時を切り裂く少女

Last-modified: 2010-05-14 (金) 09:29:44
瑞 麗 著  
 

 

その少女は、イベリア半島の北東部、かつてのナバラ王国の街パンプローナに
生まれ、育った。

 

歴史上バスクと呼ばれるその地方は、ヒホンの港街から東にある上陸地点
(ビスケー湾南岸)から更に東、ピレネー山脈の両麓に、ビスケー湾に面して
位置する。

 

中でもパンプローナは、共和制ローマ時代末期の有名な将軍ポンペイウスに
よって築かれた、ナバラ王国の首都でもあった街だった。

 

ナバラ王国は、1234年、サンチョ7世が死去した時、正嫡の子がなかった。
これによって、ナバラ系ヒメノ家の男系が断絶する。
そこで、サンチョ7世の妹ブランカの息子で、フランス屈指の名門貴族である、
シャンパーニュ伯ティボー4世が、テオバルド1世としてナバラ王に迎えられた。

 

シャンパーニュ伯家は、名門ブロワ家の一門であり、歴史的に、フランス王家とも
深い関係が続いていた。

 

少女の名は、ティリス・イルザーク。
イルザーク家は、この頃シャンパーニュ伯に従ってナバラに来た武将の末裔だった。

 

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その後ナバラ王国は、1274年にブロワ家の男子が絶えた後、様々な変遷を重ねたが、
テオバルド1世(シャンパーニュ伯ティボー4世)に従いこの地にやってきた、
武将エマヌエルを始祖とするイルザーク家は、16世紀末期頃までには、
ピレネーの南側、イベリア半島北西部に位置する、ナバラのパンプローナから
ピレネー山麓に至る、海浜を中心とした地域と、
ピレネーの北側、ピレネー山脈にほど近い沿岸部のラプルディ(仏語;ラブール)から、
後にアルマニャック(後述のドミニクの時代に拝領)にかけた地域までを領有する
ようになった。

 

特にナバラにおける領地は、イベリア半島におけるフランスの拠点として、
アラゴン、後にイスパニアとの、イベリア半島におけるフランスの最前線として、
激しい戦いを繰り広げた。

 

1512年には、フランス貴族アルブレ伯でもあったナバラ王ファン3世は、アラゴン王
フェルナンド2世の侵攻に敗れ、ナバラ王国のピレネー山脈以南の地を、スペイン
(カスティリャ・アラゴン連合王国)に併合される。
その際には、イルザーク家も、スペインとフランスとの国境を流れるビダソア川の
東岸にまで追い詰められることになる。

 

しかし、ティリスの父である、イルザーク家中興の祖ドミニクは、スペイン王
フェリペ2世が、イングランドの女王エリザベスとの間で、激しい海上覇権争いを
繰り広げている間隙を突き、遂に16世紀後期、パンプローナを奪還するに至った。

 

この功績により、ドミニクは伯爵位を授かることになる。
以降、イルザーク家は、ラブール伯と呼ばれるようになる。

 

ドミニクは、2人の子供を授かった。
一人は、フランス人で、ブルボン家から嫁いできたウージェニーとの間に儲けた、
後にシュリー公マクシミリアンと共に、ナバラ王アンリ(後のアンリ4世)の双璧と
讃えられた、後のイルザーク侯爵、長子ストールである。
しかし、残念なことに、ストール出産時の難産により、ストールを産み落として
間もなく、ウージェニーは早世してしまう。

 

その数年後、スペインのビスカヤ伯爵家よりマルガリータを後妻に迎えた。
彼女との間に儲けたのが、この物語の主人公である、長女ティリスである。

 

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アンリ・ダルブレの名で歴史上に名を残す、ナバラ王エンリケ2世は、1517年、
アラゴン王国によりナバラから追放されていた、母カタリナ女王の死去を受けて
王位に即いた。
その当時ナバラ(イベリア半島側)は、アラゴン王フェルナンド2世により占拠
されていた。

 

この為、エンリケ2世は、フランス王フランソワ1世の保護下でナバラ王を
名乗った、言わば名目上のナバラ国王だった。

 

