この小説を読む前に41-124の注意書きを参照してください。
41-299の続きにあたります。
執着があればそれに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。
執着を離れるとものの姿をよく知ることができる。
信仰のために私の言葉に捉われることもまた執着である。
仏弟子の肝心なる事は常に思索し続け内省的である事。
この世界における自分の役目や、
自分の行動が世界に対して贈り物になるか災厄になるかということを常に己に問い続ける事べし。
~ 古代ミラ教仏典より抜粋 ~
ソフィア国の政変から一年……この一年はあらゆる事が目まぐるしく蠢き変わる一年であった。
前例の無い事が立て続けに起こりそれは否応無く人々に世の中の移り変わりを意識させる。
まず第一に初めて僧が一国の政権を握った事である。
それまで武家支配に慣れきっていた人々は喜びとともにこれを迎え入れた。
リマ四世とドゼーと悪政が続きソフィアの民はもはや武家支配に嫌気が差していたのである。
あるいはマイセンであればこれを治められたかも知れないがマイセンはすでに亡く、
彼に変わってソフィアを領有したのはドゼーの首を取ったミラ宗の僧セリカであった。
…誰も知らぬ事ではあるが実際にドゼーの首を取ったのはマイセンである。
だがその場に居合わせたのはセリカの他に無く、マイセン亡き今セリカは何憚る事無く自らがミラの天意によりドゼーを討ち果たしたと公言して憚らなかった。
その功績こそがミラ宗によるソフィア統治の正当性となった所以であるが、この際その偽り事をセリカは必要悪と割り切っていたようである。
「ミラ宗派がソフィアを治める事こそが人々の平安と幸福に繋がります。そのためならばこのセリカいくらでも業を背負いましょう。
私の罪は死後にミラ様のお裁きに委ねればよい…」
それがセリカの考え方であった。
セリカが統治に乗り出して最初に行った事は農民への米蔵の解放である。元よりそのための一揆であったのだから当然の事と言えよう。
まだ充分では無いにしても蓄えられた膨大な年貢米は飢饉に苦しむソフィアで人々に一息をつかせるには充分なものであった。
次いでソフィアの城から政治の中枢をミラ宗総本山に移転しソフィア城は廃城となった。
これにより事実上ソフィアは祭政一致の政体が取られていく。当然のごとく他のあらゆる宗派は布教を禁じられミラ宗のみが唯一の宗教となる。
これもさして問題は無い。元々ソフィアはミラ宗の勢力が強くほとんどの者は信徒であった。
次に取り組んだ課題は農地の再興である。
先年来の飢饉で荒れ果てた畑を立て直し食糧生産を軌道に乗せる事は来年以降のソフィアの安定を図る上で欠かす事ができない。
これには農業知識を持たないセリカはミラ仏への五穀豊穣の祈祷を行う事で解決を図ったがもちろん神仏頼みで解決すれば誰も苦労はしないのだ。
ゆえに農民の代表たちの中から一人を選んで農政を任せる事となった。
権力の分散はソフィアを強固に掌握するためには望ましくはなかったが渋るセリカを説得したのはジェニーであった。
「セリカ様…餅は餅屋と申します。畑の事は農民がもっともよく知ってございましょう」
「ジェニー…天地の動きも実りもすべてミラ仏の思し召しよ。飢饉が起きたのはドゼーらの不信心に対する仏罰と考えるべきでしょう。
ドゼーはすでに滅び…我ら清く正しいミラ信徒が心より祈祷したのだから来年以降の豊穣は約束されたようなものよ」
「それはそうではありましょうが…万一来年以降も米の生産が回復しなければ再び一揆が起きましょう。
人事を尽くすのもミラ様のお心にかなうのではないでしょうか?」
「そう…それでは人選を進めておきましょう」
この時セリカが考えた事は私心無く農業に勤める人物でありなおかつ権勢に興味を持たない人物であった。
心当たりはあるし昨年の一揆の折に首脳部に近い場所にいたと言ってよい。
マイセンの孫……彼ならばミラの宗派の決定に異を唱える事もなく黙々と働いてくれるだろう。
戦が終わって以降早々に村に帰り一人畑を耕しているというが……
一揆の間、彼と親しく付き合ったというわけではないがその存在はどこかで心に引っかかっていた。
…今、自分は何を考えていたのだろう?
