋たいということ。そんな、触発しあえる場を創造することを、まず初期の活動目的として挙げておきます。そのために・・・・



1)都市では、ステレオタイプなどを排除して、身体感覚を重点に置いた大阪都市部を中心とする街歩きと、その場での撮影やアート活動。
2)メディアでは、HPやミクシィでの活動報告・情報交換。
3)アカデミズムでは、「qudlic」の思想において基盤となっている現象学などを始め、各自が関心のある知について議論を深める勉強会。他の団体やゼミや研究会との交流。



を同時多発的に行っていきます。


<設立目的>



人と人が、接触する場。
同じ空間を誰かと共有しても、その世界の現れ方は、人によって異なります。
自分の身体感覚が受け止める、自分でない他者という存在。



他者と遭遇する、そんな場が日常生活の都市にあり、メディアにあります。
それを何らかの学問的な知によって、考察しようとするわけです。



つまり、都市・メディア・アカデミズムについて語られるということは、そこでは人と人とが接触する場が生じているということです。その場に人が吸い寄せられるのです。



しかしながら、その場が何らかの排他的で非生産的な力によって、そして独占化や私有化するような障壁によって、他者との多様なコミュニケーションが止揚されるような経験をされてはいないでしょうか?もしくは、身体感覚的にそういったことに対して疼いてはいないでしょうか?



そういった場に遭遇したときに生じる苦痛や不安、批判などを、身体感覚の次元から表現して他者に投げかけていくこと。それが、多様な人間同士のコミュニケーションが出来る場を生産していく可能性に、繋がっていくのではないか。そういった問題意識の元で、「public」な場のあり方について、根源からも裏地からも問うてみるために、「qudlic」を設立しました。


<「qudlic」の本質>



最近は、公共性や空間、街歩き、都市、アートなどに関心が向かい、ある種そういった議論や活動が、流行っているのは確かです。じゃあ、「qudlic」も結局それに便乗したもので、他のグループと同じもんにすぎないのか?というと・・・・



1)地域密着や土地の固有性や土着性、歴史性に、重点を置くものではない。また都市が発展すること、誰かと固有の価値観や歴史観を共有することに、過度な期待を寄せるのではない。



2)注目・流行・話題の中で、それに賛同するにせよ、批判するにせよ、どうしてそういった議論が活発になされているのかを考えてみる必要がある。そして、都市に抱くステレオタイプや幻想を取り除いた上で、賛同/批判するのは何故かを考える。こういったことを根本的にはじめから考える目的で集まった集団は、他にはない。



3)やはり実際の街歩き、そしてアートには、人をひきつける力がある。しかし、それだけが公共性と空間について考える、または場の活用について力を発揮する絶対的な手段・方法ではない。なので、最初はある程度効果を発している街歩きやアートからはじめつつも、他の方法も考察する機会を有している。



4)社会学的に見れば、ある特定の思想と同じものとして見える。確かに妥当できる思想や理論はもちろんあるが、政治性を持つというよりも創造性、根源性に重きを置く。イデオロギー的な権力批判よりも、身体感覚的なものを刺激する、揺さぶる都市活動の実践。



⇒そこで、都市を見る、嗅ぐ、触る、聞く、まさぐるような自己の経験を記述し、他者に語りかけるように表現する。=身体経験の本質における妥当性を得るため。例)見心地の悪い景観⇒自分だけが悪いのか、それとも他者にとっても悪いものとして共有しあえるかを、人に届く表現方法で実践する。=科学的な狭い身体経験でなく、より深い本質的な身体経験として表現する。