1521年、エンリケ2世の主権を回復すべく、フランスよりナバラへ出兵した。
エンリケ2世・フランス連合軍は、一時的にナバラを奪ったものの、結局は
アラゴン軍により奪還された。
この時、騎士ヴィクトール・イルザークは勇戦し、パンプローナ陥落を果たし、
最後までナバラを死守するが、最後はビダソア川東岸のアンダイエまで撤退
することになる。
この撤退戦で、ヴィクトールは、アラゴン軍により、あわや壊滅寸前だった
友軍を援護し、エンリケ2世を虜囚の憂き目から救うなど、見事殿の大役を
果たした。

もしこの時、エンリケ2世がアラゴン軍に捕らえられていたなら、フランス側は、
仏領バスクまでを含むナバラ王位を主張するカードを失うことになり、相対的に、
アラゴン王国、後にはイスパニアに、それらの領有権を主張されることにも
成り兼ねなかった。
これにより、イルザークの名は、スペイン・フランス両国に轟いた。
この功績により、ヴィクトールは、副伯(後の子爵)に叙勲された。
ヴィクトールの孫がドミニクである。

 

後にエンリケ2世は、フランソワ1世の姉マルグリットと結婚した。
マルグリットとの間には、後にナバラ女王フアナ3世となる、ジャンヌ・ダルブレが
誕生した。
彼女が、ブルボン朝初代国王となる、アンリ4世の母である。

 

ジャンヌは、幼少のころからプロテスタントを篤く信仰し、同じ信仰を持つ、
ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌと結婚した。
父エンリケ2世の死後、ジャンヌは夫と共に、ナバラ女王として即位する。

 

これにより、以後イルザーク家は、ナバラ王を兼ねるブルボン家に仕えることに
なり、ブルボン家の有力な重臣となる。

 

このことから、イルザーク家は、ユグノー(フランスのプロテスタント)の保護者と
なる。

 

これらのことは、その後のイルザーク家に、非常に大きな影響を及ぼすことになる。
特に重要なことは、篤くカトリックを信仰する二大国、スペイン王家と、
ヴァロワ朝フランス王家との関係がますます悪化し、抗争が激化していくことに
なるのである。

 

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ビスカヤ伯の称号は、14世紀後期には、、ティリスの母マルガリータの実家
エスケラ家ではなく、カスティリャ王が継承し、この当時には、スペイン王の
称号の一つとなっていた。

 

これに対し、あくまでスペインによる支配を認めない勢力は、エスケラ家を正統とし、
エスケラ家は、フランス王により、ビスカヤ伯として認められるという形を取って
いた。

 

しかし、フランス王は、百年戦争等の影響で、王権の確保・死守への対処で手一杯で
あったこと、14世紀には、ヨーロッパで猛威を振るった黒死病(ペスト)の大流行で、
人口が大激減したことなどもあり、エスケラ家は、ビスカヤでさえ、長期に渡って
カスティリャに奪われていた。

 

イルザーク家さえ、ビダソア川東岸(フランス・スペインの国境)に撤退していた時期、
エスケラ家は、辛うじて、フランス国境にほど近い、ギプスコアのドノスティア
(サン・セバスティアン)にある、ウルグル要塞を死守するのみの状態となっていた。

 

ドノスティアは、フランスとの国境を流れるビダソア川まで15kmほど、ビスケー湾に
面し、海に突き出した2つの山、モンテ・ウルグルとモンテ・イゲルド、その間にある
サンタクララ島に囲まれたコンチャ湾という、湾口が狭く、防御に適した天然の良港を
有する港湾都市である。

 

ウルグル要塞は、上述のとおり、コンチャ湾に臨んだ、3方を海に囲まれ、唯一
地続きの東南側も、西のコンチャ湾と、東を流れるウルメア川との間は、狭い部分で
400m程しかなく、攻める側にとっては大軍を展開しにくい要害だった。

 

さらに、要塞内には、豊かな量の湧き水が湧いており、大軍とは行かないまでも、
ある程度の軍隊ならば、十分な飲み水を確保することができた。

 

モンテ・イゲルドとサンタクララ島に砲台を築き、制海権を確保できれば、ここは
まさに難攻不落の要塞になるのだった。

 