セリカは軽く頭を振った。自分が考えるべきは紋章の国をミラ教国としあまねく衆生を救済することではないか。
それこそが御仏の使徒たる己の為すべき事である。
そのために己はこの世に生を受けたのだ。
セリカの信仰は鉄の意思と情熱によって支えられておりそれはなによりも強固なものであった。
移ろい変わり変転するこのソフィアにおいて変わらなかったものもある。
相も変わらず東の国境近辺ではギース率いる野武士の大集団が暴れ周りその撃退にミラの僧兵たちは手を焼いていた。
そして……北に控える大名ルドルフである。
ドゼーがソフィアを統治していた頃から北の国境で合戦が繰り返されていたがそれはセリカの統治になってからも変わらなかった。
一度は和議の機会もあったのだ。
ドゼーが倒れた事を知ったルドルフは早速使者を出しセリカに講和と飢饉に喘ぐリゲルに米の援助を要請した。
それに対してセリカが出した条件は…
「リゲルの民をすべてドーマ宗からミラ宗に改宗させること」であった。
長年ドーマ宗を信仰していたリゲルの民にとって受け入れる事は難しい条件である。
紆余曲折はあったが和議は破綻し再び戦端が開かれる事と相成ったのはリゲル側がいくつか譲歩案を出したにも関わらずそれらをセリカが全て蹴飛ばした事に原因がある。
これにはさすがに全員が賛成はしなかった。
この時期のミラ宗の僧たちはともすればミラへの信仰をセリカ個人の強烈な統率とカリスマへの信仰に無意識に置き換えていたといってもよい。
だがそれでも疑問を持った者がいなかったわけではない…
ミラ宗総本山の禅問答場において三人の僧が語り合っていた。
ボーイ、メイ、ジェニーである。いずれもセリカの側近と目される者たちであった。
「僕たちはセリカ様についていくだけさ。あの方はミラ様のご意思を誰よりも体現してる方だよ」
「そうよ。私たちが余計な事を考える必要はないわ。あの方についていけばいずれ楽土がもたらされる。
私たちは信じて従っていればいいの」
ボーイとメイの言葉に困ったような顔をして疑問を差し挟んでいるのはジェニーである。
「けれどリゲルと戦をする必要があるのかしら?ドゼーは紛れもない仏敵。それを倒すに躊躇いはなかったけれど…
この上合戦を続けて犠牲を出す事はミラ様も望まれないのではないかしら…」
「セリカ様が天下を取ればそうした世の中も終わりさ。ミラ様の法に治められた楽土がもたらされる。
それまでは仏敵と戦って血を流すのもやむをえないよ。セリカ様がそう言っていたのだからその言葉は絶対だよ」
「そうよ。どの道都に軍勢を進めようとすればリゲルは避けて通れないもの。
そのためにも異教徒ドーマ宗を倒すのはミラ様の意思にかなうはずだわ。これはリゲルの人々のためでもあるのよ?
邪教から解き放ち彼らを正しい信仰に改宗させるためのね」
…ジェニーは沈黙せざるを得なかった。
まったく取り付く島もない。ボーイもメイも…いや、ミラ宗のほとんど全てがセリカの意思をミラの意思と信じて疑っていない。
だがそれでも忘れてはいけない人物の名が脳裏に閃いた。
「せめて…リゲルとの一件はノーマ様に相談するべきではないかしら?」
そう…病気を理由に長らく人前に姿を見せてはいないがミラ宗の大僧正はノーマなのだ。
すでにセリカに全権を委任しているとはいえさすがにリゲルとの一件は耳に入れておくべきだと思えた。
だがボーイとメイはジェニーが何を言っているのか充分には理解できていなかったようだ。
いや、ノーマの名すら言われるまで意識から外れたいたとすら言える。
熱狂的な信仰と強大な意思が醸し出すある種の魅力はかくも人の意識を惹きつけてやまないのやも知れない。
「ああ…ノーマ様ね……もうセリカ様がご報告してるだろうさ。そんなことより僧兵を再編しないとね。
僕らはセリカ様のご命令に従って仏敵との聖戦に望めばいいよ」
「ええ、セリカ様がおっしゃっていたわ。仏敵との戦い参加した信徒はたとえ志半ばに倒れても極楽浄土に招かれると…