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後のラブール伯ドミニクは、イルザーク家にとってのみならず、フランス軍政史に
おいても、ドラスティックかつプラグマティックな改革を行なっている。

 

それまで、イルザーク家ばかりでなく、フランスにおいては、軍隊は陸軍主体で、
海軍の整備は進んでいなかったが、ドミニクは、陸路での、ピレネーを越えての
軍事展開に、ナバラでの対イスパニア作戦における重大な弱点を見出した。
これを克服すべく、ドミニクは、16世紀後期の対イスパニア戦役を前に、
15年の年月を要し、海軍、及び商船隊の整備に着手したのであった。

 

この当時、イルザーク家が実質的に治めていた領地は、北ナバラのラプルディ
(仏語でラブール)であり、バイヨンヌを本拠地としていた。
居城はシャトー・ヌフである。

 

バイヨンヌは、14世紀より、イングランドのポーツマスとの間で、貿易が盛んに
なってきた。バイヨンヌからの最大の輸出品はワインであり、ボルドーと共に、
ポーツマスの最大取引交易品になっていた。
他に、羊毛や、特産品である、ブランデーのアルマニャック、塩、生ハム等は、
ポーツマスへの重要な輸出品だった。

 

1338年に勃発した百年戦争により、一時取引量の減少などはあったものの、
ポーツマスとの交易は、バイヨンヌの重要な産業として成長していった。

 

ドミニクは、若年期より、度々、この重要な交易相手港であるポーツマスを訪れ、
現地を視察した。
ドミニクが現地で滞在し、案内を受けていたのが、現地の有力な商人の一つで、
イルザーク家と長年に渡って交易を続けてきたクリフト家である。

 

この視察を経て、ドミニクは、海軍の重要性と共に、それを運用する為の十分な
資金を確保すること、その為の商船隊の整備が急務であることを痛感する。

 

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ある日ドミニクは、ポーツマス滞在中に非常に親しくなっていた、クリフト家の
三男ニコラスに、
イルザーク領の港湾整備
商船隊の整備
船舶の建造・整備
艦隊(軍艦)整備
の4つについて、協力を求めた。

 

ニコラスは三男であったことから、家督は長兄が継ぐことが決まっていたし、
兄弟中、最も冒険心に富んでいたこともあり、いっそイルザーク領へ赴き、
現地で暮らすことを決心し、ドミニクに提案した。
ドミニクは、この歳も近い親友の提案を喜んで受け入れ、ニコラスを迎えた。

 

ニコラスが、その手腕を十分に発揮しやすいように、ドミニクは、ニコラスを
イルザーク家の家宰に任命した。

 

先ずニコラスが着手したことは、高い貿易能力を有する商業港の整備である。
当時既にバイヨンヌは大きな港町であったが、バイヨンヌは、アドゥール側を
8kmほど遡った場所にあるため、この当時の大型船では、直接入港することが
困難という問題が生じていた。
大型船の入港可能な港を確保できれば、貿易量の増加が可能になる。

 

ニコラスは、ビアリッツ、及びサン・ジャン・リュズの港を、あらたに商港として
整備した。
特にニヴェル川の河口の港町サン・ジャン・リュズは、浚渫により、十分な水深を
確保して、大型船の入港を可能にした。

 

また、イスパニアとの国境の港町アンダイエを、商業港としての機能も備えた
軍港として整備した。
大型の軍船が出入港可能な港とするため、航路は、サン・ジャン・リュズより更に
深い水深を確保させた。
このため、より大型の商船が入港できる港としても利用できるようになった。

 

さらに、アンダイエからサン・ジャン・リュズ~ビアリッツ~バイヨンヌまでの
区間、その後バイヨンヌからポーまでの区間の街道を整備し、陸路での輸送網も
充実させた。

 

ポーツマスは、15世紀半ばに、世界初の乾ドックが建設された港でもあった。
ニコラスは、まずサン・ジャン・リュズに、次いでアンダイエに、乾ドックを
建設した。

 

こうして、イルザーク家の商船隊、及び戦艦隊が整備・拡充されていくのである。

 