苦しみ多く楽しみ少ないこの世からね。何を躊躇う必要があるのかしら」
もはや言うべき言葉は無いのかも知れない。
ジェニーは口元まで出掛かった言葉を押しとどめると場を後にした。
自分がここにいてできる事は恐らくもう何もあるまい。
あるいは彼らの盲従を見て割り切る事ができたのかも知れない。
自室に戻ったジェニーは手早く荷物を纏めると直ぐに総本山を出た。
おそらく二度と戻る事は無いだろう。
自分とセリカ達の信仰はもはや分かたれたのだから。
山門を下り際にジェニーは一度だけ寺の方を振り返った。
石垣が組まれ塔が建てられ戦に備えて要塞化された寺を……
その奥からは僧兵たちの練兵の掛け声が聞こえてくる。
―――進者往生極楽退者無間地獄―――進者往生極楽退者無間地獄……
リゲルとの合戦に望むにあたってセリカが取り入れた言葉である。
信徒の勇気を鼓舞し死を恐れず仏敵討ち滅ぼすべし…
勇猛に進んで討ち死にした者は極楽へ…怯えて逃げた者は背教の咎を受け地獄へと…
いたたまれなくなってジェニーは石段を降りる歩を早めた。
あるいは自分は恐ろしくなって逃げているのかも知れない。
自分は充分にセリカを諌めただろうか?
ボーイとメイの様子を見て早々に諦めたのではないか…だが彼女にセリカの鉄の信仰に異を挟む勇気は無かった。
石段を降りていく途上…若い男が下から上ってくるのが見える。
あれは…見覚えがある。
先年の一揆の折マイセンの側にいた…たしかアルムと言ったか。
ラムの村から呼ばれてきたのだろう。
軽く会釈をして通り過ぎるアルムの背中にジェニーは小さくつぶやいた。
「ミラ様のご意思が何処にあるか…神仏ならぬ身では伺い知りようもないわ。
すべては終わってみて初めて御仏のからくりを知りえるのかも…私が成せることは…」
その先を口に出すのは彼女にとっては怖くて仕方の無い事であった。
未練を振り切るように首を振ると小柄な僧は石段を下っていった――――――
―――よくご決断なされました―――
「それが楽土を作る唯一の道ならためらう事はないわ」
一人居室に座すセリカは風に乗って流れてくる声を聞いていた。
開いていた仏典をそっと閉じる。
この者と話す時だけは仏典を開いている気にはなれない。
――ほ・ほ・ほ……それでよいのですよ。如何様にもお役に立ちましょう―――
「勘違いしない事ね。私が貴女を用いるのはリゲルとの戦いに役に立つと判断したからよ。
必要悪を担う覚悟はできてる…楽土のため…万民のためにね…リゲルへの浸透は?」
――滞りなく……私と私の子達が貴女に天下を献じましょうや―――
やがて…気配は消えた。
セリカは面白くもなさそうにかぶりを振ると天井を仰ぎ見て一人呟く。
「背教者など許さない。異教徒など許さない。ドーマ宗のリゲルも…アスタルテを祖とする帝も…それが誰であろうと許さない。
全ての悪を許さない。それらを滅ぼす事がどれほどの犠牲を払う事であっても、友愛と善意に属する素晴らしき事柄を滅ぼす事だとしても、
躊躇う事無く排除していく…仏敵を討つべき役目を授かりし明王…その存在に対する異論など許さない。目もくれない。聞きもしない。
ただひたすら邁進するのがこの私…私は世界でただ一人ミラ様の意思をこの世に実現する。その時こそ私は純粋な善を体現する。
この世に涅槃がもたらされる…私が何をしようとしているのか異教徒になどわかるはずもないわ。私はこの世でただ一人ミラ様の意思を代行する。
何者にも邪魔は許さない。蒼天は我らミラ宗にこそ相応しいもの…時代がこの私を求めている。私は都に攻め上りかの地で明王となる」
ミラの軍勢が熱狂的な情熱と鉄の意志を持って「正義」を実現するためにリゲル領内へと乱入していくのはそれからすぐの事であった。
敵対者を悪と断ずるそれはもっとも無慈悲な御仏の尖兵であった……
次回
侍エムブレム戦国伝 風雲編
~ アルムの章 混迷の大地 ~