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後にイギリスやオランダは、商船隊を強化し、交易により莫大な富を得、その
財力で強力な海軍を編成するようになるのであるが、この当時、海軍の役割は
まだ私掠が主で、それぞれの船長、良く言えば個人投資家、悪く言えば海賊の
頭領が、自分の持ち船と船員を養っているというのが現状だった。

 

ドミニクとニコラスの改革は、後の列強の海軍運営を先取りしたものであったと
言える。

 

商船隊の充実・拡大により、貿易額は年々増大し、その豊かな財力は、名目上の
領主であるナバラ王(アルブレ伯)及びフランス王室への上納分を除いても、
十分に海軍を建設し得るに足るものだった。

 

そうして数年が経った頃、サン・セバスティアン(ドノスティア)からの危機の
報が届けられた。
ビスカヤ伯は、要害のウルグル要塞に籠城するも、イスパニアの、その精強な
陸軍に加え、カリブでその実力を如何なく発揮していた強大な海軍力により、
陸上ばかりか、制海権も失い、最早落城は時間の問題と思われていた。

 

実はイルザーク家とエスケラ家とは、友好的というより、むしろ長年の仇敵
言ってもよい関係であった。

 

シャンパーニュ伯に従ってナバラにやって来て以来、代々フランス系のナバラ王に
仕えてきて、その勇名を轟かせてきたイルザーク家に対し、エスケラ家は、その
初代イニゴ・ロペス・エスケラが、カスティリャ王の家臣を名乗ってビスカヤに
乗り込んで以来、イルザーク家とは、激しい戦いを繰り広げてきていたのだった。

 

しかし14世紀後期、エスケラ家に嫡流が途絶えたのを理由に、カスティリャ王が
その継承権を主張、以後、公には、カスティリャ王家がビスカヤ伯を継承する
ことになる。
これにより、ビスカヤ伯はカスティーリャ王の称号の1つとなり、カルロス1世
(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)以降はイスパニア王の称号の1つとなった。

 

エスケラ家は、嫡流は途絶えたものの、庶出子の男がいた。
ビスカヤ伯の継承権を主張したものの、当時の、しかもカトリックの盛んな
スペインでは、庶出子が継承権を認められるはずもなかった。
(幾つかの例外はあるものの、必ず対抗者との間に流血を伴うのが常だった。)
とは言え、カスティリャ、そしてイスパニアによる支配に抵抗する、少なくない
バスク人たちは、エスケラ家を立て、200年近くに渡って争ってきたのだった。

 

-敵の敵は味方-
南バスクへの再進攻の機会を窺っていたドミニクは、ビスカヤ伯マティアスに、
支援を決めた。

 

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窮地に追い込まれ、玉砕の覚悟さえし始めていたドン・マティアス・エスケラに
とって、その申し出は、神の救いにさえ思えるものであったが、同時に、
よりにもよって長年の仇敵でさえあったイルザーク家より、そのような申し出の
あったことに、訝しさと、そして危惧さえ覚えた。

 

マティアスを始め、ビスカヤ伯の家臣たちは、今でこそ、名ばかりながら
フランス王に臣従している形を取ってはいるものの、過去には、長年フランス軍と
戦ってきた歴史があり、幼少の頃より、一族の者たちから、かつての戦の激しさと、
特にイルザーク軍の勇猛さ・恐ろしさを、繰り返し聞かされてきている。
それだけに、如何に窮地での一縷の望みとは言え、簡単に信じられないのも無理は
なかった。

 

とは言え、イルザーク家は、講和や停戦の際、それを一方的に破ることはせず、
降伏・逃走する敵などに対し、余程の事情がない限り、追い打ちを仕掛けたりは
しないこと、また、決して民衆に対して、略奪したり、虐殺したりはしないと
いうことも、良く知られていた。
これは、例えばカスティリャ王国軍などと比べると、天と地の差である。

 

そうしたことから、エスケラ家にとって、イルザーク軍は、その強さと勇猛さを
恐れはしているものの、必ずしも嫌悪しているわけではなく、むしろ天晴れ、と
いう尊敬の念は、相当に程度抱いているのだった。

 
 

「漁師らしい男2人が、城外にやって来て、かれこれもう半日近く経ちます。
如何なさいますか?」
「半日?」
「はい、未明からです。」
「こんな大軍に囲まれた要塞の外で半日も、一体何のつもりなのだ?直ちに
拘束して取り調べよ。」
「はっ」

 

しばらくして、取り調べに向かった部下が戻ってきた。
「彼らは伯爵への謁見を求めております。」
「謁見だと?」
「はい、それが実は、彼らは…」
「彼らが何だと言うのだ?」
「実は彼らのうちの一人は、イルザークの当主ドミニク本人です。」
「何だと!?」

 

まさか当主自ら、一人を連れただけで戦場までのこのこやって来るとは…。

 

兎も角、直接的な関係はなく、不信感も拭えないとは言え、フランス王に
ビスカヤ伯として認めてもらっている現在、ドミニクは、フランスの有力な
一族の当主である。
マティアスは、直ちにドミニク達を連れてくるように命じた。

 

「殿下にはお初にお目にかかります。イルザーク家当主ドミニクと、当家
家宰のニコラスにございます。」
「遠路はるばる御苦労でした、余がマティアスです。」
マティアスはドニミクが、ドミニクはマティアスが、意外に若いのに驚いた。
お互い、同じくらいの年頃ではなかろうか?

 

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また、家宰(執事長、ステュワード)として紹介された男には、さらに訝しさを
覚えた。
仮に当主が若年とすれば、家宰には、家に長く仕えてきている者を置くのが
一般的である。
いや、当主が若くなくても、ステュワードと言えば、ベテランというのが
常識である。実際、マティアスの家令(ステュワード、家宰と同一)も、代々
エスケラ家に仕えてきた者で、そろそろ60歳に手が届こうかという、40年以上
この家に仕えている老執事である。
このイルザーク家の家宰という男は、どう見ても、当主と名乗るドミニクと、
大して歳は変わらないようにしか見えない。

 

「このような若輩2人では、驚かれていることでしょう。」
マティアスの不信に答えるようにドミニクは言った。
「父が3年前に他界致しました為、このような若輩の身で家督を継いでおります。」
そう言いながら、腰に差していた一本の杖を取り出した。

 

「見間違えようがございません、確かにイルザーク家の当主にございます。」
控えていた一人の老武官が答えた。
エンリケ2世を擁したフランス軍が進攻した折、ビスカヤ伯としても、形ばかりの
援軍を出していた為、その軍に参加していた彼は、当時まだ少年ではあったが、
先々代当主のヴィクトールが揮っていたこの指揮杖を、あれから半世紀経った
今でも、まだ見憶えていたのだった。それ程、その時のヴィクトールは、あの戦を
知る者達の記憶に、深く刻み込まれていたのだ。

 

「こちらこそ、このような大軍に囲まれた有様では、ご挨拶にも伺えず、失礼を
しました。
ところで、このような戦場へのわざわざのご来訪は、どのような要件でしょうか?」
「まさにこの戦況を打破する為にございます。ビスカヤ伯に、援軍をお送りさせて
頂きたいのです。」

 

「それは、フランス王の援軍ということでしょうか?」
「いえ、現在フランス王は、表だってイスパニア王と事を構えることはできません。」

 

実はこの当時フランスでは、王室、及びギーズ公アンリを中心とするカトリック派と、
ブルボン家の当主である、ナバラ王エンリケ3世(後のフランス国王アンリ4世)を
盟主とするプロテスタント勢力とが、長年に渡り、激しい対立を行なっていた。
その激しさは、ナバラ王の叔父であるコンデ公ルイが戦死しているほどであった。
これにより、まだ若年だったにも拘らず、ナバラ王がプロテスタント勢力の盟主と
なったのである。

 

イルザーク家は、直接的には、ナバラ王の家臣である。
つまり、この当時カトリック派であるギーズ公の強い影響下にあるフランス王室とは、
微妙な関係にあった。

 

マティアスにも、思い当たる節があった。
この年の2年前、ナバラ王と王妹マルグリット(小デュマ著「王妃マルゴー」のモデル)
との結婚式の際に起こった“サン・バルテルミーの虐殺”の報は、ヨーロッパ中に、
大きな驚愕と共に、瞬く間に広がった。
この事件により、ナバラ王も、従弟のコンデ公アンリ(コンデ公ルイの子)と共に
捕らえられ、カトリックに改宗に応じて辛うじて死を免れたものの、以後、宮中に
幽閉され続けているのだった。

 

「この度は、あくまでイルザーク家として、伯をお援け致します。」
マティアス以下、エスケラ家の主従たちは、折角の申し出ではあるものの、余りに
無謀としか思えなかった。
何と言っても相手は、この3年前に、レパントの海戦でオスマン帝国海軍に勝利し、
この当時、インディアス(新大陸)・フィリピン・ネーデルラント・ブルゴーニュ公領・
ミラノ公国(以上カスティリャ王国領)・ナポリ王国・シチリア・サルディニア(以上
アラゴン王国領)を支配し、“日の沈まぬ帝国”と謳われた、フェリペ2世治下の
イスパニアなのである。

 

「…そのお気持ちは有難く頂戴する、されどこの戦には、最早勝ち目はない。
強力な銃隊を擁する陸軍だけでも勝ち目はないのに、あのアルマダに制海権を
完全に握られてしまっているのだ!
我が家の為に、あたら貴家の精鋭を無駄にすることはない…」
胸中の苦痛を絞り出すかのように、マティアスは告げた。

 

「制海権を完全に奪われたですって?
決してそんなことはありません。現に私達は、こうして伯の目の前にいるでは
ありませんか。」

 

       --------- つ づ く ----------

 

 

「確かにアルマダ-無敵艦隊-は強大です。船も新鋭艦を多く揃えていますし、
装備されている砲だけでも、他国には比肩し得るものもないほどの威力です。
しかし、そのアルマダには、技術面と、人的な面と、双方に重大な問題を
抱えているのです。」

 

マティアスには信じられないことだった。
アルマダは、名将として名高いサンタクルズ候アルバロ・デ・バザーンによって
提言された、レパントの海戦でオスマン海軍を破った当時の、既に数倍の規模に
なろうとしている、世界最強と讃えられる艦隊なのである。

 

「イスパニア海軍は、確かに精強を誇るオスマン海軍を破りました。ただ、その
艦隊は、地中海という、言わば内海での海戦ということもあり、その主戦力は、
ガレー船で編成されていました。

 

しかし、ここ大西洋は外洋です。帆船を主力とする必要があり、そのことは
イスパニアも十分承知していることではあるのですが、その移行が、なかなか
進んでいないようです。

 

また、砲は、カノン砲が主となっています。
確かに威力は強力なのですが、カルバリン砲と比べても、射程が短いのです。

 

当初は、艦隊の全てを新設する予定だったようですが、その余りの高額さに、
パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの艦隊を活用することになったそうです。

 

そうしたこともあり、主力艦隊の乗員は、地中海での経験が主という者がほとんど
なのです。

 

これは士官にも言えることで、さすがに乗員はそういうわけには行きませんが、
士官(当時のことであり、提督・艦長以下、士官には貴族がその任に就いていた)は、
ビスケー(ビスカヤ)湾での船酔いのひどさに、夜はもちろん、日中も、少し海が
荒れただけで、陸に上がってしまうのです。

 

結果、多くの時間士官不在の、船内の規律も緩みっ放しなのです。
夜間は、当直など、ほとんどあってないような状態ですから、こうして簡単に
突破して来られるのです。

 

カリブ方面のイスパニア艦隊ですと、もう少しましなのですけれどもね。
それでも、イングランドの私掠船相手に苦戦させられていますよ。」

 

ドミニクは、落ち着いた口調ながらも、自信に満ちた表情でマティアスに
述べた。

 

       --------- つ づ く ----------

 

 

読者の叱責!?…など

  • そのうち他の商会メンバーも登場したりするのでしょうか^^ -- 2010-05-14 (金) 09:29:43
  • つづきまくりですね! -- 2010-04-09 (金) 11:55:32